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皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

大河ドラマ「軍師官兵衛」

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官兵衛、終わってしまいましたね・・・寂しいです。
 
とりあえず最終回感想から。
 
「その時お前の左手は何をしていたのだ。」
 
岡田官兵衛(如水)の視線に凄みがありました。
ええ、きっと史実の如水も、同じように底光りのする視線で長政を見つめていたことでしょう。
 
あと一歩で天下へと名乗りを上げることができたはずなのに、
まさかその足をすくったのが嫡子であったとは・・・
おそらく家康も、如水の野望を知っていた上で、長政の右手を取ったに違いありません。
 
「如水殿、もう終わったのですよ。。」そんな家康の不敵な笑いが、如水の脳裏に浮かんだことでしょう。
 
しかし、時間がたち、ほぼ天下を手中に収めた家康と対面した如水は、
家康の作ろうとしている天下が、家康一代でなく家康亡き後も、長く太平の世が続く天下を目指していると知り、
「今まで一度も戦で負けたことはありませんが、今回は初めて家康殿負けました。」と頭を下げるのでした。
 
そして、病に倒れた如水は、長政に、
「お前の選んだ道は正しかった。」と、親を超えた息子の成長を喜び、
また、黒田家の未来と繁栄を託します。
 
そして死の床についた官兵衛は、最愛の妻・光の手をとり、
「時世の言葉がみつからない。」という時世の言葉を残し、
やることはやった、後悔はない、と満足な笑顔と一滴の涙を残して、天へ召されたのでした。
 
若いころから官兵衛を支え続けた重臣達の涙にうるうるとしてしまいました。
特に高橋一成さん演じる井上九郎右衛門の涙と鼻水が凄かったですね。
共に1年の長きにわたりまさに大河を渡り切ったキャスト達の固い絆と信頼関係を感じさせてくれました。
 
そして大坂の陣で豊臣家は滅び、乱世も終わりを告げ、官兵衛が願い続けた戦のない平和な世の中が
到来します。
亡き夫の面影をしのぶ光圓の背後には、クルスの映像が・・・
 
最後まで史実へのリスペクトを忘れていない脚本とNHK製作陣の気持ちのこもった、
ラストシーンに深く感動いたいました。
 
 
************
 
それでは、「軍師官兵衛」最後の豆知識コーナーです。
 
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原合戦は、たった1日で終わってしまった。
これは九州から天下を狙おうとしていた如水にとっても大きな誤算であった。
 
家康率いる東軍が7万4000人
三成率いる西軍が8万5000人 と兵力では西軍が上回っていた。
夜明けとともに始まった戦は、緒戦は西軍有利であったが、正午ごろ、小早川秀秋が東軍に寝返り
戦況は逆転、西軍の主力が崩壊して総崩れとなり、東軍の圧勝となったのである。
 
 
個人的には、寝返り、調略等々の要因はあれど、
やはり、東軍の大将・徳川家康の肝の太さがすべてを決めたなあ〜と。
 
関ヶ原合戦については、過去記事で書いておりますので、
興味のある方は、下記を参照くださいませ。
 
 【関が原!シリーズ】
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/58532022.html 『大垣城!〜 関が原前哨戦 』
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/58551604.html 『関が原!その①』

 
 
 
西軍の主力であった、石田三成、小西行長、恵瓊は捕えられ、六条河原で処刑、首は三条河原に晒された。
 
ドラマで捕えられた三成に長政が声をかけるシーンがありましたが、あれは史実である。
 
福島正則ら多くの武将達が、生きさらしとなった三成への侮蔑の言葉を浴びていたが、
そのうち、馬を降りて敵軍の将として礼節を示したのは、長政と藤堂高虎だけだったという。
 
特に長政は馬から降りて自らの羽織を三成に遣わし
「不幸にしてこうなってしまわれた。これを召されよ」と着ていた羽織を脱いで
縄目の上から掛け、手向けの言葉を送っている。
 
黒田長政も藤堂高虎も秀吉恩顧でありながら、その後家康への忠誠が最も篤く、
外様ながらも、家康の側近くに呼ばれた武将であった。
おそらく、長政も高虎も、豊臣家の真の忠義者が誰であるのかを分かっていたのであろう。
 
さらに後日談であるが、長政は、西軍の総大将であった毛利輝元と家康との仲介を務め
毛利家の改易を阻止してもいる。
また如水は小西行長の遺臣を黒田家で召し抱えている。
尚小西行長はキリシタンは自殺が禁じられているため、敢えて捕えられている。
 
石田三成に関しては、家康と高台院(おね)との関わりが興味深い。
家康は三成の子供、男子含む全員を助命している。娘達もそれなりの家へ嫁がせており、
家康の人となりが伝わってくる。
さらに興味深いのは、三成の三女辰姫は、高台院(おね)の養女となり養育され、その後津軽藩主の元へ
嫁いでいる。
豊臣家への本物の忠臣として家康もおねも三成を認めていたのだ。
 
なお、黒田長政の関ヶ原における戦功は見事なものであった。
先鋒として西軍に猛攻を加えるだけでなく、父、如水譲りの調略においても見事な働きぶりであった。
特に、小早川秀秋の家臣で、長政の従兄に当たる、平岡頼勝を通じて、秀秋に東軍への寝返りを勧め、
また、毛利の吉川広家から情報を仕入れて、毛利軍の日和見を事前に家康に報告していた。
 
それらの戦功により戦後、家康から関ヶ原一番の功労者として
子々孫々まで罪を免除するというお墨付きをもらい、筑前52万3,000石の大封を与えられた。
 
だが、皮肉にも、それは父・如水の天下取りへの大望をくじくこととなり、
「日本一のうつけは長政だ。」と言わしめた結果となったのだ。
 
関ヶ原がたった一日で終わったのちも、如水は九州で暴れまわった。
 
加藤清正、鍋島直茂とともに、立花統虎が籠城する筑後の柳川城を攻め、統虎を説得して
10月25日に開城させた。
残るは薩摩の島津だけとなり、如水は肥後の水俣まで軍を進めた。
ところがそこへ家康から 「島津攻撃は待ってもらいたい。」と書状が届いた。
家康はこれ以上如水が九州を制圧すれば、自分の首が危ないと読み切っていたのだ。
如水は、あっさりと軍を引き下げてしまう。
それは、家康についている長政と黒田家を鑑みてのことであったろう。
そして冒頭の有名なエピソードに戻る。
 
家康とのDeepな心理戦があったことも知らず、
「徳川様がこの右手を握り、この恩は七代の末まで忘れない、とおっしゃった。」と
如水に嬉しそうに伝える息子の能天気な笑顔に、
「それなら、その時お前の左手は何をしていたのだ。」と
左手で家康を刺すことができただろうと、長政に冷水を浴びせたのである。
 
そして本当に悔しかったのであろう、後年も長政に
「たった一人の息子であるが、お前を捨て殺しにしてでも、天下を取りに行こうと思っていたのだ。」と
関ヶ原時の心境を語ってもいる。
 
関ヶ原後の官兵衛であるが、
筑前国を拝領した長政は、慶長6年(1601)父如水らとともに、筑前警固村福崎で、築城を開始した。
その際、如水は、城下の地名を、黒田家のルーツでもある備前国福岡郷にちなみ、「福岡」と名付けた。
完成した城は福岡城と呼ばれのちに藩名にも使われるようになり、
現在の福岡県へと受け継がれるのである。
 
築城開始ごろは、太宰府天満宮の庵にて、妻・幸圓と住んでいたが、
城が完成すると、三の丸(御鷹屋敷)で夫婦水入らずの隠居生活に入った。
時々城下町へ出かけて、家来の家でお茶をごちそうになったり、
散歩の途中で子供たちに出会うと、果物を与えたりと好々爺であったという。
 
そして晩年には、長政や家臣に多くの教訓を遺してもいる。
「神の罰より主君の罰、主君の罰より臣下、万民の罰を恐れよ。」
「文武は車の車輪の如し、乱世に文を棄てざるが尤も肝要たるべし。
「国を治めるにはまず政道に私なく、我が身の行儀作法を乱さずして、万民の手本となるべし。」等々
天下人とその末路を見てきた官兵衛らしい処世術である。
 
慶長8年(1603)暮れ、如水は体調を崩したため有馬温泉で湯治を行い、
年が明けてから伏見藩邸に移ったものの、2月末に容態が悪化し、
慶長9年(1604)3月20日 その生涯に幕を閉じた。享年59歳であった。
 
辞世の句は
「おもひおく言の葉なくてついに行く、 道はまよわじ、なるにまかせて」
 
辞世の言葉が見つからないのに旅立ちます。道は迷っていない、世の中なるようになるさ・・・
なんとも官兵衛らしいというか、戦国大名らしからぬ、やはり現代的でな文学青年の香りがする。
 
そしてドラマには描かれていないが、如水はキリシタンとしての死を望んでいる。
死の間際、如水は自分の「神の小羊」の祈祷文およびロザリオを持ってくるよう命じ、
それを胸の上に置いた。
そして自分の死骸を博多の神父の所へ持ち運ぶこと、
息子の長政が領内において神父たちに好意を寄せること、
イエズス会に2000タエス(約320石に相当)を与え、
うち1000タエスを長崎の管区長に、1000タエスを博多に教会を建てるための建築資金に充てること、
と遺言している。
また、家臣の殉死を固く禁止している。
 
官兵衛は本物の、キリシタンであったのだ。
関ヶ原で天下を狙ったのも、徳川の世ではキリシタンが迫害されることを予測し、
わが手でキリシタンを保護したいという思いもあったのではないだろうか。
 
なお、黒田官兵衛の墓は、黒田家の菩提寺である崇福寺(博多)と、
長政が建立した大徳寺塔頭・龍光院(京都)にある。
 
黒田家は福岡藩主として初代長政から12代長知まで続き、明治を迎えることとなる。
 
 
黒田官兵衛!
史実に忠実で根太なドラマでした。久しぶりに本物の戦国大河を堪能した1年でした!!
 
特に、「有岡城の戦い」を1か月に渡り、しっかりと描いてくれたことを最大に評価したいです。
有岡なくして官兵衛はなかっただろうし、有岡があったゆえの官兵衛の生き様であるからです。
幽閉後、道糞との不可思議な友情を含め、有岡での迫力ある演技や映像は、個人的にも
歴代大河の上位にランクインするほど、印象的なシーンや台詞の数々でした。
 
歴史に埋もれていた真実や人間模様を、過剰な演出や虚実を大量に混ぜることなく
まさしく「ありのまま」に描くことで、歴史のダイナミズムを表現した手法に拍手です。
 
岡田准一くん、そしてキャストのみなさま、
本当に素晴らしかったです。
ありがとうございました!!!
 
・・・にしても、ジャニーさん、せめて大河ドラマの写真くらい公開OKにしましょうよ。
岡田官兵衛のかっこいい写真みたいよ〜〜〜。
いよいよ関ヶ原合戦・・・!
 
戦国武将として、合戦を前に狸おやじから、獰猛な狼へと変貌していく家康。
一方の三成は、慣れない戦に焦りの色が見え始めています。
もし彼が、朝鮮の役で、監視役などという役職ではなく、先発部隊として修羅場を踏んでいたなら
周りの目も、おのれの立ち位置も戦の仕方も変わっていたことでしょう。
 
そして何よりも、秀頼の出陣を実行することができなかった事につきます。
淀君のほおをはたいででも、秀頼を担ぎ上げるべきでした。
家康、官兵衛なら必ずそうしていたことでしょう。
女一人を説得できない男が、西軍に属する諸将をまとめ上げることなどできるはずがありません。
 
勝負はすでに決まっていたのでした。
 
そしてわれらが官兵衛です。
 
史実通り、輿に乗って戦場で指揮をとってましたね。
運動神経抜群でかっこいい岡田君だから、史実は無視して華麗な太刀捌きを見せたいところでしょうが、
あえて輿に乗せたところが、素晴らしい。
 
今まで「軍師」として主君を助けてきた官兵衛が、初めて総大将となり
思うがままに兵を動かす大勝負です。
心の秘めてきた野望を実現する時が来たのでした。
 
 
水を得た魚のような如水、岡田君の目もきらきらしています〜。
 
印象的なシーンがありました。
盛夏の中津で挙兵の準備を進める如水が、額に滴り落ちる汗をぬぐいながら
天を仰ぎ、まぶしい光に恍惚となった表情をみせるシーンです。
 
如水、何を思う?!
 
光姫の言うように、純粋に自分の目的のためにまい進する如水は
まるで青年のような覇気に満ちていました。
 
一方徳川の陣中にあって、西軍の切り崩しに奔走する長政。
黒田家のため、天下のたと、嘘も方便とばかりに不気味な笑顔を見せます。
ここへきて
むしろ、調略に奔走する黒田長政のほうが腹黒くダークな印象を醸し出してきました。
 
父と子と、それぞれの関ヶ原の火ぶたが切っておとされました。
 
**************
 
それでは豆知識コーナーです。
 
中津で隠居したまま、鳴りをひそめていた如水が、突然挙兵した。
 
家康と三成の衝突の間に、九州を平定し、その後、上方へ進撃してあわよくば天下を取るという計画である。
 
当時の九州における主の大名は、
薩摩には島津義弘、
肥前に鍋島直茂
筑前に小早川秀明
肥後に加藤清正と小西行長
筑後に立花統虎と、毛利秀包
 
この中で西軍につくと明言していたのは加藤清正だけであった。
小早川秀明は関ヶ原の合戦中に寝返るのである。
 
それゆえ、東軍のためという大義名分がたつ。
しかし、如水の本心は「天下」であった。
 
が、このとき、最大の刺客が登場する。
豊後の旧領主、大友義弘である。
義弘は、朝鮮の役で敵前逃亡し、秀吉から豊後一国を召上げられ改易となり、
毛利家で預かりの身のうえであった。
 
しかし家康との対立が深まる中、三成は義弘に旧領回復と軍備援助の好条件で味方に引き入れ
九州へと出兵させた。
大友義弘は途中立ち寄った周防で、旧家臣の吉弘統幸と再会する。猛将と名高い統幸は、
西軍ではなく東軍に付くよう主君を諌めるも、義弘はそれを拒否。
吉弘統幸は仕方なく、西軍側に付いたのである。
 
情報をキャッチした如水は、旧知の大友義弘に書状を送り、供に東軍に付こうと説得した。
 
実は黒田官兵衛や黒田家と、大友義弘は誼があった。
九州征伐の後、官兵衛の強い勧めもあって、大友義弘は妻子とともにキリスト教に入信している。
また、母里太兵衛は妹婿でもあった。
吉弘統幸も、大友家改易時は、黒田の家臣・井上九郎右衛門宅に預けられていたことがあった。食客である。
 
 黒田家としては、心情的んは大友家との戦はできれば避けたい思いもあったろう。
しかし旧領回復の望みをかけて、大友義弘は如水の手紙を無視していた。
 
結局、杵築城の攻防を経て、両家は石垣原で雌雄を決することとなった。
大友軍は、吉弘統幸を大将として出陣、黒田軍は時枝平太夫、松井康之らが先鋒となり
激しい白兵戦となった。
この戦いを自分の死に場所と決めていた吉弘統幸は、井上九郎右衛との一騎打ちに臨む。
そして激闘ののち、力尽きた。
 
石垣原の決闘で、九郎右衛に討たれのは、恩義ある旧友に花を持たせるため、とも言われているが、
一軍の大将たる者、二人とも全身全霊で刀を交えたに違いない。それこそが武士の情けであろう。
 
大将が討たれて敗色が濃くなった大友軍は撤退。
そして9月15日、死傷者続出で先頭続行が不可能となった大友義弘は、剃髪し黒染めの衣装をまとって
如水に降伏を願いでた。
この日は奇しくも、関ヶ原合戦、その日であった。
大友義弘はその後、常陸国へと流罪になった。かの地で再びキリスト教を信仰したとも言われている。
 
石垣原合戦の後も、黒田如水の快進撃は続いた。
黒東半島の諸城を次々と陥落させ、豊後の安岐城、富来城、そこから西進して、
豊前の香春岳城、小倉城、
そこから南下して、筑後の久留米城・・・と、西軍についた諸城を次々に落としていった。
敗れた家は一家全滅などの酷い仕打ちは避け、武将の助命に務めた。
そして、降伏した軍を先頭に立てる戦法をとった。
そのため降伏した兵の多くが、黒田家への士官を望んだという。
 
九州統一は目前であった。
 
一方、関ヶ原では、嫡男・長政が調略、武功で大きな手柄を立てていた。
そして、息子の活躍が如水の野望を止めた、遠因となったのである。
 
 
さて、次回は最終回。
 
関ヶ原の論考を得意げに話す長政に対して
 
「徳川殿はお前のどっちの手を握られたのだ?」と如水が聴き
「右手でした」と答える長政に
 
「そのときお前の左手は何をしていたのだ。」と言ったという、
黒田官兵衛の有名な台詞を、岡田君がどう演じるのか・・・!
 
わくわくしますね!!! 
 
 
そして…当ブログの感想文も、なんとか、最終回に間に合いました!!
かなり、ほっとしています。
これで「心置きなく最終回を楽しむことができそうです。
今回は、かなり史実に忠実でした。
 
家康と官兵衛の知恵比べでありながら
官兵衛と長政との知恵くらべの様相も帯びてきていました。
 
まあ、うがった見方をするならば、
九州で密かに天下取りの算段を立てている官兵衛の動きを察知した家康が
長政をその対抗馬としてうまく使ったとも見えます。
 
一方で、今回も間抜けな三成。
やることなすことが裏目に出ます。
本当に秀頼君のことを考え豊臣家への忠義心が厚いのはこの男であったのに。
 
ドラマでも、秀吉への恩や、秀頼への忠義心にはほとんど触れてはいません。
福島正則も、ある意味うまく利用された男の一人でありました。
 
忠義なき世となれば、国は乱れます。天下動乱・・・
そして天下を二分する関ヶ原合戦へのカウントダウンが始まりました。
 
***********
 
それでは、豆知識コーナーです
 
慶長5年(1600) 6月、家康は会津の上杉景勝に謀反の動きありと
豊臣秀頼の命という名目で、会津征伐へと出陣した。
黒田長政も家康の呼びかけに応じて、5400の兵で大坂から出陣している。
 
家康が出陣し、大坂ががら空きになった今こそが好機と、
石田三成はついに家康討伐のため挙兵した。
五大老の毛利輝元を総大将し、近畿、中国、九州の豊臣恩顧の大名達が、次々と大坂に結集する。
三成は、大坂城下に残されてた家康派の諸将の妻子を人質にとり、
家康の側近である鳥居元忠が城代の伏見城を攻めて、これを陥落させた。
 
 
妻子の人質は、常套手段。
この時、黒田屋敷には、長政の母(出家して幸圓)と、嫁いできたばかりの妻、英姫(ねね姫)が残されていたが
長政は、こうした事態を予測して、栗山善助と母里太兵衛、宮崎助太夫の3人に、
中津への脱出作戦を申付けていた。
 
三成の動きを察知した3人は、二人を知り合いの商家に匿ってもらおうとしたが、
すぐに屋敷の回りは三成方の監視人に包囲されてしまった。
そこで夜を待って、屋敷の湯殿の壁に穴をあけて、二人をそれぞれ俵にいれて籠に乗せて、
商人に変装した母里太兵衛が、その籠を担いで壁の穴から脱出し、目的の商家へと逃げ込んだ。
 
幸圓と英姫が脱出した後、騎馬隊を先頭に600もの兵が黒田の天満屋敷へと押し寄せ、
「二人の内儀はいずこに?」と問いただした。
3人は機転をきかせ、幸圓と英姫に似た侍女を選び、遠くからみさせて二人は屋敷内にいると信じこませた。
しかし、次の危険が迫っていた。
中津から如水が遣わした船が大坂湾に到着するも、監視の目が厳しくて近づけない。
どうしたものかと思案していた矢先に、玉造方面から火の手があがった。
細川低が火元で、細川忠興の妻・玉(細川ガラシャ)が、人質となることを潔しとせずに、
家臣に胸を突かせて自害、敵の目にさらされまいと火を放ったことによる火災であった。
 
3人の家老たちは、火事の騒乱に紛れて幸圓と英姫を木箱に入れて運びだし、
裏の川から小舟に乗せて大坂湾でまつ迎えの船に辿りついたのである。
 
(このエピソードはほぼ史実通りにドラマで描かれておりました)
 
ところで、黒田長政の後妻となった英姫(ねね)であるが、
このとき若干16歳。
父は保科正直、母は、家康の妹・多却姫。
家康の養女として、16歳で長政へ輿入れした。輿入れの10日後、長政は家康の会津征伐へと出陣。
そして人質事件に巻き込まれるが、気丈にふるまった。その強さが長政には魅力であったのだろう。
長政との間にが3男2女をもうけ、のちの福岡藩2代目藩主・忠之ご母堂となる。
 
そして、われらが官兵衛である。
 
三成が挙兵した折に中津に引きこもっている如水の元に、三成の密使がやってきて
「三成方に加担し、家康に帯同している長政を引きもどしてほしい。恩賞は望みどおりにする。」と言ってきた。
 
この辺りが、実に三成らしい。
秀吉存命中から仲が悪く、朝鮮の役では讒言騒ぎまで起こした官兵衛に、誘いの密使を送るその神経である。
三成は、自分の忠義心が真実であり公明であるなら、必ず周りは理解ししたがってくれると信じていたのだ。
 
如水も三成のKYぶりに苦笑したことであろう。
「恩賞は望み次第というなら、九州7か国を拝領したい。後で問題が起こらないように
証書も欲しい。頂けるなら、家康打倒のために全力を尽くしましょう。」と密使に答えたという。
三成が決して首を縦に振らない条件をだしたのだ。
黒田家が家康に付いている以上、密使を成敗してもしかるべきではあるが、
人を食ったような返答をする当たりに、如水の人柄と余裕を感じる。
三成など子供に見えたことであろう。
 
そして何よりも、如水には秘めた野望があった。
決して中津で隠居を決め込んでいたのではない。
 
まず上方からの正確な情報を早く入手する手筈を整える。
大坂、備後の鞆、周防の上関の3か所に早船を配置して、情報伝達システムを設けていた。
 
このシステムで家康挙兵を知ると、如水はすぐに戦の準備に取り掛かった。
しかし、長政が精鋭を連れて会津へ出兵中のため、中津に残された兵はわずかであった。
そこで如水は蓄財をはたいて、兵を集め始める。
騎馬武者には銀二百匁、徒歩武士には百匁、普通の武士には十匁払うという条件で兵を募った。
すると失業中の武士が多数好条件に飛びついてきた。
なかには、一度もらった後でもう一回並び、二度給金をもらおうとする不心得者もいたが
如水は「黒田家のため働くなら構わない」と気にしなかったという。
そして実際募集兵たちは、如水のためにと戦場で必死に働いた。
普段は「倹約家」(ケチ)で有名な如水であったが、ここぞというときにはお金を使う如水に
周囲は感心したという。
 
如水の野心とは、すなわち「天下取り」
家康と三成が衝突する間に、九州を平定し、その後上方へ進撃して天下を乗っ取ろうとしたのだ。
 
そして、もし関ヶ原合戦がせめて五日はかかっていたなら、如水の野望は実現できたかもしれない。
天下分け目の戦がまさかわずか一日で終わってしまうとは・・・
しかもその最大の立役者がわが息子・長政だったとは・・・
 
 
三成挙兵の報を受けた家康は、
してやったりと、下野国小山で方向転換し、西へと向かった。
そして東進してきた三成率いる西軍と関ヶ原で激突する。
 
慶長5年(1600) 9月15日、関ヶ原合戦である。
 
なにはともあれ、次回 。
黒田官兵衛、一世一代の大勝負が始まる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
関ヶ原まで放送回数も少なくなってきていることもあり、
かなり駆け足で物語が進んでいってますね。
 
そのせいか、石田三成が悪く描かれすぎで、ちょっと悲しい(三成ファンとしては・・)
まあ、黒田家からの視点ですからしょうがないとはいえ、
戦は下手、高飛車、戦略も練れず、小賢しいだけ・・・?
いやいや、そんな男が、秀吉の側近でNO.1の地位まで上りつめられたでしょうか?!
 
物語自体は疑問も多かったけれど、
「天地人」で小栗旬君えんじる石田三成が、やはり個人的には一番好きだし、三成の実像に近く思えます。
 
そしてやっぱり悲しかったのは、糸姫の離縁。
 
長政、あまりにもあっさりしすぎじゃないの〜〜?!
 
もし官兵衛が同じ立場であったなら、いくら家康からの強制的な縁談とはいえ、
光姫を捨てて、家康の養女を正室に迎え入れるなど、きっぱりと断ったことでしょう。糸姫がかわいそうです。
 
ちなみに、糸の生んだ娘は、井上九郎衛門(高橋一生さん)の嫡男の妻となりました。
しかし、突然、長政が糸を離縁したことに、実家の蜂須賀家は激怒し、
明治になるまで黒田家と蜂須賀家は絶縁していたようです。
 
史実でも糸姫と長政が、仲睦まじいい夫婦だったから、
猶更、その理不尽な行いに腹がたったのでしょうね。
ドラマの二人が本当にお似合いだっただけに、離縁する史実を知っていたとはいえ、やはりむなしさを感じてしまいました。
 
****
 
それでは歴史豆知識のコーナーへ。
 
慶長4年(1599年)、豊臣政権の大黒柱、前田利家が病死した、其の夜・・・
石田三成を「奸臣!」と憎悪する福島正則ら武闘派七武将が、三成征伐のため挙兵。
 
大軍に囲まれ絶体絶命の三成は、捨て身の作戦をとる。
なんと、女装して屋敷を抜け出し、家康の屋敷へ逃げ込んだのだ。

五大老の筆頭として、家康自身が大名同士の争いを仲裁する立場であることを、逆手に取ったのだ。
あの・・・三成にしては、上出来の策であった。
しかし、家康も狸おやじ。逆襲にでる。

一旦、大老として三成を救助し、決起した七武将の説得を約束するも、
しかし、この騒動を起こした張本人として、
石田三成を佐和山へ蟄居させ、中央政界からの追放に成功したのだ。
三成の失脚に成功した家康の次の標的は五大老のひとり、上杉景勝。
家康による上杉討伐への策略が着々と進んでいった。
 
事実、伏見城から、大阪城西の丸へ入城し、政務の一切を取り仕切る家康は
謀反の疑いという事実無根のでっちあげで、政敵を次々と政界じから追放しており、
五大老・五奉行制度は、もやは機能しなくなっていたのだ。
 
そして大阪城に居座り続けることで、佐和山にいる三成を挑発したのだ。
事実三成は、佐和山城で反家康の大名たちと秘かに連絡を取り合い、決起の準備を進めていた。
 
しかし、それは、ドラマでも描かれていたように、家康のワナであった。
 
そんな西国での駆け引きを、黒田如水は福岡で注視していた。
黒田長政が家康の養女と娶ったことで、黒田家は家康派だと、公開している。
しかし如水の思惑はまったく別であった。
 
ドラマで岡田官兵衛がにやりと笑ったうように、
「わしはどちらにも属さない。我が道を行く。天下を狙う。」
 
つまり、官兵衛(如水)は、黒田家までもを隠れ蓑とし、
家康、三成、その他の諸侯を謀り、そして、計画を実行に移してみせたのだ。
 
そして次回、「天下動乱」へと続く。
岡田官兵衛が生き生きとしてきました。
 
「天下」という野望に向けて、家康との駆け引きが熱を帯びてきました。
 
嫡男 黒田長政は、徳川家康の器量にほれ込み、
一方で、三成への憎悪を募らせていきました。
 
寺尾聡さんの家康が、左目をこするのは、本当の自分を覚醒させたサインなのでしょうか?!
幼い秀頼を見るやさしい言葉とはうらはの、冷ややかな視線に、ぞくっとしますね。
 
ただ、糸姫があまりにもかわいそうで。
熊之助の渡航を止められなかった自分を責め、
また男子を産めなかったからと気鬱になり・・・
 
あの快活で前向きな糸姫がなぜ。。。
やはり長政と離れ離れに暮らしていることが原因なんでしょうね。
 
結局離縁されることになるのですが、
だからと言って、原因を糸姫にもっていくのはどうなんでしょうか?
だから、糸姫を離縁し、家康の養女をさっさと後釜に輿入れさせる理由にしてしまうのは、
同じ女性として、少々納得がいかない思いです。
 
****
 
それでは、歴史豆知識のコーナーです
 
豊臣秀吉が薨去したのは、慶長3年8月18日。
享年62歳、息を引き取る直前まで「秀頼のこと頼み申す」と遺言していた。
遺体は東山の阿弥陀ケ峰の山上に葬られた。

 
有名な辞世の句は、
つゆとおき、つゆと消えにしわが身かな、なにわのことも夢のまた夢
 
秀吉の死後、朝鮮での戦争続行は不可能となり、
五大老による帰国命令が出され、朝鮮の役は終結となった。
 
五大老筆頭の徳川家康と、五奉行の一人で政務を取り仕切る石田三成の対立が深まり、
それぞれが、豊臣恩顧の武将を我味方にと働きかけていく。
 
如水はどちらにも属せず、中津で隠居生活を送っていたが、
元々官兵衛と三成は仲が悪かったこともあり、嫡男、長政には、家康との関係強化を進めている。
 
ちなみに 五大老とは、

徳川家康
前田利家 
毛利輝元
宇喜田秀家
上杉景勝

五奉行とは、
石田三成
浅野長政
増田長盛
長束正家
前田玄以
 
 
朝鮮出兵は、豊臣恩顧の武将たちの内部分裂の原因となっていた。
五奉行、とくに石田三成への反感はすさまじく、
福島正則や細川忠興、加藤清正、黒田長政らは
「奸臣三成め!」とあからさまに口にするようになっていた。

というのも、石田三成は朝鮮の役において秀吉の命令で現地視察し、
味方の武将達の軍役レポートを秀吉へ提出したのだが、讒言に近いものだったからだ。

たとえば、勇猛に戦った加藤清正達の功績を、「軍令に従わない」と歪めて報告し
そのため、秀吉が清正に蟄居申し付けたという騒動まで引き起こしている。
被害者は官兵衛だけはなかったのだ。

 
家康が、秀吉公亡き後、招集された始めての五大老会議で
真っ先に取り決めたのが、朝鮮からの日本軍の撤退だったことで、
戦に疲弊した武将たちの心を一気につかみとっていた。
もちろん、戦略もあったでしょうが、家康の戦国武将としての人格だと私は思っている。

 
異国の地で命をかけて軍役に従事し、
しかしその功績も評価されず、俸禄も与えら得ない武将や兵士達の憤懣を汲めたのも、
もちろん戦略もあっただろうが、家康自身が戦国武将として幾多も戦場で修羅場を経験したからであろう。

経理畑でそもそも武人でない三成に、その機微を理解することができなかったのだ。
結局、戦下手の三成は、やがて関ヶ原でそのことを痛感することになる。
 
博多港での面白いエピソードがある。

朝鮮から日本へ帰ってきた諸侯を石田三成は博多で直々に出迎えた。
しかし、加藤清正たち諸侯は、そんな三成を憎悪の目で見返し、
三成が、諸侯の慰安のため「茶会を開く」と誘っても無視した。


しかし、伏見で家康が開いた慰労のための茶会には揃って参加。
「家康公のお陰で地獄の異国から帰郷できた」と深い恩義を現している。
 
そんな家康の三成の間を取り持ったのが五大老の一人、前立利家である。
ところが、
慶長4年(1599年)、豊臣政権の大黒柱、前田利家が病死した。
石田三成を「奸臣!」と憎悪する福島正則ら武闘派七武将が、三成征伐のため挙兵した。

黒幕は、・・・徳川家康 

大軍に囲まれ絶体絶命の三成は、捨て身の作戦をとる。
すなわち、陰の黒幕である家康の屋敷に逃げ込んだのでだ。
 
そして、次回へと続く。
 

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