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綾野剛さんの松平容保公の気迫が凄い! そして孝明天皇演じる染五郎さんがまた良い。 温厚で聡明で、会津公だけでなく将軍・家茂とも深い信頼関係を構築し、 それが故に恐らく暗殺された悲劇の天皇。 憂いと気品をかもし出すその佇まいはさすが、ですね。 新選組(壬生狼)を使い、本格的な治安維持に乗り出した容保公と会津藩が目障りになった 長州と三条実朝ら攘夷派の公家が、会津を追い出す陰謀をたくらみます。 それは、天皇の名を語った「偽勅」にて会津藩を江戸へ向わせ、都から追出だす謀略でした。 しかし、会津公が江戸へ去ってしまえば、京は益々暗殺やテロ、暴力がはびこる無法地帯になる、と 心配した孝明天皇は、密かに「その勅書は本物ではない。我真意は会津公を信用している」と 「宸翰」を送られ、容保へ真実を伝えたのでした。 天皇のお言葉と篤い信頼を受け取り、容保公が「御上のために守護職を全うする」と 涙を流して決意されるそのお姿。。。 松平容保公の高貴な精神は、周りを敵に囲まれた孝明天皇の心に寄り添い、 ある意味「汚れ役になってでも、会津藩の存亡をかけてでも、御上を守る」と決意されたのでしょう。 だから、西郷頼母が「守護職を辞退しなければ、会津は潰される」と諌言しても その決意を揺るがすことはなかったのです。 松平容保公の高貴な精神を、これほど見事に演じてみせる綾野さん。 お見事です! ただし・・新選組(壬生浪士組)の扱いが多少事実と違うところがあり、 ちょっと不満もありますが、まあ本題とはあまり関係がないので、そこは我慢します! それと・・・ 会津に残っている八重さんの登場が少ないのは仕方ないとしても 尚之助さんがたった1シーンだけ・・・ってのがかなり寂しい。 京での覚馬さんも、秋月悌次郎(北村有起哉さん)と連れ立つことが多くなって、 仕方ないとはいえ、覚馬&尚之助さんのバディコンビのファンとしては、いささか複雑な気持ちです。 どんな無理やりエピソードでもいいので、尚之助さんががたくさん登場することを願ってます〜 ! 覚馬さんの新相棒? 秋月悌次郎についてちょこっと説明しますと・・・ 文久3年当時、39歳。会津公用方。 下級武士の家に生まれたが幼少より勉学に励み、日新館で秀才の誉高かった。 19歳で藩から派遣されて江戸に遊学。 弘化3年には幕府の最高学府「昌平坂学問所」でも頭角を現し、 27歳のとき、成績優秀さを認められて寄宿舎の寮長として給費生の待遇となった。 昌平坂の11年間で師事したのは、佐藤一斎、安積艮斎、安井息軒、藤田東湖、佐久間象山など 当代一流の学者ばかりで、このとき悌次郎は幅広い人脈を得ることができた。 安政3年、諸国を遍歴して各地で学者や友人を訪ねた。 そのため、諸藩の事情に明るく、知己が多く、まさに公用方(藩の外交官)として最適人者でした。 今後、公用方となる覚馬と似たもの同志なのかもしれません。 「薩会同盟」の立役者として有名ですね。次回、楽しみです。 そうそう、公用方と言えば、神保修理を斎藤工さん演じてますね! 「カラマーゾフの兄弟」の満兄さんとは別人みたい!! 最初は同じ俳優さんとは全く気がつきませんでした。 綾野さんといい、役者って本当にスゴイ。 さて今回は孝明天皇と松平容保公にまつわる「宸翰」についてプチ解説してみようと思います。 ドラマで取り上げられた孝明天皇の「宸翰」(天皇直筆の書簡)を抜粋しますと、 「今会藩を東下せしむるものは、過る日申せし如く、勇威の藩なるに因って、是に居れば 奸人之計策行なはれ難きが故に、之を他へ移し、事に托して守護職を免ぜんとする也。 関白も亦之を疑へり。 是即ち朕が尤も会津を頼みとし、遣すを欲せざる所にして、事あるに臨みて其力を 得んと欲する也。今偽勅甚だ行はれるが故に、此後何等暴勅の下るも測り難く、 真疑の問、会津能く察識するを要す。」 内容をよく読めば分かるのですが、この「宸翰」は会津公、即ち松平容保公へ直接送られた 書簡ではありません。 そうです、近衛忠煕前関白への「宸翰」なのです。 しかし当然ながらこの手紙の内容は関白より容保公へと伝えられ、 容保公は突然の東下の陰謀を知り、偽勅に従う必要はない、と江戸へ下るのを拒否し そのまま京都に留まりました。 孝明天皇は、我意が通じた、とますます容保公を信頼されたことでしょう。 今回の「ご宸翰」は関白経由というのが事実でしす。 しかし、実は孝明天皇から松平容保公へ直接宛てた「宸翰」と「御製」(天皇の和歌)が存在するのです。 その存在が公になったのは、明治26年。 容保公がお亡くなりになった時でした・・・ 容保公は終生小さな竹筒を肌身離さずつけておられ、 その竹筒の中身は誰も見たことがありませんでした。 ご遺族が容保公が生涯最も大切にされていたその竹筒を開いてみたところ、 なんと、孝明天皇の「ご宸翰」と「ご御製」が保管されていたのです。 それは、「8月18日の政変」(多分次回放送されるでしょう)における容保公の忠誠に感謝する書簡と歌2首でありました。 (ネタバレになるので、この事件の内容は次回にでも) 孝明天皇は、他藩や公家、そして将軍家への遠慮もあって会津だけを誉めることができず そこで内々に 感謝の気持ちを宸翰に托し、容保公に送られたのでした。 容保公は天皇直々の「宸翰」と「御製」を受け取ったとき、感極まって号泣したと記録があります。 そしてその「宸翰」と「御製」を心の支えとして、戊辰戦争から始まる苦難の人生を歩まれたのです。 しかし、疑問もあります。 すなわち、孝明天皇の「宸翰」と「御製」を受けた容保公と会津藩は、決して「賊軍」ではないのです。 錦の御旗よりももっと崇高な天皇からの「宸翰」と「御製」が、何よりの証拠でしょう。 しかし、容保公はそうしなかった。 何故なんでしょう? それは、容保公の高貴な魂の故ではないでしょうか? 孝明天皇が内々にお書きになった個人宛の書簡を公にすることは、孝明天皇のご意思ではない、と。 自分や会津藩が賊軍ではないことは、歴史が証明してくれるだろう。 容保公の潔癖すぎるほどの忠義と精神性の高さは 俗世にありながらも、至誠の為に行動し処刑された吉田松陰先生の精神や思想に近似していると 私が感じる理由です。 孝明天皇が容保公の為に詠まれた「御製」には、 たやすからざる世に武士の忠誠の心をよろこひてよめる と御心が書かれてありました。 天皇家(御上)へ「至誠」を尽くされた松平容保公は、当時の誰よりも尊皇の士であったのです。 次回は、タイトルから推測して「8月18日の政変」でしょうね〜。 綾野さんの松平容保公に釘付けとなるでしょう。 参考: 「会津士魂」早乙女貢氏
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大河ドラマ「八重の桜」
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NHKさん、またも視聴者(主に女性)へのサービスショットを。。。 どーも、ごちそーさまでした! はい。そうです。 覚馬と尚之助さんとの「露天風呂入浴シーン」でございます!!!! 水もしたたるいい男達・・・・。 思わず画面にむかって「きゃ〜」と黄色い声をかけそうになりました。 理性が止めましたが^^; なんだか、お風呂場をこっそり覗いてしまったような、そんな赤面ショットでございます。 西島さんの鍛えぬたれた上半身は、お湯をはじくほどパンプアップしてましたし、 お初にお目見えした長谷川博己さんの、透き通るような白い肌は ただただ、セクスィ・・・・・ため息。。 考えてみれば、覚馬&尚之助のバディコンビは、これが見納め。 覚馬が京都へ出立したあとは、もう会うことも叶わぬ運命なのですから。 それゆえの、サービスショットだったのかもしれません。 今後は、尚之助さんと八重の心の交流がメインになるのでしょうね〜。 それはそれで、楽しみではあるのですけど! 尚之助さんの優しい瞳に見つめられる八重さんが、羨ましいすぎます。 さらにもう一人。うっとり見つめてしまったのはあのお方。 京へ上洛した、綾野剛さんの松平容保公の凛凛しきお姿! 馬上の武者姿も、そして御所での衣冠束帯姿も、絶品でごさいました! 特に、市川染五郎さん演じる孝明天皇との拝謁のシーンは、 まるで電流に打たれたような二人の一瞬の心の交換を、緊張感の中、見事に演じていらっしゃいました。 そして、松平容保公自ら、幕末の表舞台へ毅然と立ち上がった「足利三代木像梟首事件」。 「言路洞開」令を発して、広く尊皇攘夷派に門を開いた、会津の融和路線を踏みにじり、 奴らの真意は「倒幕」であると世に知らしめたのでした。 事を重く見た、容保公が毅然とそして厳罰に処する態度を明確に示した事件なのです。 怒りに震えるその紅顔すら親藩会津藩主の気品と美しさに満ちていました。 もう、TVに映っているのは、綾野さんという俳優に降臨した松平容保公、そのものです! 今回のプチ解説は、ずばり「木像梟首事件」について。 文久3年(1863)2月23日早朝。 三条大橋から二丁ばかりの鴨川の河原に、三つの首が晒されていた。 当時は「天誅はやり」で生首や手やら京の街によく転がっていたが、 今度は生首ではなく木像の首であった。 しかし、ただの木像ではなかった。 室町幕府初代将軍・足利尊氏、2代・義詮、3代・義満の木首であり、 洛西等持院に祀られたものを、尊皇攘夷の過激派が「天誅」と称して晒したのである。 三つ首の傍らには「逆賊」と冠して立て札があった。 「正名分之今日に当り、鎌倉以来の逆臣、一々遂吟味可誅戮之処、此れ三賊巨魁たるに依而、 先其醜像之加天誅者也」 この報告を聞き、京都守護職の松平肥後神守容保公は、顔色を変えて激怒したという。 それまでの天誅は個人を暗殺するテロ行為が主目的であったが、 この事件では足利将軍の木像を梟首することで暗に倒幕の意味を示したといえる。 幕府としては、見逃すことはできない。 さらに松平容保にとっては、寛容の策として広く憂国の志の進言を受容れた「言路洞開」令が 裏目に出たことへの怒りもあった。 木像梟首事件の容疑者のなかに、徳島藩浪人・中島永吉らが加わっていたからだ。 事件前に容保公自ら彼らの来謁を受け、意見も聞いていたからだ。 将軍家茂の上洛も近い。 翌24日、守護職の名を以って、「犯人全員の捕縛」を命じた。 町奉行・永井主水正尚志らは、浪士の一斉蜂起も懸念し穏便に済ますように、黒谷(容保本陣)へ 訴えてきたが、松平容保公の決意は固く、「国家の典型を示すのが守護職の勤め」と受け付けなかったという。 そしてわずか3日後も2月27日に一斉捕縛が敢行された。 容疑者の居場所は密偵により、すでに黒谷にもたらされていたからだ。 会津藩士・大庭恭平からの情報である。 大庭は江戸生まれで、松平容保の京都上洛に先立って脱藩して京へ赴任し、 会津藩家老・田中土佐の密偵として、尊皇攘夷過激分子の内情を探っていたのだ。 大庭の正確な情報により犯人一味は逮捕された。 しかし、大庭自身が一味に疑われないように木首梟首の実行犯であったことが判明してしまう。 田中土佐は、切腹しようとした大庭を止めて、寛大な措置を主君に願い出た。 田中土佐だけでなく、一橋慶喜ですら、職務に忠実でありかつ実績を上げた大庭の寛容な処置を 松平容保に嘆願した。 松平容保は、大庭が田中土佐の命を受け密偵となっていたことは、事件後に知った。 しかし、容保公はその潔癖な気質もあり、涙をのんで「大庭の罪は罪だ」と犯人と同罪に扱った。 大庭を許せば、「大庭を使って守護職が攘夷派を煽って事件を起こした」と要らぬ詮索を 受ける恐れもあったのだ。 犯人達は、死罪を免れたが、諸侯へのお預け、すなわち配流による幽閉禁錮の刑となった。 首謀者への具体的な預かり先は、 青柳健之助、建部健一郎は、伊勢久居藩主・藤堂高聴の家臣宅 長澤真古登は、遠江横渚藩主・西尾忠篤志の家臣宅 野呂久左衛門は、越前勝山藩主・小笠原長守の家臣宅 三輪田綱一郎は、但馬豊岡藩主・京極高厚の家臣宅 宮和田勇太郎は、伊勢菰野藩主・土方智永の家臣宅 そして会津密偵の大庭恭平は、信州上田藩主・松平忠礼の家臣宅にお預けとなった。 彼らは無期の幽閉処分となり、結局、慶応3年(1867)大政奉還の恩赦までの4年間、 日の目を見ることはなかった。 ちなみに松平容保公を激怒させた中島永吉であるが、 この男機を見るに敏な男だったようで、会津藩の捕縛前に京からとんずらし、 故郷の徳島藩に匿われていたが、結局捕縛されて禁錮された。 しかし、大政奉還の恩赦後は、逆賊足利将軍を梟首した「功績」で兵庫県令、元老院議官を歴任し 男爵となり貴族議員に勅撰されるという大出世を果たした。 禁固されている間に維新が成就されたというのに、だ。 (ちなみに、密偵・大庭恭平は維新後も生きぬき、会津復興のために尽力した。) 奇しくも、木像梟首事件の当日、佐々木只三郎らが率いる「浪士隊」が京に到着した。 この総勢3百人から成る浪士隊は、清河清八の建白によって幕府が江戸で募集したもので、 この中に、近藤勇、土方歳三、芹沢鴨ら後の「新選組」のメンバーが含まれてたのは、 運命のいたずらであろう。 (大河ドラマ「新選組!」でもしっかりと描かれていましたよね!) 「足利三代木像梟首事件」で捕縛され幽閉されたのは、首謀者達にとって幸いであったかもしれない。 中島ら小者の過激浪士など、その後結成された「新選組」や「見回組」によって、 あっけなく京の街に屍をさらしたかも知れないのだ。 さらに言えば、 攘夷過激派が「木像梟首」という愚行をしだかしたのも、浪士隊へのあてつけという意味合いもあった。 そして京都守護職を拝命した松平容保公や会津藩士たちも、 自分達の頭ごなしに江戸から京の治安維持に送り込まれた「浪士隊」を快く思っておらず、 先を越されてはならぬという面子もあったろう。 松平容保が「言路洞開」という攘夷派との融和路線から、 「木像梟首事件」後に一転して厳しい取締りへと政策を転換させた裏に、 「浪士隊」の存在も影を落としていたといえる。 その浪士隊から分隊した「新選組」が、京都守護職お抱えの警察組織となり、 容保公と厚い信頼関係で結ばれるというのも、歴史のダイナミズムである。 それは、武士の面子という小さな枠に収まらず、容保公が近藤勇の人格を認め、 そんな容保公の度量に近藤勇ら新選組の隊士達が惚れたからだ。 次回はその「新選組」が登場します。 そういえば佐藤B作さん、「新選組!」では、町奉行の永井尚志役を演じていましたね〜。 「八重の桜」では田中土佐役。 出身は違えど、どちらも似たような調停役で、とてもはまってます。 ・・・「新選組!」のDVDがまた観たくなったなあ〜(^^v 参考: 「会津士魂」早乙女貢氏
この大河小説、長州への怒りや偏見を差し引いても、資料満載で読み応えがあります。 |
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松平容保公演じる綾野剛さんの華奢な姿の背後に、青白い炎が揺らめいていたようでした。 江戸表屋敷で家臣達を前に京都守護職を拝命する決意をかたった、あのシーンです。 事実、この時の松平容保公、 折からの高熱に苦しみ蒼白となりながらも、熱を帯びた言葉とその迫力に 家臣は皆涙したとあります。 綾野剛さん・・ 今週 an・an の表紙を飾ってるし、先週はお堅い週刊朝日の表紙も飾ってたし、 ブレークしてますね〜。 分かります。 サブカル好きな私は、「勇者ヨシヒコと魔王の城」で 馬と人間が合体したケンタウロス姿の綾野クンが、かなり好きでした(ヲタです〜^^; 女性のような美形でありながらも、性格は名前の「剛」そのもの。 インタビューでも男臭い会話が多く、このギャップも綾野さんの魅力の一つですよね。 そして松平容保公も同じようなギャップを備えた、とてつもなく魅力的なお殿様でした。 すなわち、まわりの人を魅了し命を懸けても惜しくないほどの主君。 病弱な細面で美形の長身、 しかし潔癖すぎるほど誠実でしかも聡明、一度決めたら決して揺るがない強さを秘めたお殿様でした だから、あの猛者の代表格たる近藤や土方、斉藤ら新選組の隊士たちも、容保公のために 命をかけたのです。 孝明天皇も、容保公親派の一人といえるでしょう。 いわんや、会津藩の人たちはそれ以上の忠義を殿様のために尽くしたのです。 それこそ、女子どもまでも・・・ 松平容保公の持って生まれた魅力 (カリスマとはちょっと違うと私は思う、この人を何とかして守りたいという 底知れない魅力というか・・・) それもまた会津の悲劇であったといえましょう。 そして、綾野剛さんの松平容保公は、年令も年恰好もそして何よりも容姿そのものが、 ベストキャスティング。 この殿様のためにと命を懸ける会津の人たちの生き様を背負うに相応しい、 史実の松平容保公そのものを、TVで見ているような気持ちになりました。 今回は 京都守護職拝命についてちょこっと解説してみます。 史実もほぼTVどおり、かなり忠実に再現されておりました。(良いですね^) 安政7年 桜田門外の変以後、尊皇攘夷派のテロは全国的に広がり 特に京都での暗殺事件は過激度を増し、治安は悪化するばかりであった。 幕府は朝廷と共に失墜した権威の回復を図ろうとし、 その象徴的な取り組みとして、将軍家茂と皇女和宮の縁組を進めていた。 いわゆる「公武合体」路線である。 そして井伊直弼の暗殺後、弱体化した幕府の組織強化のために、蟄居中であった 一橋慶喜を将軍後見職に、そして政事総裁職に松平春嶽を登用し、彼らの復権を認めた。 そして、京都の治安警察としての京都守護職に、会津の松平容保を抜擢したのである。 会津藩主・松平容保は美濃国高須藩 松平義建の六男として天保6年(1835)に江戸四谷の 高須藩邸で生まれた。 「高須四兄弟」とその秀英評判高い一人である。 次男は、尾張藩主・松平慶勝。兄弟で唯一の尊皇派。 維新後は旧尾張藩士の北海道八雲町開拓を支援した 5男の茂徳は、高須11代藩主となるも、徳川宗家を相続した慶喜の後継として一橋家当主となった 維新後は、徳川家の存続に尽くし、宗達を16代当主にした。 7男の定敬は、桑名藩4代藩主となり、元治元年京都所司代に任じられて、兄・容保とともに 孝明天皇に信任され、戊辰戦争後は榎本武揚とともに函館にて新政府に抵抗した。 そして6男・松平容保公である。 弘化3年(1846)に会津藩・松平容敬の養嗣子になった。ちなみに、この容敬も高須出身で 二人は叔父・甥の関係であった。 嘉永5年(1852)2月、養父・容敬の病死により、18歳で9代藩主になった。 松平春嶽から会津藩に京都守護職の内命が下ったのは、文久2年(1862)7月末であった。 容保公はまだ27歳。(数えで28歳。) 病弱で、この時も病に臥せっていたという。 松平容保は当初固辞していた。 尊皇攘夷過激派と京都で向き合うなど火中の栗を拾うに等しい。 さらに多勢の藩兵を京都に駐在させるとなれば、莫大な費用がかかる、 藩財政は火の車で、それどころではなかった。 更に東北の田舎侍にとって上方の京の風習など馴染もなく異国に他ならない。 しか一橋慶喜と松平春嶽は老獪であった。 特に春嶽は執拗で、何度も書状で就任を承諾するように迫った。 「幕府の命運は公武合体成功に拠り、そのためには容保の京都守護職就任にかかっている。」 そして、最後は松平容保の泣き所をついたのである。 「台徳院(二代目将軍秀忠)の血筋の土津様(会津藩祖・保科正之)の末裔である貴兄も思いは同じのはず。台徳院、土津様が存命で小生が泣いて申し上げれば、必ずお受けいただくと存じます」 これは、暗に会津藩「家訓15か条」を指しているのである。 会津藩祖・保科正之は、2代将軍秀忠と大奥侍女・お静との庶子であった。 父秀忠は、幼い正之を甲斐武田信玄の娘・見性院に預け、正之は信濃の高遠藩主、保科正光の養子となり 保科家を継いだのである。 3代将軍家光は、異母弟・正之と対面したとき、その誠実な人柄に触れて篤く信任するようになり、 会津23万石の大名に取り立てた。そして臨終の際、嫡男・家綱の後見と徳川宗家の後見をも 正之に託したほどであった。 正之は異母兄・家光の信頼に応えるために「家訓15か条」をつくった。 その第一条が 「大君の義、一心に大切に忠勤を存ずべし。列国の例を以って自ら処するべからず。もし二心を懐かばすなわち我が子孫に非ず。面々決して従うべからず。」 すなわり徳川将軍家への絶対忠義を誓い、将軍家に二心を懐く者があれば、もはや我が子孫ではないから 家臣は誰一人としてそのような者に従ってはならぬ・・・ 養子であった容保にとっては、家訓を守ることは必須であった。 これこそ「殺し文句」であった。 秀忠の庶子を藩祖にもつ会津藩は、御三家に次ぐ血の濃さ故に、幕府の存亡に関わる 重大局面で、将軍からの命令を拒めない立場であったのだ。 容保が京都守護職就任を決意したとの知らせが、会津にもたらされた。 しかし、会津藩の家臣たちは猛反対であった。 日新館という藩校を持ち、他藩よりも勤勉な会津藩士たちは、 東北の田舎侍としては聡明な人物が多く、 今、京都で尊皇攘夷の浪士を裏で画策する長州や薩摩、そして公卿を敵に回すことのリスクを 十分承知していたのだ。 国家老の西郷頼母と田中土佐は、ただちに江戸へのぼり、 「まるで薪を背負って火に飛び込むがごとし、国が滅びる」と懸命に諌めた。 このとき容保は心労がたたって高熱を出して寝込んでいたそうだ。 しかし、容保の決心は揺らぐことはなかった。 文久2年(1862)8月朔日、病を押して登城した容保は、老中万座の席で 京都守護職を拝命した。 そして、会津藩表屋敷にて、西郷頼母、田中土佐、そして江戸家老の横山主税、留守居堀長守らを 前に、自らその決意を披瀝したのだ。 「固辞はしたが、将軍様の御下命もあり、宗家の家門故に徳川家と命運を共にせよとの家訓もある。 世上、安居を貪るための辞退と言われては我が誠忠を身を以って示すほかなし。 京を死に場所と定め、君臣一致して余の進退を考えてくれ。」 容保の強い決意に江戸詰めの藩士達は皆「君命のため潔く京を死に場所としよう」と 皆涙を流したという。 ただ一人、西郷頼母を除いて・・・ 西郷頼母は知行1700万石の筆頭家老であった。 藩祖、保科正之の分家の子孫のため、代々藩の要職にある家柄にあった。 頼母は、愚直で職務に熱い男だったので、歯に衣を着せぬ発言も多く、 周囲との軋轢の多い人物であった。 京都守護職拝命が会津を滅ぼす、と誰よりも強い危機感を持った頼母は 盟友・田中土佐と共に江戸へかけつけて、容保に辞退するよう強固に諌言し、 その態度は最後まで変わることはなかった。 松平容保は頼母を叱責し、お目通りを許しなかった。そして家老職を解任したのだ。 この時、西郷頼母 33歳。(西田敏行さんよりはかなり若い家老でした) 頼母は切腹するつもりであったが、田中土佐に止められた。 ここで生きながらえたことが、西郷家の悲劇にも繋がっていく。 その後戊辰戦争となり、会津は朝敵の汚名を着せられ、滅亡の危機に瀕する。 まさに、頼母の諌言どおりになったのだ。 そのとき西郷頼母という男の選んだ道は・・・・ネタバレなのでここでは語りませんが、 それだけでも大河ドラマと言えるでしょう。 京都守護職となった松平容保は、文久2年(1862)12月24日、 藩兵1000人を率いて、京都の黒谷金戒光明時に入った。 次回より舞台が会津と京都になります。 新選組も登場でね〜〜。わくわく。 ただ、今回は、尚之助さんの出番が少しだけで、ちょっと寂しかったな〜。 尚之助さんの八重を見守る優しい瞳にくらくら・・・してます。 参考文献
「新島八重 おんなの戦い」福本武久氏 「会津士魂」早乙女貢氏 |
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安政6年(1859)10月27日、吉田寅次郎が斬首されました。 真面目で堅物の松蔭とはちょっと違う小栗君ではありましたが、 最期のシーンは素晴らしかったです。 吉田松陰とい人物がこの世に存在しなければ、維新はなかっただろう、それは紛れもない事実です。 ある意味、井伊直弼と表裏の関係とでもいいましょうか。 松陰はこの時代、黒船来航という日本史最大の転換期に、天から遣わされ、その場所に立つよう運命づけられた男であったのです。 同じように黒船に遭遇して覚醒した山本覚馬にとっても 吉田松陰の死は少なからず衝撃となったことでしょう。 山本覚馬が最も尊敬したのは佐久間象山です。 蟄居を解かれ京に上洛した象山と覚馬は密に連絡を取りあい、 京の長州浪人に暗殺された象山を妙山寺に葬ったのも覚馬でした。 そして師匠の佐久間象山が、わが身を賭して擁護したのが、吉田寅次郎でした。 そのつながりから言えば、山本覚馬と吉田松陰の思想には、共通項は多かったのです。 覚馬が西国藩士なら勤王の志士として歴史に登場したかもしれないのです。 しかし尊皇攘夷と公武合体という「スローガン」に踊らされ、長州と会津は敵対し内戦へと突き進んでいくのは、悲劇としかいいようはありません。 会津藩の視点から幕末を描くとき、 会津=頑迷な保守主義 という一辺倒な描き方ではなく 会津にも覚馬のような、開明的思考を持ち合わせた青年がいたことを、世に宣伝するのはとても良い事だと思います。 ドラマの覚馬は攘夷派浪人に暗殺されそうになり、夫を守ろうとしたうらさんが、突き飛ばされて流産してしまいます。 覚馬は妻を流産に追いやった攘夷派への憎しみが、敬愛する吉田寅次郎にかぶさり、心を癒すことができずにいました。 流産したうらは気丈に振る舞うものの、八重ら家族に優しく支えられ、涙を流します。 畑の作物にしか自分を出せなかったうらが、山本家の嫁として居場所を見つけ始めていたのです。 安政7年(1860) 通商条約批准書を交わすために幕府の使節団が咸臨丸でアメリカに向けて出発しました。勝麟太郎もその中に居ました。 勝は渡航前に覚馬に手紙を書き、 吉田寅次郎の辞世の句を伝えました。 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」 『留魂録』の松陰語録として有名です。 そしてもうひとつ 「至誠而不動者未之有也 (至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり)」 これも有名な松陰語録です。 吉田松陰が幕府による取調べのために江戸へ移送される時に残した言葉です。 吉田寅次郎が公儀に対して精一杯の誠を示して死んだ、 「ひとりの人間にそれ以上の何ができるのか?」 寅次郎の命を懸けて果たそうとした事の本質を理解し涙を流したのです。 まさに「草莽決起」ですね。(私が一番好きな松陰言葉です) 藩や攘夷などという言葉の枠に捉われるものではないのだと悟ったのです。 吉田松陰は安政の大獄の最期の犠牲者となりました。 安政7年3月3日、江戸に大雪が降った朝、江戸城桜田門外で井伊直弼が 水戸脱藩浪士らに暗殺されます。 江戸幕府の権威を失墜させたテロ、「桜田門外の変」です。 松平容保公はこの知らせに急遽江戸へ出府しました。 大老を暗殺した水戸藩への処分を話し合うためです。 評議は尾張と紀州が主張する水戸討伐にほぼ決まりかけていました。 そのとき松平容保公は、 「大老を暗殺したのは脱藩浪人、これをもって水戸藩を罰しては筋が通りません。天下の大勢を鑑みるに、今国内で争うことは、慎むべきだと存じます。」と毅然と異を唱えます。 若き松平容保公の理路整然とした発言で、評議の流れは一変しました。 「高須四兄弟」とその秀英誉れ高き松平容保公が、幕末のキイマンとして名を揚げたその時でありました。 次回は容保公が「京都守護職」を決断するまでが描かれますね。 この決断が会津を悲劇へと転がしていくのです。 しかし、松平容保公もまた至誠の人であったこと、吉田松陰と同類の青年であったこと、 綾野剛さんがたっぷりと魅せてくれることでしょう!! それにしても、彼岸獅子舞見物で、 尚之助さんの八重を見つめる瞳が優しくて・・・・ 長谷川博己さんの美青年ぶりに目が釘付けでございました。(うっとり) さて今回は、吉田松陰について。 以前書いた記事を引用して追記します。 松陰先生を心からリスペクトしております。 吉田寅次郎(松蔭) 1830年9月20日(文政13年8月4日) 〜 1859年11月21日(安政6年10月27日) 下級藩士・杉百合之助の次男として生まれた松陰は、 5才で叔父吉田大助の養子となり、翌年大助が亡くなるとともに吉田家を嗣ぎます。 吉田家は山鹿流の兵学師範の家柄だったので、養父亡き後は、叔父の玉木文之進から山鹿流兵法を習います 叔父の指導は「死ぬかと思った・・」と松蔭が当時を振り返って云うほどの超・スパルタ教育でした このスパルタと松蔭の才能と努力が実を結び、 9才で藩校明倫館で兵学師範 10才で藩主毛利敬親(20歳)に「武教全書」を講義、 その完璧な内容に毛利敬親は松蔭を重用することになり なんと若干13才で山鹿流兵学大規模な軍事演習の指揮をとりました。 天才だったのです。 しかし、松蔭の天才は、自分が習得した山鹿流兵学が「時代遅れ」であることを看破してしまいます そのため19歳で西洋兵学への転換を藩へ意見し、 21歳のとき、江戸へ遊学し、安積艮斎・古賀茶渓・山鹿素水・佐久間象山門下となり 西洋の学問を吸収するのでした。 嘉永5年(1852年)、長州藩に無許可の形で宮部鼎蔵らと 東北の会津藩(日新館の見学/ドラマではこの時、覚馬と会ったことになっています) など旅行したため、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けたものの、 松陰の才を惜しんだ藩主から10年間の国内遊学の許可が出て、松蔭は再び江戸へ遊学します。 藩主からの信頼がとにかく篤かったのでした。 そして運命の・・・1853年6月。浦賀にペリーの黒船が来航。 吉田松陰は、佐久間象山とともに浦賀でその巨大な姿に遭遇し圧倒され、ショックをうけたのでした。 佐久間象山の薦めもあって密航を決心。 当時長崎来泊中のプチャーチン率いるロシア艦に乗船すべく長崎へ向かいますが、間に合わず失敗。 それでも熱病にかかったような吉田松陰は、渡航を諦めることはできませんでした。 安政元年(1854年)3月28日、 松蔭の最初の弟子にあたる長州藩足軽・金子重之助とともに密航を再度企て、 浦賀に再来航していたペリーの艦隊に乗船してアメリカ密航を望んだのでした。 しかし「日本の法律を破ることはできない」とペリーから密航を拒絶されて失敗。 松陰は乗り捨捨てた船から証拠が幕府にわたる前に奉行所に自首し、伝馬町の牢屋敷に送られました。 そして、金子重之助とともに長州へ送還。 松陰は士分が入れられる野山獄、金子は岩倉獄へと投獄されたのです。 金子重之助は、岩倉獄の劣悪な環境のために若干25歳で病没します しかし松蔭は弟子の死という哀しみを乗り越え、獄中で「孟子」講義を始めたのです この「孟子」講義は評判となり、出獄後、玉木叔父玉木文之進が興した松下村塾 の基本講義となるのでした。 そして、松下村塾で松蔭の講義は萩城下に知れ渡り、萩だけでなく、 長州藩全体から才能ある若者達が、身分の区別なく集うようになり、 その子弟が幕末の先導者と成長していくのです。 しかし、 安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、 討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画します。 しかし、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎らは、血判書を書いて反対し計画は頓挫しました。 それでも松陰の志は途絶えず、幕府が最大の障害だと倒幕へと思考を先鋭化させていきました。 ここまでくると長州藩も見逃すことはできなくなり、 松陰は捕らえられ、野山獄に再び幽囚されることになりました。 やがて大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られます。 幕閣の大半は暗殺計画は実行以前に頓挫したことや松陰が素直に罪を自供していたことから、 「遠島」を申しつけるつもりでした。 ところが松陰は、驚くことに尋問に際して「老中暗殺計画の詳細」を自供し、 自身を「死罪」にすべきだと直訴、これが井伊の逆鱗に触れ、 安政6年(1859年)10月27日に斬刑。享年30(満29歳没でした。 松陰は獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残し、 その冒頭に記された辞世が、「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」です。 伝えられる松陰の最期は以下です。 松陰は評定所にて「死罪」を申し渡されると静に「畏まりました」と答え、 朗々と辞世の句を読み、かつ獄吏や立ち会いの与力に「ご苦労様」と声をかけて座り首を斬られました。 斬首した山田浅右衛門は「最も堂々とし天晴でございました」と伝えたそうです。 朗々と謳ったのは 「吾今国の為に死す 死して君親に負かり 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」 処刑後、小塚原回向院(東京都荒川区)の墓地に葬られましたが、 文久3年(1863年)に高杉晋作ら攘夷派の志士達により現在の東京都世田谷区若林に改葬されました。 松陰の死後、 同じような「過激な尊皇攘夷運動」を展開した土佐の勤王党と長州過激派ではありますが、 土佐勤王党が藩の弾圧で壊滅してしまった一方で、長州藩は藩一丸となり「攘夷⇒討幕」へと 時代を動かしてゆきます。 何故か? それは、吉田松陰の存在なしには語れません 長州の攘夷過激派でイギリス大使館を襲った志士達5人が 翌日、長州藩の肝いりで、イギリスへ密航し欧州列強の圧倒的な文化を吸収して日本へ持ち帰ります 長州ファイブの面々です 攘夷を叫び異人を惨殺しながら、何故長州の志士達は密航の企てに矛盾を感じなかったのか? それは、一重に吉田松陰が命懸けで挑戦した「西洋への密航」への熱望であったでしょう。 異国の姿を見極めなければ、真の攘夷などできはしない。 西洋に学び、孟子に学び、神国日本を守るべし。 天才松蔭の導いた革命的な思想が、長州藩を明治維新までまっすぐに導いたのでした。
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昨夜、録画を観ました (^-^)/ 安政5年(1858) 将軍後継をめぐる争いで、一橋派の失脚と、井伊直弼による安政の大獄へ序章を 「妖霊星」の出現で象徴的に描いていました。 この時代の派閥争いは、『篤姫』でしっかり描かれていましたね。 13代将軍・徳川家定を演じた堺雅人さんを、うっとりと思い出してしまいます。 下記、「篤姫」過去記事にプチ歴史についても書いておりますので、参照くださませ。 そのころ会津では、 西郷頼母の松平容保公へのとりなしが功を奏し、 山本覚馬は1年ぶりに禁足を解かれるばかりか、蘭学所教授方への復帰のみならず、 「軍事取調役兼大砲頭取(副隊長)」へ抜擢されました。 江戸で、開国譲位に翻弄される幕府の実情をしる容保公は、会津の田舎で従来の暮らしをする 保守的な藩上層部よりも、見識は高かったでしょう。 綾野剛くんの松平容保公、段々と殿様の威厳が備わってきましたね! これからその細身の体で江戸幕府の悲劇を一身に背負っていく、過酷な運命が待ち受けていますが、 その生真面目で誠実な人柄だけでなく、悲壮感までもが漂い始めました。 京都での松平容保公と新選組との絡みに、今からぞくぞくしてしまいそうです。 また、八重も、兄様や尚之助と共に、銃の改良に関する文献や海外の翻訳書を目にしていただけに 会津藩の娘っこたちよりは、世情に明るかったのです。 そして幼馴染の時尾が言うように、そんな八重の人格や考え方を尊重し、好きにさせている 山本家は、会津藩の中でも、かなり開放的な家庭でありました。 特に八重の母・山本サクは、会津城下でも賢夫人として通っていたのでした。 会津若松で初めて種痘がおこなわれるようになったとき、さくは率先してその普及につとめたのです。 「疱瘡」は当時死病で、たとえ生き延びても痘痕の残った顔で一生過ごさねばなならい、 恐ろしい病気でした。 西洋医術の知識に乏しい人たちにとって、たとえ少量といえども種痘をすることは かなり勇気のいる行動であったのです。 さくは城下の人たちに種痘の効用を粘り強く説明し、まず、自分の子供である八重と三郎に 種痘を受けさせ、普及に努めました。 その後、越後から流行した疱瘡が会津領内でも猛威を振るった時、さくの説得で種痘を受けた領民は 発病をまぬかれたそうです。 山本覚馬は「母の聡明さにはとても及ばない」と後年語ったそう。 風吹ジュンさんは、「風林火山」のときもそうだったけれど、本当にいいお母さん役ですね。 そんな開放的な山本家に、嫁がきました。 山本覚馬の妻となった、長谷川京子さん演じる「うら」です。 覚馬とうら・・・美男美女ですね〜〜〜。 うらは、当時の模範的女性でした。 「夫が西向け、といえば、ず〜っと西向いているような女だべ。」 現代風の山本家の家風になじまず、悩むことになるのかなぁ・・・と想像。 うらさんも、夫と尚之助と八重が、夢中になって銃の改造や研究に取り組むその場に 入ることもできないだろうし。 何より鉄砲ぶっぱなすじゃじゃ馬の八重とは、まあ、相容れるのは難しいでしょうね。 「異国の人みたいだ。」悩む八重さん。 きっと、そばでずっと見守るんだろうな、尚之助さん!(ステキすぎる!) そして、川崎尚之助さんも覚馬とともに蘭学所教授方に就任したものの やはり他国出身ということで、結局仕官は認められず、山本家への寄宿は継続することになりました。 そう、会津戦争まで。。。(涙 ネタバレですが、 山本覚馬は、松平容保公の京都守護職就任に従い、1862 (文久2)年に上洛してしまうので、 覚馬&尚之助の超絶イケメンコンビは、後4年ほどで実質解散してしまうのです・・・ それまでは、お二人が並び立つお姿を、しっかりと心に刻み付けたいです〜。 さてそれでは今回もプチ史実を。 今回タイトルとなった「妖霊星」について。 これはハレー彗星ではない。安政5年(1858)8月22日に観測された『ドナチ彗星』である。 古文書等に記録が残されている。 岩戸村第12代庄屋土持信贇の日記「安政五年諸御用日記戊年正月吉日庄屋」には 8月22日に彗星のことを記していた。 「暮六ッ時 西ノ方ニ帚星見ユル 当月十七日より顕連候也。寅卯之方ニ尾を曳。長サ数丈也。」 その様子を描いた素描もある。 資料【駿州大宮町横関家『袖日記』安政5年8月22日 (東亜天文学界 天界 2009年6月号】 ドナチ彗星の出現は、「安政の大獄」が始まったまさにその時期であり、 かつ、江戸ではコレラが大流行していた。 (ドラマ 「仁-JIN-」で描かれていましたね) 『安政の大獄』の経緯も少し。 1853年、黒船来航の年に徳川家定が13代将軍となるも、病弱であったためすぐに後継者問題が起こる。 徳川斉昭の七男で英明な一橋慶喜を指示し外様の登用ももくろむ一橋派と、 現将軍に血筋の近い紀州藩主徳川慶福(後の徳川家茂)を推す譜代中心保守路線の南紀派とに分裂、 水面下で激しい権力闘争が行われた。 同時に米国総領事タウンゼント・ハリスが、武力を楯に通商条約への調印を幕府に強要。 開国やむなしと幕府で決定したものの、朝廷の勅許が必要となり、老中・堀田正睦が上洛したが、 京都の尊皇攘夷派の朝廷工作にとりこまれて、孝明天皇は勅許を拒否した。 ところが、安政5年(1858年)4月23日、南紀派の井伊直弼が大老に就任すると状況は一変する。 井伊直弼は就任早々の 6月19日 無勅許での条約調印を断行したばかりか、 6月25日には徳川慶福の将軍継嗣指名も決定してしまった。 まさに電光石火の行動であった。 驚いた一橋派は、すぐに攻勢を掛けようとした。 徳川斉昭は、長男である未と藩主・徳川慶篤、尾張藩主徳川慶勝、 福井藩主松平慶永らは、「無勅許調印は不敬」として、井伊を詰問するために不時登城した。 不時登城とは、定式登城日以外の登城のこと。 ところが井伊は逆手にとって「『不時登城をして御政道を乱した罪は重い』と 台慮(=将軍の考え)を楯に、斉昭らを隠居謹慎などに処した。これが安政の大獄の始まりである。 (ドラマどおりですね) 一橋派の薩摩藩主・島津斉彬は、井伊直弼の専横に即座に反発し、 藩兵5000人を率いて上洛することを決意したものの、同年7月に鹿児島で急死。毒殺とされている。 焦った譲位派は、朝廷を動かした。 そして 安政5年8月8日「戊午の密勅」が水戸藩へ下された。 これは、孝明天皇が、幕府を無視して水戸藩に勅書(勅諚)を下賜した事になり、 この事実を知った井伊直弼は、苛烈な「安政の大獄」で反対派を処断する結果を招いた。 尚、ドラマで井伊直弼が「戊午の密勅」について書状を読むシーンがあるが、 あれは井伊の側近、長野主膳からの手紙と推測される。 長野主膳は井伊への書状に「薩摩藩による彦根城襲撃と井伊暗殺の秘事」が書いて送っている。 これは、井伊への点数稼ぎのため、長野主膳の作り話という説もある。 (他の書簡等では確認できないため) もしこれが作り話で、その内容に激怒した井伊直弼が、梅田雲浜、橋本左内、吉田松陰ら、 当時の日本の最高の頭脳と思想家を処刑したのだとすれば、無実の罪で弾圧した事になる。 まさに幕末の妖霊星・井伊直弼。 井伊という彗星が日本の表舞台に突如登場したことで、幕末の混沌は激しさを増す。 井伊の登場で日本の夜明けは、遅れたのか? いや私はむしろその反動で、血で血を洗う、維新革命が成就することになったとのでは、思っている。 箒星のごとく井伊直弼は、 わずか2年後の 安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変で暗殺され、安政の大獄は収束した。 井伊直弼に関する拙文です。 井伊直弼は何故か好きな人物で、昨年の9月も彦根城と埋木舎へ行ってきました。 茶の達人らしい侘しく清楚な館でした。 (井伊大老演じる榎木孝明さんのお茶の作法がスーパー見事だ!) 参考文献 「新島八重 おんなの戦い」 福本武久氏著
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