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皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

大河ドラマ「軍師官兵衛」

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                                        (小田原城から石垣山一夜城を望む 2014.7.20 撮影)
                                     
  
官兵衛 vs 三成 
秀吉 vs 家康
秀吉 vs 利休
おね vs 茶々 etc
 
天下統一という偉業のあちこちで、ひびが入り始めた権力闘争と人間関係・・・
秀吉に捨てられた竹筒を持ち帰り、
「ヒビもまた一興なれど、政事では不要。とりかえしのつかない事になるまえに、なんとかせねば・・」と
豊臣政権の基盤の弱さに憂慮する、官兵衛と利休・・・
 
ともに秀吉の寵愛で台頭しながら、次第に疎まれる存在となる二人の、
今後の命運もまた、真逆のものでした。
 
夕暮れの茶室の二人のシルエットが、実に意味深で印象深く、
これから起こるであろう悲劇の数々を予感させる見事な演出でした。
 
おそらく史実にあっても、この当時の官兵衛の憂鬱は、maxであったろうと想像されます。
 
それでは、今回は「小田原征伐」について、官兵衛の活躍を中心に解説したいと思います。
 
************
 
秀吉は関白の名前で「惣無事令」を発し、大名間の闘争を禁止した。
その命令に真っ向から反対したのは、東北の伊達と、関東の北条。
特に北条は 真田の支城・名胡桃城を奪い、「惣無事令」に違反したことで、秀吉の大義名分整った。
(ちなみにこれは、北条氏に仕掛けた真田昌幸のワナだと推測されます)

天正18年(1590年)3月。
秀吉の発令のもと、大軍が京を発した。21〜22万の未曾有の大軍である。
 
秀吉は小田原を包囲し、6月には近くに石垣山一夜城を築き、周囲の支城を次々と陥落させていった。
対する後北条軍は5万6000人余り。
しかし小田原城は、上杉謙信や武田信玄ですら落とせなかった難攻不落の城。
北条氏政と氏直親子は、籠城して頑強に抵抗した。
が、家中の意見が割れて、撃ってでるでもなく、いたずらに時間が過ぎていった。
これが「小田原評定」である。
 
かといって秀吉も小田原城を力攻めすれば、「窮鼠かえって猫を噛む」のごとく、
味方の被害も甚大なものになるであろう。
 そこで、秀吉は官兵衛に、得意の調略を行うよう命じたのである。
 
緊迫した状況にありながら、、官兵衛がまず行ったのは、
北条氏政・氏直親子に、「籠城をねぎらうため」と称して、酒2樽と糠漬けの肴を贈ったのである。
 
ところが敵もさる者、
「寄せ手も長陣お疲れであろう。これで我が城を攻められよ」と
砲弾用の火薬と鉛を返礼として送り返してきたのである。
 
ウイットに富んだやり取りの後、
官兵衛は、無刀・肩衣袴姿で、小田原城へ単身説得に赴いた。
 
官兵衛は北条氏の返礼を見て、彼らの節度の高さを確信したのであろう。
また、北条氏も官兵衛を話せる相手と見込んだのである。
 
直談判の席で、北条氏政は徹底抗戦を主張したが、
息子である北条氏直は官兵衛の説得に応じ、降伏を受け入れる。
 
そして北条氏の家宝である、「日光一文字」の刀と、「吾妻鏡」を官兵衛へ贈った。
信頼の証であった。 
 
特に【吾妻鏡】は「北条本」と呼ばれる一級品である。
降伏後、門外不出の家宝が成り上がりの秀吉の元に渡るのが嫌であったのかもしれない。

官兵衛の説得後、北条氏直は秘かに家康に降伏を申し入れた。
氏直の妻は家康の次女で、家康にとっては婿にあたる。

天正18年7月6日、小田原城は無血開城となった。
降伏に際し北条氏直は、自分の命と引き替えに、父、氏政と城兵の助命を求めたが、
秀吉は氏政に切腹を命じ、氏直は高野山へ追放された。

戦国の風雲児、北条早雲以来5代続いた小田原北条氏は,
ここに滅亡したのである。
(ただし北条本家は滅びたが、他の一門は助命され、北条氏規の子孫は細々ながらも長く続いた。)


ドラマでは、秀吉が降伏の条件を違えた事に愕然とする官兵衛の姿が描かれていたが、
秀吉が島津や伊達に比べて、北条氏に厳しい態度を取ったのは、訳がある。

後北条五代、北条氏直は、徳川家康の二娘、督姫を娶り北条徳川家は強固な同盟関係を築き、
下野、常陸へ勢力を拡大してきた経緯があるからだ。
家康を恐れる秀吉にとって、北条氏の滅亡は家康の地盤を削ぐことになるからだ。
その徳川家康が秀吉の名代として小田原城に入城した。
秀吉は、小田原攻めの論功一番と、北条氏の領土はそっくり家康へ与えた。

しかしその代わりに家康の駿・遠・三の三国は召し上げられ、
豊臣恩顧の武将へ細かく配分されました。
徳川へのあからさまな牽制策だ。
石田三成の策略とも言われ、秀吉らしからぬ姑息なやり方は、
三成VS家康の溝をますます深めていく。

尚。ドラマでは描かれていないが、
黒田官兵衛と小田原征伐には、「松田違い」という興味深いエピソードがある。
 
小田原無血開城の少し前、
北条氏の重臣・松田憲秀と 憲秀の二男 笠原政尭が秀吉に寝返ってきた。
ところが、憲秀の長男・松田直憲が、父と弟の裏切りを主君である北条氏政と氏直に密告したため、
松田憲秀と笠原政尭は捕らえられて、小田原城内に幽閉された。
 
それからまもなく北条氏は降伏し、小田原城は開城されて、幽閉されていた松田憲秀と笠原政尭は
救出された。
 
秀吉は戦後処理として、官兵衛に「松田を誅せよ。」と命じた。
普通に考えれば、寝返りを密告した長男・松田直憲を罰せよ、と考えられるところだが、
官兵衛は、逆に、秀吉に寝返ろうとして幽閉された、松田憲秀と笠原政尭を成敗した。
 
秀吉が責めると、官兵衛は「松田を聞き間違えた」とひょうひょうと申し開きをしたが、
敗戦直前に寝返るような者こそ卑怯者で、武士の風上にも置けないというのが
官兵衛の本心だったようだ。
秀吉もまた同じ考えであったようで、『松田違い』の官兵衛をそれ以上責めることもなかった。
 
 
 
ところで、この時、北条氏同様、関白秀吉の発令を無視し続ける男がもう一人いた。
伊達政宗である。

再三の上洛命令も無視し、また「惣無事令」無視して芦名を滅ぼし会津を分捕った伊達政宗。
 
「伊達家は、鎌倉時代よりの奥州探題の家柄ゆえ・・」という理由で、秀吉への拝謁を拒否し続けた。
秀吉は卑賤の出身。
伊達政宗が振りかざす名門のへ理屈が、秀吉の癇に障ることを知った上での挑発であった。
このとき政宗。若干23歳。
 
小田原に出陣中の秀吉は、北条を討った後で、会津へ出陣すると息巻いた。
しかし小田原の長陣の後、東北へ出陣ともなれば、軍の維持費だけでも相当なもの。
諸大名の負担は相当なものになるであろう。
 
そこで秀吉の側近達は、秀吉の暗黙の了解を得て、
伊達政宗懐柔に取り掛かかった。
特に熱心だったのが、前田利家と浅野長政。
 
利家は自身が戦陣にあっても、
秀吉の圧倒的な軍事力と戦況を知らせ、小田原城はもう落ちる。
落ちてから参陣しても手遅れだ。 と 説き続けた。
 
 
伊達政宗は、そろそろ腹を決めなければ、伊達家の命運も尽きると覚悟をきめた
しかし、伊達家は実母・義姫と実弟の伊達小次郎という内因を抱えていた。
 
義姫は、政宗ではなく弟の小次郎に家督を継がせようと画策していたのだ。
事実「小田原への参陣」の挨拶に、義姫を訪れた政宗は、
母の差し出した膳で、あやうく毒殺されそうになった。
 
危機感を募らせた政宗は、小田原へ出立する直前、
実弟・小次郎を殺害し後顧の憂いを絶った。
家のためとはいえ、同母弟である。 断腸の思いであったに違いない。
 
5月9日、伊達政宗は、側近の片岡小十郎らわずか百人ほどの手勢を率いて会津を出立。
しかし、北条領を迂回して甲斐・信濃路を通ったため、小田原へ着陣したのは、6月5日であった。
 
遅延に激怒する秀吉は、政宗を引見せず、箱根の底倉への監禁を命じた。
そして政宗を見せしめのため切腹させるつもりであった。
 
 
しかし、この絶体絶命のピンチにあって、政宗は
「今生の思い出に千利休から茶を習いたい」と申し出る。
 
ドラマでも描かれていたように、長逗留のため、秀吉は側室の茶々だけでなく
千利休も呼び寄せていた。
 
秀吉の許しを得て利休は、伊達政宗に茶をたてた。
東北の田舎侍と思われていた政宗は、見事な茶さばきで対応し、周りを圧倒した。
 
千利休は、政宗の風雅に魅了され、前田利家や浅野長政も、伊達政宗と秀吉との仲介を続けるうちに
この若者に惚れこみ、秀吉に助命を願いでた。
 
あの目利きな利休からの助命である。
秀吉は、俄然、政宗に興味をもち、直接謁見することとなった。
 
天正18年6月9日、
底倉で監禁されてわずか4日後、
豊臣秀吉は、小田原石垣山本陣で、大勢の大名達と共に、伊達政宗を引見した。
 
 
伊達政宗は、髪を切り、白装束で現われた。
死を覚悟している、というパフォーマンスである。
 
派手好きの秀吉も、お得意のパフォーマンスで対応する。
 
平伏する政宗に向かって太刀(杖とも)を振り上げ、衆目が固唾を呑む中
肩のところでピタリと止め、
「政宗、よく来た!」と一喝し、彼を許したのだ。
 
秀吉と政宗のこのど派手な引見劇は評判となり
政宗は、一躍人気者となった。
政宗は、秀吉に気に入られたものの、侵略した会津を召し上げられることを承諾。
そして他の大名達と交誼をかわし数日後、小田原を風塵のごとく去っていったのだ。
伊達男、そのものである。
 
小田原攻めは、興味深く面白いエピソードがてんこ盛りで、
たった1回では描ききれない。
 
ちなみに、石田三成の「戦下手」を世間に晒した「武州・忍城攻め」は
小説や映画で大ヒットした「のぼうの城」のことです。
 
武州・忍城は、後北条氏の支城の一つで、
周囲を湖で囲まれた難攻不落の城であった。
しかし兵卒は僅か500。
秀吉の大軍2万を陣頭指揮した石田三成は、秀吉に習って水攻めを試みるも、
忍城城代の成田長親は、家臣だけでなく領民の心を掌握し、過酷な戦に耐え切ったのだ。
この成田長親、木偶の坊からとった「のぼう様」と呼ばれていた・・・
 
続きは小説、映画で!本当に面白くお勧めです!
 
次回はいよいよ朝鮮征伐。そして利休切腹も近づいてきました。
竹中秀吉、どこか異常をきたし始めているような、すさまじい表情を見せていましたね。
それでも官兵衛は、最後まで秀吉を裏切ることは出来なかった、その葛藤もまた
軍師官兵衛の見所となってくるでしょう。
 
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(浅井茶々)
 
録画を観たのですが、
前回ご紹介した秀吉が官兵衛を「次の天下人」として恐れるエピソードが、
ほぼ史実に近い内容で冒頭、描かれていましたね。
 
(前回のブログ内容)
秀吉が「自分が死んだら誰が天下を取ると思うか?」と側近に問いかけた。
側近たちは「前田利家殿、毛利輝元殿、徳川家康殿」等々名前をあげるが、秀吉は
「お前たちは見る目がない」と笑いながら否定した。
そして「自分が死んだ後、天下を取るのはあの禿オヤジだ。」と官兵衛の名前(あだな)を挙げたのである。
 
 
唯一違ったのは、
竹中秀吉が、「あの禿オヤジだ!」といわずに、「黒田官兵衛だ!」と言ったところぐらいでしょうか(笑
 
イケメン、ジャニーズの岡田君ですから、そこは仕方ないかな・・
 
ただ、官兵衛がはげてしまったのは、有岡城での幽閉が原因なのです。
栄養不足に加えて、過度のストレスから頭髪が抜け落ちたのです。
 
歴史に詳しい岡田准一くんなら、もしNHKから「ズラでもいいでしょうか?」と依頼されれば
きっと引き受けたことでしょう。
有岡以来、顔のあざ(これも史実です)と足を引きずる演技を、ずっと続ける岡田君の俳優魂は
今年の大河ドラマに、厚みと深みを加えてくれています。
 
さて今回ですが、
茶々をめぐる豊臣家の内情について、簡単に説明します。
 
天正15年(1587) 秀吉は京都に「聚楽第」を建てる。
これは、関白となった秀吉が、貴族として構えた邸宅であった。
翌、天正16年4月14日には、後陽成天皇が、この聚楽第へ御幸され、華々しく饗応。
その席で、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせている。
天正16年から秀吉の側室となった茶々が、懐妊した。
懐妊を喜んだ秀吉から山城国の淀城を賜った茶々は、「淀の方」と呼ばれるようになった。
天正17年、茶々が 鶴松を生む。
秀吉は、初めての嫡子である鶴松を、自分の後継者に指名した。
お世継ぎの生母として、茶々の権威が益々盛んとなる。
 
ところが、天正19年(1591)、わずか3歳で鶴松が夭折してしまう。
秀吉は嘆き悲しみ絶望のどん底に突き落とされた。
まだ54歳ではあったが、もはや実子は望めないと、自分の甥である秀次に関白職を譲ってしまう。
今で言う、後継者指名である。そして秀次は、聚楽第の当主にもなった。
 
豊臣秀次は、秀吉の姉・とも の長男で、実子のいなかった秀吉の養子となった。
織田信長と浅井長政が対立したとき、幼い身でありながら、長政の家臣・宮部継潤の元へ
人質として養子に出されている。
浅井氏が滅んだ後、奇跡的に帰還し、秀吉に従い、賤ケ岳の戦い、四国征伐、小田原征伐にも従軍し
それなりの武功を上げている。
つまり、秀吉から後継者指名されるまでの秀次は、それなりの評価を受けていた人物であったのだ。
 
しかし、「天下人の後継者」という立場が、秀次の人格を変えてしまう。
実は、我らが官兵衛も、関白秀次と関わりをもつことになる。
 
文禄元年(1592) 文禄の役(第一次朝鮮征伐)で、秀吉の勘気に触れ、朝鮮からの帰国を命じられた官兵衛は、
帰国後、秀吉の命で、関白秀次の「訓導」という役目に就く。
 
天下人の秀吉が、老骨に鞭打って、名護屋城で朝鮮征伐の指揮に全力を傾けているというのに、
秀次は、関白という要職にありながら、京で遊興三昧の日々を送り、秀吉の居る名護屋城へ
一度も下ろうとはしない、それはどういう了見なのか?
と、官兵衛は、秀次を厳しく諌めているのである。
 
官兵衛は、秀次の傲慢な態度に、危険を察知していたのであろう。
 
そして、官兵衛の悪い予感は、当たってしまうのである。
 
鶴松の死からわずか2年後の文禄2年(1593) 、淀は第2子・お拾(後の秀頼)を産む。
秀吉ならずとも、血の繋がった我が子を後継者にしたいと考えるのは当然だ。
 
(うるさい?)官兵衛が再び朝鮮へ渡った後、秀吉は、秀次の追い落としを図るようになる。
鶴松逝去で絶望したからとはいえ、一度、世継ぎと決めた後継者を、わずが2年で交代させるためには、
体面上、それなりの理由が要る。
そこで「殺生関白」という話が、まことしやかに流布されることとなるのである・・・
もちろん、茶々の後押しもあったであろう。
しかし、自身の甥っ子でただ一人の姉の息子を、追い詰める秀吉の姿もまた、異常であったろう。
おねの心労もまた、計り知れないのである。
 
(続きはドラマの進行に合わせてまたご紹介します)
 
ところで、茶々の息子達であるが、秀吉の種ではなく、不義の子だという噂は
当時から密かにささやかれていた。
 
 
正妻、おね だけでなく何百人もいた(300人超えていたらしい)
側室をもちながら子供が授からなかった秀吉なのに、老齢にも関わらず、
何故か茶々だけが身ごもったというのは、できすぎた話だからだ。
 
また、秀頼は、秀吉に似ず、長身で(180cmもあったそうだ)、大柄色白の
かなりの美男子だったことも、疑惑を助長している。
 
石田三成が怪しい、という声もあるが、
忠義に篤く、生真面目な三成が、よもや主君の側室に手を出すとは考えられない。
 
しかも若く美しい茶々は、しかしその高貴な出自ゆえに深窓の奥方であり、
秀吉の目を盗んでの不倫は容易ではなかった。
淀君に近づけた男性は、そう多くはいない。

 
 
もし不義の子であるとすれば、最も怪しいといわれているのは
大野治長 という秀頼の側近。
茶々の幼馴染でもある。
そして彼の人生を知ると、茶々との初恋から禁じられた関係、そして永久の愛を
つい想像してしまう。
 
大野治長(大野修理亮) 1569 〜 1615年
 
大野治長は、茶々の乳母、大蔵卿局の子供で、近江の小谷城で育ち
茶々とは幼馴染であった。
茶々が秀吉の側室になると、馬廻衆として秀吉取り立てられ、
秀吉亡き後は、豊臣秀頼の重臣として仕えた文官である。
 
秀吉亡き後、徳川家康と石田三成の権力闘争に巻き込まれ
「徳川家康暗殺疑惑」の首謀者の一人として、下野国へと流罪となってしまう。
 
翌年、関が原の戦いでは、家康の監視下にあったため東軍につき、
上杉討伐に参戦したこで、家康より罪を許される。
しかし、豊臣家への忠節絶ち難く、また茶々への思いもあったのだろう、
家康の使者として大坂に入った後、江戸には帰らず、再び、秀頼の側近として
大坂城に居残ってしまう。
 
1614年11月、大坂冬の陣。
茶々の意向もあり、家康との和議を進める。
ところが相手は狸おやじの家康だ。
翌年、大坂城の堀が埋められる結果となり、治長の詰めの甘さに非難が集中する。
戦術をめぐって 真田幸村と対立したのも、この男である。
 
1615年、大坂夏の陣では万策が尽き、
家康の孫で、秀頼の正室であった千姫を助けることを交換条件として
豊臣秀頼と茶々母子の助命を家康に懇願している。
しかし、すでに勝利を確信していた家康はこれを拒否。

慶長20年(1616) 5月20日
大坂城内の山里曲輪で、大野治長は、秀頼、茶々とともに自害して果てた。
享年47歳。
 
家康への最後の懇願といい、茶々と秀頼への特別な愛を感じてしまう。
 
 
 
もし、秀頼の本当の父親であれば、愛する女と共に命散らすのは、本望であったのかもしれない。
 
おそらく、再来年の大河ドラマ「真田丸」で、必ず登場する人物です。
 
 
 
 
さあ、次回は北条征伐!
それまでに、小田原城登城記が書けたらいいのですが・・・(たぶん無理かな)
 
「軍師官兵衛」の記念すべきオープニングのシーンです。
楽しみにしたいですね!

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(小田原城 2014年7月20日撮影)
 
9月後半は公私共忙しく、初めて小学校から「ショーカン!」 (呼び出しです) されたり・・・
おかげて週末は朝から予定が入っていたため、ブログ更新ができませんでした。
そこで今回は2回分の史実を簡単に駆け足で紹介して、感想に替えたいと思います
***
まずは年表で官兵衛と黒田家の動きを追ってみよう。
天正15年(1587) 7月 九州征伐の功労として、豊前国12万石を与えられる。
同年  9月  京都一条猪熊に黒田家邸宅を賜る
天正16年(1588) 4月 城井谷城主・宇都宮鎮房を謀殺
同年 10月  毛利輝元に広島築城を進める(縄張りをアドバイス)
天正17年(1589) 5月 家督を長政に譲る   ⇒ 今ここ!
天正18年(1590)3月 小田原征伐   
同年 7月  後北条氏降伏(無血開城)
文禄1年(1592) 5月 朝鮮征伐(文禄の役)に従軍
同年 7月 秀吉の命により帰国。関白秀次の行動を諫める
文禄2年(1593) 2月 再び朝鮮へ渡る。浅野長政と囲碁に興じ石田三成の讒言に遭う
同年 7月 無断帰国して秀吉の勘気を被り、剃髪して「如水」と号する
【家督相続】
九州征伐の最大の功労者である黒田官兵衛と黒田家であるが、秀吉政権にあって
必ずしも順風満帆ではなかった。
秀吉は九州を統一すれば、官兵衛に1国を与えると約束していたにもかかわらず、
実際に与えられたのは、豊前8郡のうちの6郡12万石で、その中には秀吉の直轄領2万石も含まれていた。
黒田家とともに九州統一に貢献した小早川隆景が50万石であることを鑑みれば
確かに少なすぎる。なにより、「播磨」という要所から九州への国替えである。
黒田家と豊臣政権について、噂がたつようになった。
昔から官兵衛と相性が悪かった石田三成の讒言だとか、官兵衛がキリシタンだからなどである。
中でも、知略にたけた官兵衛がこれ以上力をつけることを秀吉が恐れたと、言う者もいた。
実は、これに関しては有名なエピソードがある。
秀吉が「自分が死んだら誰が天下を取ると思うか?」と側近に問いかけた。
側近たちは「前田利家殿、毛利輝元殿、徳川家康殿」等々名前をあげるが、秀吉は
「お前たちは見る目がない」と笑いながら否定した。
そして「自分が死んだ後、天下を取るのはあの禿オヤジだ。」と官兵衛の名前(あだな)を挙げたのである。
官兵衛は、豊前12万石を拝領、はじめは「馬ケ岳城」へ入城した後、
新たに「中津城」を築き城主となっていたが、上方からの噂を聞き、
秀吉が自分を警戒していることを察知して、すぐに手をうたねば、黒田家が危険だと考えた。
そこで天正17年5月に、若干44歳の若さで、家督を長政に譲りたいと秀吉に願いでた。
秀吉もさすがは狸である。
おね(北の政所)のとりなしもあり、しぶしぶ(演技?)、官兵衛の隠居を許した。
しかし、豊前の領地にこもることは許さず、京の邸宅に住まわせて、その後も軍師として
官兵衛を側に置き続けたのである。
秀吉は官兵衛を恐れていたが、手元に置きながら
自身の天下取り、北条征伐でその知恵を利用しようと、企んでいたのである。
九州から遠く離れて手元におけば、黒田家が謀反の挙兵もできないだろうし、
自分が官兵衛を監視もできる。国元は長政に任せればよい。
さすが、ひとたらしの秀吉である。
官兵衛もすべてを読んで家督を譲ったのであろう。
ドラマで官兵衛が茶の湯で密談するシーンが度々登場するが、
あれは史実に基づいている。
関白までのぼりつめた秀吉は、茶会や連歌、能の会など、文芸教養活動も盛んに行った。
特に茶の湯は利休の台頭により、秀吉の家臣の必須の教養となっていた。
われらが官兵衛であるが、実はもともと茶の湯に興味はなかった。
古典に親しむ文学青年でああるが、狭い茶室で主客が無刀で座るのは不用心であるという
いかにも軍師らしい発想で、茶は武士が嗜むものではないと考えていたようだ。
ところが、秀吉の付き添いで茶の会へ(しぶしぶ)出席すると、
秀吉は、その席で茶も点てることなく、政局や戦やら、密談ばかりしている。
いぶかしがる官兵衛の前で
「もし茶室以外の場所で密談をすれば、人から疑いがかかる。しかし茶室だとその心配もない。
これも茶の湯の一徳だ。」と、にやりと笑って言ったという。
官兵衛はなるほど、と納得し、茶の会に出席するようになったそうだ。
もともと古典の素養もある官兵衛である。(だから荒木村重とも気があったのだろう)
すぐに茶道の魅力に取りつかれ、利休、津田宗及、島井宗室、神谷宗湛ら、当時一流の茶人と
交流するようになった。
利休七哲には数えられてはいないが、特に千利休に師事し、
利休の教えに基づく「茶の湯三ケ条」も書いているほどだ。
天正15年(1587)10月、秀吉は北野天満宮の境内で、「北野大茶会」を開催した。
身分、貴賤を問わず、茶の湯を好む者すべての参加を認め、千人を超える人々が茶の湯を楽しんだという。
このとき、千利休は「茶頭」として秀吉とともに茶を点てているが、
前月、京に邸宅を賜った官兵衛も、おそらく出席していたのではないか、と言われている。
千利休は最初信長に仕え、本能寺の変後は、秀吉に仕えた。
そこで秀吉に寵愛されめきめきと頭角を現していく。
秀吉が洛中に建てた聚楽第の中に、屋敷を構えることが許され、3千石の禄も賜っていた。
朝廷とも懇意で、「利休」とは正親町天皇から賜った居士名である。
わび茶のカリスマであり「茶聖」と称され、多くの戦国武将を弟子としていたが、
晩年、70歳の時、突如、秀吉の不興を買い、軟禁された上に切腹を命じられた。
北野大茶会からわずか3年後の1591年のことである。

詳細はまた後日に。
【小田原征伐】
九州平定後、秀吉にはむかう者は、関東の北条氏(後北条氏)のみとなった。
小田原城を居城とする、北条氏政、氏直親子は、秀吉から再三にわたる恭順の呼びかけにも応じず、
徹底抗戦の構えをみせた。
天正18年(1590)3月、秀吉は21万〜22万ともいわれる未曾有の大軍を率いて
小田原城攻撃に出発した。
ところが後北条氏は、わずか5万6000ほどの兵力で秀吉軍に臨んだのである。
数からみれば到底、北条氏に勝つ
見込みはなかった。
しかし彼らの居城は、天下無双の堅城。
小田原城は、上杉謙信も、武田信玄でも落とせなかった、文字通りの難攻不落の城であった。
そこで、軍師・官兵衛の出番である!
(次回・・・!)
豊臣秀次の悲劇もそろそろ描かれることでしょう。
秀吉の家庭内の確執についてもまた次回以降にでも。
今年の夏休みに「小田原城」と
小田原の支城「山中城」へ登城してきました。
 
小田原〜三島 夏休みの旅2014 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/67317339.html
詳しい記事をまだ書けてないし・・・
いつになるやらわかりませんが頑張ります
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高山ユスト右近様・・・今回で最後の出演だったのですね。
生田斗真くん、右近様にとても似ていて、最期まで観たかった。
 
右近様がルソンで亡くなるまでの波乱の人生については、下記過去記事をご覧ください。
 
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/58826231.html 『高山右近と高槻城』
 
 
 
秀吉が「わしよりもゼウスを選びよった」と悔しがったシーンがありましたが
おそらく史実も同じだったでしょう。
 
切れ者過ぎる黒田官兵衛をモノホンのキリシタンに改宗させた人徳だけでなく、
戦も強く、前田家で厚遇でもって匿われ、あの金沢城の縄張りは、右近様だと言われているのです。
現地で見ましたが、防除と攻撃どちらも万全に備えられた見事な城でした。
 
そして、以前から誰が演ずるのか気になっていた、小西行長様もご登場されましたね!
最近よく見かける新進気鋭の若手俳優さんです。
 
小西行長と黒田官兵衛の絆も深く、
行長は堺の商人で宇喜田直家に見込まれて秀吉との裏交渉に奔走し、秀吉の家臣となった男。
このときの窓口は官兵衛であったと想像され、長い付き合いでもあります。
 
関が原に行った時、小西行長陣跡一面に咲いていた紅色の花畑が忘れられません。
小西行長もまたキリシタンとして生き、キリシタンとして死ぬことを望んだ殉教者。
関が原敗戦後、切腹は自殺になるからと、自ら捕縛され処刑されたのです。
官兵衛は小西家の残党を関が原後に召抱えるなど、親交はその死まで続きました。
 
しかし、官兵衛の思いも空しく。
小西行長家臣団の残党を中心に、天草四郎を傀儡とするキリシタンによる一揆=島原の乱が起こったのです。
 
秀吉の「バテレン追放令」以降、キリシタンの苦悩の日々が続くのでした。
 
ドラマでも官兵衛は、秀吉に拝謁するときは、クルスをかけるのを止めていましたよね。
それでも秀吉に従おうとする官兵衛の忠誠心を思うと・・・・
城井谷の悲劇はあまりにも残酷すぎます。
 
 
今回の流れを観ると、
史実をかなり脚色しているようでした。
長政と官兵衛、父子の信頼関係を描くためか?
長政と後藤又兵衛との間に出来つつある溝を強調するためなのか??
 
 
でも、はっきりいえば、史実のほうがエグイです。
 
ネタバレになりますが、今回は『城井谷の悲劇』について、簡単に解説します。
 
************
 
 
天正15年(1587)7月、官兵衛は秀吉による国分けに従い、豊前12万石に入国した。
初めは馬ヶ岳城に入ったものの、領国経営は困難を極めた。
なぜなら豊前城井谷城の城主だった宇都宮鎮房が、秀吉からの伊予への転封の命に従わず、
反旗を翻し、城井谷城に篭城したからである。
前城主の謀反に従い、各地で一揆が勃発し、内戦状態となってしまった。
 
ちなみに、宇都宮鎮房が転封になった理由であるが、
秀吉の九州征伐のとき、出兵の命に対して病気と称して自ら出陣せず、嫡子の朝房に僅かの兵をつけて
送り出したことが、勘気に触れたと言われている。
ドラマでは官兵衛の約束反故が原因として描かれていたが、あの官兵衛がそんなへまをするとは思えない。
(官兵衛なら秀吉から何らかの書状を貰ったであろう。)
 
元々、宇都宮家は鎌倉守護として18代にも渡り豊前を治めてきた名門。
秀吉のような足軽上りに頭を下げることを望まない態度が、秀吉にとって気に食わなかったのだ。
「豊前から四国の伊予への転封」という命令に背き、城井谷城に篭城した。
 
官兵衛ら古参の武将からみれば、
もともと態度の悪い宇都宮家が、改易や取り潰しではなく、
豊前から伊予への転封を命じられたのは、むしろ秀吉の温情に見えただろう。
 
いや、むしろ黒田家のほうが、世間的には厳しい命令に写ったに違いない。
先祖代々の故郷で、京からも近い「播磨」という好条件の国から
遠く離れた九州の豊前、しかもたった12万石で転封されたのだ。
 
黒田官兵衛は、理をもって宇都宮鎮房を説得しようとし時間が過ぎていった。
そのとき、仲裁約を買ってでた男がいた。
秀吉の子飼、黄母衣衆の一人であった毛利勝信である。
毛利勝信は、このとき豊前小倉城6万石を賜っており、実は高山右近の家臣団も引き取っている。
勝信は、宇都宮鎮房に、
「秀吉公にはそれがしから、貴殿の本領安堵の約定を取り付けるから、
しばらくの間、城を出て、我が所領に移って貰いたい」と持ちかけた。
 
宇都宮鎮房はその話に応じるが、しかし一向に本領安堵の話は進まない。
実はこの調停案は、城井谷城を明け渡すために秀吉が考えた謀略で、
毛利勝信にも真実は知らされていなかった。(おそらく官兵衛も)
 
事実を知った鎮房は挙兵し、すでに黒田家の守備塀が入城していた城井谷城を攻め、その奪還に成功した。
官兵衛は、黒田長政に2万2千もの兵を与えて、城井谷城を攻めさせた。
(ドラマと違い、官兵衛の命で長政は動いています)
しかし、宇都宮氏にとって先祖代々住み慣れた土地であり山である。
神出鬼没のゲリラ作戦に悩まされ、長政は敗北してしまった。
 
秀吉は(自分の謀略が無謀だったことは棚にあげて・・)
官兵衛に「何としても、宇都宮鎮房を討て」と檄を飛ばした。
 
追い詰められた官兵衛は・・・
 
 
注意) ここからネタバレです!
 
 
 
苦悩の末、最期の作戦を実行することにする。
 
まず、宇都宮鎮房に和議を申し出た。
当時13歳であった鎮房の娘・鶴姫と、長政の縁談を条件に
「豊前に宇都宮市の領土を確保する」という条件であった。
 
宇都宮鎮房は和議に応じ、官兵衛は長政に命じて、鎮房を中津城へと招いた。
 
天正16年(1588)4月19日 
宇都宮鎮房は手勢200人を連れて中津城に入った。
鎮房の家来たちは、隣接する「合元寺」にて待機した。
翌日、中津城内で、宇都宮鎮房をもてなす宴会が始まった。
ところが、肴を運んできた黒田家の家臣が、突然、宇都宮鎮房を斬りつけ、
側にいた黒田長政がトドメを刺した。
それと同時に、「合元寺」にいた宇都宮家の家来たちも黒田の鉄砲隊により皆殺しにされた。
そして、鎮房の嫡子、朝房は肥後で討たれ、哀れ、13歳の鶴姫は磔に処された。
ここに、名門 宇都宮家は滅ぼされたのである。
 
秀吉の命であり、黒田家を守るためとはいえ、だまし討ちの虐殺行為である。
官兵衛は苦悩し、懺悔したことであろう。
宇都宮鎮房とその家臣の霊を慰めるため、中津城内に「城井神社」と「扇城神社」を建立している。
官兵衛は、この年に馬ヶ岳城から中津城を築城し居城としているので、
自身の城で、我が罪を生涯背負う覚悟であったのだろうか。
 
実はこの悲劇には後日談がある。
 
合元寺にいた宇都宮家の家来たちも黒田の鉄砲隊に討たれたとき、
寺の城壁が血で真っ赤に染まった。
不思議なことに その後壁を城く塗り替えても壁は赤く染まる。
そこでやむなく白ではなく「赤壁」になったという。
現在ものこる「合元寺の赤壁」の恐ろしい謂れである・・・
 
一方、肥後で一揆の鎮圧に失敗した佐々成政(相棒の大谷さん)は 秀吉から失政の責めを受け、
安国寺恵瓊による助命嘆願も空しく、摂津国尼崎にて切腹させられている。
官兵衛が最終手段(だまし討ち)を選ばざるを得なかった理由もここにある。
 
秀吉の暴君ぶりは益々加速していく。
まさに、戦乱の生んだ化け物。
 
官兵衛は自身が「化け物」になり兼ねない「宇都宮鎮房惨殺」という苦悩と苦痛を
どうやって乗り越えるのか、岡田君の演技にも注目したいですね。
 
 
でも・・・
「おふくさんとの別れに涙した私は何だったの〜〜〜(笑 」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 1
竹中秀吉の『化け物』ぶりが、ますます際立ってきて、凄みが増しています。
 
「おお、官兵衛〜!」と以前と変わらないような屈託なく、明るく声をかけるも、
目の奥は、決して笑っていません・・・
 
竹中さんの真骨頂ですね。
 
ちなみに、天正14年、家康上洛での「秀吉の陣羽織」のエピソードは史実です。
家康が秀吉に謁見する前夜、密かに家康の部屋を訪れた秀吉は、家康に「わしに頭を下げてくれ」と懇願し、
二人で一芝居うったのでした。まさに、猿と狸の化かしあい・・・
 
尚、秀吉が家康の上洛を促すため、妹と母親を人質として差し出したのも、史実。
このエピソードはドラマとして描かれていませんでしたが、興味深いので簡単に補足しておきます。
 
 
天正14年、秀吉の妹、旭姫が人質の正室として輿入れしました。
旭は44歳は家康45歳。熟年同志の政略結婚でした。
 
 
面白いのは、家康は旭姫を飾り物の正室として扱ったのではなかったことです。
大切にしたと伝わっています。

家康には数多くの側室がいましたが、高貴な女性好みの秀吉とは違い、
身分の低い女性や、年配の側室も多く美人好みでもなかったようです。
実は旭には、長年連れ添った夫がおりました。
副田甚兵衛(もしくは、佐治日向守)という、橋にも棒にもかからない平凡な男でしたが、
夫婦仲は良く幸せに暮らしていました。
ところが、秀吉により無理やり離縁させられ、その後の消息は不明です。
突然の離縁という上意に怒り、秀吉からの加領の申し出を断わり、切腹したとも言われています。
夫の悲惨な末路に、旭姫は嘆き悲しんだことでしょう。
 
ところが、旭を輿入れさせてもいっこうに上洛してこない家康の煮え切らない態度に、
とうとう秀吉が人質としてさしだしたのが生母の大政所。
秀吉は親戚縁者が少なく、これが豊臣家の政権上の最大の弱点でありました。
秀吉とおねの間には子がいないだけでなく、弟の秀長や旭にも子がいませんでした。
人質として切れるカードが少ないため、実の母親を人質として差し出すという苦渋の決断をしたのでした

母親思いで有名な秀吉が、まさか・・・?
「大政所の替え玉ではないか?」と疑う家康は、旭姫にまずあわせ、その反応確かめたのです。
浜松で対面した母娘は、しかと抱き合い尾張弁で声を掛け合い涙を流していました。
家康は、本物の大政所だと判断し、そこまでするなら、と上洛を決断したのでした。
寺尾聡さんの、家康ぶり。だんだんと本性を現してきましたね!!
天下一の弓取りと呼ばれるほどの戦上巣な上に、権謀術にも長けており、
我らが官兵衛が、彼がもつ叡智のすべてをかけて、人生の最後に覇権を争った男です。
竹中秀吉 vs 寺尾家康の駆け引きも、これからの見所です。
 
で・・・九州征伐。
前回予告を見てのいや〜な予感があたりました。
戦場シーンも、黒田長政や黒田兵の猛勇ぶりもまったくスルーされておりました。
 
なんてもったいない・・・!
 
っつう事で、今回簡単にご紹介したいと思います。
 
 
*********
 
島津攻めの豊臣秀長軍には、黒田長政も従軍していた。
「根白坂の戦い」の数日前、長政は家臣30騎、足軽 70兵余とともに、
島津の家臣・伊集院忠棟が守る「財部城」へ偵察に向かった。
すると、城から敵兵が400余、突然攻めてきた。
多勢に無勢である。
長政は家臣の換言に従い、一旦、兵を引き、反対側の川岸へと撤退した。
 
その様子を、後方の山陣から満足げに眺める官兵衛。
しかし隣にいた石田三成が長政の逃げ腰を冷笑した。
すると官兵衛は、「貴殿は長政が逃げたとお思いか?」と言い、
しばらくすると、追撃してきた敵兵が川を渡り終わるやいなや、
長政は馬首を返して敵兵へと攻め込み、黒田兵も従った、
長政の奮戦に敵は総崩れとなり城へと逃げ帰ったのである。
 
長政は逃げると見せかけて川を渡らせ、敵の退路を断ってから攻め込んだのだ。
息子の鮮やかな戦法を確認した官兵衛は、三成に向かって
「よくご覧になっておかれよ。貴殿が殿を務めるときの手本となるであろう。」
三成は顔を赤らめ返す言葉もなかったという。
 
石田三成は、兵站や行政の手腕はずば抜けていたが、
戦(いくさ)はからっきし苦手であった。
黒田官兵衛は、三成の長所も短所もしっかり見抜いていたのだ。
もし三成が官兵衛を師と仰いでいたなら、わが身だけでなく豊臣家も滅亡させることはなかったろう。
 
 
九州は秀吉によって平定された。
最大の功労者である黒田官兵衛にはそれなりの報酬が与えられるはずであったし、
秀吉も、九州統一後は、黒田家に一国を与えると口約束をしていた。
 
しかし官兵衛に与えられたのは、豊前。しかも、豊前8郡のうちの6郡 12万石だけであった。
しかもその中には、秀吉の直轄地2万石も含まれていた。
 
小早川隆景 80万石や、佐々成政 70万石に比べればあまりに少ない。
 
しかし官兵衛は秀吉の命に従った。
元来、物欲のない男なのだ。(欲深く腹黒いというイメージはあるが、実は真逆だと私は思います)
ところが、与えられた豊前には暗雲が垂れ込めていた。
豊前国・城井谷城の城主・宇都宮鎮房が、伊予への転邦(国替え)に納得せず、 
城井谷に篭城してしまったのだ。
宇都宮家は鎌倉時代から守護として豊前に入邦して以来、18代と重ねた名門。
領民も宇都宮鎮房を慕い、各地で一揆を起こし、官兵衛は苦しい立場に立たされる。
 
そこで、官兵衛は、宇都宮鎮房の13歳の娘・鶴姫と、黒田長政の縁談を持ちかける。
しかし、それは・・・・
 
官兵衛の非情な決断、その苦悩。。。
岡田君ならこの難しい役どころをしっかりと演じてくれることでしょう。
そして、松阪桃李君の長政も・・・。
 
宇都宮鎮房役の村田雄浩さん。
土、食べてましたよ!
故郷を愛する武将への気合が感じられました!
 
戦国の悲劇の姫、鶴姫は誰が演じられるのでしょう?
 
次回も楽しみです。
 
そうそう、茶々姫の独白シーンで、村ちゃん(荒木村重)がちらっと登場してましたね!
やっぱ、迫力あるううう。
回想シーンでもいいので、村重様、またご登場して欲しいです。

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