ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

大河ドラマ「軍師官兵衛」

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
8月最期の日曜日を迎えてしまいました。
いえいえ、8月31日、夏休み最終日ですぅ〜〜〜。
 
な・の・に・・・・
夏休みの宿題が、まだ片付いていないマイサン!
おいおい
 
自慢の嫡子・長政を持った光姫がうらやましいよ〜。
長政は文武両道、
夏休みの宿題は7月中に完璧に片付けて、8月は真っ黒になるまで遊ぶタイプでしょうね。
 
つうことで、マイサンの宿題追い込みしなくちゃいけないので
今回感想は短めに。
イメージ 1
 
蜂須賀小六親分、亡くなっちゃいましたね
チーム秀吉のメンバーとして、早くから黒田官兵衛とコンビを組み、
播磨平定、中国攻め、四国攻めと共に秀吉を支えてきた仲間。
娘の糸姫を長政の正室として嫁がせたのも、官兵衛と小六の信頼関係が強かったから。
 
臨終のシーンで、秀吉演じる竹中さんが、小六の遺骸に馬乗りとなって
「小六、起きよ!起きよ!!」と張り手をかますシーン・・・
ピエール瀧さんの顔を本気で2〜3発はたいていて・・・
ぐーっと我慢して顔を動かさないピエールさんの横顔が妙に可笑しくて、そして悲しくて
泣きながら笑ってしまったワタクシでした。
 
なぜなら・・・
 
ネタばれですが・・・
 
 
 
 
小六が行く末を頼んだ糸姫を離縁させ家康の養女を長政の継室とさせたのは
黒田官兵衛の命令だと言われています。
そして、哀れ糸姫は蜂須賀家へ戻されてしまうのです。
そのため、黒田家と蜂須賀家は絶縁状態になってしまいます。
 
糸姫役の高畑充希さんが可憐で可愛いくて、長政とお似合いなだけに、
なぜ、同士であった小六との約束を違える道を選んだのか?! 
官兵衛と長政の心の葛藤をどう描くのか、注目したいです。
 
そして、
秀吉にとって、尾張の足軽時代から共に戦場を駆け巡った小六と、
そして実弟秀長の早すぎる死はかなりの痛手でした。
(*豊臣秀長は、天正19年正月に大和郡山城で病没します。)
 
この二人のブレーキがなくなってからの秀吉は、歯止めの利かない暴走機関車となってしまうのです。
そして二人の替わりに、ブレーキ役となろうとした官兵衛は、次第に「うとましい」存在となり
秀吉政権の中枢から次第に遠ざけられるのでした。
 
 
黒田官兵衛が秀吉から疎まれたのは、石田三成の讒言が原因だといわれていますが、
私は100%そうだとは思いません。
若輩三成ごときの言葉で、秀吉が惑わされるはずなどないからです。
そこには、秀吉の心に巣食った権力者としての猜疑心という闇の存在があったからでしょう。
 
秀吉の晩年は好きではありませんし、
小六親分が生きていたなら・・・そう思うと、
秀吉と小六の最期の別れのシーンは、涙が溢れてきました。
 
群雄の中、ここに蜂須賀正勝あり。
秀吉の動くところ 正勝のあらざるなく
 
天正14年(1586)5月22日 蜂須賀小六正勝 死去。享年61歳でした。
 
過去記事 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/23320891.html 『蜂須賀小六』
 
 
また、吉川元春の陣中の死も涙でしたね。
 
官兵衛が九州出陣を直に説得したことになっておりますが、
事実かどうかは不明です。
 
ただ、すでに隠居し、家督を嫡子元長へ譲っており、ドラマのように病身であったこともあり、
本来は出陣する予定もなかったのは確かです。
ちなみに吉川元春が隠居したのは天正10年、高松城落城後でした。
毛利といえば鎌倉幕府から続く由緒ある家柄。成り上がりの秀吉に仕えるのが嫌だったと言われています。
しかし、本家の毛利輝元・小早川隆景は秀吉によく仕え、嫡子の吉川元長も、四国遠征に自軍を率いて
出陣していたので、吉川が謀反、という状況ではありませんでした。
 
しかし、官兵衛が説得していたように、
秀吉が吉川元春の出陣を強く要請していた、という事情があり、
天下人になった秀吉の猜疑心を畏れた、小早川隆景と毛利輝元の説得を受けての病身での出陣でした。
 
「命の使い道はある。」
 
官兵衛も密かに説得したのかもしれませんね。
官兵衛も、九州征伐で、毛利が総軍で出陣を決めてくれたことに、深く感謝したことでしょう。
 
以前の感想でも書きましたように
 
黒田家と毛利家の関係は、かつての敵という反目を乗り越えて強固となり、
毛利輝元は本拠地・広島城の縄張りを官兵衛に依頼し、見事、秀吉の猜疑心をそらす城を建て
また、関が原合戦の後、毛利輝元の切腹や毛利家の取り潰しなきよう、家康に取り持ったのは
黒田長政(おそらく官兵衛の指示)でした。
 
そして、
九州征伐の相手は、島津氏。
 
でも・・・
 
島津兄弟の描かれ方があまりにも酷い。
 
天下無比の賢兄弟といわれる島津義久、義弘、家弘、歳久の描かれ方が雑すぎませんか???
 
島津義久と義弘は、戦国マニアでもファンが多く、次の大河の主役候補と言われている人気武将です。
私も、関が原を訪問し、島津陣を見たときからのファンです。
とくに、内政外交の兄・義弘と、無類の戦上手な義弘が魅力的ですよね!!私は二人とも好きです。
(尚、三男・家弘は九州征伐の降伏直前に急死。暗殺と言われています)
 
ただし予告を見る限りでは・・・
官兵衛らの奮闘シーンもなく、あっけなく島津降伏しそうですね・・・
以前のような戦場のシーンが減っているのは、NHK局サイドの圧力でもあるのでしょうか?
 
肩透かし続きなので、次回も心配です。。。
 
 
さて、それでは簡単に、九州征伐の流れをまとめてみましょう。
 
四国を平定した秀吉の天下統一を成し遂げるための最大の敵は、
東の徳川&後北条、そして西の九州のみとなった。
 
秀吉は九州を攻めることにする。
 
戦国時代の九州は、薩摩の島津、豊後の大友、そして肥前の龍造氏拮抗による
「三氏鼎立時代」と呼ばれている。
その後、島津高久の嫡子・義久が16代当主となって後、義弘ら三兄弟と共に九州統一を目指し、
島津氏の勢力は一気に拡大し、九州6ヶ国を平定するに至る。
 
島津氏は豊後の大友宗麟を猛攻する。
絶体絶命の危機に、大友宗麟は、自ら大坂城へ足を運び、直に秀吉への援軍要請を依頼した。
天正14年4月、秀吉は、宗麟の要請を受ける形式で、島津討伐のため九州出兵を決定した。
 
ちなみに、島津氏もまた毛利同様、鎌倉幕府から続く名門。
前年、関白名義の秀吉からの「天下惣無事」の書状に対し、
なりあがりの秀吉を関白として認めない島津氏はこれを完全無視。
両者の戦闘は避けられない状況にあった。
 
秀吉は、まず軍監として、黒田官兵衛に出陣を命じた。
官兵衛は、なるべく豊臣本隊を使うことなく、かつて敵であった中国毛利氏、
そして四国の長宗我部の軍を用いるよう進言、秀吉も受諾した。
帰属した両家らの忠誠心を確認し、かつ高めることにもなるからである。
 
天正14年(1586)7月、黒田官兵衛は毛利輝元、吉川元春、小早川隆景の兵2万4000と共に
豊前門司へ上陸した。安国寺恵も従軍している。
一方、高松城主・仙石秀久を軍監とする長宗我部元親・信親 父子軍もまた豊後に渡り、大友軍と合流し
九州攻めが始まったのである。
 
官兵衛は、豊前、筑前の武将の勧誘工作を密かに進めると同時に、毛利軍と合流して
島津の小倉城、宇留津城などを攻略した。
小倉城二の丸で、吉川元春が死去するのは天正14年11月。享年57歳であった。
 
お膳立てが出来たところで、官兵衛は、秀吉の出陣を要請した。
官兵衛の頭脳は、九州征伐の勝利をすでにはじき出していたのだろう。
 
一方、仙石秀久が軍監の長宗我部元親・大友義統一の混合軍が、
戸次川で島津家久軍と戦うが、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるな
大敗した。
 
 
そして年が明けて天正15年3月、秀吉は、実弟・秀長とともに20万もの大軍を率いて
大坂城を出陣し、豊前小倉城に入った。
 
尚、九州へ行く途中に、備前に亡命中の足利義昭のもとを訪れて会見。
島津に怪しげな手紙を送りつけていることを見抜いていた秀吉は、得意のひとたらしで足利義昭を懐柔する。
その後、義昭は京都に帰り、将軍職を辞して出家。
秀吉の御伽衆のような立場で、その後の人生を全うすることになる。
 
九州に入った秀吉は、軍を二手に分けた。
すなわち秀吉総大将の10万と、秀長の8万。
秀吉軍は肥後を通って薩摩に攻め込み、秀長軍は日向から薩摩へと攻め込んだ。
官兵衛は、軍奉行として秀長とともに進行。
天正15年4月 「根白坂の戦い」で島津の主力部隊を打ち破った。
この戦がきっかけとなり、島津氏は秀吉に降伏。薩摩1国を安堵された。
 
秀長と官兵衛もまた、中国大返しから山崎合戦でコンビを組んだ仲。息ぴったりであった。
「根白坂の戦い」は、黒田長政も従軍し、武功を上げている。
島津兄弟軍との激しい戦闘、是非描いてほしいものだ。
 
ところが、思わぬ副作用が生じた。
 
九州では キリシタン領民による神社仏閣の破壊や、ポルトガル人が日本人を奴隷として売買するなどが発覚し、秀吉は日本イエズス会の責任者を問い詰めた上で博多において、「バテレン追放令」を発布した。
 
また、九州平定の最大の貢献者である官兵衛に対して、与えられた領国があまりに少なかった。
 
官兵衛の苦悩の日々が始まるのである。
 
 
 
短めのつもりが、結構長〜い感想になっちゃいました。
 
これから、息子の宿題ラストスパート、がんばります 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 1
 
イメージ 2
録画を3回見直しても、
毎回涙が溢れでます・・・
 
個人的に今回も神回でした・・・
 
発端は、大坂城での茶々と道薫との出会いが発端でした。
 
秀吉の贅を尽くした饗応やプレゼントにまったく興味を持たない茶々が唯一所望したのが
「有岡城の顛末を村重(道薫)から聴きたい」と。
秀吉もそれが村重にとってどれほど辛くむごい仕打ちだと分かってはいても、
茶々の希望だからと捨て置けぬ弱さと甘さ。
かつて”人たらし”の秀吉であれば、何とか穏便に済ませるだろうに、茶々の前では別人となってしまいます。
この頃からすでに、秀吉人格の狂いが生じていたのでしょう。
道薫は「御伽衆故上様御所望とあらば・・」と承諾します。
 
ところが道薫は黒田の屋敷を訪ねて、
「あの時から私の時間は止まったまま。官兵衛殿にも見届けてもらいたい」と、
官兵衛に同席を依頼します。
 
この展開は見事でした。
やっぱり村重(道薫)は官兵衛に甘えているのです。
加害者が被害者に甘える構図は、ソウルフレンドたる官兵衛と村重の不可思議な友情の表れ。
ドラマ当初の二人の出会いから有岡城、そして道糞としての再会、、、と
時間をかけて二人の姿を丁寧に描き、岡田君と田中哲司さんの熱演があったから、
二人の会話も説得力がありましたね。
 
そこへ、何と、村重とたしの息子、又兵衛が登場します。
有岡落城の際、侍女とともに城を脱出した息子は、家臣であった鉄砲組の夫とともに
大坂天満の黒田屋敷に身分を隠して雇われていたのです。
(あ、もちろんフィクションです)
6年ぶりに再会するわが子を前にしても、「私に子などおらぬ」と冷たく言い捨てる道薫に
村重の心の傷の深さを目の当たりにする官兵衛なのでした。
 
官兵衛は、村重やその息子の事を、高山右近に相談するため、彼の南蛮寺を訪れるようになります。
そこで歌われるミサの歌声は、かつて有岡城の土牢で聞こえてきた曲だったことも
南蛮寺へと官兵衛を導いていました。
右近もまた、自分の裏切りで「たし」や村重の親族を処刑に追い込んだ贖罪を抱えていたのでした。
 
「たし様は戦に追われる村重様の心安らかなることをいつも願っておいででした。」
官兵衛は、有岡の1年に渡る幽閉の間、立場を超えて官兵衛を励まし助けた「たし」の姿を
忘れてはいませんでした。
「ご自身も辛い立場にありながら、たし様はいつも私のことを気遣っておられました」
「自分が困難にあるときこそ、隣人を助けよ。それがデウスの教えです。」
 
官兵衛と右近の会話でまたもや号泣です。
岡田官兵衛の有岡の土牢のシーンが様々にフラッシュバックします。
ありし日のたし様の美しく清らかな姿も・・・
1ヶ月もかけて有岡城の戦いを描いた効果がここで生かされています。
 
「隣人への無償の愛」と「魂の救済」
 
そして、大坂城へと場面は変わり、
茶々の希望どおり、道薫自身による「有岡城の顛末」が語られ始めていました。
官兵衛、右近も証人として出席し、千利休、石田三成らも同席していました。
 
「黒田官兵衛様を幽閉し、足を不自由にさせたのも私です。」
「官兵衛、道薫を恨んでおるか?」と問う茶々。
官兵衛は、道薫をじっと見つめた後、静かに「いいえ。」と答えます
 
(岡田君の村重をじっと見つめるシーン・・・何度目でしょう?!その都度、胸熱になるアタクシ。)
 
それでも茶々は道薫への追求を止めません
「叔父上(信長公)は恐ろしいお方。謀反など無謀と思わなかったのか?」
「いいえ、最初から負けるつもりで謀反など起こしません。すべては高山右近の裏切りで狂いが生じました。」
 
反論もぜず無言の右近。
このままでは、織田家への悪口、さらには秀吉への悪口になりかねないと、千利休は「もうこの辺で・・」と
水を差すも、茶々は「いいえ」と拒否し、
「何故、妻子を捨てて、のうのうと生きているのか?」
 
茶々のストレートな口撃に、道薫の口調もエスカレートしていきます。
 
「どうして死ぬことができず開き直ったのです。
私は人の心を持たぬ化け物です。」
「ならば茶々様にも問いたい。父母を殺された仇の側で生きているのですか?」
 
「あなたも私も化け物、この部屋には化け物しかおりませぬ。
天下惣無事、など絵空事。この世に化け物がいる限り戦は終わりませぬ。」と。
 
化け物と名指しされた茶々の表情・・・
笑い泣きしているようでした。
二階堂ふみさん、演技うまいと評判ですが、なるほど!納得です。
茶々もまた、仇の庇護を受けて生き延びる屈辱にわが身を苛まれていたのです。
 
そして秀吉は自身の天下をも揶揄され、激昂し刀に手をかけて激昂します
道薫の首がはねられそうになる寸前、官兵衛が突然笑い出し、
極限まで緊張した部屋の空気を和らげます
 
「この男は死にたくても死に切れないのです。上様の手討ちは願ってもない好機」
すると茶々もまた 「やめなさい。この男を殺してはなりません。生き恥をかかせるのが報いです。」と
秀吉を止めたのでした。
 
このときの竹中秀吉の鬼気迫る顔!
目が赤く充血し鬼の形相そのものでした。
かつて「人たらし」として信長の使い走りをしていた猿の姿はそこにはありません。
 
おそらく撮影現場も、極度の緊張状態にあったのではないでしょうか?
故に、官兵衛の笑い声が、実に効果的で、観ている側にも「緊張と緩和」の瞬間が伝わってきました。
 
その後、南蛮寺で語り合う官兵衛と右近。
「官兵衛殿、何故あそこで道薫殿を助けたのですか?」
「道薫殿には生きてほしかった。」
「生きていれば道薫殿の乾いた心が潤う時がくるかもしません。
官兵衛殿がこの南蛮寺へ来られるのは何故なのでしょう?あなたは何に救いを求めておられるのですか?」
 
右近は、官兵衛もまた、終わりのない戦の予兆に心を痛め傷ついていることを察しています。
徐々に変わっていく秀吉の姿に、不安を募らせているのです。
化け物とは戦を呼び寄せ、戦により多くの人々が悲しみや苦悩の淵に晒される。
そんな状況にあっても「隣人を愛する」ことで官兵衛の心身を癒した、たしの美しい姿・・・
 
(またここで号泣してしまうアタクシ)
 
大坂城の一室で、
再び、官兵衛と道薫は対面します。
「大坂処(ところ)払い」となり死ぬことが許されぬとつぶやく道薫に官兵衛は再び又兵衛を呼び寄せます。
官兵衛は又兵衛の絵の技量が尋常でない事を告げ、一枚の絵を道薫に手渡します。
それは、又兵衛が描いた父・道薫の姿。
氷のような無表情ではなく、笑顔の茶人の姿がそこにありました。
(この絵を見て、また号泣)
 
人として温かいその姿。
道薫は涙を流して又兵衛を抱きしめ
「たし・・・すまなかった」とやっとやっと亡き妻への言葉を口に出すことがでいたのでした。
天国の妻が、化け物になった夫の心を救い出したのです。
 
処(ところ)払いの日。
千利休とともに官兵衛が道薫を見送ります。
息子・又兵衛に絵筆を与え、夢を貫けと励まし、
そして別れ際、
「官兵衛殿・・・・いや、官兵衛!」と呼びかける村ちゃん。
化け物の表情から、天下への名乗りを夢見た若かりし頃の村重の表情へと瞬時に変わっていましたね。
いや、田中哲司さん、迫力かつ繊細な演技、すばらしかったです。
 
そして人として再生する決意の村重を
「御身大切に。」と見送る官兵衛の、あの笑顔!
今までじっと村重(道薫)を見つめていた官兵衛もまた、
出会った頃の笑顔で村重に答えることが出来るようになったのでした。
 
 
「隣人を助けることは自分自身も助けることになる」
たしと右近の導きで、官兵衛はキリスト教徒として洗礼を受けます。
官兵衛は、なんちゃってキリシタンではなく、右近同様、
信仰を深く理解した、がちのキリシタン大名であったのです。
 
私の号泣につぐ号泣ぶりが分かっていただけたと思います。
時代劇というよりも、人間ドラマとして本当に秀逸な内容でした。
 
まあ、正直、村重の息子が、黒田家でこっそり働いていた、っつーのは出来すぎやりすぎとは思いましたよ。
でも、いや待てと・・・。
 
史実の官兵衛もまた、「有岡城での幽閉」は大きな人生の転機となり、
有岡の土牢の小さな窓に咲いた藤の花を心の支えとしたことから、家紋を「藤巴」に変え、
さらに、土牢で官兵衛に同情し親身に世話になってくれた足軽の息子をわざわざ探し出して養子とし
黒田姓を名乗らせる(後の黒田24騎の一人・黒田一成)等々、その影響力は計り知れません。
となれば茶人となった村重とも奇妙な友情を保った官兵衛であれば、
行方不明となったたしの息子を探し出して、道薫と密かに再会の機会を与えたとしても
不思議ではありません。
 
さらに岩佐又兵衛に関していえば、
有岡落城の際、侍女とともに逃げ落ち、石山本願寺に匿われた後、
織田信雄のお抱え絵師として採用され、信雄改易後は福井松平家に仕え、腕を変われて
徳川秀光の勧誘で江戸で絵師として活躍します。
 
信雄といえば、道薫が自慢の大物「兵庫の大壷」を高値で売りつけた相手。
その信雄に又兵衛が使えた経緯に、密かに官兵衛がかかわっていたという推測もまた
あり得なくはないのです。
 
ちなみに「御身大切に・・・」という官兵衛の台詞ですが、
佐藤雅美氏の「樓岸夢一定」という蜂須賀小六が主人公の小説の最終章での重要な台詞の一つなのです。
小説では、病床に臥せった蜂須賀小六が
幼いころからの親友で義兄弟でもあった前野長康小右衛門の行く末を案じて
見舞いに音連れた前野の家臣に「御身大切になされよ。」と伝える、いわば小六最期の言葉なのです。
(結局、小六の杞憂が当たり、その後、関白秀次連座事件で前野長康は切腹となりました)
 
もしかしたら、ドラマの脚本家も「樓岸夢一定」を愛読されているのかもしれませんね。
故に、共に天下に名乗りを上げる前から不可思議な友情で熱く結ばれた
官兵衛と村重の別れの台詞に「御身大切に」という言葉を選んだのかもしれません。
 
荒木村重は堺商人の娘と再婚し、茶人として優雅な暮らしを楽しみ、
そして天正14年5月4日、畳の上で往生しました。享年52歳でした。
 
尚、小説「樓岸夢一定」の主人公である蜂須賀小六正勝も、いよいよ次回が最期のようです。
天下人となった秀吉は、多忙な時間をさいて大坂で臥せる小六を見舞いあれこれ世話を焼いた様です。
黒田長政の正室となった糸姫のその後の数奇な運命もまた・・・ドラマの一つの転機となるでしょう。
 
そして・・・
 
荒木村重改め道薫(道糞)演じた田中哲司さん!
お見事でした。
岡田官兵衛との心のこもった数々の名シーン。
どれもこれも迫力と情感に溢れ、観るものの心を揺さぶってくれました。
今まであまりの悲劇ゆえ、ほとんどテレビで取り上げられなかった、戦国武将・荒木村重を
一人の人間として描いてくれたこと、感謝感謝です。
次回からもう登場されないと思うだけで・・・心に隙間風が。
でも、官兵衛は、村ちゃんの唯一無二のソウルメイト。
その行く末をしっかり見届けますね。
 
 
*****
 
はい。今回はミーハー記事となりましたがご容赦ください。
 
とりあえず、官兵衛のキリシタン洗礼について、プチ解説して、
九州征伐については、次回た〜〜〜ぷりと書いてみたいと思います。
 
******
 
ポルトガル人宣教師・ルイス・フロイスによれば、
黒田官兵衛は、天正11年(1583)にキリスト教の洗礼を受けてキリシタン大名になった。
高山右近の勧めによるものとされるが、
元々文学青年で内向的な性格だったため、死と生が隣り合わせの戦国時代に
それなりの素地はあったと考えらる。
さらに、有岡城に1年も幽閉された上、人質の息子が信長の命で処刑されかけたなど、
精神的にも肉体的にも極限状態になった時に、ある種の神秘経験をしたのかもしれない。
洗礼名は、「ドン・シメオン」
「如水」という名前も「シメオン」から来ているといわれている。
官兵衛は布教活動にも熱心で、弟・黒田利高や、嫡子・長政もキリスト信者となり、
また、戦の相手であった毛利氏や大友氏の一族にも入信を勧めている。
尚、長政はキリシタン弾圧令が出てすぐに棄教している。
(妻・光姫は熱心な門徒だったので、キリシタンにはなりませんでした。妻の自由な宗教心を認めるのも
官兵衛の素敵なところですね。)
 
イエスズ会宣教師・プランシスコ・ザビエルにより、キリスト教が日本に伝わったのは天文18年(1549)。
伝教当時は迫害もあったが、既存仏教会の腐敗もあり、キリスト教はじわじわと広まりはじめていた。
その後、ずば抜けて国際感覚の優れた信長公はキリスト教を保護し、
京都に南蛮寺を建てたり、日本国内でのキリスト教信者はさらに増えていった。
秀吉も天下人になった当初は、信長に倣って、キリスト教を保護してきたが、
晩年になって「バテレン追放令」を出し、突然迫害路線に転じる。
このとき多くのキリシタン大名も棄教したが、黒田如水の信仰心は揺らぐことはなかった。
関が原の戦いで処刑されたキリシタン大名・小西行長配下のキリシタンを家来として雇ってもいる。
臨終に際しても博多の教会への多額の寄付を行い、葬儀もキリシタン様式を望んだそうだ。
 
高山右近(洗礼名はジュスト)もまた、秀吉・家康のキリシタン弾圧でも信仰心は揺るがず、
晩年は一族とともにルソンに渡り、マニラにてキリシタンとして病没している。
 
高山右近に関しては、
過去記事を是非参照ください。
 
 高山右近と高槻城〜 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/58826231.html
 高山右近とガラシャ@玉造大聖堂  http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/58158909.html
 
次回は、いよいよ「島津兄弟」の登場?!
島津義久、義弘は誰が演じるのでしょう?
賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国征伐と、スルーが続いているので
次回は官兵衛、長政ら黒田兵の戦いぶりに期待したいです。
 
 
 
 
イメージ 2
 
職隆の最期のシーンにうるっときました。
 
柴田恭平さん、本当にいい親父さんでしたね。
わずか44歳で、若干22歳の嫡子である官兵衛に家督を譲り、
その後は、ずっと官兵衛のサポート役として、姫路城とその領地とを見守り続けた人生でした。
 
天正17年、官兵衛自身も、まだ44歳の若さで、黒田家の家督を、嫡子・長政に譲るのは、
秀吉の猜疑心を緩和するため、と言われており、私も同意しますが、
一方、偉大な父・職隆の前例に従ったのも一因ではないか、と個人的には考えております。
 
長政が家督を継いだのも、官兵衛同様、若干21歳の若さでした。
 
ドラマの最初の頃、
岡田・官兵衛が、柴田恭平さん演じる職隆と酒を飲みながら、「自慢の息子だ!」と励まされて
号泣するシーンが印象的でした。
 
史実においても、御着の殿・小寺政職の遺児を密かに養育し、黒田の家臣として守ったと伝わり、
忠義篤く度量の大きい人物であったことは間違いないでしょう。
黒田官兵衛には、異母弟も何人かいるのですが(ドラマでは登場しませんが・・)
皆、黒田家のため、官兵衛のために良く働き、家族の結束はとても強かったのも、
職隆の人間性の賜物であったと言えます。
 
柴田恭平さん、お疲れ様でした!!
 
そして、そして・・・・
今回も登場しましたね。
 
村ちゃん!!
 
道糞あらため道薫と名乗っていましたが、
不気味な存在感は、益々増しております。
 
茶人の御伽衆として秀吉に取り立てられ大坂城に出入りし、
「黒田様」と官兵衛へりくだりながらも、
「上様は少し変わられた・・・。」と官兵衛に耳打ちする姿は、やはり妖怪(化け物)の如し。
 
秀吉に取り入り、信長の追手から生き延びた、嫡子・村次や、
従兄弟ら荒木一族を、秀吉の家臣に取り立ててもらったり、
織田信雄に自慢の茶道具を高額で売りさばいたり・・・等々、大坂と堺を舞台に、暗躍しています。
 
一族郎党を見捨てた上に女子供含めた家族親族のほとんどを処刑されてもなお、
大坂城にて以前は同僚だった天下人秀吉相手に、
おべっかいを並び立てる精神状態は、尋常ではありません。
 
御伽衆とは、太鼓持ちやおべっかいがその役目であり、
武士からすれば、それこそ糞みたいな存在であったでしょう。
 
村重といえば、かつては秀吉と肩を並べたほどの、織田信長家臣団の出世頭。
道糞から道薫に名前を変えようが、
当時の村重の武勇を知るものからすれば、別の生き物を見るような感覚であったことでしょう。
 
 
そして、そんな村重が、本心を語った相手はおそらく官兵衛だけだったのではないでしょうか。
史実でも、ドラマのようなディープな会話を交わしていたように、想像されます。
 
「上様に御伽衆に加えて頂いた。面白がっておられるのでしょう。」
 
絶望や欲望を越えた自虐の塊である村重の鋭い理性を、田中哲司さんが見事に演じきっていらしゃいます。
そして、村重と対峙するときの、岡田・官兵衛の緊張感たるや!
村重心の奥に秘められた辛く苦しい情感を、官兵衛もまた鋭い感性で受け取っていることが、
十分伝わってきます。
 
次回予告でも、村ちゃん、ご登場のようです。
しかも、官兵衛がいよいよキリシタンの洗礼を受けるような絵が!
 
今回まで官兵衛とキリスト教との関わりが、まったく描かれていないので、
有岡城での「たし」の面影が影響するのでしょうか?
脚本の行方を期待したいです。
 
ちなみに、史実でも、高山右近の勧めで、黒田官兵衛がキリストの洗礼を受けるのは、天正11年ごろです。
 
さて、今回のプチ解説ですが・・・
 
なんで、なんで、「小牧・長久手合戦」と「四国討伐」をドラマは真正面から描かなかったのでしょうか?
「小牧・長久手」のときは、確かに官兵衛は、ドラマどおり、毛利との境界線問題で中国に張り付いていました。
 
し・か・し、「四国攻め」は黒田官兵衛が、軍師として大活躍したというのに、なぜなのでしょう???
”軍師”官兵衛 なのになぜなのでしょう?
なんとももったいないです!
 
そこで、「小牧・長久手」と「四国攻め」について、簡単に説明したいと思います!
 
「小牧・長久手の戦い」
 
イメージ 1
 
 
実は今から5年前の2009年8月、
小牧城跡を訪問しているので、過去記事も参照ください!
 
記事元
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/62344177.html  【尾張の旅⑤〜小牧山城】
 
天正12年(1584)、織田家を潰そうとつる秀吉と、清洲城の信長二男・信雄との関係が険悪となった。
単独では秀吉に勝てないと思った信雄は、三河の徳川家康に協力を仰いだ。
家康もまた秀吉の独走を苦々しく思っていただけに、信雄に同調し、
秀吉vs徳川&織田連合軍の軍事衝突となった。
 
これが、秀吉と家康の直接対決となった、「小牧・長久手の戦い」である。
 
 
天正12年3月13日、秀吉軍は、犬山城を攻略し本陣をはった。
家康軍は、3月16日、秀吉軍を八幡林の戦いで敗走させ、秀吉軍の南下を阻止すると、
3月18日から小牧山城跡の大改修を開始し、22日には陣城が完成し、ここにたてこもった。
このとき、家康軍の榊原康正が小牧山城に行った改修は、
土塁を高め、堀を深くし、要所に砦を築くなど、防御工事をわずか5日間で完成させたといわれる。
現在残る小牧山城は、この小牧・長久手の合戦の陣城跡である。
4月6日夜から秀吉軍の一部が東へ向かう迂回作戦を開始し、
これが4月9日の長久手の合戦へと発展する。
 
家康軍は、4月7日に秀吉軍の動きを察知し、
秀吉軍を追撃し、9日の長久手の合戦に家康軍は勝利した。
秀吉軍、11万に対し、家康&信雄連合軍は、3万ほどであった。
圧倒的な兵力を有しながらも、秀吉は勝つことができなかった。
家康は得意な野戦になるよう戦略を組み立てていたのだ。
「家康手強し」
長久手での敗戦を知った秀吉は
5月1日には一部を残し主力を小牧地区から撤退させ、
得意の「ひとたらし外交」で戦局の収束を図る。
 
秀吉は伊賀と伊勢半国の割譲を条件に織田信雄に秘かに講和を申し入れ、信雄はこれを受諾する。
信雄が戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった家康陣営は11月21日に兵を引き上げ
小牧山城は再び廃城となったのである。
 
秀吉は敗戦により、家康を完全に服従することに失敗する。
 
一方家康も、和議に従い次男・於義丸(結城秀康)を人質として大坂に送り、秀吉の養子となった。

また、このときの折衝の窓口であった家康の側近中の側近石川数正が、突然豊臣家へ出奔するなど、
家康は、秀吉に戦では勝ったものの、外交で負けたとも、言われている。
 
しかし、天下人である豊臣秀吉の大軍(約11万人)を、三河先遣隊2万だけで圧勝したことにより
徳川家康はと「海道一の弓取」「天下一の野戦上手」と畏れられ、
秀吉は自信の死の間際まで、家康を恐れる要因ともなる。

また、ドラマでも描かれていたように、
「小牧・長久手」に官兵衛は軍師として参戦していなかったのも、敗因の一つとも言われている。
毛利輝元と宇喜田秀家の間で領地の境界線問題が持ち上がっており、
官兵衛はその調停のため、蜂須賀小六とともに中国地方に出向いていたのだ。
 
 
ちなみに、小牧・長久手で秀吉の和睦に軽々と乗っかってしまった織田信雄だが、
その後も秀吉に臣従し、九州征伐や小田原征伐にも参戦した。
また関が原合戦後も不思議と生き抜き、晩年は徳川家康から大和国5万石を与えられている。
信長公の苛烈さを受け継がず凡庸であったことが、彼の人生を全うさせたとも言えよう。
 
 
『四国征伐』
 
天正13年(1585)5月、秀吉は四国平定に乗り出した。
当時四国は、土佐の長宗我部元親が四国統一に成功していた。
小牧長久手の戦で、元親が徳川家康についたことで、秀吉は元親征伐を決断する。
 
秀吉軍は数隊に分かれて四国へと侵攻した。総兵力はなんと13万人と言われている。
 
総大将は、秀吉の実弟・羽柴秀長。堺から淡路島の洲本に入る。
副将は、秀吉の甥・羽柴秀次。播磨まら淡路島の福良に渡った。
備前の宇喜田秀家は、讃岐の矢島に渡り、
中国の毛利輝元・小早川隆景は、伊予の新居浜(新間)から上陸した。
 
我らが官兵衛は、蜂須賀小六とともに、宇喜田秀家の軍艦として参戦した。
 
宇喜田軍は、矢島から喜岡城(高松城)を攻略した。
敵兵は長宗我部元親の従兄弟らか守る植田城へと逃げ込んだ。
 
実はこれは、元親の「誘い」であったのだ。
篭城にて宇喜田軍を植田城に留め置き、その間に主力を密かに差し向けて壊滅する策略であった。
 
しかし、官兵衛は、その策略を見抜き、
あえて植田城を攻めずに捨て置き、讃岐から阿波に渡って、主力の秀長軍に合流。
そこで元親軍の主力を攻めたのである。
 
宇喜田(&黒田、蜂須賀)軍と合流した羽柴秀長軍は、阿波国の岩倉城を取り囲んだ。
岩倉城は、猛将・長宗我部掃部助が篭城していた。
ここで官兵衛は、一計を案じた。
 
城に対し櫓より高く木を組み大砲を乗せて城内へ砲撃したのだ。
また、1日に三度鬨の声を上げさせて威嚇した。
4万の兵による大音声は大地を揺るがし、また大砲による砲撃で、さしもの猛兵達も戦意を失い、
岩倉城は、19日目に開城した。
 
大砲を城で砲撃する・・・昨年大河「八重の桜」での会津篭城戦を彷彿とさせる。
当時最新鋭のアームストロング砲による砲撃で最低でも半年は持ちこたえるはずの会津城が
わずか1ヶ月で開城し落城した様を。。
 
刀槍と火縄銃が主力の戦国時代に、官兵衛は早くも近代戦術を実践していたと思うと
秀吉が、あからさまに官兵衛を恐れたのもよく分るというものだ。
 
各地で相次ぐ落城、敗戦に、四国の覇者・元親もついに秀吉に降伏。
天正13年7月であった。
秀吉は、元親に土佐一国を安堵し、その他すべての所領を召し上げた。
 
ちなみに、秀吉が、近衛前久の猶子として、「関白」に命じられたのは
四国征伐の最中、天正13年8月であった。
このとき、秀吉は自ら駒を進めて、かつての織田家中の同朋 越中の佐々成政を攻め降伏させている。
 
そして同年の9月、近衛家の風下に立つのも面白くない、と、
禁裏に願って新たに「豊臣」の姓を賜り、豊臣秀吉となっている。
 
尾張の百姓あがりで猿と呼ばれた足軽が、朝廷から「豊臣」の姓を賜り、関白にまでのぼりつめている。
 
下克上の最たる結果でもあり、新たな火種の始まりでもあった。
そして我らが官兵衛も、また黒田家も、その火種にいやおうなしに巻き込まれていくのである。
 
次回、ガチのキリシタン大名となる官兵衛と、村重(道薫)とのバチバチの化学反応に
期待したいで〜す!!!
 
 
 
 
 
 
イメージ 3
 
 
村重(道糞)と、官兵衛の二人のお姿に
釘付けです〜〜〜〜!!
すごい迫力でしたね。
 
実は、本日録画を観たばかりなのですが、
二人の絡みのシーンをもうすでに3回も見直してます。
 
 
岡田・官兵衛と、田中哲司さんの村重(道糞)の二人のシーンは、
演技の化学反応がとにかく高いです。
 
そして、実にリアルです!!
 
千利休の茶室で、目の前に座っている男の顔をみて驚愕する官兵衛。
 
自分の人生を変えてしまった敵だった男・・・「村重!!」
 
しかし若かりし頃の闊達な村重の姿はそこにはなく、
変わり果てたその男の目は、無表情で死んだ魚のようでした。
 
突然の再会に、感情を抑えることができず、
無礼を承知で茶室から飛び出してしまう官兵衛。
 
しかし、確執や憎しみを堪えて、再び堺を訪れた官兵衛に対して
村重(道糞)は初めは静かに、そして次第に熱く饒舌に語りだします。
 
「生きることへの執着をどうしても捨てることができぬ。
わしはもはや人ではなく、化け物なのかもしれない。」
 
時を越えて、村重が自分の苦しみをストレートに吐露する相手は、
愛する妻を失った今、もはや官兵衛だけなのでしょうか。
 
そしてその言葉の意味をすぐに理解し
変わり果てた村重の顔を、じっと見つめる官兵衛・・・・・・
 
有岡城の土牢で、
進退窮まった村重が妻子も城兵をも見捨てて城を脱出する直前、
衰弱した官兵衛の前に酒を置き、「わしは信長に負けぬ」と狂気に衝かれたような目で語り、
その姿をじっと見つめる官兵衛とのシーンを思い出しました。
 
あの時同様、
結局、村重は官兵衛に甘えているのです。
官兵衛の足の自由を奪ったことへの贖罪を口に出せないのが、その証拠です。
 
そして官兵衛も、
利休の仲介で村重と再会するも、気持ちの整理がつかず、
村重の茶を飲むことが出来ずに、茶席を立ってしまうものの、
利休の「あの男の迷いを断ち切ってほしい」という言葉を受けて
結局、再度、堺まで足を運んでいます。
 
村重は年上だけれども、ほっておけない男なのでしょう。
高山右近も官兵衛同様でした。
それは、命の恩人でもある「たし」への二人の想いもあるでしょうし、
それと同時に、村重という男の、文学的な香りというか、不可思議な魅力なのでしょう。
 
官兵衛もまた、少年時代、古典文学に耽溺したという元文学青年。
天才軍師というのは、裏を返せば、物事へのセンシティビティが高いといこと。
 
村重と官兵衛がお互い無名の頃から仲がよかったのは、
きっと二人の思考の周波数が近いからだったと思われます。
 
 
すなわち、
史実の官兵衛と村重は、ドラマのような、生臭くも哲学的な会話を 交わした可能性があるのです。
 
「腹が減れば食い、のどが渇けば飲み、生き恥をさらしても、生きることへの執着を絶つことができない
道端の犬の糞でござる。」
 
きっと、戦国時代にあって、こんなディープな会話をしても、違和感ない二人なのです。
 
 
また、千利休が落ちぶれた村重を弟子として堺で受け入れ、
道糞と名乗った村重を、利休の高弟の一人として華々しく復活させたのも、史実です。
 
当時、最も審美眼にうるさい利休が、見込んだ男。
地位も何もない村重に、芸術的で文学的価値がなければ、利休は決してそのようなことはしません。
 
生き恥をさらしても尚生きることをやめられない自分を「道糞」と呼ぶ、そのセンス。
破壊的でありながらも、鋭い理性がそこに感じられます。
 
 
秀吉が天下人になった頃、
官兵衛が村重に宛てた、フレンドリーな書簡も発見されており、
有岡城の確執を経ても尚、二人が交流し友情を保ち続けたことも史実です。
 
官兵衛と村重の、不可思議で奇妙な友情は、史実をみるだけでも
戦国時代でりながら、実に現代文学的であり、哲学の香りがします。
 
そして、岡田准一君と、田中哲司さんのお二人は、実に見事にその「深み」を演じられていますね。
 
荒木村重の晩年については、
以前のブログで書いていますか、改めて抜粋し下記に掲載します。
 
官兵衛と道糞(村重)・・・・次回以降も、是非とも登場して欲しいです。
お二人の演技の化学反応を、何度でも堪能したいです!
 
軍師官兵衛 第21回「松寿丸の命」 より抜粋
 
 
一族郎党を皆殺しにされても、荒木村重と村次は、尼崎城と花隈城で織田軍に抵抗し続けた。
天正8年3月、とうとう荒木村重は尼崎城を捨てて、毛利の領国である尾道へと逃れた。
 
信長の荒木残党狩はしばらく続いた。
天正9年、荒木の家臣を匿った罪で、高野山の僧侶僧数百人を殺害している。
 
ここで、冒頭に戻る。
信長公はこれほど恐ろしい人物なのだ。
竹中半兵衛が信長の命令に背いて松寿丸を匿う「覚悟」をご理解いただきたい。
峻烈だけでなく多数の間者を敵味方問わず送り込む情報網も張り巡らしていた。
信玄病死の報を誰よりも早く掴んでいたのが信長公である。
おねや姫路に松寿丸の消息を伝えれば3日後には安土に知れているだろう。
竹中半兵衛は、そう長くない命を懸けて松寿丸救出作戦を敢行したのだ。
 
その信長公が、光秀の謀反に遭い本能寺で暗殺された。
天正10年6月2日である。
 
信長暗殺の報を聞いた村重の姿を伝える一文がある。
 
「天正十年明智光秀、信長を弑すると聞きて、村重はなはだ哭踊しぬ。」 (寛永諸家系図伝)
 
一目も憚らず慟哭したのだ。
嬉しかったのか悲しかったのか・・・。
自らの謀反と逃亡により、一族郎党を織田信長に惨殺されても尚、生き残る道を選んだ、
村重の複雑な感情は、常人には理解し難いのかもしれない。
 
秀吉の世になって後、荒木村重は突然堺に舞い戻り、千利休と親交を持つことで
茶人として華々しく上方社交界に復活する。
有岡城脱出時、家族や家臣を捨ててもなお、捨てることができなかった村重自慢の茶道具が
彼の社交界デビューを後押ししたのであろう。
 
ちなみに村重の大名物「荒木高麗」は、千利休の手に渡り、
その後、徳川家康を経て、尾張家初代義直が所有し現代に伝わる。(徳川美術館所有)
 
 
イメージ 4
 
堺で茶人として復帰した村重は、
妻子家臣を見捨てた自分の過去を卑下し、「道糞(どうふん)」と名乗っていた。
その後、秀吉が過去の罪を許して「道薫(どうくん)」へ改めたそうだ。
 
秀吉は、一族を虐殺された荒木一族を不憫に思い、
嫡子の荒木村次、従兄弟の荒木久左衛門や、村重の従兄弟・荒木元清(花隈城守)らを召抱えた。
 
しかし、村重に対しては、あくまでも「御伽衆」の一人として、摂津と和泉で食邑を与えた。
秀吉は信長がその才能を見込んだ村重を飼い殺しにしたのだ。
 
村重が有岡城から連れ出した「たし」の子は、石山本願寺に匿われた後、絵師になった。
浮世絵の祖と呼ばれる岩佐又兵衛である。
織田信雄に仕えたのち、福井の松平忠直に遣え、その後 2代目将軍徳川秀忠に招かれ江戸で
活動した。徳川幕府お抱えの絵師に出世し、江戸で73歳で死去した。
荒木一族は優秀な人物が多い家系なのだろう。
 
 
とはいえ、荒木村重自身は地獄の戦場にはもう未練はなかったようだ。
天正13年、織田信長の二男、信雄に、自慢の名物「兵庫の大壷」を銭千五百貫文で売却している。
現代に換算すれば、売却金額は1億2千万円相当だそうだ。
 
謀反した織田の息子に自慢の茶道具を大金で売り渡す肝の据わり方は、さすが村重だ。
最期まで、信長好みの武将であったのだ。
 
荒木村重は堺で商人の娘と結婚し、お金にも困らず、優雅な生活を送って堺で亡くなった。
享年52歳だった。
 
 
さて、荒木村重に関しては昨年、ものすごく興味深い発見があった。
 
黒田官兵衛が、幽閉後、荒木村重に宛てた手紙の写しが発見されたのだ。
 
 
イメージ 1
 
手紙の日付は、天正11(1583)年11月12日。
秀吉が天下人になった頃である。
 
村重は京都市の相国寺光源院から伯耆(現在の鳥取県)にある領地回復を依頼され、
官兵衛に協力を依頼し、その返答である。
官兵衛は手紙で「(領地問題を)秀吉様の考え通りに進めるよう申しつけます」と応じており、
「姫路に来た際はお会いしましょう」と気さくに誘っている。
 
 
史実でも、十分すぎるくらい耽美で刺激的です。
 
 
 
 
さて・・・ミーハーばかりではありませんよ。
今回のプチ解説です。
 
官兵衛と村重の再会のインパクトがでかすぎて、
「賤ヶ岳の戦い」から柴田勝家の最期まで、あっけなく終わってしまいましたね。
 
そこで、今回はそこらへんの史実を簡単に紹介したいと思います。
 
 
本能寺の変で倒れた信長の後継者争いは、嫡孫三法師を擁立する羽柴(豊臣)秀吉と、
三男信孝を擁立しようとする柴田勝家で激しく対立。
結局、三法師が後継者と決まり、山崎合戦で明智光秀を討ち取った秀吉の発言力が益々拡大した。
信孝は、織田家に取って変わろうとする秀吉を警戒し、
秀吉をけん制するために、柴田勝家と滝川一益と結託して、秀吉包囲網を敷く。
天正11年(1583)4月、両雄は賤ヶ岳で激突する。

秀吉が美濃(岐阜)へ大軍を率いて出陣したのを見て、
柴田の側近 佐久間盛政が、秀吉の弟、羽柴秀長、配下の中川清秀を攻めた。
ここに戦の口火が切られたのだ。
戦況は柴田側の優勢に進んだが、戦況を知った秀吉が美濃からわずか5時間で木之本まで帰ってきた。
(美濃大返し)
実は、秀吉が大軍を率いて近江から兵を引いたのは、「誘い」ではないかといわれている、
美濃大返しの段取りが、実に手際がいいからである。中国大返しのチームプレーがここでも生かされている。

結局、佐久間盛政の深追いや前田利家の突然の戦線離脱などで柴田陣営は散々に打ち負かされて敗走、
自国の北庄で妻お市とともに自刃し、これで秀吉の天下が到来することになった。
 
ちなみに、我らが官兵衛であるが、
「賤ヶ岳合戦」では秀吉の参謀ではなく、武将として参戦していた。(ドラマとは違っています)
最前線で、佐久間盛政の猛攻に遭い、苦戦を強いられているが、秀吉本隊の美濃大返しまで
なんとか持ちこたえて自軍を勝利に導いている。
この戦には、15歳の嫡子・長政も出陣していたが、鬼玄蕃の異名をとる佐久間の猛攻に圧されたとき、
家臣の栗山善助に、長政を連れて逃げるよう命じている。
しかし、長政は「武士は戦場で逃げてはならぬと教えてくれたのは父上だ。」と戦場に留まったという。
官兵衛にとっては、勇ましい息子の武者ぶりに目を細めたことであろう。
 
 
 
柴田勝家とお市の方の最期について。
 
 
 
イメージ 2
 
この写真は、「北の庄城跡」で撮影した「お市」の像である。
 
再婚した勝家と市が北の庄城で過ごしたのは、わずか半年。
浅井長政と柴田勝家と、
彼女の夫、二人を死に追いやったのは、羽柴秀吉という男であった。

天正11年(1583年)6月14日

秀吉の大軍が、北の庄城を取り囲んだとき、
勝家は、市に脱出を薦めた。

お市に憧れを抱いていた秀吉なら、彼女とその娘達を手厚く保護すると
分かっていたからである

しかし市は、「浅井落城で逃げてまたもや」(落城の悲劇を繰り返したくない)と拒み、
娘たちを逃がした後、炎のなか、勝家とともに自害した。
 
 
柴田勝家は、北ノ庄城落城のとき天守閣の九段目に登り
「修理が腹の切り様見申して後学に仕候へ」
 (わしの切腹の仕方をしっかりと学べ)

と大声で叫び
老女一人を残してお市や侍女たちを一刀両断し、80人の家臣とともに切腹して果てた。

このとき、勝家自身は、鎌倉の古武士のごとく、腹を十文字に割いて自害したという。


信長公と供に時代の先端を駆けていたはずが
いつのまにか、秀吉という、新興勢力に追い越され、時代遅れと言われてて敗北し、
しかし武士の意地を貫くために、古式にのっとった切腹の作法で見事に散った。


お市の方、辞世の句

「さらぬだに 打ぬる程も 夏の世の 別れをさそう 不如帰かな」


お市の句を受けて、返した勝家の辞世

「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
 
 

北の庄城を脱出した3人の娘たちも、数奇な運命を辿る。

長女・茶々は豊臣秀吉の側室淀殿、
次女・於初は京極高次の正室、
三女・於江は江戸幕府2代将軍徳川秀忠の正室となった。

 
その後、北の庄城には、丹羽長秀、堀秀政、青木一矩が短い期間、城主となるが、
1600年(慶長5)、結城秀康が越前国主として下総結城より入封。
結城秀康は、城と城下町を改修・整備するために、勝家の北の庄城は、取り払われてしまい
現在、当時の遺構を見ることはできない

 
下記の過去記事より一部抜粋しました。

【北の庄城〜北陸の旅⑦2010春】
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/63483726.html
 
ちなみに、【賤ヶ岳古戦場】ですが、ずいぶん昔に訪問したことがあります。
まったく霊感などない私ですが、この、【賤ヶ岳古戦場】は、背筋が寒くなるような違和感を感じた場所でした。
数多の史跡を訪問しておりますが、私が過去このような感覚を体験したのは、
【賤ヶ岳古戦場】と【関が原】そして【法隆寺】だけです・・・・
 
 
そして、蜂須賀小六親分の娘 糸姫と、黒田長政の祝言も決まりましたね!
小六親分も結構登場していたし、官兵衛とのコンビでの仕事も描かれていて、満足でした。
 
史実でも、明智光秀を討ち果たした後、毛利との国境決めのために、
官兵衛と小六は、安国寺恵瓊と交渉を行っています。
そういう良好な友好関係もあり、秀吉の斡旋で両家は祝言を挙げることになったのでした。
松阪桃李君と、高畑充希さん、お似合いの爽やかカップルですね〜。
 
さあ次回予告も、村ちゃんの声が入ってましたね。
次回もドキドキ胸キュン必至の回になりそうです
イメージ 1
 
「中国大返し」の映像!迫力ありましたね〜〜〜。
 
ちゃんとロケしてくれていて、戦場のような活力に満ちていました。
しかもしっかり雨の中の行軍になっており、史実を踏まえた演出はお見事でした。
 
我がご先祖様も、もしかしたらこの「大返し」の一員だった可能性もあり
あの握り飯も食べたのかも・・・と考えるとさらに胸躍りました。
 
(我がご先祖様は、尾張時代から蜂須賀小六の子分として秀吉公に使えたと伝わっています)
 
そして、唐突に蜂須賀小六親分の娘「糸姫」が登場しましたね!
親分の娘らしく、物怖じしない娘さんで、貴公子長政との出会いは、なんとも少女マンガちっく!!
 
 
糸姫と長政とは相思相愛で仲のよい夫婦になるのですが・・・
戦国時代に生きた姫には悲劇が。。。(涙
 
今回のドラマは山崎合戦まではほぼ史実どおりでしたね。
ただし、官兵衛が、池田恒興を単独で秀吉軍に参陣させたというのと、
井上九郎が単身、光秀の本陣を訪れ宣戦布告をする、というのは演出ですね。
 
そして、明智光秀のあっけない最期。
 
個人的に好きな武将の一人で、武将として優れていただけに
山崎合戦前後のあっけない幕切れには、毎回哀れを覚えてしまいます。
 
ただ、どうしても 小朝の光秀は・・・納得できなかったなあ。
小朝さんもがんばっていたのですけど、個人的な思い入れがあるのです。
戦国時代の元祖イケメン武将なだけに、もうちょっとかっこよい俳優さんに演じてもらいたかったなあ。
 
 
本能寺の変で討ち死にした信長公は、
数多の家臣の中でも特に愛でていた明智光秀とともに、
紅蓮の地獄へと連れて行ったかのように思えます。
 
信長公の最期の言葉  「是非に及ばず」
これは、自分自身が下克上、虐殺、謀殺を繰り返し戦国の世に生きた以上、
腹心である明智光秀の謀反もまた一つの有様だと。
明智光秀への恨みも憎しみもそこには感じられません。
 
しかし秀吉は「信長公の仇敵、明智光秀を討伐する」事をスローガンに掲げ
短時間にその正当性を内外に大いに宣伝することに成功しました。
 
そして光秀の誤算は、光秀が想像していた以上に「朝廷権威が失墜」していたことでしょう。
 
史実でも明智光秀が毛利の小早川隆景に送った書状が残されていますが、
その中で光秀は、信長を殺害したことを知らせると同時に、わざわざ足利将軍への忠誠を
言及していました。
しかし、結局毛利は光秀に味方をしませんでした。
秀吉の中国大返しを追討するような「へま」は起こさなかったのです
それは、もはや、足利将軍家の威光など何の使い道もない事を、聡明な小早川隆景は
しっかりと理解していたのです。
 
そして百姓という下賎の身分であろうと、天下を取るのは羽柴秀吉だと、
高松城との和議交渉で認識し、秀吉に毛利の運命をも賭けたのです。
 
「天下布武」を掲げた信長公の究極の目的は、朝廷や仏教会など既得権や古臭い権威や伝統の打破であり
そのために自ら血まみれの戦に身を投じ、勝利してきたのです。
そして、その先鋭的な意識は、次第に戦国武将や庶民まで徐々に浸透していたのでしょう。
 
その流れに乗ったのが、秀吉でした。
伝統や権威からかけ離れた下賎の出身者が、その実力だけで「天下人」となる。
そのような環境が整っていたといえるでしょうし、その好機を逃さず、すべての財産をなげうってでも
「中国大返し」という賭けに出たのだと思います。
 
そして黒田官兵衛という天才軍師が、このとき、秀吉の側にいたのも
大きな好機の一つでしょう。
 
羽柴小一郎や蜂須賀小六、浅野長政ら尾張から恩顧の家来とともに
新参の官兵衛を重用するのは、人間関係の観点からやや難しい面もあったかもしれません
しかし、見事に融和させ、「チーム秀吉」として機能させた手腕は、さすが”ひとたらし”の秀吉でしょう。
軍師としての智謀のみならず、姫路出身の官兵衛は地の利をも味方にしてくれました。
 
ドラマでは、官兵衛ひとりの功績のように描かれていますが、
この大返しは「チーム秀吉」の力が、最大限に活用された事を、皆様ご理解くださいませ。
 
んでもって、竹中秀吉さん。
長浜で再会した「おね」にキスの嵐でしたね〜
黒木瞳さんやその他キャストの苦笑いがなんとも可笑しかった。
そんな大切な妻がいるのに、お市の方に懸想して茶々まで追慕し続けるなんて・・
男ってさ。いつまでも初恋に憧れてさ、子供っぽいんだよな〜。 
 
 
さて今回は、「山崎合戦」から「清洲会議」までの流れをプチ解説したいと思います
 
それ以前については、前回の感想を参照ください。
 
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/67303902.html 「第29回 天下の秘策」
 
6月11日 全軍で姫路を出発した秀吉軍は、尼崎に到着した。
尼崎城の城主・池田勝三郎恒興に面会するためである。
勝三郎は信長公の乳兄弟で幼いころからともに育った仲であったが、
秀吉や光秀のように信長から引き立てられることなく、昇進はつねに一歩遅れていた。
大名になったのも2年ほど前。
荒木村重謀反の後、有岡城、尼崎城、花隈城の三城と周辺の土地を与えられただけであった。
しかし、後に秀吉&家康にいたく気に入られたように、池田勝三郎は芯から誠実な男であった。
わざわざ立ち寄った秀吉に礼を尽くし、ともに明智を討ち果たそうと手を取り合ったのである。
 
その後尼崎の寺に立ち寄り、おごそかに髻を切り、
「信長公への哀悼と光秀討伐必勝」を祈願した。
京に入る前、諸侯や朝廷の目を意識した、見事な演出といえる。
 
一方の光秀は、近江を押さえて6月8日に安土城から発ち、坂本城に戻った。
そして翌 9日に京へ入り、6月10日 京都を発ち、山崎八幡山の東、「洞が峠」に陣取った。
 
光秀は次男の養子先である筒井順慶がなかなか参陣しないことに業を煮やし、
大和郡山へ家来を送って説得する一方、自ら洞ヶ峠に出陣して、救援せよと威圧するも
結局順慶は現れなかった。
 
秀吉はそんな筒井順慶へも「別儀ない旨」の誓詞を送り、大和郡山へと使者を送った。
 
本能寺の変の際、四国征伐のため堺に出陣していた信長公の三男・神戸三七信孝と、
大坂城に入っていた副将の丹羽長秀は、その他ライバルに対して最も京に近く
光秀討伐の一番槍が可能であったにもかかわらず、
何を血迷ったのか、信長の甥で光秀の娘を妻に迎えていた織田(津田)七兵衛信澄を真っ先に攻め滅ぼした。
 
同士討ちの愚行である。
 
当ブログでお馴染みの 織田(津田)信澄は、信長公の同母弟・信行の遺児。
信長は自ら手にかけて註殺した実弟の嫡子をなぜかひどく可愛がり
 またこの甥っ子も父の仇である叔父によく使え、副将として何度も戦で手柄を立てていた。
 
信長の実子である三人の息子達よりも、
この甥っ子・信澄は格段に器量が優れていると人々は噂しあっており、
その嫉妬もあり、神戸三七信孝は、父の仇よりもまずライバルを蹴落としたのであろう。
 
しかし、信孝と丹羽長秀が織田信澄の殺害に血眼になっている間に、
明智の襲撃を恐れて彼らの兵の多くが逃げてしまい、
そして、秀吉が大軍を携えて、怒涛の如く、備中から京へと駆け戻って来て
なす術もなく、光秀討伐の主導権を握られてしまった。
 
秀吉は神戸信孝と丹羽長秀に書状をしたため、
「明日は高槻に兵を進めるゆえ、高槻にてお待ちする」と伝えた。
 
6月12日、秀吉は高槻の富田に陣を敷いた。
道中、筒井順慶からの使者が追いつき秀吉へ「誓詞」を差し出した。
 
6月13日、ようやく、丹羽長秀と神戸信孝が富田に参陣した。
秀吉の後を追うことは、秀吉の風下に立つことを意味するが、しかしここで追わねば、
信長公の弔い合戦を見て見ぬふりをしたことになる。
 
摂津衆、丹羽&神戸軍と合わせて、羽柴軍は3万3千。
対する明智軍は近江に押さえの兵を残していたため、1万1千人。
 
6月13日、山崎の合戦は、申の刻(午後4時)という遅い時刻に始まり、
明智軍は日暮れも待たずに総崩れとなった。
 
明智軍のあっけない敗走にみえるが、前哨戦では明智軍が有利にたった時間もあった。
 
実は、6月12日夜、
我らが黒田官兵衛は、羽柴軍の先鋒としてすでに天王山に出陣していた。
 
(細かい点ですが、ゆえにドラマで官兵衛が富田陣で秀吉の側にいるのは間違いです。)
 
羽柴秀吉軍の先鋒は 
中央に摂津衆の、中川清秀、高山右近軍。
左翼は、羽柴小一郎、と黒田官兵衛、神子田正治軍。
右翼は、池田恒興、加藤光泰、木村隼人、中村一氏
 
明智軍の先鋒は 斎藤利三、柴田源左衛門、阿閉貞征服 らの近江衆5千
左翼山の手には、松田太郎左衛門、並河掃部ら丹波衆 2千
その背後に明智本隊が布陣していた。
 
天王山の地形は、狭い道しかなく、大軍が行動するには不便であり、守るのは容易であった。
数で劣勢の明智光秀が、この天王山を戦場に選んだのは、さすが、といえる。
 
事実、6月13日申の刻、
戦闘が前面化したとき、先鋒で山崎に突出していた、中川、高山各2千は、
明智軍の精鋭である、斎藤隊に、本陣右備えの伊勢、御牧ら旧室町幕府衆をも投入し、
たちまち、中川、高山隊は後退してきた。
即座に、黒田官兵衛と神子田正治がそれぞれ300の兵を率いて中川隊の救援に駆けつけるも、
狭い地形ゆえ、羽柴軍の後続がなかなか来ない。
しかもこのとき、高槻の富田にある秀吉本隊に、やっと、丹羽、神戸軍が参陣した頃であった。
 
敵味方一進一退一の激戦が一刻あまりも続いたとき、突然明智軍の態勢が乱れ始めた。
反対側の川筋から、第二陣である、池田恒興ら諸隊が攻め込み、
手薄となっていた明智軍の左翼を打ち破っていた。
明智軍は総崩れとなり敗走。
光秀は一旦、青龍寺に逃れ、闇夜に乗じて城を抜け出し、妻子の居る坂本城を目指した。
ところが、山科に差し掛かったとき、土民の落武者狩りに遭い、竹槍で刺し殺され、
首を取られて秀吉の許に運ばれた。
6月14日。 明智光秀の波乱に満ちた生涯は終わった。享年55歳であった
 
ここからは、ねたばれ注意・・・
 
 
 
秀吉のすごさは、中国大返しから山崎の合戦で明智光秀を討ち果たした後も
決して、その行動のスピードを落とさなかったことである。
「天下人」になるためのライバル達との権力争いである。
6月27日の「清洲会議」までの2週間、秀吉の行動と巧妙な根回しは、驚嘆に値する。
おそらく軍師・官兵衛はじめ、「チーム秀吉」も総力を上げて、一秒も暇もなく働いたことであろう。
 
6月14日、光秀の死をその目で確認した秀吉は、
次は何よりも自身が京に入らねばならないと、富田の陣を引き払い
翌6月15日には、大軍を率いて華々しく入京。
明智光秀の首を粟田口に晒した。
誰が勝利者で誰が敗者なのかを、天下に示したのである。
 
秀吉は、近江近辺で明智の残党を追討した後、尾張清洲城を目指した。
 
信長の嫡子である信忠は、二条御所で明智軍に攻められ自害する間際に
取次衆の一人である前田玄以に「急ぎ岐阜に戻り、妻子を連れて清洲に逃れよ」と。
清洲城は織田家が興隆する基礎を作った城。そこなら安全だという想いがあったのだろう。
 
前田玄以は遺言どおり、信忠の妻子を清洲に逃れさせていた。
 
織田信長の跡目を誰に継がせるか?遺産をどう分配するか?
その重要な会議が「清洲城」で行われた経緯はこのような理由もあった。
 
天正10年6月27日 世に言う「清洲会議」である。
当時の故信長の重臣で、織田四天王と呼ばれたのは
柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉であったが、
反秀吉の一人である滝川一益は、信長の死を知って反撃にでた後北条氏と
上野の神流川で戦って大敗し、西に向かって敗走中のため、この会議に間に合わなかった。
 
柴田、丹羽、羽柴の3人だけではいかにも少ないということで、
信長の乳兄弟で山崎の弔い合戦で功のあった池田恒興が急遽メンバーに加わった。
 
ここで、秀吉に近い、池田恒興を重臣のメンバーに加えたれたのは大きかった。
また、丹羽長秀も、自分の味方になるよう、すでに話しをつけてある。
秀吉の根回し、作戦の周到さを物語っている。
 
この日の会議で最も重要な跡目問題であるが、候補者は三人居た。
 
信長公の嫡男・信忠の忘れ形見の三法師
次男の北畠信雄
三男の神戸信孝
 
次男の北畠信雄は信長からも度々叱責された愚鈍な男で、
本能寺の変後、わざわざ兵を率いて安土城へ赴きながら、ほとんど敵兵もいない安土城に攻め込み
天守閣に火を放ち、父が苦心の末築いた巨城を焼き払うという愚行を働き、諸候の顰蹙をかっていた。
 
また神戸信孝も、謀反の証拠もないのに身内である織田信澄を討つ愚行をしでかしていたし、
他の兄弟に比べて、母の出自が低かった。
となれば、わずか三歳とはいえ、嫡流の三法師が良いとなる。
 
柴田勝家以外の秀吉、池田、丹羽は、三法師を推した。
柴田は「神戸信孝」を強く主張する。
 
一説によれば、清洲会議で秀吉は、「三法師様を」と自分の考えをいい終わると
「気分が悪い」と言い出して、別室に引きこもったという。
そしてその間に、丹羽長秀が
「次男を飛び越え、三男が跡目を継ぐのは筋が通らず、織田家分裂の危機を招く」と
柴田勝家を説得したというのだ。
 
柴田は、丹羽長秀相手にごり押しもできずしぶしぶ承知した。
 
そして三法師が跡目を継ぎ、神戸信孝と北畠信雄が後見。
急ぎ安土城を修復し、三法師様は、速やかに安土城へ移り頂く、と決着した。
 
そして領地分配については、
 
織田信忠の遺産である、尾張は、北畠信雄に。そして美濃州は神戸信孝に。
明智光秀の丹波、河内、山城は秀吉に。
若狭の旧領に、近江の湖西、志賀、高島は丹羽長秀に。
西摂津は池田恒興に
近江長浜5万は柴田に
会議不参加であった滝川一益は伊勢の桑名、員弁、三重など5万石が与えられた。
(とはいえ、滝川は北条に破れて既に信州と上州を失っていた)
 
結局、山崎合戦に参戦できなかった柴田と滝川が、領地でも見劣りする処遇となった。
憤懣やるかたない柴田に、自分を支持してくれたお礼として、
神戸信孝は、美人の誉れ高い信長の妹・お市の方を妻に与えてくれた。
 
お市の方は、小谷落城後、三人の娘とともに信長の庇護の下、岐阜城(もしくは伊賀上野とも)にいた。
天正10年のとき35歳であったが、容色はまったく衰えていなかったという。
秀吉も密かにお市にあこがれていたが、彼には正妻・おね がいた。
しかし勝家は、その少し前に正妻を亡くしており、
お市も猿の側室になるよりは、男らしい勝家の正妻になることを望んだ。
 
柴田と市の結婚は、神戸の結託をも意味し、さらに出遅れた滝川一益も
岐阜に足を運び、柴田、神戸とともに「打倒秀吉」の仲間に加わったのである。
 
清洲会議の後、秀吉は、山崎の南にある宝寺に城を構え、
京と宝寺を往復しながら京の政務を取り仕切っていた。
そこへ、柴田勝家とお市が、岐阜で祝言したというニュースが入ってきた。
秀吉は傍目にも分かるほど、動揺したという。
 
秀吉が柴田勝家を敵として憎むのは、実は憧れの女性を奪われた嫉妬もあるといわれている。
 
岐阜の「反秀吉」の三人とお市の方に当てつけるよう、
秀吉が京で信長公の葬儀を執り行うと発表した。
10月11日から17日までの7日間、龍宝山大徳寺で前代未聞の大規模な葬列となった。
秀吉は岐阜の三人や清洲の北畠信雄にも参列を呼びかけたが、
参列するということは、秀吉の喪主を認めることになる。
それはすなわち、信長の真の後継者は秀吉であると、暗に認めたことになる。
彼らは結局参列しなかった。
 
そして、秀吉と、柴田、滝川、神戸信孝の対立は避けられないものとなり、
翌 天正11年4月に、賤ヶ岳の戦いへと向かっていくのである。
 
 
そして次回。
 
なああああんと、村ちゃんのお姿が予告に。
そうです、村重改め、道糞 が再登場してました〜〜〜!
これは超嬉しいです!!
 
荒木村重と黒田官兵衛の再会シーンはあるのでしょうか?
この不可思議な友情で結ばれた二人の絡みに、胸キュン必至となりそうです。
 
 

.
ゆーくんままま
ゆーくんままま
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

ブログバナー

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

友だち(1)
  • 龍王山瑞雲寺
友だち一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事