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秀吉との別れのシーン・・・
官兵衛がリアルに泣いていましたね。
秀吉と共に天下へと駆け上がった官兵衛と、
竹中さんと苦楽を供にしながら、厳しい撮影を乗り越えてきた岡田君、
重なる思いもあったのでしょう。
こみあげる涙が、美しかったです。。。
死期を悟った秀吉は、見舞に訪れた官兵衛に
最期の頼みじゃ、と秀頼の行く末を願います。
しかし官兵衛は、秀吉の手を握り返さず、
断りの気持ちを伝えたのでした。
衝撃を受ける秀吉に、「秀頼様は幼すぎます。天下を収める者には器が必要です。」
天下の器・・・
秀吉は目の前の男が「天下」を望んでいることに気が付いたのです。
「ただ、私は争いのない世にしたいだけ。
殿下は、信長公にこだわり過ぎた・・・。」と
死を目前にした秀吉には、酷な言葉ばかり。
しかし、官兵衛の秀吉に対する忠義心や誠実さが、滲みでていました。
秀吉は
「そなたの望むような天下人になれず、すまなかった」と、静かに頭を下げるのでした。
私は、このシーンをみて、官兵衛が牧師様のようにみえました。
キリスト教の懺悔と悔い改め・・です。
わが子可愛さのあまり、非情な殺生を重ねた秀吉に、悔い改めてもらい、
地獄ではなく天国へと召されることを願ったのではないでしょうか。
地位や名誉欲が希薄な官兵衛が、「天下」を狙った理由の一つが、
迫害されつつあったキリスト教を自由に信仰できるような世の中を望んだのではなか、と
私は個人的に思っております。。。
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それでは、歴史豆知識コーナーです。
慶長2年(1597) 2月、第2次朝鮮征伐、「慶長の役」が始まった。
黒田長政は3番隊1万人を率いて転戦。
母里太兵衛、井上九郎右衛門、後藤又兵衛ら勇猛な家臣達とともに奮闘するも、苦戦を強いられ、
毛利秀元の救援を得て、九死を脱している。
官兵衛も「如水円清」として長政とともに従軍するも、勝ち目のない戦だと見越していたのであろう、
積極的な行動を起こしてはいない。一人でも無事に生きて日本へ帰ることを画策していたのであろう。
同時に、慶長の役における日本軍の暴挙は目に余るものがあった。
戦功の証として、女、子供を含む殺害した朝鮮人の耳と鼻を削ぎ、塩漬けにして
秀吉の元へ届けていた。
その鼻や耳を供養した塚が、京都山科の「耳塚」である。
私もその耳塚を訪れて、背筋が寒くなった。
その時のブログ記事 →
【秀吉公の功罪〜 豊国神社と耳塚】
平和主義者である官兵衛が、秀吉の死後、豊臣家を見限ったのは、
こういう惨劇をたびたび目の当りにしたからでもあろう。
と同時に、黒田家も悲劇に見舞われる。
官兵衛の次男・ 熊之助は、中津城で留守を任されていたが、父や兄とともに戦いたいと、
同年7月、密かに中津城を抜け出し、船をチャーターして朝鮮へと向かった。
しかし日本海で暴風雨に遭い船は沈没し、16歳の若さでこの世を去った。
一緒に船出した家臣、母里吉太夫(太兵衛の息子)、黒田吉松、木山紹宅の三人の若者も溺死した。
母・光は悲しみのあまりに、ほどなく仏門に入ったといわれている。
翌年、慶長3年(1598) 8月18日 豊臣秀吉が伏見城にて死去する。
62歳の人生であった。
亡くなる1か月前の7月4日、徳川家康ら諸大名を伏見城に呼び寄せて、
家康に対して子の秀頼の後見人になるようにと依頼した。
8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。
「秀頼のことくれぐれも頼む。他に望むことなはい。」と、
死の床にありながら、幼いわが子の将来を悲痛なまでに懇願している。
しかし、秀吉の最期の願いも叶わず、再び政情は不安定となり、不穏な空気が漂い始める。
その中心にいたのが徳川家康。
秀吉の死後すぐに、豊臣家を追い落とし自らが天下人となるための策略を、練はじめたのである。
官兵衛もまた、複雑な動きを見せるようになる。
次回「家康動く」へと続く。
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大河ドラマ「軍師官兵衛」
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秀吉の老醜が悲しい・・・
かつて「天地人」で柄本さん演じる秀吉が、おしっこを漏らしたシーンも強烈でしたが、
竹中秀吉もまた「しょんべんを漏らしてしもうた・・」 (涙
秀吉が病に臥せるようになるのは、慶長3年(1598)醍醐の花見の直後からです。
しかし、おそらく慶長元年ごろから病魔に侵されていたと推測されます。
と同時に、秀吉の暴君ぶりも次第にエスカレートしていくのでした。
そんな秀吉の老醜を憐み、最期まで側に仕えようとした官兵衛(如水)。
最大の功労者でありながら、秀吉から冷遇され、三成の讒言で切腹の危機にさらされてもなお、
官兵衛は、心から秀吉が好きで、秀吉への忠義を貫いた武将でありました。
かつては敵であった盟友・小早川隆景を見舞い、
「あの頃はおもしろうございました。」と涙する官兵衛。
チーム秀吉として秀吉を天下人へと押し上げた、蜂須賀小六や、豊臣秀長はすでに鬼籍にあり、
残された自分が、秀吉の最期を見届けたい。
それは、かの盟友達との約束でもあるからだ・・・と思っていたのではないでしょうか。
これぞ、まさしく
「隣人を愛する」、無償の愛。
およそ武将として、軍師として似つかわしくない考えでありますが、
史実をかんがみても、官兵衛はそれを自然に実行していたと思います。
黒田官兵衛の魅力は、文学的な、そして近代的ともいえる、繊細な思考に尽きるといえます。
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それでは、歴史豆知識コーナーです。(勝手に命名しちゃってます)
謀反の罪を着せられ関白職をはく奪され、高野山に幽閉された後
文禄4年(1595)7月15日、豊臣秀次は、叔父である秀吉の命で切腹を命じられ自刃した。
「殺生関白」とレッテルを張られての末路であった。
正親町天皇崩御の日に、喪にも服さず鹿狩りに興じたとか、比叡山内でサルやイノシシを狩り、
その肉を延暦寺根本中堂で食べたとか、妊婦の腹を裂いたとか、百姓を鉄砲の的にした・・等々
かなり誇張された噂話が流布された上の処分であった。
関白から秀次を引きずり降すための秀吉側の策略だと考えられる。
しかし悲劇はそこで終わらなかった。
秀次の幼い子供たち(4男1女)や妻、側室ら39人が、三条河原に引きずり出され、
秀次の首級の前で惨殺されてしまったのだ。
あまりの惨劇に、京雀たちも震え上がったという。
京の瑞泉寺には、秀次とその妻子たちの墓があり、手厚く葬られている。
ちなみに官兵衛であるが、文禄4年当時は、朝鮮の役の休戦中で、日本に帰国していた。
訓導役として仕えた者として、胸が痛んだことであろう。
この当時の官兵衛は、不自由な身体でありながら、何度も朝鮮と日本を行き来していた。
頻繁であるので、年表にて朝鮮出兵と官兵衛の行動をまとめてみよう。
文禄2年(1593)5月 三成の讒言をうけて無断帰国し、秀吉の勘気を解くため、剃髪して如水と号す。
朝鮮での日本軍の苦戦が続き、漢城から撤退を余儀なくされる。
5月、剃髪後の官兵衛を秀吉は再び登用し、朝鮮戦線へと派遣した。
官兵衛は「如水円清」として従軍した。
6月、日本軍は9万3000の大軍で、7000の朝鮮兵が守る晋州城を攻めて勝利を収め、
明との講和交渉に入り、官兵衛ら日本軍は一時帰国する。
この休戦中に、母里太郎兵衛友信の、「黒田節」エピソードが生まれたのである。
(ドラマでも描かれていましたね)
母里太兵衛が黒田長政の遣いで、伏見城下の福島正則の邸宅を訪れた。
太兵衛は酒好きの正則に、酒を無理強いされる。
酒豪であった太兵衛は、逆に「日本号」という槍を頂けるなら、お受けしようと条件をだす。
福島正則の承諾を得ると、太兵衛は並々と告がれた大杯を飲み干し、「日本号」を持ち帰った。
酒合戦に負けた正則は、酔いがさめて真っ青になる。
「あの槍は太閤殿下より賜った家宝であるから返してほしい。」と泣きつくが、太兵衛は一切応じなかった。
「酒は飲め飲め、飲むならば〜日の本一のこの槍を〜〜」という黒田節のフレーズは
太兵衛の逸話がモチーフなのである。
ところで、この逸話には後日談がある。
恥をかかされた格好の福島正則は怒りおさまらず、事態はやがで、黒田長政と正則との対立へと発展した。
大名同士の諍いとなれば捨てては桶にと、官兵衛が事態の収集にあたることとなり、
竹中重利(竹中半兵衛のいとこ)を仲介にして、互いの兜を交換して、仲直りした。
長政は正則に「大水牛兜」を、
正則は長政に「一ノ谷兜」を譲り合った。
そして慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、長政と正則は、友情の証として交換しあった
この兜をそれぞれ着用して、獅子奮迅の活躍を見せることとなる。
朝鮮出兵へと話を戻す。
慶長2年(1597)2月、日本と明の和平交渉は決裂し、再び朝鮮征伐が発動されることなる。
世にいう「慶長の役」である。
黒田長政は、毛利吉成らとともに、3番隊1万人を率いて慶尚道、全羅道、忠清道を進軍した。
官兵衛も「如水円清」として長政と行動を共にしている。
そして、黒田家に悲劇が起こる。
官兵衛の次男・ 熊之助は、中津城で留守を任されていたが、父や兄とともに戦いたいと、
同年7月、密かに中津城を抜け出し、船をチャーターして朝鮮へと向かった。
しかし日本海で暴風雨に遭い船は沈没し、16歳の若さでこの世を去った。
一緒に船出した家臣、母里吉太夫(太兵衛の息子)、黒田吉松、木山紹宅の三人の若者も溺死した。
母・光は悲しみのあまりに、ほどなく仏門に入ったといわれている。
官兵衛や長政の悲しみもまた、深いものがあったろう。
そして次回「秀吉の最期」へと続く。
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はい、遅ればせながらの・・・
岡田官兵衛の剃髪姿ですね〜〜〜。
つるっぱげでも、イケメン岡田君!
本当に、どんな格好をしても、イケメンはイケメンなり。
本当に頭剃ったんですよね?
情報難民だったので、確証はありませんが・・・でも最近のカツラ技術は素晴らしいですから・・・
(どなたか情報乞う)
前回、
三成の讒言で秀吉から蟄居を申しつけられ、切腹の瀬戸際に立たされた官兵衛。
暴君となってしまった秀吉の勘気を解くために、
剃髪して隠居を申し出るのです。そして号を「如水」と改めました。
また官兵衛救出のため、茶々の嘆願書まで用意したおねの根回しも功を奏しました。
秀吉没後のおねの行動をみると、ある意味、官兵衛に匹敵するほどの「女軍師」。
「新たな世継ぎの誕生を血で汚すのですか?」
これ以上の説得力はないでしょうね。
また、官兵衛を慕う諸将の嘆願もあって、官兵衛は許されることとなりました。
そのまま隠居生活に入り、妻と次男と夫婦水入らずの生活を始めたはずでしたが
官兵衛の才能を遊ばせるほど秀吉も、世間もは甘くないのです。
新しい世継ぎ「拾」の誕生は、豊臣家に暗い影を落とすようになってきていました。
関白秀次との確執が、次第に表面化してきたのです。
秀次役の中尾明慶さんが、けっこうはまっている・・!
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それでは、歴史豆解説を・・・
官兵衛が出家して「如水円清」と号したのは、文禄2年(1593)7月のことであった。
三成の讒言により、秀吉の詰問状を受け取った官兵衛は
秀吉の承認もなく 無断で漢城から帰国してしまい、結果、火に油をそそぐ結果となってしまった。
しかし、潔く頭を剃り、反省の意を見せたことで、官兵衛は許された。
ちなみに「如水円清」とは、水の如く清く柔軟という意味で、身の潔白を表現するには最適の言葉であろう。
由来は、孫子からの引用や、「ドン・シメオン」という洗礼名からだとも言われている。
さてドラマでは、官兵衛の助言を受ける秀次の姿が描かれているが、これはある意味当たっている。
官兵衛と関白秀次は、因縁浅からぬ関係があった。
実は、官兵衛は剃髪する前年の文禄1年7月、
朝鮮征伐に従軍中の官兵衛は、秀吉の命で一時帰国する。
そして秀吉から、関白・豊臣秀次の「訓導」という役目に任じられたのである。
茶々との第一子「鶴松」を失った秀吉は、自分の老齢故に世継ぎをあきらめ、
甥の秀次に関白職を譲り、聚楽第の当主の座も与えた。
しかし、若気の至りか、天下人の後継者となった途端に、秀次は京で遊興に浸るようになる。
官兵衛は、秀吉はじめ諸侯やその家臣たちが、朝鮮征伐に従軍し苦労をしているというのに、
秀次が名護屋城へと下向もしないことを、強く諌めたという。
官兵衛と秀次の興味深いエピソードが伝わっている。
秀次は官兵衛相手によく将棋をさしていた。
ある時、秀次が官兵衛に「自分自身の器量をどれくらいと思っているか?」と尋ねた。
官兵衛は「中の位」と答えた。
なぜなら自分(官兵衛)は、秀吉のような天下をとる「上」の器量はないが。
自分の領国ももっているので「下」ではない。と回答したという。
自分の立場をわきまえて客観視する大切さを、官兵衛は教えたかったのであろう。
官兵衛の役割は、
ただ一人の甥っ子である秀次を、官兵衛の指導で、一人前の武将として導くことであり
秀吉の親族へのやさしい愛情であったのだ。
ところが、翌年、茶々が第2子の「拾」(後の秀頼)を産んだことで、
状況は一変してしまう。
誰でも、自分の血を分けたわが子を後継者にしたいであろう。天下となれば尚更だ。
官兵衛が再び朝鮮へ渡った直後から、秀吉はあからさまに秀次失権を画策するようになる。
しかし、一度譲った「関白職」を勝手に簒奪するなど、筋が通らない。
そこで、秀次側に原因があると、吹聴し始めるのである。
いわゆる「殺生関白」のプロパガンダである。
豊臣秀次(1568〜1595)
秀吉の姉 とも の長男で、秀吉の甥。
幼少期に、織田信長の命令で、浅田長政の家臣・宮部継種の養子として人質に出された過去を持つ。
浅井滅亡後は秀吉に従い、数々の戦場でそれなりの武功をあげている。
次回は、関白秀次の悲劇から、慶長の役へと・・・そして秀吉の最晩年を描きます。
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鶴松を失った秀吉は、「明の征服」のため、朝鮮出兵の準備に取りかかります。
老齢に差し掛かり、イエスマンで側近を固めた秀吉は、段々と精神の均衡を失いつつありました。
竹中直人さん演じる秀吉が茶々に甘える姿など、さすがはまり役!としか言いようがありません。
われらが官兵衛は、当初からこの朝鮮出兵には反対でした。これは事実です。
しかし、そんな官兵衛の言葉は、石田三成ら側近の壁により、阻まれてしまうのでした。
すこし気になるのは、石田三成の描き方です。
田中圭さんは、本当にうまい俳優さんだと、以前から注目していましたが、
怜悧で小賢しい三成を「小物」として描きすぎではないでしょうか。
まあ、個人的に三成が好きなので、あまりにも「卑怯者」に描かれることに、
やや違和感を覚えてしまいます。
やっぱ、個人的には、天地人の小栗旬さんの石田三成が一番好きでした。
官兵衛を讒訴するのも、ドラマでは官兵衛をはめて失脚させるためのワナとして描かれていますが、
元来、石田三成は、嘘や不誠実をもっとも嫌う、堅苦しいほど生真面目な男です。
讒訴もおそらく、官兵衛を陥れるためではなく、
三成にしてみれば、戦場で囲碁に興じる官兵衛の態度に、本気で怒ったからではないかと思っています。
しかし、その言葉が的を得すぎているため、
言われた相手はプライドをへし折られて、三成を憎むようになったもの確かです。
まあ、官兵衛は、人物眼が優れていたので、三成の人物像などとうにお見通しで
片腹痛い限りであったでしょう。
だからこそ、冷静に次の手を打てたのだと思います。
自分の非を認め、官兵衛に泣きついた小西行長を許し、
和平交渉を独断に進める岡田官兵衛のニヒルなお姿が、かっこよかったです!
では、歴史の豆知識を・・・
晩年の秀吉は愚行、愚策が目立つようになりますが、
その中でも最も愚かしい「朝鮮征伐」。
私が今まで観た大河ドラマではほとんど触れられていなかったのですが、
今年の大河は、かなり踏み込んで描いていました。
***
日本が外国へ攻め入るのは、天智2年(663)白村江の戦以来のことである。
明帝国を征服するという誇大妄想に取りつかれた秀吉であったが、
天下統一後、大名立の領土欲を満たすために、外地へとその矛先を向ける目的もあった。
文禄元年(1592)4月、
肥後国の名護屋城から、約15万にも及ぶ大軍が日本海を渡り、釜山に上陸した。
日本軍の編成は、9組の部隊で構成された。うち1〜3番が先鋒隊となった。
すなわち、
1番隊 小西行長
2番隊 加藤清正
3番隊 黒田長政
いずれも猛者で知られる武将たちである。
官兵衛は終始、朝鮮出兵に慎重論であったが、いざ出兵となれば、
最前線へと嫡子と家臣たちを送り出したのである。
官兵衛ももちろん従軍している。
朝鮮派遣軍 15万人の総司令官、宇喜多秀家が率いる8番隊の参謀兼後見役であった。
秀吉は、21歳の経験不足な養子・秀家のために、官兵衛を参謀につけたのである。
先鋒の3部隊は、釜山から3路に分かれて、首都・漢城(現ソウル)を目指した。
特に、小西行長の1番隊と、加藤清正の2番隊による先陣争いはし烈であった。
二人はいわゆる「犬猿の仲」であったのだ。
3隊はそれぞれ快進撃を続け、5月初旬には、漢城を占拠した。
しかし、朝鮮軍の巻き返しを受けて、その後、戦況は停滞しはじめる。
8月、宇喜多秀家は、緒戦の武将を漢城に召喚し、官兵衛とともに軍議を持った。
そこで、小西行長と官兵衛の間で、今後の進路を巡り激論が交わされた。
(このあたりも、ドラマはしっかりと描いていましたね)
小西行長は、このまま一気に明国の国境まで進撃すべきと主張し、
官兵衛は、兵站を保つためにも、漢城を拠点として戦線を縮小し明の来襲に備えるべきだと慎重論を唱え
二人の意見は真っ向からぶつかった。
軍議に参加した諸将は官兵衛の慎重論を支持し、実際の戦況もまた、官兵衛が予測した通りとなった。
しかし、秀吉は明へ攻め込まない官兵衛の方針を良しとせず、官兵衛の帰国を命じたのである。
文禄2年(1593)に入り、戦況はますます不利となってきた。
朝鮮官軍や義兵軍のゲリラ攻撃を受けて、日本軍は次第に孤立してくる。
また、朝鮮半島の冬の寒さは兵糧不足も兵の士気を低下させた。
日本の兵士たちは、異国での終わりの見えない戦に、厭戦気分が蔓延し、かつ、帰国願望が
次第に募ってきた。
そんな日本軍の立て直しのため、秀吉の命をうけて、五奉行の一人である浅野長政とともに
再び官兵衛は朝鮮へと向かった。
漢城には、石田三成、増田長盛、大谷吉継の3奉行も派遣されていたが、
官兵衛とは意見があわず、対立してしまう。
このとき起こったのが、「三成讒訴事件」である。
石田三成ら3奉行が、情報交換のために官兵衛の宿舎を訪問した。
このときちょうど官兵衛は、浅野長政と囲碁に夢中であった。
官兵衛は軍師らしく碁の愛好者で集中しすぎて三成らにすぐに対応できなかった。
待たされた三成は激怒して、このことを秀吉へ讒訴する。
秀吉から詰問状を受け取った官兵衛は、釈明のために無断で帰国してしまった。
無断帰国が秀吉の逆鱗に触れてしまい、官兵衛は出仕を差し止められた。
蟄居=切腹を命じられる可能性もあった。
官兵衛は再び絶体絶命のピンチに陥ったのである・・・
そして・・・
如水が誕生するのである。
次回へと続く。
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軍師官兵衛のお題に入る前に・・・・
とらほー!
阪神タイガース、クライマックスシリーズ制覇、おめでとう!おめでとう!
日本シリーズも頑張れ! 応援するよ ・・・・
それでは、感想に行きたいと思います。
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天下人となった秀吉は、淀君と鶴松溺愛のため、人格が崩壊しつつありました。
今回のドラマで、不覚にも涙がでたのは、
秀吉の実弟、豊臣秀長が官兵衛と利休に兄秀吉のことを頼むシーンでした。
豊臣秀長(小一郎秀長)が、大和郡山城で病没したのは、天正19年(1591)正月22日。
小田原征伐の翌年、朝鮮出兵の前年でした。
よく言われているように、秀長の死で、豊臣家の何かが変わり、
内部の亀裂は深まり、金箔で飾られた表向きの姿とは真逆に、何一つ幸せなことは
起きなかったといえます。
秀長は利休と官兵衛とも仲がよく、
特に利休は「うちうちのことは利休に、おおやけのことはこの小一郎に申されよ」と
豊臣恩顧の大名に伝えていたという手紙が残っていますので、
間違いはありません。
また官兵衛と秀長は、中国大返しから山崎の合戦まで、共に命を懸けて行軍した間柄。
深い信頼関係があったと思います
その秀長の死により、秀吉の暴走はますます拍車がかかってきます。
ドラマ同様、石田三成の存在もあり、
もはや利休の言葉も官兵衛の言葉も、秀吉の耳には届かなくなり、
それは、すなわち豊臣家の崩壊と新たな戦の幕開けとなっていくのでした。
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千利休が、秀吉の茶頭の役目を解かれ、堺への蟄居を命じられたのは、
豊臣秀長の死からわずか1ヵ月後、1591年2月のことであった。 秀吉からの突然の不興。 その理由として、大徳寺の山門に自分の木像を安置して秀吉をくぐらせたから、だとか、
茶に対する考えの違いから、また政治に口を挟みすぎたから、等々諸説あるが、
真相はいまだはっきり分からない。
私の愛読書である「花鳥の乱〜利休の七哲」(岳宏一郎先生著)では
利休亡き後秀吉から「天下の茶匠」に指名された古田織部が、
秀吉に対し 「居士(利休のこと)の茶の何処がお気にめさなかったのか?」と問いかけたとき
秀吉が
「坊主めは、茶を飲ませるたび、わしを殺した」
と応えるくだりがある。
たぶん、秀吉と利休が蜜月を築き上げた茶室のなかで、
積もり積もった些細な言葉や態度の蓄積が、秀吉の心を病ませていったのだろう。
蟄居を命じられ、
利休は茶道具もそのまま、聚楽第側の京都・葭屋町の利休屋敷を出て、伏見から淀川を下る船に乗るとき
利休七哲の二人、細川忠興と古田織部だけが見送った。 他の大名達は、秀吉の怒りをはばかり恐れて見送ることができなかったのだ。 ただし史実には書かれていないが、利休に心酔していた官兵衛は、
間違いなく何らかの接触を試みていただろう。
(官兵衛は利休の弟子であることを誇りとしており、
後に利休の教えに基づく「茶の湯三か条」を定めているほどだ。) 利休は堺での蟄居の間、2本の茶杓を作った。
そしてその2本を、秀吉の勘気を恐れず見送ってくれた、忠興と織部へ与える。 己の命運を悟った上での形見わけであった。 細川忠興へ贈られた茶杓の銘は、「ゆがみ」
そして古田織部への茶杓の銘は、「泪」 私は細川家の家宝として伝わっている「ゆがみ」の実物をこの目で見たことがある。
何の意匠もない小さい茶道具でしかないのですが、
でも、まるで雷に打たれたような衝撃を受けた。 利休の強靭な精神がそこに確かにあったからだ。
だから、「坊主めは、茶を飲ませるたび、わしを殺した」
という小説の一文が、一番しっくりとくる。
「ゆがみ」とは
それは、権力者のゆがみ、権力にこびへつらうもののゆがみ、人間の本来の心のゆがみであろうか。
「泪」とは
残された家族への泪、弟子達の泪・・・ 小さな茶杓に、利休は万感の想いを込めたに違いない。
利休は秀吉より再び京への出頭を命じられ切腹を申し付けられる。
1591年4月21日、利休切腹。享年70歳
利休の首は一条戻橋で梟首された。
しかも、大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたといわれている。 むごい仕打ちである。
利休の死の頃より、
秀吉の残忍さが際立つようになり、あの快活で人たらしの秀吉が徐々に失われていく。 尚、利休の妻子は、秀吉からの追討命令で命も危険な状況になるが、
北政所、徳川家康、そして会津へ転封された蒲生氏郷の庇護を受け隠棲。無事に生きながらえた。 ところが蒲生氏郷の懸命な援助活動が要因となり、三成によって暗殺されたとも噂された。 また、利休の妻子の救助に、おねと家康が関わっていたことも注目だ。 このころから、おね(北の政所)は、家康を頼るようになっていったと思われる。
豊臣家内部の亀裂が深まると同時に、
秀吉は新たな野望を抱くようになる。
「明の制圧」である。
小田原征伐による天下統一の基盤も定まらぬというのに、朝鮮出兵の準備に取り掛かった。
日本が大陸に攻め込むのは、天智2年(663)の「白村江の戦い」以来のことである。
中国の大国・明を征服するなど、当時、戦国の後始末で疲労した日本の国力から考えれば
妄想でしかない。
しかし、天下統一を成し遂げた結果、大名達の不満が高まらないよう、彼らの領土欲を
海外に求める必要もあった。
また溺愛していた鶴松がわずか3歳で夭折してしまったことも、
孤高の天下人を戦へと駆り立てていた。
秀吉は、子は望めぬと諦めたのか、家督も関白職もを甥の秀次に譲り、自身は「太閤」と称す。
そして鶴松の死という悲しみから目をそらすため、 自身も海を渡り、大軍を指揮するといきまくのであった。 官兵衛は、一環して慎重論者であった。
が、もはや秀吉を止めることはできない。もしとめたら秀吉の暴走は違う方向へ向かったかもしれない。
秀吉の軍師として、官兵衛もまた、不自由な足でありながら、
朝鮮へと渡航するのである。
上記は 「肥前名護屋城図屏風」 名護屋城博物館蔵 である。
築城は1591(天正19)年に始まり、諸大名による 割普請 によってわずか数ヶ月で完成したといわれている。
面積は約17ヘクタールもあり、当時では、大坂城に次ぐ規模であり、 金箔を施した豪華な天守閣は、まさに天下人の城であったことを表している。 文禄元年(1592)4月、15万に達する日本の大軍は、日本海を渡り釜山へ上陸した。
これが「文禄の役」の始まりである。
日本軍の構成は9組の部隊からなり、
先鋒の1〜3番は
1番隊 : 加藤清正
2番隊 : 小西行長
3番隊 : 黒田長政
が命じられた。
若干24歳の長政が、3番隊長に抜擢されている。やはり戦場での勇敢な戦いぶりが評価されたのだ。
我らが官兵衛は、秀吉の養子で8番隊長である 宇喜田秀家の参謀兼後見役を命じられている。
実は、この宇喜田秀家、朝鮮派遣軍の総司令官でもあったが、21歳と若く、
秀吉が配慮して、経験豊富な官兵衛を軍師として付けたのだ。
しかし、官兵衛にとって、そして黒田家にとって、
朝鮮出兵は大きな試練が待ち受けていた。
次回、官兵衛が三成の讒言ではめられるシーンがちらりと出ていました。
人間関係の難しさ、溝の深さ・・・
三成がある意味、道を誤った瞬間でもあります。
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