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さあさあ、「中国大返し」が始まりました。
高まります!!
特に、安国寺恵瓊と小早川隆景がいい味出してましたね。
前回のブログでも書きましたが、
小早川隆景から毛利の旗20本を借りたとされる説もしっかり組み込んでいて、
史実を基本とした、大満足のドラマに仕上がっていました。
すなわち、本能寺の変から僅か3日後、6月5日、
『殿をつとめた黒田官兵衛は、備中高松城を出立する際、
なんと、小早川隆景から毛利の旗20本を借り、また宇喜田秀家の旗10本も借りて
両家の旗を挙げて行軍したといわれている。
つまり、羽柴秀吉は、毛利と宇喜田、両家と手を組んだと、敵の目を欺いたのだ。
毛利の旗を貸した時点で、小早川隆景と黒田官兵衛との間には、
すでに天下の話が出来上がっていたのでしょう。』
ドラマで、天下のため、毛利のためと切腹し清水宗治の命を無駄にしないため、
小早川隆景が旗を20本貸し出すと約束した時、
官兵衛が、「このご恩は必ずお返しいたす」と隆景にささやくシーンがありましたね。
素直に受け取れば、天下後、毛利は豊臣政権下で112万石もの所領を安堵され
五大老の一人に就任することなど、豊臣政権下での毛利の安泰を暗に約束したととれます。
さらに深く読み込めば、
「関が原合戦」の後、西軍の総大将に祭り上げられた毛利氏と毛利輝元を
改易、取り潰し切腹必至の絶対絶命の危機から、救い出し未来を予言しているともとれます。
関が原合戦後、西軍の首謀者として安国寺恵瓊は打ち首となったものの、
家康と毛利の和平交渉で尽力したのは官兵衛の嫡子・黒田長政であったからです。
ともかく、個人的に、黒田官兵衛と小早川隆景の良好な関係は隆景逝去まで続き、
毛利の本城、広島城の縄張りをアドバイスしたのは、官兵衛その人でありました。
ともかく、
小早川隆景 演じる 鶴見辰吾さん
安国寺恵瓊 演じる 山路和弘さん、
そして、我らが 岡田・官兵衛 の3人の密議のシーンは、まじでまじでまじで
しびれました!!!
かっこいいですね。
ただし・・・・一点。
水を差すようで申し訳ないのですが、
船上での切腹に臨む清水宗治が末期に「黒田官兵衛〜!」と大声で叫び
「そなたにあえてよかった」と伝えるのは、さすがにあり得ないし、あってはならないかと・・・。
官兵衛が主役だからとはいえ、この演出だけはいただけませんでした。
それでは、今回は、
清水宗治の切腹と、中国大返しへのプロローグとして、プチ解説を行いたいと思います。
清水宗治 (1537〜1582)
備中国賀陽郡清水村生まれ。
備中清水城の城主を務めた後、毛利に付き、備中高松城の城主となった。
特に小早川隆景の配下として、毛利への忠誠心厚く、
隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深く信頼された。
秀吉による「水攻め」で完全に孤立した高松城にあって、
秀吉だけでなく毛利からの「織田への降伏」をきっぱりと拒否し、毛利への忠義を貫く覚悟をみせる。
事実、秀吉との和議で、毛利は領土の割譲よりも「宗治の命」に重きを置き、
和議交渉がいったん頓挫したほどであった。
ところが、驚愕の事件が起こる。
6月2日 本能寺の変である。
6月3日 未明、秀吉はこの事実を知る
即座に 信長落命の事実を徹底的に隠匿したまま、秀吉は安国寺恵瓊を呼びだし
領土割譲の条件を緩和して城将宗治の切腹を以って城兵の命は助ける事を提示、 和議の成立を急いだ。 そして、高梁川(山陽道)と八橋川(山陰道)以東の地の割譲と、清水宗治の切腹である。
先に秀吉の提示した条件よりは格段とゆるくなっており、本領安堵と同条件であった。
和議の起請文は以下である。 *秀吉から毛利三将に対して起請する形式となっている。
「起請文の事
一、公儀(信長)に対され、御身上の儀、我ら請取し申し候条、いささか以って疎略に存ずべからざる事。
一、申し候に及ばずともいえども、輝元、元春、隆景、深重如在なく、我ら進退を懸けて
見放し申すまじき事。
一、かくの如く申し談ずる上は、表裏抜公事の事、これあるべからざる事。」
清水宗治は講和条件を受諾した。
秀吉は、清水宗治に酒肴10荷に上林(宇治茶)3袋と小船を送った。
宗治は贈られた酒と肴で別れの宴を行い、城内の清掃などを家臣に命じ、身なりを整えた。
6月4日巳の刻(午前十時)、宗治は、兄の月清、難波伝兵衛、末吉左衛門とともに、
秀吉から差し向けられた小舟に乗って秀吉の本陣前まで漕ぎ、
湖上で誓願寺の曲舞を謡い舞った。 辞世を遺し、兄の月清らとともに水上で切腹した。 城兵五千の命のために切腹して果てたのである。 享年47歳。
辞世は「浮世をば 今こそ渡れ武士の名を 高松の苔に残して」
秀吉は 涙を流して清水宗治の最期を見守り、武士の鑑と賞賛。
手厚く葬り、石塔を建てて冥福を祈らせた。 秀吉の凄さは、焦る気持ちを抑え、講和が成立した後も、
名将、清水宗治の最後の舞を鑑賞し、丁寧に弔い塚まで建てたところにある。 毛利を欺く為でもあったろうが、心底清水宗治の潔さに感激したのだろう。
これが、秀吉の「人たらし」たる所以であろう。 妙心寺奥にある「清水宗治公自刃之跡」 (2011年3月19日撮影)
『備中高松城〜岡山の旅①2011年春〜』
6月4日午後になり、毛利に「本能寺の変」の情報が伝わる。
吉川元春は秀吉追撃を主張するも、小早川隆景が「既に誓詞を交わしている以上、和議しかない」と
これを説得し、人質交渉を行う。
秀吉側から森重政治、高政治兄弟(後に輝元に気に入られ毛利姓を名乗る)
毛利側から小早川秀包と桂広繁が送られた。
6月5日、前日の夜から徹夜で兵糧や武器等を運び出す作業が完了し、
同時に水攻めのために築いた堤防が切られた。下流一帯を泥田にするためである。
これは毛利の追撃を困難にするとともに、毛利へもこちらから攻めかける意図のないことを示した。
事実、毛利勢は6月5日の早朝から撤退を開始し、6日朝には大半が姿を消していた。
6月6日、総大将 羽柴秀吉も出発した。
側には10歳の宇喜田秀家と15歳の羽柴秀勝を連れている。
宇喜田秀家は姫路までの通路の安全を保障し、秀勝は信長の遺児として明智討伐の正当性を
保障する。この時この二人の少年が手元に居たのも、秀吉の強運を表している。
一番危険な殿(しんがり)は羽柴小一郎が任された。
秀吉は、神子田正治と、黒田官兵衛を小一郎軍につけた。
武勇の神子田と、智謀の官兵衛。
この編成は、天下分け目の山崎合戦が終わるまで続く。
実は、「中国大返し」における姫路までの行程はよく分かっていない。
羽柴勢約2万が同じ道で一気に退却すると大混乱になるので、
山陽道と、旧道の二手に分かれて退却したとも言われている。
しかし、連日の大雨で、吉井川、千種川、揖保川、加古川の水嵩が増し、
特に、吉井川の渡河に難渋したようだ。
それでも、6月7日には、高松城から80キロも離れた姫路城に秀吉軍は到着している。
悪天候でのこのスピードは驚異的といえる。
「チーム秀吉」の結束力や差配の迅速、的確さが大軍の進撃を可能としたのだ。
さらにこの強行軍の間にも、秀吉は数十通の手紙を書き、上方の諸侯に送りまくった。
手紙の内容な「信長様は無事瀬田に引き揚げた」といった嘘八百であったが、
情報が混乱し、錯綜していたこの時点では、相手を惑わす効果があった。
そして、羽柴軍の驚異的な進撃は、明智光秀に近隣の大名を味方に誘う暇を与えなかったのだ。
明智光秀は子宝に恵まれ美人の娘が何人もおり、それぞれ有力な武将の家へ嫁いでいた。
荒木村重の嫡男の正室は有岡城合戦で離縁して実家に戻っていたが、
細川藤孝の嫡男・忠興の正室、お玉(後のガラシャ)はその美貌で評判が高く、忠興もぞっこんだった。
筒井順慶は、光秀の次男・十次郎を養子に迎えていた。
当然、光秀は細川と筒井との合同戦線を考えていただろうが、この肝心の二人が動かなかった。
細川藤孝に至っては、信長の喪に服して剃髪し幽斎と名乗り、家督を忠興に譲り、
そして光秀の娘・お玉を丹波の味土野に幽閉する始末である。
そして光秀の与力となった、荒木村重元配下の摂津の中川清秀と高山右近は、
羽柴軍に来て、その先鋒を務めている。
また、神戸信孝や丹羽長秀も、積極的に秀吉との合同作戦に加わることになった。
これは秀吉の迅速な調略が効果的に働いたのだ
「信長様の遺児秀勝様のため、逆賊光秀を討つ」というプロパガンダが
彼ら諸侯の参加を容易にさせたと言えよう。
秀吉は姫路を出立する9日までに、これら有力諸侯に手紙や使者を送り、
外交手腕により、たちまち戦況を有利に導くことに成功している。
そして6月9日、姫路城には浅野長政を城代として置き、全軍で姫路を出発して、京へ向けて進軍した。
このとき、姫路城のすべての米蔵と銭蔵を開けて、身分に応じて足軽含めすべての兵士に米と銭分け与えた。
姫路城に金子は800枚、銀が7百50貫、米は8万5千石ほどあり、
これをすべてすべての兵士に分け与えたのだ。
この特大ボーナスは、通常の5倍もあったという。
この時点で秀吉はすっからかんになったが、「この大勝負に勝てばすべて取り戻せる。」と言い
事実、そのとおりになった。
「この筑前、信長様の仇を討つまで負けては二度とこの城には戻らぬ。」と豪語した。
篭城ではなく光秀打倒を鮮明に打ち出し、軍の結束と英気を養ったのだ。
さらにわざわざ尼崎の寺に立ち寄り、おごそかに髻を切り、
「信長公への哀悼と光秀討伐必勝」を祈願した。
京に入る前、諸侯や朝廷の目を意識した、見事な演出といえる。
一方の光秀は、近江を押さえて6月8日に安土城から発ち、坂本城に戻った。
そして翌 9日に京へ入り、6月10日 京都を発ち、山崎八幡山の東、「洞が峠」に陣取った。
尚、筒井順慶の「洞ヶ峠」についてのエピソードは、興味のある方は、
下記過去記事お読みいただければ幸いです
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/54864045.html 『洞ヶ峠』筒井順慶の真実〜戦国故事話
6月13日、秀吉は天王山の麓、高槻の富田に陣を置いた。
秀吉軍、摂津衆(中川、右近)、丹羽長秀、神戸信孝の軍合わせて、3万3千。
対する明智軍は1万1千。
秀吉軍は数で圧倒していたが、所詮は烏合の衆。
明智軍は光秀直轄の精鋭軍であった。
秀吉軍で先鋒を申し付かったのは、
中央に摂津衆の、中川清秀、高山右近軍。
左翼は、羽柴小一郎、と黒田官兵衛、神子田正治軍。
右翼は、池田恒興。その生母養徳院が信長の乳母であり、信長公とは乳兄弟であった。
精鋭には精鋭をぶつけたのである。
6月13日、両軍は、天王山の麓、山崎の地で戦闘状態になる。
激戦の後、明智軍は劣勢となり一旦、光秀の居城・勝龍寺城に退いた。
秀吉軍は城を包囲するが、官兵衛は、「孫子の兵法」に則り、北の攻め口を開けさせた。
その夜、官兵衛の思惑通り、光秀は5〜6人の供回りを連れて北の攻め口から出奔。
自身の本拠地・坂本城を目指したが、途中、伏見の小栗栖で、落ち武者狩の農民に襲われて
あっけなく殺された。
6月14日 享年55歳であった。
6月2日本能寺の変からわずが12日間の後のあっけない最期であった。
そしてその2週間後、
戦後処理、信長公の遺産処理のため、織田家の重臣たちが尾張清洲城に集結した。
天正10年6月27日、世に言う「清洲会議」である。
秀吉怒涛の快進撃は、まだまだ続く!!!
次回は「中国大返し」から「山崎合戦」ですね。
官兵衛の智謀により天下人へと駆け上がる秀吉。
官兵衛や秀吉、そして秀吉の側近達、すなわち「チーム秀吉」が最も輝いていた時代です。
家康の「伊賀越え」も個人的に興味深いエピソードなのですが、
書き出すと長くなるのでまたいつか。
次回は、「山崎合戦」について、その布陣や戦況などについて、
書いてみたいと思います。
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/62253595.html 尾張の旅①〜清洲城 (2009年8月)
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大河ドラマ「軍師官兵衛」
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先ほど録画を観たのですが・・・
迫力ありましたね!!!
見ごたえも十分。間違いなく、神回だったと断言できます。
戦国時代、特に「本能寺の変」は史実を的確に描くだけでもドラマなのです。
今年の大河ドラマは、史実にできるだけ沿うよう、その姿勢が顕著なだけに
「本能寺の変」とその後の描写も、より迫力を感じてしまいます。
特に「すごい!」と感じた場面を列挙して、感想にかえたいと思います。
◎ 信長が「生か死か」と本能寺の奥に進むも、行く手に炎に阻まれ
一瞬に死を覚悟するシーン。
晩年は自身を神格化しようとした信長公であるけれども、恐ろしいほどの「無神論者」
現代人よりもその合理的思考は優れていると思われます。
その理性で人生の最後を自分で決着する姿こそ、This is 信長。
後のプチ解説でも触れますが、「是非に及ばす。」という言葉が、信長公の真髄を物語っています
◎ 本能寺の変の翌日、6月3日夜半、
長谷川宋仁の使者が「光秀謀反」「信長公生害」の事実を伝えた。
そうです。この第一報が秀吉にもたらされたことが、秀吉を天下人へと押し上げたのです。
一日、いや、一時間遅くても、中国大返しは不可能だった可能性があり、秀吉の強運を物語ります
と同時に、戦国時代も、現代同様、「情報網」の迅速さ正確さが、雌雄を決したことを証明します。
光秀から毛利へ使わされた密使が秀吉の陣で捕らえられた、という説もありますが、
どちらも史実と思われます。
「太閤記」などによれば、ドラマのように官兵衛へ、ではなく、秀吉本人に「お人払いを」と伝えたものの、
秀吉は側近とともにこの変事を聞いています。
すなわち、羽柴小一郎、蜂須賀小六、黒田官兵衛、浅野長政、杉原家次
秀吉はこの側近と密議の後、徹底的な情報管理を行い、敵へ情報が漏れないよう周辺を固め、
光秀から毛利や西国諸国へと放たれた間者を捕縛しました。
ドラマでは、官兵衛が真っ先に長谷川宋仁の使者から「本能寺の変」の情報を掴み、
数分で「天下取の秘策」を考えだして、秀吉へ献策した、となっています。
岡田官兵衛の表情が、次第に生き生きしていくのが、実にリアルですばらしかった。
これぞ官兵衛なのです。
◎ 官兵衛が、安国寺恵瓊に、「本能寺の変」について真実を知らせた描写。
⇒ おお、そうきたか?! でしたね。
後述しますが、中国大返しの直前、秀吉は毛利へ「本能寺の変」の事実を伝えていた、と
言われており、その説に沿った小説も何本か読んでいます。
毛利が羽柴軍を追撃しなかったことや
毛利自身も、水軍や雑賀による綿密な情報網を持っていたため、
遅かれ早かれ「本能寺の変」の事実が伝わることは明白なので、早めに情報を伝えることで
交渉を有利に運ぼうとした、秀吉、官兵衛の交渉術は大いに可能性はありました。
しかし、官兵衛が独断で伝えたとは到底考えられず、秀吉の意向、もしくは承諾があってのことでしょう。
しかも、「信長打死」を伝えたのは、毛利との和議交渉が成立した後、というのが定説です。
和議の前に、事実を伝えた、というのは、あり得るようであり得ないようでもあり、
しかし、前回の感想でも書きましたが、秀吉の天下になって後の、
官兵衛と小早川隆景の仲良しぶりから推理すれば、敵見方含めて、誰よりも早く
安国寺恵瓊とそのバックにいる小早川隆景に、「光秀謀反、信長生害」というカードを切ったとしても
あり得ない話ではない、と個人的には思います。
もう一つの説としては、
和議を結んだ後、中国大返しの直前、毛利には「明智光秀、柴田勝家、津田信澄による謀反」と
似て非なる情報を流して、毛利に秀吉追撃をあきらめさせたとも言われています。
光秀単独であれば、毛利にもチャンスはあれど、柴田の大軍も相手となれば勝ち目はなく、
ここは秀吉に恩を売っておくのが得策と判断したとも考えられています。
「正確で迅速な情報」といえば現代でもネットを中心に、「メディアリテレシー」の重要性が
クローズアップされていますが、戦国時代も同じでした。
明智光秀が秀吉に負けたのは、情報戦略で後手になったことが大きな敗因でした。
光秀は、信長の首を発見できなかったこともあり、朝廷のみならず、武将たちの協力を
得ることができなかったのです。
生真面目な光秀は、即座に信長亡き後の天下のビジョンを示すことができず、
京でのスローな動きが致命的となってしまいました。
しかし秀吉は、恐るべき速さで京へと進撃してきました。
世にいう「中国大返し」です。
官兵衛は、生真面目な明智光秀の性格から、京で光秀が天下に号令するには時間がかかると
おそらく読みきっていたのではないでしょうか。
ゆえの・・・
◎ 「殿!殿が天下をとる好機到来ですぞ。直ちに光秀を滅ぼし、天下に名乗りをあげるのです。
すべてこの官兵衛にお任せください」
岡田君、迫真の演技でした!!
あまりのことに驚愕し我を忘れて上様と叫ぶ秀吉を一喝した官兵衛の「囁き」。
官兵衛の目が異様に光っていて、ぞくぞくしてしまいました。
秀吉も秀吉です。
官兵衛の進言に我に返り、密かな野心と冷徹な一面を一瞬見せましたね。
そして、官兵衛の言葉で「天下」という明確な目的を持った秀吉にとって、
織田信長という偉大で恐れ多い君主は、一瞬にして過去の人になったかのようでした。
岡田くんと竹中さんの演技合戦。
二人がお互いの闇を共有しその深遠を垣間見たことで、
秀吉と官兵衛の関係性も少しずつ変わっていくのですが、
その深層心理を理解するに十分すぎるほどの、演技対決であり、これからの二人の絡みに
ますます惹かれていきそうです。
そんな大迫力の「本能寺の変」ですが、
実は、私が個人的に一番うれしかったのは、
官兵衛と御着の殿との悲しい別れ.
ああ、やっと、やっと、史実を描いてくれた!と脚本に感謝です。
というのも、第24回「帰ってきた軍師」で、官兵衛が御着の殿と斎君を逃がした描写に、
「史実と違う、なぜ、官兵衛が没落した小寺政職の嫡子である斎君を引き取り、密かに養育した」という
史実を描かないのか?残念だ、と以前当ブログで書いた経緯があるからです。
私にとって、個人的に「黒田官兵衛」という武将の人格を読み解く重要なファクターが
「有岡城の幽閉と荒木村重との奇妙な友情」であり「裏切った小寺氏の嫡子を密かに養育し一門とした」
この2点でした。
何度も言っているように、黒田官兵衛は、当時の武将にはない、現代文学や哲学に通じるような香りが
するのです。だから私は官兵衛が好きですし、同じ理由で荒木村重も好きなのです。
(岡田准一君と田中哲司さんのキャストは、その点でも100点満点でした)
ゆえに「有岡城の幽閉と村重の煩悩」をあんなに丁寧に描ききった後に、
御着の殿との関わりが中途半端だったことに納得ができず、
それまで史実に忠実であったはずの脚本に少し失望していたのです。
でも、今回、しっかりと史実を描いてくれたことで、脚本への信頼はゆるぎないものになりそうです。
次回は「中国大返し」ですね!
ネタばれになりますが・・・・・・
日付でその動きを列挙すると、
6月2日 本能寺の変
6月3日 未明 長谷川宋仁の使者が「光秀謀反」「信長公生害」の事実を秀吉に伝えた。
即刻、毛利との和議交渉。深夜から翌朝までに、和議成立。
6月4日 午前 和議に従い、清水宗治兄弟自害。
ちなみに、清水宗治に切腹と引き換えに城兵の助命、開城を説得したのは、安国寺恵瓊でした。
6月5日 吉川元春、小早川隆景の両川軍が引き上げるのを確認し
午後には黒田官兵衛を殿に備中高松城を出発した。
備中高松城の城代は、杉原家次を置いた。
いわゆる「中国大返し」である。
一説によれば、殿をつとめた黒田官兵衛は、備中高松城を出立する際、
なんと、小早川隆景から毛利の旗20本を借り、また宇喜田秀家の旗10本も借りて
両家の旗を挙げて行軍したといわれている。
つまり、羽柴秀吉は、毛利と宇喜田、両家と手を組んだと、敵の目を欺いたのだ。
毛利の旗を貸した時点で、小早川隆景と黒田官兵衛との間には、すでに天下の話が出来上がっていたのでしょう。
6月7日 には、80キロも離れた姫路城に到着している。
秀吉は姫路城で丸二日兵を休ませ、その間に、諸国へ文を書きまくった。
また、姫路城に備蓄していた兵糧、金銭をすべて掃き出させて、身分に応じて足軽含め
すべての兵士に分け与え、篭城ではなく光秀打倒を鮮明に打ち出し、軍の結束と英気を養った。
(ま、間違いなく官兵衛の策でしょうね)
6月9日、姫路城には浅野長政を城代として置き、全軍で姫路を出発して、京へ向けて進軍。
6月10日 秀吉の進撃に驚いた明智光秀は、京都を出陣し、山崎八幡山の東になる
「洞ヶ峠」に陣取った。
そして、6月13日 両軍は天王山の麓、山崎の地で戦闘となる。「山崎合戦」である。
ご覧のように、「本能寺の変」から「山崎合戦」まで、わずか11日です。
秀吉の側に、黒田官兵衛という天才軍師がいなければ、この進撃はあり得なかったでしょう。
そして、忠義の武将「清水宗治」の最期も・・・
しっかり見届けたいと思います。
さてそれでは、次回予告した「信長公記」の本能寺の変。
ドラマの内容はかなり史実に忠実であったことが分かります。
江口信長公のお姿を思い出していただきつつ、堪能していただければ幸いです。
本能寺前日までは
前回のブログを参照ください。
「軍師官兵衛 28回 高松城水攻め」
写真は「本能寺」で撮影した信長公の墓所です
『信長公記』
巻十五 卅一
六月朔日(ついたち)夜に入り、丹波国亀山にて維任日向守光秀逆心を企て、
明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐、是等として談合を相究め、
信長を討果たし、天下の主となるべき調儀を究め、亀山より中国へは三草越えを仕候。
爰を引き返し、東向きに馬の耳を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津国地を出勢すべきの旨、
諸卒に申触れ、談合の者共に先手を申し付け、
六月朔日夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国皆道なり。
左へ下れば京へ出る道なり。爰を左へ下り、桂川打越し、漸く夜も明方にまかりなり候。
亀山から中国へは、三草越えなければならないが、引き返して東に馬の首を並べて
夜半、摂津国へは入らずそのまま京へと向かった様子が描かれています。
光秀は 明智左馬助や斎藤利三ら側近に「信長討ち果たす」と伝えたのは6月1日だと分かる。
ルイスフロイスの「日本史」によれば、全軍には、三草を越えず中国から引き返した理由を
「家康を打つため」と説明していたと言われている。
そして「敵は本能寺にあり」と命令したのは、桂川を越えた後であったようだ。 実に用心深い。
巻十五 卅二
既に信長公御座本能寺取巻き、勢衆四方より乱れ入るなり。
信長も御小姓衆も、当座の喧騒を下々の者共仕出し候と思食され候の処、
一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄砲を打ち入れ候。
是は謀反歟、如何なる者の企みぞと御諚の処に、森乱(=森蘭丸)申す様に、
明智が者と見え申候と言上候へば、是非に及ばずと上意候。
透をあらせず御殿に乗入り、両御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候。
・・・・
御小姓衆懸り合ひ討死候なり。・・・
信長初めには御弓を取合い、二、三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候ひて、
御弓の弦切れ、其後御鑓にて御戦ひなされ、御肘に鑓疵を被られ引退き、
是迄御そばに女共付きそひて居り申候を、女なくるしからず、急ぎ罷出よと仰せられ、
追出させられ、既に御殿に火を懸け焼来り候。
御姿を御見せ有間敷と思食され候歟、殿中奥深く入り給ひ、内よりも御南戸の口を引立て
無情御腹めされ。
明智光秀が本能寺を取り巻き、四方より攻め込んできた。
最初、信長公も小姓達も、下々が喧嘩で騒いでいると思っていたが、
トキの声があがり、鉄砲が打ち込まれた。
「これは謀反か。如何なる者の企みぞ。」と信長公が問い、
森蘭丸が「明智の手の者です」と答えると
信長公は「是非に及ばず。」と仰られた。
信長公も弓にて2〜3回応戦するも、弓の弦が切れ、
その後、鑓(やり)にて応戦され、肘に鑓傷を受けて退かれた。
ここまで側にいた女達に「女は苦しからず。急ぎ罷出よ。」と仰り、脱出させた。
既に御殿には火を放ち、自身の姿を見せてはならぬと考えられたのか、
本能寺の奥深くに入り、内からも納戸の口を固く閉じてそこで切腹した。
どうですか?ドラマはかなり誠実に描いている。
弓から鑓に替え、肘に鑓傷を負ったなど細かい描写もリアルである。
ただし、お読みになっていただければ明白であるが、濃姫の記述はない。
多くのドラマで濃姫は本能寺で信長とともに戦い討ち死する最後が描かれていますが、
実は、濃姫の最期は不明なのである。
「信長公記」では、信長の美濃攻めの頃からぱたりと記述がなくなり、
離縁した等の説も根強い。
そして明智の謀反と知るや「是非に及ばず。」と一言。
敵があの光秀であれば、ぬかりはあるまい。
自分が発掘し目をかけ手塩にかけて育てた一番の出世頭である光秀なら、
完璧な謀反を企てるであろうと。
皮肉であるが、信長から光秀は最大級の賛辞をかけられたのである。
しかし信長の智謀もまた、すさまじかった。
官兵衛同様、光秀の生真面目な弱点を見抜き、自身の姿を決してさらさないよう火を放ち
豪火の中で切腹したのだ。
「敵の首を取り、晒す」事を徹底した信長は、その効果を知り尽くしていたのだ。
光秀への最後の矢であろう。
さて「信長公記」であるが、
本能寺で自害した信長公の記述の後、嫡子・信忠の討ち死にから安土城落城の記述が続き、
最後は家康の堺脱出で終わる。
秀吉の中国大返しも山崎合戦も触れていない。
作者の太田牛一の考えがそこに反映されているようにも思える。
かくして、天下布武を掲げた当世第一の革命児織田信長がこの世を去った。
享年49歳。まさに『敦盛』の一説のごとき生き様であった。
人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。
一度生を得て滅せぬ者のあるべきか。
【本能寺の変・関連記事!】
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/62360928.html 『信長と光秀の空亡』
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/59457243.html 『本能寺』] http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/58339961.html 『信長公(考) 雑記』] http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/49990082.html 『「本能寺の変」黒幕異説〜観修寺晴豊 』] http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/51246423.html 『本能寺の焼け瓦 』] http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/3992189.html 『明智光秀の謎』] |
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『ときは今 あめが下しる 五月哉』
本能寺の変、カウントダウンが始まりました。
そして高松城水攻め。
高松城水攻めの内容は、今回もほぼ史実どおりでしたね。
(拙文ですが下記参照ください)
【備中高松城〜岡山の旅①2011年春〜】
現代風に言えば、人口ダム湖の中央に孤立した高松城。
しかも、毛利の援軍が到着する前、
わずか12日間の突貫工事で巨大な堤を完成させたことは驚愕に値します。
ブルドーザーもショベルカーもトラックもセメントもない戦国時代です。
ドラマでは官兵衛ひとりの仕事。。。とばかり描かれていましたが、
何度も言っていますように、これは「チーム秀吉」の大仕事でした。
発案や設計は黒田官兵衛
普請は蜂須賀小六
土俵や兵糧の資金調達は羽柴小一郎
そしてすべてを統括したのは羽柴秀吉
この時点で秀吉の勝利はほぼ確定したのです
毛利も、湖水に沈んだ高松城を目の前にして敗北を認めざるをえませんでした。
そして、安国寺恵瓊を通じての「外交交渉」が早々と始まったのでした。
官兵衛が、密かに小早川隆景の元に現れた、という史実はありませんが、
秀吉の天下統一後、この二人の仲のよさを鑑みるに、
もしかしたら何らかの接触があったかも、と想像してしまいますね。
そして、安国寺恵瓊もまた秀吉の器量にほれ込み、関が原までその忠節を尽くすことになります。
関が原で西軍の総大将に祭り上げられたのは、毛利輝元、その人でした。
秀吉もまた策略家でした。
ドラマや前回のブログでも紹介したとおり、
「毛利と和議の交渉を進めつつ、信長様に毛利成敗のご出陣を要請する。」
和議交渉で難航したのは『清水宗治の切腹』 でした。
「臣下への義」を売りに中国を統括していた毛利が、「忠義の鏡」たる宗治を見捨てたとなれば
その他臣下や城主が次々に寝返る恐れがあったからでした。
史実においても、ドラマ同様、毛利は高松城に使者を送って
清水宗治へ、織田へ一時降伏することを勧めています。
何としても宗治の命を助けたい、毛利の切羽詰まった説得でしたが、宗治は
「毛利よりお許しを得ての降伏とはいえ、世間はそうはみない。
降伏後に信長に斬られたら、命も誉れも失ってしまう。
5千の城兵の命と引き換えの切腹で、せめて我が名を残したい。」と譲らなかったといいます。
和議交渉は暗礁に乗り上げました。
一方、織田信長への出陣要請は、とんとん拍子に進んでいました。
織田信長出陣の前触れとして、堀秀政が2000の兵とともに、到着し、
信長からの口上として
「御長子信忠様、明智光秀殿、筒井順慶殿、細川藤孝殿、中川清秀殿、高山右近殿にも
御命じになり、信長様も御出陣のため既に安土を出られ、京に入られました。」
秀吉はこの口上を聞き、毛利との全面戦争を想定し、信長の宿舎や兵糧や秣(まぐさ)を手配しました。
結局この手配が、「中国大返し」で役にたつとは、秀吉の運の強さというべきか・・・
そして、信長が京の宿舎として利用していたのが「本能寺」でありました。
本能寺については、拙文ですが過去記事を是非参照ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/51246423.html 『本能寺の焼け瓦 』]
そしてドラマでは、安土における「家康饗応」の場面が描かれていました。
寺尾聡さんの家康・・。ちょっと年取りすぎの感はありましたが、オーラ満載でした。
さて今回も「本能寺の変」プロローグとして、
超一級資料である「信長公記」を基に、光秀謀反の前日までを追ってみたいと思います。
***************
ドラマでは、信長公は
光秀が用意した料理が京風の薄い味付けだと光秀を怒った
能がつまらないと光秀を怒った
となっていましたが、史実は少々違う。
『信長公記』の家康接待に関する原文をご紹介すると
「五月十五日、家康公、ばんばを御立ちなされ、安土に至って御参着。
御宿大宝然るべきの由上意にて、御振舞の事、維任日向守(=光秀)に仰付けられ、
京都、堺にて珍物を調べ、生便敷結構にて、十五日より十七日迄三日の御事なり。」
(巻十五 廿五)
よく、光秀の用意した魚料理が「腐っている」と信長が激怒した、とドラマなどで描かれているが、
それは誤解である。
上記の「信長公記」で「御宿大宝然るべきの上意」が
真意である。 実は、当初は家康の宿所を明智光秀の屋敷と定めていたが、
信長が下検分をしたとき、生魚の悪臭が漂っていたため、堀秀政への屋敷へ所替えをした、
と「川角太閤記」に説明がある。
信長公じきじきの抜き打ち査察だったんだろうか?
完ぺき主義の光秀にしては、少々抜かりがあったのは否めない。
尚ドラマで江口信長の台詞である「京風の薄い味付け」は、「信長のシェフ」でも使われたネタですよね
実際、信長は「京風」の味付けだけでなく、京都の文化やしきたり自体がかなり嫌いだったのは間違いなく、
それが京都の朝廷との確執を産んだとも言える。
さて「信長公記」では、その後、備中高松城の秀吉から出陣要請が届き
「信長公、此等の趣聞食し及ばれ、今度間近く寄合ひ候事、
天ノ与フル所に候間、御動座なされ、中国の歴々討果たし、九州まで一篇に仰付けらるべきの旨
上意・・・・
五月十七日、維任日向守、安土より坂本に至って帰城仕り、何れも何れも同事に本国へ罷帰り候て
御陣用意候なり。」(巻十五 廿六)
明智光秀を接待役からはずし、羽柴筑前守(秀吉)援軍のため、即出陣を命じ、
5月17日に安土から坂本城へ帰った光秀が、再び坂本城から中国へ出陣するのは5月26日。
すなわち、この9日間に、光秀は、信長への謀反クーデターを決断したと推測される。
尚、信長公が家康接待のための「能」がつまらないと激怒したのは、5月20日。
光秀が安土を去った後なので、細かい指摘になるが、ドラマの内容と史実は違う。
「信長公記」によれば、
5月19日、安土惣見寺で、信長は家康とともに幸若大夫の幸若舞を鑑賞し、満足した。
しかし翌日、梅若大夫の能が不出来で、激怒し、折檻した。(殴りつけた)
急遽、幸若大夫が再び舞い、前日にも増して上手だったので、機嫌が直り、
幸若、梅若二人に、黄金を与えた、とある。
信長公は「幸若舞」が本当に好きだったのだと分かる。
「幸若舞」の演目のひとつが「敦盛」(あつもり)。
そう、「人間50年・・・」だ。
「信長公記」で桶狭間出陣前に、信長が「敦盛」を舞ったことが記載されている。
「此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。
人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。
一度生を得て滅せぬ者のあるべきか、と候て、螺ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具召され、
たちながら御食をまいり、御甲めし候ひて御出陣なさる。」 (首巻 廿四)
く〜〜〜。かっこいい
本能寺の変直前、安土でも「幸若舞」を堪能し、下手だと激怒したとか、
生身の信長公のお姿が、身近に感じられるし、運命をも感じる部分でもある。
ともに、幸若舞を鑑賞した家康であるが、
「五月廿一日、家康公御上洛。此度、京都、大坂、奈良、堺、御心静かに御見物なされ尤もの旨上意にて
御案内者として長谷川竹相添へられ・・ (巻十五 廿八)」
安土から京へ上洛して観光し、信長はその案内役までつけたとある。
当時の観光名所も、京都、大坂、奈良、堺と現代とあまり変わりない。
一方明智光秀も、運命のときを迎えていた。
「五月廿六日、維任日向守、中国へと出陣として坂本を打立ち、丹波亀山の居城に至って参着。
次日、廿七日に亀山よし愛宕山へ仏詣、一宿参篭致し、維任日向守心待御座候哉、
神前へ参り、太郎坊の御前にて、二度三度迄籤を取たる由申候。
廿八日、西坊にて連歌興行、
発句 維任日向守
ときは今あめが下知る五月哉 光秀
水上まさる庭のまつ山 西坊
花落つる流れの末を関とめて 紹巴
か様に百韵仕り、神前に籠置き、
五月廿八日、丹波国亀山へ帰城。」 (巻十五 廿九)
坂本城から出陣し、丹波亀山城に入った光秀は、翌日雨の愛宕山に参詣し、
三度、御神籤を引く。 「吉」か「凶」か・・・? その結果については定かではない。
しかし、3度も籤を引くという行為は、
その結果が、自分の意にそぐわない内容であったことを暗示している。 御神籤を引き終わった光秀は、何かを悟ったように普段の落ち着きを取り戻し、
愛宕五坊の一つである西坊威徳院で連歌を興行した。 発句を光秀が詠み、脇句を威徳院の行祐法印、第三句を連歌師の里村紹巴がつけた。 全九名で100韻を詠み(愛宕百韻)、書き留めた懐紙を神前に捧げた。 その光秀の詠んだ発句
『ときは今 あめが下しる 五月哉』 光秀の謀反を示す句として余りにも有名である。
ときとは、土岐氏出身の光秀を現し、天が下る、と天下を取ると宣言しているのだ。
当然、ともに連歌を詠んだ西坊も紹巴も何か気がついたであろうが、
信長に心酔している光秀がまさかという思いもあったろうし、
信長様とともに天下を取る、と解釈したのかもしれない。
二人から光秀謀反の疑いが通報された形跡はない。
「五月廿九日、信長公御上洛。・・・・
御小姓衆二・三十人召列れられ、御上洛。直ぐに中国へ御出発向なさるべきの間、
御陣用意仕候て、御一左右次第、罷立つべきの旨御触れにて、今度は御伴これなし。」 (巻十五 廿九)
信長公は、直ぐに中国へ出陣するため、僅かの供回りで本能寺に入ったことが分かる。
また、信長の嫡男忠信は、5月21日にすでに京の妙覚寺に入り、父信長出陣を待っていた。
6月1日、信長公は本能寺で茶会を開く。
そして、その夜・・・・
「6月朔日(ついたち)夜に入り、丹波国亀山にて維任日向守逆心を企て・・・
信長を討果たし、天下の主となるべき・・・」 (巻十五 卅一)
そう「敵は本能寺にあり」である。
次回感想も、「信長公記」を基に、史実の本能寺の変とドラマをリンクして書いてみようと思う。
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さあ、いよいよ「本能寺の変」から「中国大返し」
ドラマも前半最大のクライマックスを迎えました!!
光秀謀反し信長を生害した・・・
その事実が分かったとき、黒田官兵衛が秀吉に
「さてさて天のご加護か。これで、もはや何事も殿の心のままぞ。」 と語りにやりと笑ったと言われています。
予告でちらりと写りましたが、岡田官兵衛・・・・まじですごい表情してましたね。
いや、これはすごいシーンになっていると確信しました。
また竹中さん演じる秀吉のリアクション、演技対決も実に楽しみです。
すなわち、秀吉の深層心理を読みきった官兵衛。
この一言で、秀吉は官兵衛に警戒心を持つようになった言われています。
そして、本能寺にて光秀謀反を知った信長の「是非に及ばず。」
江口洋介さんの超かっこいい信長の本能寺の変、大いに期待したいです!
【本能寺の変・関連記事!】
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/62360928.html 『信長と光秀の空亡』
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/59457243.html 『本能寺』] http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/58339961.html 『信長公(考) 雑記』] http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/49990082.html 『「本能寺の変」黒幕異説〜観修寺晴豊 』] http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/51246423.html 『本能寺の焼け瓦 』] http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/3992189.html 『明智光秀の謎』] |
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松阪桃李君の黒田長政、爽やかでしたね!!
息子と一緒に「シンケンジャー」のファンだっただけに
あの「殿」が、黒田の若殿として初陣をあげたことに感慨深いものがあります
シンケンジャー時代から太刀裁きはうまかったので、安心して観ていられますね!
黒田長政は、常に戦場では先頭にたって全軍を鼓舞した勇猛果敢な武将であり、
かつ、関が原合戦前には、旧友の加藤清正や福島正則を徳川陣営に誘い込むなど
智将としての一面もあり、端正な顔立ちの松阪桃李君にはぴったりではないでしょうか!
山崎合戦、小牧長久手、朝鮮戦争、関が原と、黒田官兵衛&黒田長政、
そして黒田24騎は大働きをします。楽しみですね!
なお、史実による黒田長政の初陣は、ドラマどおり、天正10年3月高松城攻め。
14歳の若武者でした。
同時期岡山城から初陣を飾った秀吉の猶子、宇喜田秀家は若干9歳。
美少年で利発な子供で、秀吉の寵愛を受けて成長しその後五大老に任命されることになります。
そして、軍師・官兵衛と、蜂須賀小六親分タッグによる最大の大仕事
「高松城水攻め」が始まりました。
実は私、我がご先祖様が小六親分とともに働いたかもしれない「備中高松城」へ訪問しています。
忘れもしない、震災直後、2011年3月19日。
今でも沼地の広がる高松城跡と、当時湖水となった広大なエリアを散策し、
その大掛かりな戦術とともに、
震災で津波に襲われた被災地の映像がフラッシュバックし、
今でもあのときの風景は、鮮明に思い出すことができます。
そのとき撮影した写真です。
本丸跡付近
2011年3月19日撮影
訪問記では、高松城跡の訪問記とともに、
「高松城水攻め」から「本能寺の変」、そして「中国大返し」についても触れていおります。
ネタばれになりますが、是非ご一読いただければうれしいです。
【備中高松城〜岡山の旅①2011年春〜】
さて今回は、ドラマの進行にあわせて
秀吉の備中入国から水攻めまで簡単にご説明し、同時に「本能寺の変へのプロローグ」として
信長公の動向についてもプチ説明したいと思います。
ちなみに、
本当はもっと蜂須賀小六親分にスポットを当ててほしかったのですけど、
ドラマの内容はほぼ史実に忠実でした!
**************
天正10年3月15日、秀吉は中国の毛利を攻めるべく、播磨、但馬、因幡の兵6万を率いて
宇喜田秀家の本拠地・岡山城へ入城した。
参謀である蜂須賀正勝(小六)と軍師・黒田官兵衛は、秀吉の特命を受けて
3万3千の兵を率いて、先に備中入りした。
毛利方の備中高松城主・清水宗治への調略目的であった。
二人は、織田信長からの「味方すれば備中、備後2カ国を与える」という誓詞とともに、
秀吉の副状も添えて投降を呼びかけた。
しかし、「中国衆は律義者」といわれる中でも、もっとも頑固な律義者で通った清水宗治は、
「義に背く者に二国も賜るとは、義を軽んずること。義を軽んずる者が約束を守るとは思えない。
異なことである。」ときっぱりと断ってきた。
となれば戦しかない。
秀吉は高松城北方の竜王山に本陣を置き、高松城周辺の宮地山城、冠山城を落として
高松城を取り囲んだ。
三木城や因幡城での秀吉の兵糧攻めに懲りた毛利方は、高松城内に大量の食料を運び入れており、
毛利本陣が到着するまでの短期決戦が必要な秀吉軍にはそのような悠長な時間が残されていなかった。
事実力攻めを試してみるも、三方を沼で囲まれた高松城への攻撃は困難を極め
結局、秀吉軍で数百の犠牲を出す失敗となった。
そのときわれ等が軍師・官兵衛が「水攻め」を献策したのである。
高松城は天下の要害。笹瀬川と足守川の間の湿地帯で、標高わずか3.5mの場所に立つ城は
三方を広い沼地に囲まれていて、大軍が一挙に押しかける方法が取れないのである。
そこで官兵衛は、低地であることを利用し、足守川を堰き止め、高松城を水浸しにできる、
この地形はぴったりだ。しかも梅雨が近く必ず成功すると断言したのである。
官兵衛曰く、唐で前例があるそうだが、2千年も前の話であり、
もちろん、日本では前代未聞の軍術であった。
普通の人間なら、眉唾な話にドン引きし、躊躇するであろう。
しかし秀吉は、「よし、すぐに実行せよ。」と即決した。
この決断力が秀吉の器であり、それだけ官兵衛という男の力量を認め信じていた証拠である。
しかし、実際に設計図を書き見積もりを立てると、一里にも渡る堤が必要であり
そのためには400万俵もの土石が必要であるとわかった。
(おそらく、算術に強い、石田三成や藤堂高虎らが計算したのであろう)
そこで秀吉は「土俵一つを、銭20文と米一升で買い取ると広めよ。百姓共が列をなすわ。」と言い、
実際、そのとおりとなった。
銭20文と米一升は当時でいえば二日間の日当だ。
その資金確保には、秀吉の実弟・羽柴小一郎が主に担当し、
設計および普請は、主に蜂須賀小六と黒田官兵衛が当たった。
このとき、大石を積んだ船を並べ、船の底に穴をあけて一斉に大石を沈める方法が採られたとされる。
この奇抜さ、合理性、いかにも官兵衛の考えそうな方法ではないか。
2011年3月19日撮影
こうして、5月19日、わずか12日間の工事で延々一里に及ぶ堤防が完成したのである。
そしてその3日後、待望の雨が降り始めた。
激しい雨は丸三日続き、たちまち堤防の中は水であふれ、高松城は二層目まで水没してしまったのである。
この奇策に清水宗政ら城内の5千5百の兵達も驚きあわてた。
溜め込んだ食料も武器も水に沈み、自分たちですら屋根や欄干にしがみつく有様である。
発掘調査などにより、高さ7メートル、長さ3キロにわたる堅牢は堤防であったことが分かっている。
私も実際にその場所に立ってみたが、想像以上の広大な人口湖が現れたことを実感した。
秀吉、小一郎、小六親分、官兵衛ら、「チーム秀吉」の正確かつ迅速な普請工事は
戦場で血を流すだけでなはい、より効果的な戦術を世界に見せ付けたのである。
5月25日、毛利輝元が、吉川元春と小早川隆景の両川を先陣に、
高松城西方の猿掛城に到着したときは、すでに高松城は満々と水をたたえる湖水の中で孤立し
3万の秀吉軍に取り囲まれて、手も足もでない状況になっていた。
戦は膠着状態に陥った。
秀吉はすぐに次の二の手を打った。
一つは、織田信長に毛利成敗のご出陣を要請する。
もう一つは、毛利に和議を申し入れる。
相反する二手で、どちらに転んでも必ず勝利する算段を立てたのである。
5月27日、秀吉は黒田官兵衛へ密かに毛利への和議の提案を漏らせたところ、
翌日には、毛利の外交僧である 安国寺恵瓊が官兵衛の元に現れ、和議の具体的条件を明示した。
一、毛利氏は備中、備後、美作、因幡、伯耆の五カ国を織田氏に割譲すること。
一、織田方は高松城の全将兵の生命を保全すること。
これはほぼ降伏に近い条件であった。
秀吉にとっては想定以上の条件である。
しかし、信長に無断で和議など結べない。毛利征伐のための「出馬要請」が嘘になってしまう。
そこで時間稼ぎのため、条件を積み上げ、交渉を長引かせる作戦に出た。
すなわち、
五カ国割譲について
「因幡は昨年の鳥取城攻略で、すでに織田方のもの。五カ国として数えられない故、出雲を追加せよ。」
さらに
「城兵5万5千の命は救うが、城主・清水宗治の切腹は必要。信長様を説得できない。」
と難癖をつけたのである。
毛利は忠義篤い清水宗治に切腹を強要することは、できなかったのである。
「家臣を守ること」が家訓でもある毛利にとって、出雲一国よりも清水宗治の命のほうが重かったのだ。
案の定、毛利は拒絶した。
そのころ織田信長は、どうしていたのか?
時系列に並べてみよう。
3月11日、甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、武田氏は滅亡。
3月14日、勝頼らの首級を実検する
このとき光秀の不用意な発言(一般的に考えれば普通の言動だが)に
信長は激怒し、光秀を蹴り飛ばしたと言われている。
3月23日、滝川一益に今回の戦功として旧武田領の上野、信濃2郡を与え関東管領に任命する
3月29日、穴山領を除く甲斐の領地を河尻秀隆に与え、駿河は徳川家康に、森長可には北信濃4郡を与える。
4月10日、信長は富士山見物に出かけ、家康の手厚い接待を受けた。
4月21日、安土城へ帰城。
4月25日、朝議で「三職推任」が決まり、安土に勅旨が送られる
5月15日、駿河国加増の礼と甲州征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。
接待役として明智光秀が選ばれ、17日までの3日間、家康を手厚くもてなした。
5月17日、家康への接待が続くなか、秀吉の使者より「毛利御出陣要請」が届く。
信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。
このとき、光秀の接待に不満を感じた信長は、森欄丸に命じて、頭をはたかせたと言われている。
5月29日 信長は安土城を出て上洛し、本能寺に逗留する。
嫡子・信忠、明智光秀、筒井順慶、細川藤孝、中川清秀、高山右近へも中国への出陣を命じた。
そして、運命の・・・
6月2日 中国への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し
本能寺を襲撃。いわゆる「本能寺の変」である。
本能寺の変に関しては、過去にもいろいろ書いていますので、是非ご一読を!
もう一点。
ドラマで【本能寺の変】へ明智光秀を導くエピソードとして取り上げられた快川国師 について、
プチ解説を!
光秀は快川国師を焼き殺した信長に恨みを募らせたとなっておりますが、
実は、この快川紹喜国師は、織田信長公とも実に実に深い縁があるのです。
快川国師は61才まで、織田信長公の妻、農姫の地元、美濃の崇福寺の住職を勤め、
その後甲斐の武田信玄に招請され、恵林寺の住職となる。
しかし信長公の甲斐侵攻に抵抗したため、天正10年4月3日
恵林寺山門において、織田信忠に焼き殺された。 このとき残した句は、余りにも有名だ。
「安禅はかならずしも山水をもちいず、心頭滅却すれば火自ずから涼し」
この甲斐攻略からわずか2ヶ月後、
信長公も、本能寺にて炎の中で自刃することとなり、これも因果応報と言える。 快川国師は、土岐氏出身とされ、
同族の明智光秀は、快川国師の焼死に衝撃を受けたという。 本能寺の変への導火線でもあったのかもしれない 土岐氏とは、光秀が謀反直前に愛宕山で読んだ句 『ときは今 あめが下しる 五月哉』にあるように
光秀にとって重要なタームであると同時に、信長公も縁が深い。
信長の寵愛した生駒の方が土岐氏であり、実は蜂須賀小六親分もその流れを組んでいるようだ。
更に、快川国師が住職を務めた崇福寺には、
織田信長と信忠父子の墓標がある。
信長の側室、小倉なべ氏が、密かに信長公の首級を、崇福寺に葬ったと、伝えられているのだ。
信長信者の私は、実際にこの寺を訪問し、この目で見てきたから間違いはない。
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/63759715.html 崇福寺(織田信長公父子廟)〜美濃の旅2010初夏③
この寺に来て感じたのは、信長と光秀の宿縁である。
本能寺の変へとめぐりめぐって突き進んでいくようだった。
快川紹喜国師は、二人の因縁やその運命をも察知していたのかもしれない。
さあ!
軍師として、秀吉を「天下人」へと押し上げる、黒田官兵衛や蜂須賀小六らチーム秀吉の奮戦が
始まります。ドラマも期待MAXですね!!!
さて、ここで、先週の感想文にたいするコメントでいただいた宿題を簡単に回答したいと思います。
① 荒木村重の継室「たし」について。
ドラマでは「だし」ですが、なぜ当ブログでは「たし」と記載しているのか?
Answerは当時の超一級資料である「信長公記」には「たし」と記載されているから。
その部分を抜粋します。
【巻十二】
「たし と申すはきこへある美人なり。古しへはかりにも人にまみゆる事なきを、時世に随ふならひとて、
さもあらけなき雑色共の手にはたり、小肘つかんで車に引乗せらる。
最後の時も、かのたしと申す、車より下様に帯しめ直し、髪高々と結ひ直し、小袖のえりを押退けて、
尋常に切れ候。是を見るより何れも最後よかりけり。」
これは六条河原での たし の処刑の姿です。
ドラマでの燐としたお姿そのもの・・・
前回UPした写真ですが、再度掲載します。
なんかこの写真見るだけでもうるうるしてしまいます・・・
「信長公記」には時世の歌も記述されておりました
たし 歌あまた読み置き候。
残しをくそのみどり子の心こそおもひやられてかなしかりけり
木末よりあだにちりし桜花さかりもなくてあらしこそふけ
みがくべき心の月のくもらねばひかりとともににしへこそ行け
純真で美しい心の持ち主だったのでしょう。
最後の歌の「西」とは、夫村重が逃亡した西の毛利なのか、西国浄土なのか、それともキリシタンの天国なのか。
生まれたばかりの赤子への想いも胸を打ちますね。
② 「本能寺の変」黒幕説について
以前書いた記事を読んでいただければお分かりと思いますが、
私は、徳川家康黒幕説 が一番可能性ありじゃないか、と思っています。
簡単にその推理の理由を・・・
1) 動機
犯罪捜査でもっとも重要なのは「動機」です。
残虐な織田信長ゆえ、敵は五万といたのは確かです。
しかし、この日、信長が【本能寺】に宿泊し、かつ、彼の軍勢は出陣後京に残っていなかった事を知るものは
限られた人物だけが知りえる情報でした。つまり内部の人間が黒幕だと想定されます。
となれば、信長の身近で、かつ信長への強い恨みを持つのは、
将来を嘱望した可愛い嫡子を処刑するよう命じられた徳川家康も、その一人に該当します。
明智光秀もまた、波多野氏のと和議を反故にされ、母親を惨殺された恨みがありました。
ともに大切な家族を信長の命で失った辛い過去を抱えていたのです。
2)徳川家康は、明智光秀と直前に接触している。
先にあげた年表にも記載しているとおり、信長は本能寺へ入る直前、徳川家康を安土城へ招き、
最高級のおもてなしで歓待しており、その接待役として、明智光秀を任命しています。
実は、この安土招待は、信長が家康を謀殺しようとした、という説もあるほどで、
信長は、家康の器量を買っていると同時に畏れていた可能性も否定できません。
もし信長が家康を謀殺しようとして、光秀がそれを事前に察知し、回避しようとしたとすれば、
信長が光秀に激怒し、突然接待役を解任した理由もうなづけます。
このとき、光秀と家康との間で密かに話し合いがもたれたとすれば、
このクーデターが実にタイムリーであったことも納得できます。
その他、「家康の伊賀越え」など色々ありますが、それは以前のブログをお読みください。
でも、これも一つの可能性であり、真実は未だもって不明です。
【本能寺の変・関連記事!】
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/62360928.html 『信長と光秀の空亡』
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/59457243.html 『本能寺』] http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/58339961.html 『信長公(考) 雑記』] http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/49990082.html 『「本能寺の変」黒幕異説〜観修寺晴豊 』] http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/51246423.html 『本能寺の焼け瓦 』] http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/3992189.html 『明智光秀の謎』] 【徳川家康黒幕説について】
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/62853838.html 『若宮八幡宮(松平信康公首塚)と八柱神社〜尾張・三河の旅’09秋⑥ 』
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/52228207.html 『酒井忠次と徳川家康』
*この記事は、今から9年も前、ブログをはじめた2005年に書いた懐かしい記事です。
ただし光秀=天海説は最近否定されておりますので、ご注意ください。
とはいえ、天海が光秀の周辺の人物であった可能性はかなり濃いと、私は考えております。
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「お優しいたし様の事を思うと・・・」
「私もたし様に命を助けらました」
有岡城の悲劇を光秀の娘と官兵衛が語り合うシーンで、
気高い”たし様”の回想シーンを観て、私もついつい涙が・・・
「残酷なほど美しい」シーンでしたね。
とはいえ・・・
「本能寺の変」へ、駆け足の回でした。
いきなり「天正十年」のテロップに苦笑。
楽しみにしてた【鳥取城攻め】はまったく描かれませんでしたし。
有岡城の戦いに1ヶ月費やしたように、
高松城水攻め、本能寺の変、中国大返し に時間を費やす意図なんでしょう。
【鳥取城攻め】は別名 「渇殺し」と言われ、
三木城の「干殺し」よりも徹底的な兵糧攻めで、城内の飢餓地獄は目を覆うばかりだったといわれています。
官兵衛も勿論、軍師として従軍していますが、
作戦の途中、秀吉の名代として四国へ出張しており、落城開城の場には立っていません。
個人的には、「渇殺し」なる戦国時代の非情な一面を描いてほしかった。
黒田官兵衛が「乱世を終わらせる」ことを宿命としたテーマが、より深くなったでしょうから。
私の大河ドラマ視聴歴で、悲惨な兵糧攻めをしっかり描いたのは
「功名が辻」だったとい記憶しています。
長澤まさみさん演じる”くのいち”が飢餓地獄のため視力を失ったシーンが印象的でした。
地獄で苦しんだのは官兵衛も同じ。
官兵衛も、足を引きずり、顔面にもあざが残ったままです
ジャニーズらしからぬ・・・・リアルな演技。
さすが岡田君ですね。
「史実を曲げない」という一点において、アイドルだからと妥協しない姿勢は、お見事です!!
これから秀吉が天下人の階段を駆け上がる中、
脚本も、「有岡城の戦い」で魅せてくれたあの”迫力”を、是非とも再燃してほしい!
次回以降に大いに期待したいです!
さて今回は、明智光秀の謀反への伏線が描かれていましたね。
どうやら、今年の大河ドラマは「朝廷黒幕説」を採用するようです。
今回も、【本能寺の変】プロローグとして、
「朝廷黒幕説」について、プチ解説したいです。
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織田信長は、天正2年、征夷大将軍に就くことを朝廷に切望したが、
朝廷から蹴られたいきさつがあった。
織田信長という人物を京都朝廷は甘く見ていたのである。
執念深い信長公は、天正6年に、すべての官位を返上しおて無位無官となり、
それでは都合が悪いため「前右大将」と呼ばれていた。
朝廷の管轄外の場所で、信長は世の中を動かしていたのである。
信長の天下統一が現実味を帯び始めて、朝廷は不気味で不安な思いを抱くようになる。
天正10年3月、武田勝頼を攻め甲斐武田を滅ぼした織田信長に対して、
4月25日の朝議で、太政大臣、関白、征夷大将軍のいずれか、好きな官位に信長を任じることに決めた。
天下人となる信長をここで懐柔しようと考えたのだ。
これを、「三職推任」という。
早速、朝廷から権中納言・勧修寺晴豊が女官二人とともに、勅使として安土城に下向し、
帝と朝廷の意向を伝えるも、信長は歓待するばかりで、首を縦にはふらなかった。
信長の視野は、天正2年の頃とは比較にならないほど拡大し、遠く異国をも見据えていた。
そんな男にとって、朝廷からの任官など、瑣末なお飾りでしかなかったのだ。
しかし、信長に任官を拒絶されては、朝廷の面子は丸つぶれだ。
さらにもう一つの難題が持ち上がっていた。
「任官問題」に先立ち、天正10年2月、信長は「暦の改正」を朝廷に要求してきた。
「暦」は中国から伝来して以来、「天皇が制定するもの」であった。
時を支配するものは、天孫たる天皇の重大な仕事なのだ。
朝廷陰陽寮でつくられた暦は「京暦」であったが、
信長がこれを尾張や美嚢で広く用いられていた「三島暦」へ変更せよ、と奏請してきたのである。
自分が慣れ親しんだ「三島暦」で時間を管理しようとしたのだ。
しかし、天皇が決めるべき暦を、信長の意向だけで変更するということは、
天子より信長の方が権威が上になる。
実に由々しき事態であった。
ちなみに、「天皇が時を司る」名残は、「昭和」「平成」等の”年号(元号)”で現代も続いている。
いずれにせよ、信長が天下人となれば、公家達が権威のより所とした勅書や慣習が
何の意味ももたない時代が来ることは間違いなかった。
もしかしたら、天皇や公家、朝廷が、取り潰される畏れもあったのだ。
天正10年、朝廷と信長の溝は益々深まり、信長の失墜を願う京の朝廷筋から
光秀の元に、密かに謀反を囁く密使が訪問していた可能性は十分有り得る。
なぜなら、光秀自身が、朝廷との太いパイプをもって、織田信長に重用された男であったからだ。
実は、今から7年前に当ブログで「朝廷黒幕説」について記事を書いている。
「任官問題」で安土に下向した権中納言・勧修寺晴豊が登場している。
一つの可能性として、下記にて再掲載したい。
ご参照あれ。
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【「本能寺の変」黒幕異説〜観修寺晴豊 】
天正10年6月2日未明 本能寺の変 (1582年6月21日)
明智光秀は何故織田信長の暗殺を謀ったのか?
現代にいたるまで様々な説が入り乱れ未だ真相は藪の中である。 信長怨恨説、天下への野望説、秀吉との共謀説、家康黒幕説など、
どれも本当のようでありしかし決定力に欠ける。 まぜなら、「信長公への謀反」は徹頭徹尾秘密裏に進められ、 光秀の寵臣ですら、直前になって初めて光秀の決意を知らされたほどであった。 しかし、そのタイミングといい電光石火の襲撃といい、光秀個人だけでは
あまりにも手際が良すぎて、古来より本能寺の変には黒幕がいたといわれ続けているし 確かに本能寺にて信長公を討ち取ったあとの光秀の、主に京都の朝廷工作に費やされた のらりくらりとした行動はまるで別人のようであるからだ。 結局光秀ののろのろとした行動の間に、中国から文字通り賭け戻った秀吉に間隙を突かれて
光秀の天下はわずか12日間だけであった。 そんななか、最近注目されているのが、「朝廷黒幕説」だ。 それは、ある公家の日記に、信長公暗殺の謀議に加担したらしき記述が見つかったからである。}}} その日記の執筆者は、'''観修寺晴豊(かんじゅうじはれとよ)'''
武家と朝廷の連絡役である「武家伝奏」という役職にあった公家である。 本能寺の変から半月ほどたったころ、山崎の合戦で敗れた光秀の重臣、
斎藤利三が秀吉に捕らえられ市中引き回しの刑にさらされていた。 その姿をみた晴豊が、 「かれなと信長打談合衆也」 (彼など、信長打(討)談合の衆なり) と、彼の日記である「日日記(にちにちき=別名・天正十年夏記)」に書き残していたのである。
信長打とは本能寺の変を指すとしか思えない。
その謀議を、観修寺晴豊は斎藤利三らと話し合ったということなのだ。 確かに、信長公の、実力もない権威のお飾りでしかない公家や朝廷にに対する態度は、
彼らのプライドをへし折るものであったろう。 また、事あるごとに反抗的な態度をとる正親町天皇に対して 信長公が様々な圧力をかけていたのは確かである。 また、この観修寺晴豊は、信長公が武田攻めで勝利し、安土城へ凱旋したときに
戦勝祝いの勅使として安土に下向している。 そしてそのことき 「太政大臣か関白か将軍か御すいにん候て、可然候よし被申候。」 (織田信長を太政大臣、関白、征夷大将軍の三職のうちの どれかに推任したほうがいいのではないか?) と前記の「日日記」に書き残している。
つまり、信長公の「三職推任」の当事者の一人であったのだ。 「三職推任」にも諸説あり、信長公自ら官職を強要したとも、 近習がかってにお膳立てして、信長公は全く取り合わなかったともいわれている。 私は信長公の性格から考えて、実力もないお飾りの「官職」など「小さい」と
無視したと思っているが、しかし、朝廷サイドが、信長の実力にたいして 心ならずもおべっかいしている様はみてとれる。 粗暴で身分も怪しい家臣の多い織田家にあって、
名門源氏の出身で教養も素養もあり、態度も優雅であった光秀は、 朝廷に近い人物であったことも確かである。 朝廷の存続すら危ぶまれるような、合理主義者で革命家であった信長公の行動を止めるために
謀略、暗殺大好きな公家の一部が暗躍した可能性は当然考えられることである。 私は全面的にこの「朝廷黒幕説」を信じているわけではないが、 光秀の「謀反決断」への過程で、朝廷の影響があったことは否めないと思っている。 (2007年6月11日 当ブログ記事) ⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/49990082.html
今回のドラマで登場した「吉田兼見」であるが、
実は公家ではない。
京都・吉田神社の神職(神主)で、織田信長と朝廷 の連絡役として良く働き、
信長の尽力で従三位まで官位を上げた。
また、細川藤孝の従兄弟でもあり、明智光秀とも親しくしていた。
しかし個人的には「黒幕」と呼ぶには小物過ぎる・・・かな。
ちなみに、黒田官兵衛も秀吉も、「本能寺の変」を事前に察知していたのでは?とも言われている。
その後の秀吉の迅速な行動がそれを裏付けるというものだ。
事前に光秀の謀反を察知した上で、中国大返し等のプラニングをしたのは、官兵衛ではないか?という訳だ。
様々な情況や情報を分析し、あらゆる可能性や予想をたてるもの軍師の務め。
実は、本能寺の変前日に、西日本で「日蝕」が見られたと記録が残っている。
日蝕は不吉の前兆とされていた。
官兵衛が敏感かつ冷静に「何らかの凶事」を判断していたとしても、不思議ではない。
ドラマに関連して、もう一点。
江口洋介さん演じる信長公が「わしは世界に打って出る」と決意を語り、
秀吉が「猿も一緒に」と嘆願するシーンが描かれていましたが、象徴的ですね。
世界へと視野を広げていた信長公は、天下平定の後は、
大明、シャム、ルソンなど、南蛮諸国への進出を考えていたのはほぼ間違いない。
その拠点として、大坂へと移ることも考えていた。
石山本願寺跡がその候補地だったのだ。
石山本願寺、すなわち、大坂は、天然の要害の地であるだけでなく、難波津として
奈良時代には「難波宮」として諸外国との交渉、交易の中心地だった。
秀吉が天下人になった後、巨大な大坂城を築いたのは、信長公の遺志を継いだのだ。
しかし、秀吉には信長公ほどの革新性はなく、「太閤」として朝廷や旧勢力とも良好な関係を
持ち続けることになる。
「朝廷黒幕説」に加えて「秀吉黒幕説」が語られるのは、それも原因だ。
もし信長公が本能寺の変で暗殺されていなければ、
日本という国は、世界でもっとも進んだ、現代に近い「欧米型」の国になっていたかもしれない。
信長公は、古いしきたりの中でのうのうと暮らす怠け者が大嫌いだったのだ。
自由経済主義の先駆者とも言える。
1580年代といえば、ヨーロッパですら、ルネッサンスの萌芽がやっと見られたそんな時代に、
封建制度や身分制度やギルドを粉砕した国を造ろうとした「革新」こそ、
織田信長という人物が、世界屈指の天才であることを物語っている。
あ〜信長公について語りだすと尽きないわあ〜。
江口洋介さんの織田信長が段々「天魔王」になってます。
さすがの演技力です。
そして、小朝さん演じる光秀を、「このキンカ頭!」と、激しく、(実は愛情をもって)
しかりつける「パワハラ」シーンがきっとあることでしょう。
ま、天才であっても、どんな時代であっても、「パワハラ」はいかんぜよ!
そういえば、
三原城で、小早川隆景と七城主との盟約場面も描かれていましたね。
詳細については、下記記事を参照ください。
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