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全国の・・・
尚之助さんファンの皆様、今回もノックアウトされましたね〜!
尚之助さんと八重さん、
初々しくて爽やかで清潔感あふれるご夫婦ではありませんか!
綾瀬はるかさんの白無垢姿の美しさ、
そして今夜も水も滴るいい男ぶりの尚之助さん。
美男美女、お人形のようなお二人でした。
料理を前におなかを空かす花嫁へ
「今なら食べても大丈夫ですよ。」と優しく新妻をいたわる花婿。
「自分の家へ嫁入りとは・・。花婿が居候ならしかたないべ・・」
などと、一言絡んでくる酔っ払いの遠い親戚のおじさん。
そんな酔っ払いをなだめるため、酒盛りの相手をする父と花婿。
今も昔も変わらない。「結婚式あるある」!
でも、酔いつぶれた花婿を「よいしょ!」と担ぎ上げる花嫁は、八重さんぐらいでしょう!
こういうコミカルな演技も綾瀬はるかさんの魅力ですよね。
角場の二階が二人の新居です。
八重さんに担がれた尚之助さんは、まだ酔いつぶれて寝ています。
八重さんが普段着に着替えて部屋に上がると、そこには覚馬からの祝儀が届いていました。
中には、手紙と外国語の砲術書、そして綺麗な小箱が入っていました。
小箱を開けてみると、美しく彩られた蛤貝。貝の中身は京紅でした。
「娘らしさ」から程遠い毎日を暮らしていたため、美しい紅をみてとまどう八重を見た尚之助さんは、
八重の手を優しく引き寄せ、
「せっかくだ。京の紅、さしてみてください。」と
自らの指で八重の唇に紅を指したのです・・・
尚之助さんの細く長く美しい指が、セクシーすぎ〜〜。
そして八重を優しく抱き寄せ「幾久しく・・・」と囁くのです。
爽やかなのにそこはかとなくエロス・・・そう、初夜なんですね。
尚之助さんは、当時でいえば、「鉄砲ヲタク」ですが、
結構女性の扱いに慣れてます。
かなりもてた、と思います。
こんなことされたら、どんな女性でも落ちてしまうでしょう。
長谷川博己さん、やばいです。
祝言を挙げた後、八重と尚之助は、
それまでどおり角場での鉄砲改良に取り組んでいました。
呼び方もいつもどおりの「八重さん」「尚之助さん」で夫婦らしい、甘い会話もありません。
八重の父・権八は、それがどうも気に入りません。
夫をたてるのが妻の役目なのに、八重は未だに「だんな様」と呼ばない、と
八重に薙刀や針の稽古に通わせて、作業場から引き離しました。
八重は鉄砲に触れないストレスがたまり、
次第に息苦しさを感じ始めたのです。「夫婦らしさって何?」
その日、八重はそっと角場を覗きました。
そこには怒った顔の尚之助が立っていました。
逃げ出そうとする八重の腕をつかんで、真剣な表情で詰め寄ります
「どうも様子がおかしいと思い、お父上から話をききました。
八重さん、私は鉄砲を撃つおなごを娶った。世間並みの奥方など望んではいません。
私の妻は、鉄砲の名人、八重さんだ。他の誰でもありません!」
尚之助の真摯な言葉に八重は我に返ります。
「私はこの人の妻なんだ。」と。
そして鉄砲を受けとり、二人でともに改良銃の作成に取り組む覚悟を決めたのです。
八重さんが、尚之助さんに日々、魅かれていく姿が、可憐で可愛いですね。
尚之助さんもまた、保守的な夫婦のあり方を押し付けてくる義父にも聞こえるよう、
大きな声で話をしたのでしょう。
私は、八重さんを理解し守ります!と。
渋い顔の権八に向って、「旦那様もうちへ来たときは借りてきた猫のようだった」と
尚之助と八重を「見守っていきましょう。」と佐久さんは優しく権八をとりなしました。
権八も佐久の入り婿・・・実は尚之助&八重と似たもの夫婦であったのです。
八重と尚之助が、新婚生活を始めた頃、
京の覚馬は医者から「白そこひ」だと診断されました。
白そこひ=白内障です。
白内障は現代でも手術を受けないと完治できません。
当時はそのような医術もなく、白内障にかかれば、いずれ失明する運命が待っていたのです。
覚馬にとって最大の試練が襲ってきました。
しかしこの男の凄いところは、失明の恐怖に絶望せず、心の眼を大きく広げていったことです。
事実、眼病を患った後のほうが、山本覚馬の交友関係は広がり、頑迷な会津藩や封建主義に
捉われない自由な眼を持ち始めるのです。
運命とは皮肉です。
覚馬が失明しなければ、おそらく会津藩士として戊辰戦争で命を落とすか、
意きながられても凡庸な人生を送っていたように思います。
時は慶応元年、いよいよ、幕末のクライマックスを迎えつつあります。
幕末で最も面白い時期です。
ただし、あくまでも薩長土視線です。
この頃から、土佐の坂本龍馬が神出鬼没の大活躍をみせ、
さらに長州の高杉晋作が藩内クーデターに成功し、倒幕への気運をたぎらせていました。
しかし・・・ドラマでは龍馬も高杉さんもまったく登場しません。
さもありなん、会津藩視線だからです。
会津は、薩長の不穏な動きなど察知せず、完全に蚊帳の外でありました。
その頃の幕府や会津が頭を悩ませていたのは、第二次長州征伐で諸藩の意見が揃わず、
出陣の段取りがまったく組めないことでした。
だから、会津藩も、幕府も停滞したままなのです。
さらに言えば、殆どの幕臣にとって
土佐の坂本龍馬のような一介の浪人など、眼中にもなかったでしょう。
高杉晋作も単なる犬の遠吠えにしか聴こえなかったでしょう。
それが幕府の致命傷になったのです。
幕府のこの時期の停滞感と
薩長土肥のスピードの差は、そのまま倒幕へのカウントダウンとなりました。
さらに、倒幕の気運を、朝廷側から隠密にコントロールした黒幕が登場します。
下級貴族・岩倉具視、その人です。
小堺一機さんの岩倉さん! 意外だけど妙にはまってました!
お金に汚く、保身の為に公武合体から倒幕へと態度を豹変させた食わせ者ながら、
「叢理鳴蟲」など勝れた意見書を書き、また明治になっては新政府の骨格を決めるなど、
恐ろしく、先見の眼に勝れたキレモノです。
4年ほど前、京の洛北にある岩倉村の岩倉邸(岩倉具視幽棲旧宅)を訪ねたことがあります。
今でもバスに揺られて40分ほど、現代でも京の中心部からかなり辺鄙な場所にあります。
幕末当時なら、謀議にぴったりの庵であったでしょう。
岩倉村は現代でも自然に恵まれた紅葉の名所で、それはそれは見事な眺めでした。
ここに、西郷や大久保らが足しげく通ったと思うと、かなり興奮しました。
その時の記事です。
お時間があれば、ジャンプしてみてくださいませ〜。
さて・・・
京の喧騒から程遠い会津。
慶応元年の夏、秋月悌次郎は蝦夷への任官が命じらました。
はっきりいえば「左遷」です。
見送りにきた尚之助と八重夫婦に対し
「蝦夷という新天地で新しい物産をみつけ、会津の役にたちたい。」と抱負を語ります。
そして「会津の将来は、ふたりのように古い秩序にしばられない者たりから生まれてくる。」
と新婚夫婦に会津の未来を託すのでした。
もし、薩長にも顔が利く秋月悌次郎が京に留まっていれば、
薩長同盟を察知していた可能性はあるでしょう。
岩倉と薩摩の不穏な動きも掴んでいた可能性もあります。
あらゆるベクトルが、会津を悲劇へと推し進めているように思えます。
会津の空にかかった虹を眺める八重と尚之助。
尚之助さんと八重さん夫婦が、容姿もバランスもあまりにお似合いのカップルなので、
その後の哀しい運命を思うと、それだけで寂しくなります。
尚、八重の最初の結婚は、
徳富蘇峰の自書「近代日本国民史」(第73巻)にある、
『川崎尚之助の妻八重子は、山本覚馬の妹なり。』
の一文で確認できます。
徳富蘇峰は八重自身から直接聴いたととの事。おそらく事実でしょう。
二人の結婚は元治2年(慶応元年)頃で、
尚之助は会津へやってきて8年、まだ藩士に登用されていませんでした。
藩籍をもたない尚之助と八重の結婚は通常では考えられません。
覚馬の薦めで二人が結婚したのはほぼ間違いないでしょうが、
同じ屋根の下で8年間、おぼこい少女から娘へと成長した八重と尚之助さんの間に
恋が芽生えたとしても、なんらおかしくはありません。
尚之助さん29歳、八重さん20歳。
年齢的にもお似合いの二人なのでした。
参考「新島八重 おんなの戦い」福本武久先生
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