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う〜〜〜ん・・・
今回は、正直に言って、はしょりすぎでしたね。
荒木村重謀反から前回まで怒涛の展開で、緊張の連続であったのですが、
24回は、ちょっと中休みだったのでしょうか?
「三木城落城」、「御着落城」と十分面白いテーマであったにも関わらず、
史実とも違うし、深みもなく、ざ〜っと流した感がありました。
三木城落城の史実については ⇒
御着落城と、小寺政職父子と黒田家の関わりについては ⇒
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/67204072.html 【軍師官兵衛 第23回 半兵衛の遺言】
特に、「小寺政職を捕らえたものの斬れずに逃がした」という描き方は、納得ができません。
史実では、毛利領鞆の浦で逃亡生活を送る小寺政職父子を憐れみ、
黒田宗円(官兵衛の父)が密かに息子を養育したといわれています。
私がこのエピソードに感銘を受けるのは、
黒田官兵衛という人物の本質がよく現われていると思うからです。
そしてそれは、キリストの教えにも通じるものがあります。
ドラマでは、荒木村重の正妻たしが、高山右近に「村重殿を恨みますか?」と聞かれ
「いいえ、これも運命です。」と凛として答えるシーンが印象に残っています。
すなわち、「イエスキリストは裏切り者のユダを許し、磔になる運命を受け入れた。」
究極の教義です。
同様、官兵衛も裏切った上司を許し憐れむことにおいて
哲学的であり博愛主義者である素地を、見ることができます。
ですから、この史実をまげた台本にしたことに、違和感を感じ、かつ残念でした。
とはいえ、岡田官兵衛の涙は本物でしょう。
史実の官兵衛に寄り添い、理解し、丁寧に演じる役者魂は、お見事の一言です。
「官兵衛は官兵衛だ。」
その官兵衛らしさとは、戦国の世には似つかわしくないほどの「哲学的思考」「博愛主義」ではないでしょうか。
そんな純粋な思いが黒田家の家紋「藤巴」に繋がっているのです。
藤巴のエピソードについては ⇒
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/67121675.html 【軍師官兵衛 第19回非情の罠】
し、か、し・・・!
次回からは「鳥取城兵糧攻め」「高松城水攻め」、そして「本能寺の変」から「中国大返し」と
秀吉 怒涛の躍進が描かれるでしょう。
秀吉、官兵衛、そして蜂須賀小六親分や羽柴小一郎らが、最もアグレッシブに輝く時です。
正直、史実だけで十分面白いのですから、
無駄な脚色はなしにして、史実に忠実に、そして骨太なドラマを期待したいと思います。
さて今回もまた、「本能寺の変」カウントダウンということで、
信長公による、「佐久間信盛への折檻状」をプチ説明したいと思います。
******
天正8年(1580)、本願寺の顕如光佐は、信長自らの働きかけにより、正親町天皇の仲裁を受け入れ
4月に石山本願寺から立ち去った。
10年にわたり、織田信長を悩ませ続けた本願寺との戦に終止符が打たれた。
ところがその直後の8月12日、織田信長は、佐久間信盛と嫡男の信栄に突然「折檻状」を送りつけ
二人を高野山へ放逐してしまったのである。
佐久間信盛は、信長の父・信秀以来の重臣で、桶狭間合戦では善照寺砦の守将をしている。
元亀元年の六角攻めでは、近江長光寺城を落とし、柴田勝家と共に功第一と賞されてた。
その後も数多の合戦に参加し、三河尾張の旗頭となり、近畿の地に織田家中で最大規模の軍団
を統括し、多数の与力大名を指揮する軍団長として、石山本願寺攻めの総大将に任じられていた。
織田家累代の家臣の中では、柴田勝家、丹羽長秀と並ぶ出世頭であり、
重臣中の重臣であった。
まさか、その佐久間信盛が粛清されるとは、織田家中では誰も思っていなかったであろう。
ところが本願寺との和睦が成立するや否や、信長は、罵詈雑言で埋め尽くされた自筆の「折檻状」を
突きつけて、先代から忠義を尽くしてきた男を、ばっさりと切り捨てたのである。
ちなみに19条からなる折檻状であるが、昔の事をよくもまあ覚えていたことよ・・と
信長公の細かさには驚かされる。粘着質な気質であったのだろう。
原文は「信長公記」第13巻に【覚】として記載されている。
そのいくつかを抜粋すると、 (かっこは和訳)
一、父子五ケ年在城の内に、善悪の働きこれなき段、世間の不審余儀なし。
我々も思ひあたり、言葉にも述べがたき事。
(佐久間信盛・信栄親子は天王寺城に五年間在城しながら何の功績もあげていない。世間では不審に思っており、自分にも思い当たることがあり、口惜しい思いをしている。)
一、丹波国日向守働き、天下の面目をほどこし候。次に羽柴藤吉郎、数カ国比類なし。
然て、池田勝三郎小身といひ、程なく花熊申付け、是又天下の覚を取る。
これを以て我が心を発し、一廉の働きこであるべき事。
(明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこした。羽柴秀吉の数カ国における働きも比類なし。
池田恒興は少禄の身であるが、花隈城を時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。
これを以て信盛も奮起し、一廉の働きをすべきであろう。)
一、信長家中にては進退各別に候。三川にも与力、近江にも与力、大和にも与力、
河内に与力、和泉にも与力、根来寺衆申付け候へば紀州にも与力、少分の者共に候へども
七カ国の与力、其上自分の人数相加へ働くにおいては、何たる一戦を遂げ候共、
さのみ越度取るべかざるの事。
(信盛は家中に於いては特別な待遇を受けていたではないか。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。これに自身の配下を加えれば、どう戦おうともこれほど落ち度を取ることはなかっただろう。)
一、小河かり屋敷跡職申付け候処、先々よりも人数もこれあるべしと思ひ候処、
其廉もなく、剰、先方の者共をば多分追出し、然りといへども、其の跡目を求置き候へば、
各同前の事候に、一人も拘へず候時は、蔵納とりこみ、金銀になし候事、言語道断の題目の事。
(水野信元死後 苅谷を与えておいたので、家臣も増えたかと思えばそうではなく、それどころか水野の旧臣を追放してしまった。それでも跡目を新たに設けるなら前と同じ数の家臣を確保できるはずだが、1人も家臣を召し抱えていなかったのなら、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄とし、収益を金銀に換えているということである。
言語道断である。)
一、先年朝倉破軍の刻、見合せ曲事と申す処、迷惑と存ぜず。結句身ふいちやうを申し、剰、
座敷を立破る事、時にあたって信長面目を失ふ。其口程もなく永々此面にこれあり、比興の働き
前代未聞の事。
(先年、朝倉をうち破ったとき、戦機の見通しが悪いとしかったところ、恐縮もせず、結局自分の正当性を吹聴し、あまつさえ席を蹴って立った。これによって信長は面目を失った。その口程もなく、ここ(天王寺)に在陣し続けて、その卑怯な事は前代未聞である。)
一、信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、佐久間右衛門比類なき働きと申鳴候儀、
一度もこれあるまじき事。
(信長の代になって30年間奉公してきた間、「比類なし」と言われるような働きは一度もない。)
一、父子かしらをこそげ、高野の栖を遂げ、連々を以て赦免然るべき哉の事。
( 親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。)
右数年の内一廉の働きなき者、未練の仔細、今度保田において思当候。
仰天下を申付くる信長に口答申す輩前代に始り候条、これを以て当末ニヶ条を致すべし。
請けなきにおいては、二度天下の赦免これ有間敷きものなり。
(右のように数年の間ひとかどの武勲もなく、未練の子細はこのたびの保田の件で思い当たった。そもそも天下を支配している信長に対して口答えをする者どもは信盛から始まったのだから、その償いに最後の2か条を実行してみよ。承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。)
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・・・等、ずらりと佐久間父子の不行が書き並べてあった。
正直、細かすぎて、当の本人も忘れていたこともあるのではないか?
たとえば8年前の朝倉攻めの時、陣中で信盛が口答えをしたことをしっかり覚えていて、
「天下人の信長に口答えとは言語道断だ」とはっきり書いてある。
ただし内容を読むと、口答えというよりは、部下を守ろうと軽く意見した程度の言葉だ。
決して信長公を批判した内容ではない。
「信長公記」には、高野山へ追放となった佐久間父子のその後も触れている。
「高野山を立出て、紀伊熊野の奥、足に任せて逐電なり。
然間、譜代の下人に見捨てられ、かりはだしにて己と草履を取るばかりにて、
見る目も哀れなる有様なり。」
高野山からさらに熊野へと落ち、その時付き従うものはたった一人の草履取であったという。
ちなみに、佐久間信盛はその後天正10年1月16日、熊野にて死去した。享年55歳。
その後、嫡男の信栄は織田信忠配下へと帰参を許された。
佐久間父子への「折檻状」と追放劇の直後、わずが 5日後の8月17日、
さらに追い討ちをかけるような信長の仕置きが行われた。
京都にて、家老の林佐渡守通勝、安藤伊賀守守就、丹羽左近らが、遠国へ追放されたのだ。
林通勝もまた、信長の父・信秀以来、織田家の筆頭家老を務めていた側近である。
林通勝への「折檻状」には
「なんじ名護屋にあり弑逆を謀らんと欲す。われ憤りを忍ぶこと二十余年・・」とある。
二十数年前の名護屋での弑逆とは、父・信秀の死後、嫡子信長を廃し、実弟の信行を後継者にたてようと
したことを指している。
信長は、23年前の謀反を根に持ち、心の奥底で怒りを封じ込め、天下が平定されるや否や、
同じ古参の丹羽左近と共に追放してしまった。
凄まじいほどの執念であろう。
安藤守就は、美嚢・北方城主で斉藤龍興に仕えた美濃三人衆の一人で、
前年に病死した、羽柴秀吉の軍師・竹中半兵衛の舅にあたる。
信長が美濃を奪えたのは、安藤ら美濃三人衆の寝返りがあったからで、
その後、織田の一軍として姉川や近江、伊勢攻略で武功を上げて、信長から大垣城を与えられていた。
それが、突然、三人の息子共々、遠国流罪に処せられた。
罪状は墨俣以前、「武田信玄に通じ、美濃に敵兵を入れようと謀った」ことで、10年も前の事である。
ここでも信長は「われ憤りを忍ぶこと十年、天下ようやく定まるに及び・・」と繰り返している。
すなわち、「天下が平定されたので、気にいらない連中は皆追放だ。」とはっきり言ってしまったのだ。
この事件以降、織田の家中は疑心暗鬼にさいなまれることになる。
20年も30年も前に遡って調べられたら、誰でもなんらかの落度はある。
柴田勝家は、信行擁立派であったし、秀吉も越前から無断撤退した前科もある。
幸い、子のない秀吉は、7年前に信長の四男・御次丸を養子に迎え入れ、
元服して羽柴秀勝を名乗らせ、羽柴本家の跡継ぎとして育てている。
秀吉が働いて得たものは、全て信長の子に返すことを表明している以上、ある程度は安心であろう。
しかし、天下平定した後は分からない。
いつ信長の勘気に触れ、粛清される可能性は否定できないのだ。
その点、明智光秀の忠勤ぶりは見事なもので、信長に疑われる要素は全くなかった。
母を敵に差し出しても、丹波を平らげたのだ。
佐久間信盛への折檻状でも、光秀の功績を第一に挙げて、信盛を無能よばわりしている。
その証に、信盛失脚後、信長は、自身の本拠地である近畿で佐久間の大軍団を光秀に統率させた。
これにより、織田家中で最大の軍を統括するのは明智光秀となった。
織田政権の近畿管領とも言うべき中枢の地位にまで昇進した。
信長の命令で、光秀の三女 玉(細川ガラシャ)は、細川藤孝の嫡男・忠興の正妻となり、
次女は、織田信長の実弟信行の遺児で、織田一族の「一段の逸者」と評判の高い
津田信澄に嫁いでいた。
天正8年当時、信長の一番の寵臣は、間違いなく明智光秀であった。
とはいえ、一連の粛清劇で、次ぎに誰が追放されるのだろうか、という疑心暗鬼が
蔓延するようになり、光秀も同様であった。
信長による過度の期待と、終わらない出世競争。
信長の寵愛期待が高いだけに、何かしくじってしまえば、次ぎの標的は自分ではないか・・・
不安と恐怖が、次第に心に鬱積していくのである。
その契機となるのが、ライバル・羽柴秀吉の追い上げと、四国征伐であった。
明智光秀は自身が優秀な軍略家であったことから、軍師を置かなかった。
だが、道に迷ったとき、どちらを選択すべきか、本音で相談できる相手が居たなら
光秀の人生も違ったものになっただろう。
「本能寺の変」決起前の光秀は、あきらかにノイローゼ気味であった。
その点、竹中半兵衛や黒田官兵衛を「軍師」として最大限に重用した秀吉は、
人の使い方を知っていただけでなく、自身の感情をコントロールする環境を自ら作り上げていたと言える。
参考文献 「信長公記」 (角川ソフィア文庫)
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大河ドラマ「軍師官兵衛」
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涙、涙の回でしたね・・・
哀しみ、怒り、悔しさ、そして歓喜、再生、祈り・・・・
ドラマ同様、ありとあらゆる感情が渦巻いた、天正7年12月だったと想像できます
荒木一族郎党の処刑、
「すべて運命(さだめ)」とすべてを受け入れ許し、イエス、マリアの名を唱えながら
デウスの子として、静に凛として処刑された たし の美しさ。
荒木村重の咆哮は、ずたぼろのプライドと後悔とざんげと、一筋の涙。
そして、明智光秀の思いつめた表情。
残虐で残酷な処刑シーンは回避されていましたが、
それでも当時の人々が戦慄を覚えた雰囲気は感じ取れたのではないでしょうか。
およそ1ヶ月に渡り、この「有岡城の戦い」を丁寧に描いた、製作陣奮起の結果です
そして、同時に、官兵衛の苦痛もまた、十分に理解できる結果となりました。
救出されて、感激の対面で終わらせるのではなく、
1年に渡る土牢での過酷な幽閉で足を患い、もう元の身体には戻れないことへの苛立ち、
身体だけでなく、精神をも蝕む悪夢の連続、トラウマとの葛藤。
十分に有り得たことでしょう。
その苦しみから立ち直ったのは、妻や子や家臣の支え。
中谷美紀さんお光姫が聖母に見えました!
そして半兵衛の遺言。
松寿丸が半兵衛遺愛の軍配を手渡し、父を励ますシーンも良かったですね。
松寿丸くん立派になったなああ!
そんな息子の姿を見せ付けられれば、父ももう養生などしておれぬ、と思ったことでしょう。
史実では有岡城の戦い以降、官兵衛は乗馬することができず、
戦場では陣輿にのって移動するようになります。
そしてそんな主君を支え守るため、黒田家臣団の結束は益々堅くなり、世に「黒田24騎」と呼ばれる
勇猛果敢な家臣団へと成長していくのです。
姫路城で、家族や家臣たちが、「殿のお側に」と声をかけるシーンは、ぐっときました。
次回は、御着の殿が登場しますね。
三木城落城後の、天正8年2月、
御着城は、織田信忠(信長の嫡子)に攻められ落城します。
小寺政職は城から出奔し毛利領の備後国 鞆の浦へ落ち延びました。
そして天正12年5月に鞆で没したとされています。
付き従う者は殆どおらず、鞆の浦での政職父子の暮らしは惨めなものでした。
そんな境遇を哀れんで
官兵衛の父・宗円が、斎君を密かに引き取り養育していたといわれています。
当然、官兵衛の計らいでもあったでしょう。
政職の裏切りで、官兵衛は幽閉され、松寿丸は処刑されかけ、
姫路城も敵の攻撃にさらされて・・・と
皆殺しにされてもおかしくはない情況でありながら、官兵衛も宗円も、主君を許したのです。
斎君は元服して、氏職となり、後に黒田家の家臣となり、黒田姓を名乗り
小寺氏の家系は、維新まで続くことになりました。
裏切られても尚、旧主の恩を忘れられない、官兵衛と宗円の、心の大きさを表すエピソードですよね。
斎君と松寿丸君・・・二人の子役はホントに可愛いかったです!
小寺官兵衛が、小寺姓を捨てて、本来の「黒田」を名乗るのは、この頃からです。
さて、前回の感想で予告した「三木城落城」については、
長文必至のため、別記事にて掲載したいと思います。
それと、荒木村重については、マイナーな扱いでまだ不明点の多い武将ですが、
2点、補足したいと思います。
村重を「利休七哲」とする説も出回っているようですが、実は違います
もちろん、高弟の一人で間違いはないのですが、
通常「利休七哲」とは
蒲生氏郷
細川忠興
古田織部
芝山監物
瀬田掃部
高山右近
牧村兵部
上記に、織田有楽斎、 千道安 荒木道薫(村重)の三人を加えて 「利休十哲」と言います。
私の愛読する 岳宏一郎先生の 「花鳥の乱〜利休の七哲」で 村重が選ばれているため
そういう説が出回っているのかもしれませんね。
ただ、岳宏一郎先生も、文庫本の初めで、通常言われる「七哲」ではなく、
利休の高弟の中から七人を選んだ、と書かれています。
とはいえ、何度も当ブログで取り上げていますが、「花鳥の乱」は本当にお勧めです。
私は、この小説で、村重に興味を持つようになったのですから。
それと、荒木村重をキリシタン大名とする説もありますが、それも未確定です。
ただ、いえることは、天正4年に、ルイスフロイスが有岡城で村重と面会し(右近も同席していた)
フロイスの言葉に感激した村重が、フロイスの布教活動をバックアップする約束をした、という事実のみです。
村重の洗礼名も伝わっていませんし、
むしろ、自分を裏切った高山右近とキリシタンを恨んでいたことが、わかっています。
ですので、村重をキリシタン大名とするのには、個人的には疑問符がつきます。
時の権力者信長と 秀吉(ただし後に迫害に転じる)がキリシタンを擁護したことから、
一種のファッションとしてキリシタンになった戦国大名も多々いました。
官兵衛の嫡子、黒田長政もその一人でしょう。
しかし、キリスト教の教え、その本質を理解し、覚悟をもって洗礼を受け、キリシタンとして生きた
本物のキリシタン大名は、そう多くはいません。
高山右近、黒田如水 小西行長 大友義鎮 大村純忠、有馬晴信 蒲生氏郷、筒井定次
彼らはモノホンのキリシタン大名でした。
岡田准一君は、ご本人も純粋で哲学的で求道者の一面があり、
キリシタンとして生きる道を選ぶ官兵衛に、ぴったりだと思っています
黒田官兵衛 洗礼名 ドン・シメオン
高山右近 洗礼名 ジュスト(ユスト)
岡田君と生田斗真君とのキリシタンコンビも絵になりますよ〜〜〜
むっちゃ楽しみです。
小西行長もキャストされるのかな?? ここはイケメンキリシタン大名尽くしでお願いしたいですね〜。
(ミーハーですみません・・ ^^;;
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今回も、荒木村重、迫力ありましたね
田中哲司さんの村重に釘付けになっております。
ドラマを観ながら何度も、
「むらちゃん
ミーハーですみません。
ええ、朝日新聞の社会面に紹介されても、これだけは治りません
今回は今までとは趣向を変えて、
有岡城の戦いを中心に、ドラマと史実を、ミーハーに、脈絡なく、語りつくしてみたいと思います。
まずは、荒木村重の有岡からの逃亡について。
前回の感想で取り上げた
陰徳太平記の「毛利に直談判する」説を採用していましたね。
う〜む、そうきたか。
自慢の茶道具はごっぞり持ち運んでいましたが、
阿古という名の侍女(側室とも?)も登場してませんでした。
また、9月に尼崎へ逃亡してから、全く有岡城に戻る気配もないことから、
個人的にはやはり「有岡城を見捨てた」と思っています。
ただ、たしをキリシタンと設定したのが、ここで大きな意味を持ってきましたね。
城主の居ない城に留りながら自刃しなかったのは、「キリシタン」だったから。
ご存知のように、キリスト教で自殺は禁じられています。
そして、今更気がついたのですが、
官兵衛が幽閉された土牢の窓が十字架になってました。
心身ともに絶望の淵に追い込まれた官兵衛の心を癒し、励ました藤の花が見えたのは、
十字架の窓であったこと、そして官兵衛の命を守ろうとした、たし の信仰。
いい演出です。
ポルトガルの宣教師・ルイスフロイスによれば、
官兵衛がキリスト教の洗礼を受けるのは、天正11年。
有岡城から脱出したのが、天正7年の11月ですから、約3年後のこと。
官兵衛の入信に、有岡での幽閉が影響を与えたことは間違いないでしょう。
荒木村重の妻 たし がキリシタンだったというのは、史実では確認されていません。
むしろ、石山本願寺の顕如光佐の側近の娘と言われています。
しかし、たし がキリシタンだったというのは、有り得るのです。
ルイスフロイスは、天正4年に、有岡城で荒木村重に会い、
その場所には、高山右近も同席していました。
荒木村重は、フロイスの言葉に感動し、彼らの布教を極力援助し、信長公への取次ぎも
約束しているのです。
となれば、たし がフロイスや右近に影響されてキリシタンになった、という設定も
有り得ないわけではありませんし、
そう思わせるほど、桐谷美玲さんの、凛とした演技は素晴らしかったです。
にしても、
逃亡直前、土牢に酒を持って現われた村重と官兵衛のシーンは
不可思議な友情がやはりそこにあって、萌えポイントが高かったです
たった一人で土牢に現われた村重は、いきなり「酒をのめ」と茶碗をつきだし、
官兵衛も、毒があるかもしれないのに、気にせず口にする。
「わしの側で働け」と頷くはずもない質問をし、
今から城を抜け出すと秘密を漏らし、「わしは信長には負けぬ」と心情を吐露し、
こんな酷い情況に追い詰めながらも
「官兵衛、生きておれ」と言い放って去っていく村重。
その後姿を無言で見送る官兵衛。
むらちゃん、
たし に甘え、官兵衛にも甘えてますよね。
本当にとんでもない夫であり、友人であり、人生を狂わされ翻弄されても、
許してしまう二人の優しさに、村重は甘えているのです。
そして、有岡に残された家臣の命と引き換えにしてでも、守ろうとしたプライド。
「わしは、信長に降伏はせぬ。」と言い放つ村重の鬼気迫るお姿。
田中哲司さん・・・役にのめりこんでました。
この台詞は、蜂須賀小六に語った村重の言葉に拠っています。
「我たとえ天涯一人になるも、信長の行路を見定めん。」
信長との合戦になる前、秀吉の名代として蜂須賀小六が有岡城を訪れ謀反の翻意を説得したとき、
村重が小六親分へ語った言葉です。
以前の記事でも紹介しましたが、これは村重の本心であり本質を良く現していると思います。
そして、加藤玉松君、後の黒田一成も登場しました。
玉松は、荒木村重の家臣・加藤重徳の二男です。
加藤重徳は、土牢に幽閉された官兵衛の世話をこっそり焼き、
その行動に感謝した官兵衛が、有岡落城の後、わざわざ居場所を探し当てて
その恩に報いるため、二男の玉松を養子として預かり、長政の弟のように大切に育てます。
大変な猛者で、成長してからは長政の側近となり、黒田8虎の一人として
戦場で幾つもの手柄をたてます。
また城井攻めから撤退する際、黒田長政の影武者を志願するほど、忠義心の篤い武士でした。
長政からの信頼も厚く、その後、一成の子孫は福岡藩で大老を世襲する家となり、
維新後は男爵に列することになります。
ただし、ドラマで加藤重徳は城内で銃撃され命を失っていますが、
史実では、生き延びます。
加藤重徳と長男・吉成は、小西行長に仕え関ヶ原の敗戦の後、牢人になりますが、
黒田一成は、落ちぶれた父と兄を黒田家に召抱えてもらうよう長政に願い出て、許されます。
長政自身も、有岡の戦いで命の危機に曝されたこともあり、黒田家の危機を救った加藤重徳とその家族を、
厚遇で召抱えました。
有岡城での加藤重徳の良心が、その子孫の運気を掴んだのですから、
人生ってのは不思議です。
本来であれば、敵であり敗者の末路であったはずなのですから。
さてさて、黒田一成・・・誰がキャストされるのでしょうね?楽しみです。
そしてもう一人、
大切な人が再登場いたしました。
蜂須賀小六親分
宇喜多直家の調略シーンです。
でも、遅すぎますよね、正直に言えば。
秀吉の中国攻めに関して言えば、蜂須賀小六と官兵衛、竹中半兵衛の三人が
裏方の仕事を請け負っていました。
なのに、ドラマでは、両兵衛だけの扱いになっており、寂しく、かつ悔しかったです。
三人のタッグがあったからこその、播磨平定、宇喜多調略。
黒田長政の最初の妻が、蜂須賀小六の娘 イト であったことが、その証拠と言えるでしょう。
「所領安堵」という餌で宇喜多直家を釣り上げた秀吉。
最初は官兵衛の親戚筋である宇喜多家臣に、誘いの手をかけています。
官兵衛がまだ幽閉されている天正7年10月に、宇喜多は毛利領の美作を攻めています。
竹中半兵衛も同年6月には三木攻めの陣中で亡くなっています。
ゆえに、蜂須賀小六が最後まで調略に関わった、というドラマの流れは的外れではありません。
しかし、それまでの小六親分の功績は見事に無視されているのは、少々残念でした。
ここで、コネタですが、
宇喜多直家は帰順の使者として、密かに三木城へ使者を送っていました。
その使者こそが、後のキリシタン大名、小西行長。
一介の商人だった小西の若造の才能を見出したのが、宇喜多直家、
そして三木城に派遣されたその若造を見て、
大いに気に入って自分の家臣に取りたてたのが秀吉でした。
宇喜多直家は、人を見る目があったようです。
直家が病に倒れこの世を去るのは、翌年の天正8年。
嫡子・秀家の将来を秀吉に託した先見の眼は、さすがと言えるでしょう。
ちなみに、宇喜多秀家はモデルのような美男子だったそうですぞ。
さらにコネタですが、関ヶ原で小西行長を捕縛したのが、竹中半兵衛の息子・竹中重門でした。
これから三木城落城、鳥取城攻め、そして高松城水攻めへと、
蜂須賀小六親分もTOP参謀として秀吉を天下取りへと担ぎ上げていきますので
そこんところは、しっかりと描いていただけるよう、脚本に切に願います。
1年ぶりに有岡城から脱出した官兵衛は、妻、父、そして、わが子との再会を果たします。
ドラマでもしっかりと描かれることでしょう。ハンカチ必須でしょうね。
と同時に、秀吉との再会も感動的なものでした。
「筑前守、孝高に会ひ給ひ、其手を取りて、顔に当て、まず今生の対面これ悦しけれ。
仰、このたび命を捨て、敵城へ赴かれし忠志、世に有難し。
われこの恩をいかにして報ずべきと、前後も覚給わず泣給へば、
孝高も暫し涙をせきあへざりしと。」 (魔釈記)
秀吉の驚きと二人の絆がひしひしと伝わってきます
信長もまた官兵衛の奇跡の帰還に驚き、
かつ自分が処刑を命じた松寿丸が竹中半兵衛の庇護を受け匿われていたことを知っても
誰も咎めることはありませんでした。
竹中半兵衛は、秀吉の命で京で静養中でしたが、(ドラマで菩提山城というのは誤り)
「軍師は陣中で死ぬべき」と三木攻めの平山秀吉本陣に戻り、陣中にて6月13日に死去しました。
半兵衛遺愛の軍配を官兵衛が譲り受けたというのは本当です。
ただし、竹中家の家紋「九枚笹紋」を譲り受けて黒田家の「黒餅紋」になったという説もありますが、
どうみても二つの家紋は違ってみえますし、黒田家が否定していますので、
違うのかな、と思っております。
官兵衛は、有岡城から救出された後、有馬温泉で療養します。
三木城が落城するのは、翌年天正8年の正月ですので、
有馬で療養中の官兵衛は、三木攻めには直接関わっていなかったと思われます。
が、それではドラマにならないでしょうから、
三木城の落城も、しっかりと描かれることでしょう。
さて、最後に流れた予告(明日 6/8 放送)についてもヒトネタ。
荒木村重の妻・たし を初め、幼い子供含む一族・郎党ら600人余人が無惨にも処刑されるシーンで
生田斗真君演じる高山右近の苦しそうな姿が一瞬映っていました。
そうです。高山右近と中川清秀は、村重を裏切った見返りとして、
有岡城攻めの先鋒を申し付かり、1年かけて二人は荒木の要塞を攻め落としてきのです。
そして当然、荒木一族の処刑にも立ち会ったはずで、
かつて、有岡の城で、共に語り酒を酌み交わした郎党やその家族が
銃殺され業火に焼かれ切り殺される惨状を、目の当たりにします。
その一方で、荒木村重は、高山右近から預かっていた人質(嫡子と妹)を殺さず返しています。
高山右近もまた、有岡の戦いで、より深く信仰に目覚めたのではないでしょうか。
官兵衛が入信したのも、右近の影響がありました。
キリシタン大名という、かつて大河では殆ど描かれることのなかった戦国武将。
黒田孝高、小西行長、高山右近 等々 実に興味深い人物達です。
是非今年の大河では、キリシタン大名の側面も描いて欲しい、と思います。
ミーハーに語りつくしたブログになりました。
次回は、三木城落城について、がっつり解説したいと思います。
そして近づく、【本能寺の変】
田中哲司さんの荒木村重、次回以降も度々登場してくれることを願いまする。
【荒木村重 関連過去記事】
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/67157411.html 軍師官兵衛 第21回「松寿丸の命」
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/folder/1553335.html 軍師官兵衛 第20回「囚われの軍師」
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/67121675.html 軍師官兵衛 第19回「非情の罠」
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/67103232.html?type=folderlist 軍師官兵衛 第18回「裏切る理由」
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/67074624.html?type=folderlist 軍師官兵衛 第17回「見捨てられた城」
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/67003664.html?type=folderlist 軍師官兵衛 第15回「播磨分断」
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/66810515.html?type=folderlist 軍師官兵衛 第6回「信長のかけ」
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/66751590.html 軍師官兵衛 第3回「命の使い道」
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有岡城の戦い・・・1ヶ月にも渡って、ドラマで描いてくれています
しかも、岡田准一官兵衛 VS 田中哲司村重
見ごたえありすぎでしょう。
お互い数センチまで顔を寄せてにらみ合い、
激しいアクションでぶつかり合い、
それでもお互いの友情を持ち続ける複雑な関係を
見事に演じきってますね。
先日、週刊誌で偶然田中哲司さんのインタビューを読んだのですが、
どうやら、有岡落城のあとも茶人として再登場しそうです。
今年の脚本は史実から大きくぶれない姿勢が素晴らしいです
ただし・・・
”おね”がでしゃばりすぎでしたね。
ええ、前回の感想でも書きましたが、
私も「松寿丸救出作戦」には、おねの暗黙の了解があっただろうとは推察してました。
でも、天才軍師・竹中半兵衛が、秘密を身内に漏らす「愚者」とは思えません。
なんせ騙す相手が、あの織田信長公ですから・・・!
慎重に慎重を重ねて、絶対に情報が漏れないよう、細心の注意を払ったはずです。
まあ、ドラマ的には、「松」の扇子に涙を誘われるとは思うのですが、
珍しく陳腐だったなあ、と少々残念な内容でした。
あと、松寿丸くんの女子変装もなかったのも残念・・・
子役の男の子が可愛いので、これはきっと女の子への変装を想定してキャストした、と
思い込んでましたから・・・
そんなちょびっとの不満はありましたが、
村重と官兵衛の白熱の演技にすべてを許します。
”たし”役の桐谷美玲さんも、実にいいです。
こんなに演技上手かったっけ?これから期待できる女優さんですね。
それでは、前回予告どおり、「有岡落城の悲劇」をプチ解説したいと思います。
(ネタばれになりますので、ご注意ください)
天正6年12月8日 織田信長軍が有岡城へ総攻撃をするも
信長がその才能を見込んだ荒木村重は、さすがの戦上手ぶりを発揮し、
織田軍の死傷者は数千という大敗に終わった。
信長が寵愛した文官・万見重元も討死した。
有岡城は伊丹台地に築かれた日本で最初の「惣構え」の巨大な城であり
そうやすやすとは落ちない。
織田信長は「力攻めでは勝てない」と早々に安土へ帰還し、
有岡城の周辺に11もの出城を築かせて「兵糧攻め」へと転じた。
それでも荒木村重と有岡城で篭城する1万5千の荒木兵は、意気盛んであった。
毛利からの援軍と兵糧の補給があれば、何年でも戦えると踏んでいた。
ところが、頼みの毛利からは援軍どころか、一粒の米も送られてこなかった。
11月6日、石山本願寺への兵糧補給を試みた毛利&村上水軍が、
木津川口で織田信長考案の「鉄甲船団」によって潰滅的な打撃を受けてしまう。
所謂、「第二次木津川口の戦い」である。
不敗を誇る毛利水軍の敗北により、瀬戸内の海上権を織田に奪われてしまい、
毛利は、石山本願寺だけでなく、援軍を待つ三木城や有岡城へ援軍も兵糧も送ることが
困難になってしまったのだ。
さすが、織田信長である。
根本から戦略を立て直し一気に勝機を掴みとるその発想。
長篠戦いでの鉄砲隊や、木津川口での鉄甲船など、画期的で凄いとしか言いようがない。
年が変わり、天正7年正月。
荒木村重自ら率いる500の兵が、織田信長の嫡男・信忠軍3000が守る加茂砦へ夜襲をかけ、
あわや信忠の首が、、という勝利を収め、「さすが荒木村重」と京までその評判が届いたものの、
あくまでも局地的な勝利でしかなかった。
食料不足は日を追って深刻さを増し、有岡城を次第に弱体化させていった。
有岡城からは脱走者が相次ぎ、15000超の荒木兵は5000に減っていた。
それでも荒木村重は自軍を励まし鼓舞し続けた。
ところが、篭城10ヶ月を迎える9月2日の夜、
村重の姿が有岡城から忽然と消えた。
村重は5,6名の側近を引き連れ、夜陰にまぎれて船で猪名川を下って、
嫡男村次が守る、尼崎城へ落ちていったのだ。
「陰徳太平記」によれば
「忍び有岡の城を出立づ。共に乾助三郎に重代相伝の葉茶壺を負はせ、
阿古とて、常に膝下に召使ひし女を召具しけり。」
とある。
村重は、家臣の乾助三郎には茶道具を背負わせ、阿古という侍女とともに、
突然、家族も家臣も捨てて夜逃げしたのである。
尚、この時、側室、”たし”の生んだ嬰児も連れて逃げたとされている。
荒木村重の突然の夜逃げは、信長への謀反の理由同様、今でも真相は不明である。
「命が惜しくなった卑怯者」と蔑まされる一方で、
【陰徳太平記】によれば、
「毛利の援軍を連れてくるため、村重自身が安芸へ赴き、毛利を説得してほしい。」と
家臣達の進言を受け入れたためである、とされる。
しかし、城主自ら危険を犯してまで城を脱出し説得に行くなど荒唐無稽であるし、
何より、生まれたばかりの赤ん坊は、援軍要請に不要である
城も家族も家臣も捨てたことは間違いない。
尚、夜逃げの時、荒木村重は家臣に、幽閉された小寺(黒田)官兵衛の放免を命じている。
不可思議な友情の一端である。
有岡城内では村重の逃亡は秘匿されたが、
信長の間者により安土へと直ぐに報告があがった。
10月15日、織田軍は総攻撃を開始した。
滝川一益は村重逃亡をエサに荒木家臣への調略を進めており、内部の手引きがあった。
惣構えの有岡城は、城内に多くの商人や百姓など非戦闘員も本丸へと逃れていった。
11月9日、村重の替わりに城を守っていた荒木久左衛門は、開城を決意し、
織田(津田)信澄隊が、本丸に入ってここに、有岡城は落城した。
織田軍は荒木久左衛門に、本丸に逃れた家臣やその家族助命の条件として
「尼崎城に立て籠もる荒木村重に降伏するよう説得せよ。」と命じていた。
荒木久左衛門は300の兵を率いて尼崎へ出向き、主君説得を試みたが、
すでに良心の向こう側へ行ってしまった村重は、首を縦に振らない。
呆然となった荒木久左衛門は、主君同様尼崎城から300人の家臣ともども行方をくらましてしまったのだ。
信長公は、村重が自ら降伏することを望んでいたのだと思う。
尼崎城を力攻めにせず、家臣に説得に当たらせるなど、ある意味手ぬるい。
村重の態度次第では、もしかすれば命も助けたかもしれない。
それほど、村重という男を買っていたのだと思う。
しかし、その願いも空しかった。
荒木村重は家臣の助命よりも、あくまでも謀反の道を選んだのだ。
【信長公記】によれば、その報告を聞いた信長公の言葉が記されている。
「このよし聞食及ばれ、不便に思食され候といへども、
侫人懲のため、人質御成敗の様子、山崎にて条々仰さる。」
不憫ではあるが、捕らえた荒木一族はもとより有力家臣の妻子全てを処刑するよう命じたのだ。
12月13日辰の刻、
伊丹七つ松では、本丸で捕らえられた有力家臣とその家族、600人が処刑された。
まず、家臣の妻子122名は磔にされて鉄砲で銃殺された。
その他の本丸で捕らえられた人質(男性124名、女性388名)は、
四軒の農家に入れられ、生きたまま農家ごと焼き殺されている。
「悲しみの声煙につれて空に響き、獄卒の呵責の攻めも是なるべし。」(信長公記)
紅蓮の地獄図、阿鼻叫喚の声が響き渡った。
そして同日同時刻、
京に送られていた荒木村重の一族36人は、車一両に二人ずつ16人が乗せられ、
その他車三両には、子供が7〜8人乗せられ、上京一条の辻から室町通りを引き回しの後、
京の六条河原で首を刎ねられた。
その中には、村重の側室「たし」の姿もあった。
荒木九左衛門の14歳の息子や幼い子供達だけでなく、妊婦も居たという。
「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也。」
と日記に綴られるほど、京の人たちは儚き命の哀れに涙し、また信長公の苛烈さを畏れた。
一族郎党を皆殺しにされても、荒木村重と村次は、尼崎城と花隈城で織田軍に抵抗し続けた。
天正8年3月、とうとう荒木村重は尼崎城を捨てて、毛利の領国である尾道へと逃れた。
信長の荒木残党狩はしばらく続いた。
天正9年、荒木の家臣を匿った罪で、高野山の僧侶僧数百人を殺害している。
ここで、冒頭に戻る。
信長公はこれほど恐ろしい人物なのだ。
竹中半兵衛が信長の命令に背いて松寿丸を匿う「覚悟」をご理解いただきたい。
峻烈だけでなく多数の間者を敵味方問わず送り込む情報網も張り巡らしていた。
信玄病死の報を誰よりも早く掴んでいたのが信長公である。
おねや姫路に松寿丸の消息を伝えれば3日後には安土に知れているだろう。
竹中半兵衛は、そう長くない命を懸けて松寿丸救出作戦を敢行したのだ。
その信長公が、光秀の謀反に遭い本能寺で暗殺された。
天正10年6月2日である。
信長暗殺の報を聞いた村重の姿を伝える一文がある。
「天正十年明智光秀、信長を弑すると聞きて、村重はなはだ哭踊しぬ。」 (寛永諸家系図伝)
一目も憚らず慟哭したのだ。
嬉しかったのか悲しかったのか・・・。
自らの謀反と逃亡により、一族郎党を織田信長に惨殺されても尚、生き残る道を選んだ、
村重の複雑な感情は、常人には理解し難いのかもしれない。
秀吉の世になって後、荒木村重は突然堺に舞い戻り、千利休と親交を持つことで
茶人として華々しく上方社交界に復活する。
有岡城脱出時、家族や家臣を捨ててもなお、捨てることができなかった村重自慢の茶道具が
彼の社交界デビューを後押ししたのであろう。
ちなみに村重の大名物「荒木高麗」は、千利休の手に渡り、
その後、徳川家康を経て、尾張家初代義直が所有し現代に伝わる。(徳川美術館所有)
堺で茶人として復帰した村重は、
妻子家臣を見捨てた自分の過去を卑下し、「道糞(どうふん)」と名乗っていた。
その後、秀吉が過去の罪を許して「道薫(どうくん)」へ改めたそうだ。
秀吉は、一族を虐殺された荒木一族を不憫に思い、
嫡子の荒木村次、従兄弟の荒木久左衛門や、村重の従兄弟・荒木元清(花隈城守)らを召抱えた。
しかし、村重に対しては、あくまでも「御伽衆」の一人として、摂津と和泉で食邑を与えた。
秀吉は信長がその才能を見込んだ村重を飼い殺しにしたのだ。
村重が有岡城から連れ出した「たし」の子は、石山本願寺に匿われた後、絵師になった。
浮世絵の祖と呼ばれる岩佐又兵衛である。
織田信雄に仕えたのち、福井の松平忠直に遣え、その後 2代目将軍徳川秀忠に招かれ江戸で
活動した。徳川幕府お抱えの絵師に出世し、江戸で73歳で死去した。
荒木一族は優秀な人物が多い家系なのだろう。
とはいえ、荒木村重自身は地獄の戦場にはもう未練はなかったようだ。
天正13年、織田信長の二男、信雄に、自慢の名物「兵庫の大壷」を銭千五百貫文で売却している。
現代に換算すれば、売却金額は1億2千万円相当だそうだ。
謀反した織田の息子に自慢の茶道具を大金で売り渡す肝の据わり方は、さすが村重だ。
最期まで、信長好みの武将であったのだ。
荒木村重は堺で商人の娘と結婚し、お金にも困らず、優雅な生活を送って堺で亡くなった。
享年52歳だった。
さて、荒木村重に関しては昨年、ものすごく興味深い発見があった。
黒田官兵衛が、幽閉後、荒木村重に宛てた手紙の写しが発見されたのだ。
手紙の日付は、天正11(1583)年11月12日。
秀吉が天下人になった頃である。
村重は京都市の相国寺光源院から伯耆(現在の鳥取県)にある領地回復を依頼され、
官兵衛に協力を依頼し、その返答である。
官兵衛は手紙で「(領地問題を)秀吉様の考え通りに進めるよう申しつけます」と応じており、
「姫路に来た際はお会いしましょう」と気さくに誘っている。
この記事を読んで、益々、荒木村重と黒田官兵衛が好きになった。
「姫路に来たらあおうぜ」とか、官兵衛さん、まじですか?!
織田に謀反した荒木村重説得のため、官兵衛が単身有岡城へ説得に赴いた理由が
理解できた瞬間であった。
二人は無名時代からの親友だから、官兵衛はその友情を信じて乗り込んだのだと。
腹黒い策士と言われる官兵衛だけど、基本は「愛と友情」の男なのだ。
ドラマでも二人の不可思議な友情を、史実どおりに描いてほしい。
岡田官兵衛と田中道糞が姫路で再会し、酒を酌み交わし昔語りをするシーンなど、
想像するだけでも、ぞくぞくしてしまいます。
【荒木村重 関連過去記事】
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/folder/1553335.html 軍師官兵衛 第20回「囚われの軍師」
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/67121675.html 軍師官兵衛 第19回「非情の罠」
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/67103232.html?type=folderlist 軍師官兵衛 第18回「裏切る理由」
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/67074624.html?type=folderlist 軍師官兵衛 第17回「見捨てられた城」
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/67003664.html?type=folderlist 軍師官兵衛 第15回「播磨分断」
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/66810515.html?type=folderlist 軍師官兵衛 第6回「信長のかけ」
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/66751590.html 軍師官兵衛 第3回「命の使い道」
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「官兵衛を捨て、松寿を生かすのじゃ・・・・」
史実とフィクションを織り交ぜながらも、史実からぶれない骨太の脚本とドラマを
皆様、存分に堪能されていることと思います !!
あえて多くは語りません。
今回は、松寿丸救出に関する史実を記載して、感想にかえたいと思います
信長は、官兵衛が有岡城に幽閉されたとは知らず、
毛利へ寝返ったと思い、人質にとっていた官兵衛の嫡子・松寿丸を直ちに処刑せよ、と
秀吉に命じた。
まさしく「戦国の世は、裏切りが世の習い」
安否が不明である以上、寝返った可能性も勿論あるわけで、
特に、小寺官兵衛は秀吉の軍師として織田軍の中枢を知りつくした人物であったが故に、
一見、性急に見える信長の命令も、冷酷すぎると言い切れない事情もあった。
竹中半兵衛は、信長の命令の意図も理解し、かつ、官兵衛は秀吉を裏切るような男ではないことを
十分承知していた。
しかし、秀吉が松寿丸を殺さなければ、秀吉も寝返りを疑われるであろう。
そこで、秀吉も松寿丸も救う作戦をたてるのである。
竹中半兵衛は、秀吉に謁見し松寿丸の成敗を自分に任せるよう申し出る。
秀吉は、何も問いたださすそれを許可した。
まさしく「阿吽の呼吸」であろう。
半兵衛は、長浜城から自分の居城である美濃国不破郡の菩提山城に松寿丸を移した。
これは私の憶測であるが、松寿丸救出に際しては、
長浜城で留守を守るおねも、阿吽の呼吸であったと思う。
おねは、長浜で人質として暮らす松寿丸をドラマ同様、わが子のように可愛がっていた。
おねの聡明さは、「ここで騒ぎたてず素直に半兵衛の家臣に松寿丸を渡すべきだ」と、
感じ取っていたのであろう。
菩提山城に移された松寿丸は、密かに、半兵衛の家臣である不破矢足の屋敷に匿われた。
女の子に変装していたとされる。
不破矢足とは、竹中16騎の一人で、古くから美濃国不破郡南宮神社の社家の家柄で
竹中半兵衛の父・重元の代から仕える家臣。
半兵衛が稲葉山城乗っ取ったときに従った16人の家臣の一人で、側近中の側近であった。
武勇にもすぐれた武人で、姉川の戦いでは、足に刺さった矢をものともせず戦い続けたことから
「矢足」と半兵衛が名づけたという。
そして、信長、秀吉には、実際に松寿丸を処刑したかのように装ったのである。
小説などでは、松寿丸と年恰好の似通った水死した子供の遺体の首を
松寿丸の代わりに差し出したとされているが、恐らくそうであろう。
猜疑心の強い信長が納得するには、それだけの証拠が必要だからだ。
半兵衛は、黒田家だけでなく、秀吉にすら、松寿丸隠匿と替え玉の件は報告していなかった。
敵を欺くにはまず身内から・・・
松寿丸処刑の報は、すぐに各地へ広がり、当然ながら姫路にも伝えられたであろう。
有岡城に捕らえられた官兵衛の耳にも届いた可能性は高い。
官兵衛と光姫にとっては一粒種の嫡子。
松寿丸処刑の報は、二人を絶望の淵に追い込んだだろう。
姫路の黒田家の人々もまた、この世の不幸と残酷さに涙を流したであろう。
しかし、それでも竹中半兵衛は、真実を語らなかった。
不破矢足もその命令に従った。
自分が極悪非道の所業に手を染めた冷酷な人間だと思われたとしても、
松寿丸を守るために、すべてを胸にしまいこみ徹底的に秘匿したのだ。
これぞ、真の軍師ではないか!
そして、最期まで真実を語らぬまま
竹中半兵衛は、天正7年6月、三木城攻略の陣中にて、労咳のためにこの世を去った。
享年36歳の若さであった。
天正7年11月9日、
有岡城は織田軍の滝川一益の猛攻撃によって落城した。
実はその2ヶ月も前の9月2日、
城主の荒木村重は、夜陰に紛れて、家族も家臣もすべてを残したまま
密かに有岡城を脱出し、嫡子・村次の守る尼崎城へと脱出していたのだ。
(有岡落城とその後の悲劇、そして村重の生き様については、次回にでも説明したいと思います)
幽閉されていた官兵衛は、有岡落城の際、決死の潜入を試みた栗山善助らにより救出された。
牢屋に取り残された官兵衛の姿は、見るも哀れな姿であった。
湿気の立ち込める牢屋で1年も拘束されていたため、シラミがわき、
蚊に刺されて全身が瘡だらけになり、髪の毛も抜け落ちていた。
また両膝が曲がらず、歩くことはおろか立つこともできない状態で、
栗山善助は主君を戸板に乗せて救い出している。
実際この時以降、官兵衛は戦場では陣輿に乗って移動することになった。
(ドラマでは片足を引きずっているだけですが・・・)
信長も秀吉も、官兵衛の無惨な姿に接し、絶句したという。
特に、信長は松寿丸処刑を命じただけに、後味が悪かったであろう。
官兵衛救出後、松寿丸は竹中半兵衛の故郷で生きていることが分かった。
さすがの信長も、半兵衛が偽りの報告であった事をとがめることはなかった。
むしろ安堵したことであろう。
もとより、官兵衛と光姫、そして姫路の黒田家の人々の歓喜たるや、想像に難くない。
死してなを、旧友を助け、上司を助け、争いを収めた天才軍師、竹中半兵衛。
まさしく、諸葛亮孔明の如しである。
松寿丸、長じて黒田長政は、竹中半兵衛への恩義を忘れていなかった。
福島正則から竹中半兵衛遺愛の兜を譲り受け、関が原合戦の折、この兜を身につけて
獅子奮迅の働きを見せた。
ちなみに、岐阜県不破郡垂井に「五明稲荷」がある。
ここは、松寿丸が匿まわれた不破矢足の屋敷跡とされ、
境内には松寿丸お手植えのイチョウの古木があるそうだ。
不破矢足もまた、咎められれば腹を切り主君に殉じる覚悟であったろう。
竹中半兵衛の屋敷跡や、墓も岐阜県垂井にある。
いずれ訪ねたい史跡の一つである。
下克上がまかり通る戦国の世に、
二人の軍師の命懸けの友情が、小さくて大きな未来を守りきったのである。
さあ、有岡城の戦いもクライマックスです!!
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