ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

大河ドラマ「軍師官兵衛」

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とうとう、始まりました。
 
【有岡城の戦い】
 
今回は、官兵衛が有岡城へ単身で乗り込むまでの過程を丁寧に描いていましたね。
 
最後、有岡城にて村重と官兵衛が、友として敵として対峙するシーンは
二人の心の火花がスパークし、実に見ごたえがありました!!!
 
 
主君である御着城の小寺政職を翻意させるため、また天下統一という夢のためにも
翻意するならまだ間に合う。
「信長様と共に天下統一を」と若かりし頃二人で夢を語ったあの時を思い出して欲しい・・!
と熱く訴える岡田官兵衛。
 
そんな官兵衛を、静かにみつめる田中哲司さんの村重の眼・・・
官兵衛の熱弁とは対照的に、冷静に語りだす落ち着いた表情。
肝の据わり方がハンパないです。
 
「そなたがかわいそうになってきた。」と、小寺政職の密書を官兵衛に渡します。
 
”黒田官兵衛がそちらに伺うから、捕らえて殺してほしい”と・・・・
 
政職に裏切られたことに愕然とする官兵衛。
「主君にも裏切られ、そして信長様に使い捨てされるなら、
わしとともに織田を裏切れ」と村重は、官兵衛に迫ります。
しかし官兵衛は、村重を見据えて「お断りいたす」と震える声で、しかしきっぱりと答える。
 
一歩も引かない二人の武将の迫力ある駆け引きに痺れました。
 
史実でも、小寺官兵衛は、単身で有岡城へ乗り込んでいます
そして恐らくドラマと同じような激しいやりとりがあったと想像できます。
官兵衛と村重は、二人が頭角を現す前からの親友であり、
お互い助け合い本音で話し合える間柄であったからこそ、
あのシーンには説得力がありました。
 
そして捕らえようとする荒木兵と官兵衛の大立ち回り!
武術が趣味の岡田君、さすがアクションは完璧でしたね。
 
 
それでは、官兵衛幽閉のいきさつをプチ解説したいと思います
 
天正6年11月、摂津国有岡城城主・荒木村重が織田信長に背いた。
さらに、官兵衛の主君・御着城の城主・小寺政職も、村重の誘いに乗り、毛利に寝返った。
 
驚いた官兵衛は御着へ出向き、政職へ翻意を促すと、政職は
「官兵衛が村重を説得して織田側へ再び寝返りさせることができれば、自分も織田側につく。」と言い出した。
 
官兵衛は主君の言葉を信じ、「村重殿を翻意させねば!」と強い使命感を持って
単身で有岡城へ出向き、村重の説得に努める。
小寺官兵衛といえば、いまや秀吉の軍師である。
そんなブレーンがたった一人で敵城へと出向いたのは、村重の友情を信じたからだろう。
 
官兵衛は、怜悧で腹黒い軍師と思われがちだが、この有岡城での行動を見るかぎり
熱血漢でしかない。
 
 
しかし、現実は過酷であった。
村重は官兵衛の説得に応じるどころか、官兵衛を捕らえて城内の牢に閉じ込めてしまったのである。
実は、小寺政職が前もって密使を送り、官兵衛が来たら捕らえて殺すよう、村重に伝えていたのだ。
 
官兵衛が監禁された獄舎は、有岡城の西北隅の低湿地にあり、
背面には深い溜め池があって、三方は竹やぶに囲まれていた。
狭くてじめじめとした牢屋で、
官兵衛は食事も満足に与えられず、排泄もままならず、過酷な情況下におかれた。
 
その獄舎の前で、村重は度々官兵衛に寝返りを誘った。
村重が官兵衛を殺さなかったのは、友情もあるだろうが
彼ほどの軍師が自分に味方してくれらた心強いという本音もあったであろう。
 
しかし、官兵衛は屈しなかった。
信長と秀吉への忠義を貫くためであった。
 
私の個人的な推測だが、官兵衛の心の中には、上月城の戦いが焼きついていたのではないだろうか。
尼子再興を願い、捨て子の城となっても尚、主君の為に最後まで戦った山中鹿介の姿が
まぶたに焼き付いていたのではないだろうか。
 
官兵衛は、やっぱり熱い男なのである。
 
(ここからはネタバレです。ご注意ください)
 
 
たった一人有岡城へ出向いたまま帰らぬ主君を待つ姫路城は、陰鬱な空気が漂っていた。
「殿は捕らえられたのか?殺されたのか?
 
しかも御着城が裏切った今、信長の人質となった松寿丸の命も危ない。
 
そんな城中をコントロールしたのは、
官兵衛の父・宗円であった。
 
夫とわが子の安否を心配する光姫には「武士の嫁らしく振舞え」と叱咤し、
光姫は、その言葉に従い、気丈に振舞った。
 
また家中には
「官兵衛の命を守るため、義を捨てるは武門の恥。信長様に二心なし。
官兵衛が獄中にて殺されても武士の本分、何の悔いがあろうか。」と
あくまでも織田側につき、荒木村重や御着と対決する、基本方針を語った。
 
宗円の覚悟の元、郎党達も一致団結した。
とはいえ、みすみす主君を見殺しにはできない。
そこで、官兵衛を救出するため13人の決死隊を組み、彼らは血判状による誓詞を交わしている。
 
 
熊野牛王の誓詞は、
 
「日本国中の大小神祇、八幡大菩薩、愛宕山権現、ところの氏神にも、
違背あれば御罰を蒙らん」と明記され、その下には血判署名した13人の名前が記されている。
 
母里与三郎、喜多村六兵衛勝吉、衣笠久佐衛門、長田三助、藤田甚兵衛、
三原右助、小川与三左衛門、栗山善助、後藤右衛門、宮田治兵衛、母里太兵衛
 
「御本丸様」宛(=光姫もしくは宗円)となっており、日付は天正6年11月5日、となっている。
 
そして決死隊13名は、その年の暮れから、商人や馬子などに変装して、伊丹城下へと潜伏し、
ついに、官兵衛が幽閉されている場所をつきとめ、救出作戦を練るのである。
 
そして姫路城は、宗円を中心に守りを固めた。
 
当時、姫路城内には、御着の客臣も多かった。
黒田と小寺は敵となってしまったが、旧小寺家の家臣たちは皆、
黒田の家中に残ることを宗円に願い出て、宗円らは大いに喜んだという。
 
一方・・・
有岡城の獄舎で絶対絶命の官兵衛は、身体の苦痛と葛藤が続いた。
「むしろ死んだほうが楽なのか?」
「村重に寝返ったら楽なのか?」 
 
ともすれば崩れそうになる心を日々癒し励ましたのは、小さな牢格子から見える藤であった。
竹やぶから少しづつ藤つるが伸びてきて、やがて高窓に緑の葉を見せてくれた。
藤の健気な成長は、官兵衛の心を癒し励ました。
 
ある日の朝、官兵衛は藤つるの先に、鮮やかな藤の花を見つけた。
 
「吉瑞だ」 
「獄中に藤の花が咲くなどと有り得ないことだ。死ぬなよ、待てば咲くぞ、という天の啓示だ!」
 
吉川英治先生の「黒田如水」には、
藤の花に手をあわせる官兵衛の姿が、印象深く描かれている。
 
事実、有岡の牢獄で健気で可憐に咲いた藤の花は、よほど心に染み入ったのであろう。
有岡城から救出された後に、官兵衛は黒田家の家紋を「橘」から「藤巴」へと変更している。
 
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家紋とは先祖代々受け継がれた象徴であるが故、「滅多に変えるものではないが?」と
秀吉に理由を問われ、母里太兵衛や栗山善助ら家臣達を前にして、こう答えたという。
 
「心に驕りの生じたときは、すぐに伊丹の獄舎を思いだすようにと願う心からでございます。
あのころ、日々仰ぎ見て心に銘じた獄舎の藤花こそ、官兵衛の生涯の師であり、
家の吉祥でもあります。」
 
まるでドラマのような感動ストーリだが、フィクションではない、事実である。
黒田官兵衛が、実に哲学的であり現代的な人物だと私が感銘を受ける理由の一つがこれだ。
 
さらに、村重の家臣 加藤重徳は、獄舎で苦難の時を過ごす官兵衛に同情し、
主君に黙って世話を焼いてくれた。
その行動に感謝した官兵衛は、有岡落城後、没落した加藤重徳の次男を養子にし、
我が子同然に育てた。その子こそ、黒田一成、黒田24騎の一人である。
 
この事実だけでも、官兵衛にとっての有岡の幽閉が、人生最大の苦境であったと分かる。
 
それは官兵衛だけではない。
松寿丸、後の黒田長政も絶体絶命のピンチに陥ってしまった。
 
 
織田信長は、官兵衛が村重によって有岡城に幽閉されたことを知らず、
毛利に寝返ったと思い込んで、
人質にとっていた、松寿丸をただちに処刑するよう秀吉に命じたのである。
 
残酷な命令だ。
しかし、これ以上の裏切りを阻止するために見せしめが必要だったのだろう。
播磨一国が毛利に寝返れば、毛利は制圧できないし「天下布武」への道は遠ざかる。
 
村重謀反は、信長公にとっても、性急で重大な危機でもあったのだ。
 
しかし、竹中半兵衛は、官兵衛が主君を裏切るような男でなはい、とはっきりわかっていた。
なんとしても松寿丸を助けなければいけない。
竹中半兵衛は秀吉に「松寿丸の成敗は私に任せてほしい。」と申し入れ
秀吉も承諾した。
 
あうんの呼吸だ。
秀吉も松寿丸を殺さない方法がないか、半兵衛の知恵に托したのだと思う。
 
軍師竹中半兵衛の最期の作戦は、信長公の裏をかく「松寿丸救出作戦」という大博打であった。
 
次回は、半兵衛の「松寿丸救出作戦」を中心に書いてみたいです。
 
にしても・・・・
 
田中哲司さんの荒木村重は、はまりすぎです!!!
私の思い描く「村重像」が目の前に現われた、そんな印象を持つほどです
 
上手い役者さんだとは思っていたけど、これほど存在感あるとは。
有岡城の戦いの後でも、「道糞」として度々登場して欲しいですね。
 
 
ところで話は変わりますが、
 
2015年大河ドラマに、三谷幸喜脚本 「真田丸」決定!と発表されましたね。
主役の真田幸村(信繁)は堺雅人さんが内定だとも・・・!
ああああああ、楽しみすぎます。
できたら、真田信幸には上川隆也さん・・なんて妄想しちゃいます。
はい、蛮幽鬼コンビの復活です。
正式発表が待たれますね。
 
 
 
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村重謀反!
天正6年10月、荒木村重謀反の知らせは世間を震撼させました
 
今回は、信長を裏切るまでの荒木村重の内面に迫った回でした。
村重謀反の理由は様々な説があり今もって謎とされています。
 
今年の大河は、荒木村重の実像を描いた、初めてのドラマではないでしょうか?
 
生まれたばかりのわが子を抱き、生き残るためにも、どの道を選ぶべきかと思案しつつ、
「わしが天下人になったとしたらどうする?」
愛妻に本音を漏らす荒木村重・・・
 
この台詞にぞくりとしました!
 
私が愛読する岳宏一郎氏の小説「風の武士」(花鳥の乱)で描かれた、村重像に近い!!!
 
 
確かに村重は追い詰められていました。
しかし、信長がしみじみ語ったように、村重は胆力の座った武士でした。
 
京に隣接する「摂津」という重要な地の一色支配者である自分なら、
毛利と本願寺を味方にすれば、信長に替わって天下を取ることも可能だと、
湧き上がる野心を持ったとしても不思議ではないのです。
 
そしてそんな村重という男の本性を、もっとも理解していたのが織田信長でした。
信長公が、村重討伐のために、駆り出した軍勢は、五万人(一説には10万とも)。
三木城攻撃も一旦取りやめ、秀吉軍をも投入させています。
いかに信長が、荒木村重という武将を評価し恐れていたかが、この大軍だけでも理解できます。
 
「わしは信長の天下などみとうない。」
 
田中哲司さん熱演の村重は、実に魅力的です。
まさに「風の武士」で描かれた村重の風貌であります!
 
 
 
それでは、荒木村重の謀反について、プチ解説を試みたいです。
 
前回の感想でも触れたが、
荒木村重謀反の噂は、忽ち安土へともたらされた。
「陰徳太平記」によれば、村重が謀反を思い立ったのは、
荒木の郎党 (一説では、属将・中川瀬兵衛清秀の郎党)が、石山本願寺に米を密売していたのが
発覚し、村重が信長の懲罰を恐れたため、とある。
 
しかし、ドラマでも描かれていたように、信長はそんな噂を全く気に留めてもいなかった。
 
天正6年10月21日、明智光秀と堺奉行の松井友閑(宮内卿法印)、側近の万見重元(仙千代)を
有岡城へ送り、村重に問いただした。
「一体、何の不足があってのことか?言い分があるなら聞いて取らせる。遠慮なく申すがよい。」と。
 
この口上だけでも、信長の村重に対する高評価が分かる。
信長は、本音では、米の密売など鼻にもかけていなかったのだ。
 
ちなみに、明智光秀を糾問使として派遣したのは、
荒木村重の嫡男・村次が、光秀の娘を娶っていたからだ。
親類なら本音を聞きだせるのでは、という信長の配慮であったと思われる。
 
光秀らの問いに、村重は「謀反などあるはずがない。」と一蹴した。
 
11月3日、信長公は、再び光秀らを有岡城へ送り、
「母親を人質として差しだし、村重自身も安土へ出仕せよ。」と命じた。
しかし、村重は安土には現われなかった。
 
 
その後、村重翻意のために秀吉の代理として、蜂須賀小六(彦右衛門)が有岡城に派遣された。
 
小六親分に対して村重が語った言葉が残されている。
 
「そこもとの諌言至極に候。さりながら、信長、法地を焼払い、数多くの僧、法師を殺す
最悪の所業あさましく候。狼藉の法敵信長、弥陀の利剣をもって、誅戮あるべき。
我たとえ天涯一人になるも、信長の行路を見定めん。」
 
最後の、「我天涯一人になるも、信長の行路を見定めん。」はまるで予言のようですね。
 
 
しかし、このとき既に、村重は石山本願寺と密約を交わしていた。
安土から光秀らが有岡へ派遣される4日も前の、10月17日のことである。
 
村重は、顕如と誓詞を交換し、娘を人質として石山本願寺へ送っていた。
覚悟の謀反であったのだ。
 
顕如は「よくぞご決断された。」と大いに喜んだ。
 
さらに、顕如からは、「畿内近国五カ国を差し上げる」という口約束も取りつけ、
毛利からは、「播磨以東の支配を委ねられた」とも言われている。
 
天正4年から明智&細川に対して抵抗し続けている、波多野氏との連携も
視野に入っていただろう。
丹波八上城主・波多野秀治と荒木村重は、血縁関係があり、
更に言えば、三木城主・別所長治は、波多野秀治の娘を妻に娶っていた。
 
毛利、本願寺、丹波、播磨、そして摂津と、
荒木村重の謀反により、新たな織田包囲網が構築されてしまったのだ。
 
 
村重は、有岡城での防戦を想定し空濠を掘り、逆茂木を植え、兵糧を運びこみ
織田軍の襲来に備えた。
そして尼崎、高槻、茨木、花隈の支城も有岡に続いた。
 
荒木村重には、勇猛かつ智将と名高い二人の与力がいた。
 
高槻城主・高山右近友祥と、茨木城主・中川瀬兵衛清秀であった。
 
村重の母は、中川瀬兵衛の叔母にあたり、右近と瀬兵衛は従兄弟同士であった。
さらに高山右近は、村重への忠誠の証として、嫡男・ジョアンと妹カテリーナを人質として有岡城に
差し出していた。
 
信長は、有岡城を攻める前に、二人の城を落とす必要があったのだ。
 
 
(ここからは、ネタばれです・・・!ご注意ください)
 
 
11月9日、織田信長は摂津に5万(一説には10万)の大軍を集結させた。
三木城を包囲していた秀吉軍も、三木攻めを一旦中断させて召集されている。
娘が荒木村次に嫁つぎ、有岡城で人質となってしまった明智光秀も、召集された。
 
娘の居る城を攻めるのだ。光秀の苦悩はいかばかりであったろう。
 
丹羽長秀、滝川一益、さらには信長の息子達(信忠、信雄、信孝)も投入された。
信長軍総決起、といっても過言ではない。
 
荒木村重という武将を信長が恐れていた証でもある。
 
信長公は、5万の兵を二手に分け、それぞれ、高槻城と茨木城を包囲させた。
 
これから、壮絶な城攻めが始まると誰もが思った。村重もそうであったろう。
しかし、信長は大軍を動かさず、調略の手段をとった。
 
高槻城の高山右近には、書状を送りつけただけだ。
そこには、こう書かれてあった。
「直ちに開城しないなら、京の南蛮寺で捕らえたパアデレ(神父)どもを、
高槻城面前で磔にかけ、領内の切支丹を皆殺しにしてくれる。覚悟をすえて返答せよ。」と
 
信長は比叡山を焼き討ちし、長島と越前で7万の本願寺門徒を虐殺した男である。
「信長ならやりかねない」
熱心なキリシタン大名であった右近は、家中の反対を押し切り、開城した。
信長は、村重を裏切った代償として、右近に2万石もの報償を与えた。
 
わずが七日間の調略であった。
 
信長は茨木城でも、たくみな心理作戦を用いた。
中川清秀の調略のため、古田左介を茨木城へと派遣した。
古田左介とは、後の古田織部である。
織部は中川清秀の妹婿であったのだ。
 
古田織部は、信長からの口上を伝えた
「城を開くなら、摂津半国を与え、さらに我が娘・鶴姫をそなたの嫡子へ与える。」と。
これ以上の厚遇はない。
中川清秀は、翌日、織田に帰参した。絵に描いたような手のひら返しである。
本願寺へ米を密売した噂の出所はこの男の郎党であるにも関わらず、
露骨に村重を裏切った清秀。
良心の呵責など戦国の世には無用の長物であったようだ。
 
こうして高山右近と中川清秀は、わずか10日ばかりで村重に謀反し、
織田軍の先鋒として、今度は有岡城を攻めることとなる。
 
 
ちなみに。本能寺の変の後、右近と清秀は共に秀吉の傘下となり、
有力武将としてのし上がっていくのである。
 
 
中川清秀の次男は、豊後岡藩初代藩主となり、中川家は幕末まで続く。
さらに娘は池田輝政の正室となり、姫路2代目藩主のご母堂となる。
 
高山右近の生涯については、過去記事を参照ください。
 
一方、荒木村重は、不思議な誠意をみせた。
 
自身を裏切った、高山右近の子供達を殺さず返した。
また明智光秀の娘も殺さず、光秀に返している。
 
荒木村重の男気が見て取れる。
 
 
村重の有力与力の寝返りに成功した信長は、12月8日、一気に有岡城へと攻め込んだ。
 
有岡城は、伊丹台地に築かれた巨大な「惣構えの城」であった。
ちなみに、有岡城は日本最古の「惣構え」の城である。
 
「惣構え」とは、中世ヨーロッパのように、都市全域を囲む城を指す。
有岡城内には、本丸、二の丸、三の丸、侍屋敷のほか、郷町と言われる商人や職人の住む一郭もあり、
南北十八町(約2000メートル)、東西八町(約900メートル)という巨城に、荒木兵1万5000人が
籠城していたのだ。
荒木村重はさすがに信長の見出した戦国武将であった。
有力与力寝返りにも屈せず、よく戦った。
結局、信長軍は数千の死傷者を出し、信長の側近であった万見仙千代も討死した。
 
仙千代さん、ドラマでも登場してましたね!
信長の寵愛を受けた小姓でもあり有能な検視役でもありました。
 
織田軍は一時撤退した。
 
ちょうどそのころ、(11月6日)
織田信長が伊勢で密かに建造を命じていた鉄甲船6隻が大坂湾に来航し、
石山本願寺に兵糧を運び込もうとしていた600もの毛利水軍を潰滅させたのだ。
 
織田信長包囲網を打ち破る、突破口となった。
 
この勝利によって、石山本願寺は兵糧不足となっただけでなく、
有岡城や三木城への毛利からの兵糧も、途絶えてしまった。
 
織田信長は、有岡城を兵糧攻めにした。
結局両軍のにらみ合いは1年にも及ぶのである。
 
 
そして
 
一年に及ぶ籠城戦の間、有岡城の獄舎に官兵衛は幽閉されていた。
 
官兵衛がたった一人で有岡城へ村重の説得へ赴いたのは、
蜂須賀小六や光秀が訪問した11月3日から、信長軍の摂津出陣の11月9日までの間であろう。
 
官兵衛は絶体絶命の危機に陥った。
 
官兵衛の主人である御着城主・小寺政職が密使を村重に送り、
官兵衛が来たら捕らえて殺すように伝えていたのだ。
 
官兵衛が持参した村重宛の小寺政職の書状に、「官兵衛を殺せ」と書かれていたとも。
政職さん、血迷ったのですね。
 
官兵衛ほどの知恵者が、何故、村重と政職の裏切りを見抜けなかったのだろうか?
きっと、不安もあっただろう。
それでも村重に直接会って確かめたかったのだと思う。
軍師ではなく、ひとりの友人として・・・
 
さあ、次回も、村重中心に、ウォッチしちゃいますよ!
官兵衛 vs 村重! 魅力的すぎまする〜!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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昨夜録画を観たのですが・・・
 
櫛橋左京進、切腹しましたね!??
私の調べたところでは、助命され黒田の家臣となる、はずなのですが、
改めて別の資料を探してみましたが、切腹したのは、光姫の実父である櫛橋伊定だ、いや、左京進だ、と
様々な説があるようで、はっきりしません。
 
後世、黒田官兵衛は、秀吉の軍師として、また黒田長政の父として福岡藩の基礎を作った有名人ですが、
播磨攻めの時代、すなわち、まだ小寺姓を名乗っていた当時は、田舎の小城主のレベルで
不明な点も多いのも確かです。さらに妻の実家となれば、より不確かでしょう。
 
ただわかっているのは、櫛橋家の子ども達は、黒田家に引き取られ黒田家の家臣となったこと。
 
志方城が落ち、左京進が切腹したあと、
姫路城で、叔母にあたる光姫、後藤又兵衛、姉・力姫の子ども達とともに、
櫛橋の子供達が食卓を囲むシーンがありましたが、あの光景はきっと実際にあったと思われます。
 
敵となっても子供らに罪はないと、わが子同様に育てた官兵衛と光姫の心の大きさに感嘆するのみ。
 
おそらく、後日描かれるであろう、荒木村重の妻子や家臣たちの末路を思えば、
黒田夫妻の博愛主義は、真実であったに違いないと思うわけです。
 
 
そして、上月城の落城もまた、辛い場面でしたね。
岡田准一君、今回も本当に泣いてました。
 
史実では、もちろん官兵衛は上月城に潜入はしてません。
しかし気持ちは岡田官兵衛と同じ、心が引き裂かれる思いであったでしょう。
 
それでは、プチ解説に進みたいと思います。
 
天正6年(1578)4月、毛利の5万の大軍に包囲された上月城を援護するため
秀吉は、官兵衛、荒木村重らとともに1万の兵を率いて、上月城の東にある高倉山に布陣していた。
しかし、信長から、「三木城攻略に専念するように」と指令が届き、その場を撤収せざるを得なければならなかった。
 
「安土(信長様)からの命に逆らうことはできない。」 ドラマで吐いた秀吉らの言葉が全てである。
 
通説では、秀吉は 亀井茲矩(これのり)を、上月城への密使として派遣したことになっている。
亀井茲矩は、尼子再興軍の一員で、山中鹿介の養女(亀井氏)を娶り、亀井姓を名乗っていた。
鹿介の側近中の側近であった。
上月城の攻防の時、亀井茲矩は上月城との連絡役として秀吉軍に帯同していた。
それゆえ、秀吉の密命を帯び、最後の連絡を試みるも、
毛利の鉄壁の守りに阻まれ、上月城まで辿りつけなかった。
 
もし、ドラマのように上月城に潜入できたなら、尼子再興軍の一員として、
そのまま上月城に残り、鹿介の側を離れなかっただろう。
 
ちなみに、亀井茲矩はその後秀吉⇒家康の元で頭角を現し、因幡鹿野藩初代藩主となる。
城持ち大名へと出世したのだ。
彼の嫡子の代に、石見津和野藩 4万3000石に加増転封されている。
政治家の亀井亜希子氏は、子孫にあたる。
亀井茲矩は、シャムやインドとの交易を試みるなど、当時の戦国大名としては先見の明があった。
後に、森鴎外などを輩出した津和野藩の風土を生み出したともいえよう。
また、山中鹿介ら尼子再興軍の夢を、亀井茲矩が体現したともいえる。
 
しかし・・・上月城である。
 
天正6年(1578)7月5日、孤立無援となり、食料も断たれ、見捨てられた上月城は落城した。
尼子勝久は切腹して、城兵の助命を敵に仰ぎ、山中鹿介は捕らえられて、備後の毛利輝元の陣へ
護送されることになった。
しかし、出雲の麒麟児と畏れらえた鹿介が、おめおめと毛利の軍門に下るはずなどない。
恐らく、毛利輝元と刺し違える覚悟であろうと看破した吉川元春は、
護送途中、備中松山の川原で鹿介を謀殺した。
 
尼子勝久と山中鹿介の死をもって、尼子再興の夢は絶たれた。
しかし、山中鹿介の嫡男、山中幸元(鴻池新六)は、
武士を廃業したのち兵庫で酒造業を営み財をなし、その後大阪に出て、豪商・鴻池家の始祖となる。
大名貸しで有名な鴻池家は、毛利の後継である長州藩には、決して融資しなかったのは有名な逸話である。
 
尼子再興の夢は破れても、その志・スピリッツは、亀井茲矩、山中幸元ら後継にしっかりと引き継がれたのである。
 
それは、我らが官兵衛も同様であろう。
 
先に述べたように、志方城の情報が少ないと同様、
実は、官兵衛の動きも実はよく分かっていない。
 
荒木村重が織田信長に謀反し、有岡城で籠城するのは、天正6年11月である。
官兵衛が村重説得に単身乗り込み、有岡城で幽閉されることは史実であるので、
天正6年11月までの、約半年間は、裏方として秀吉のサポートに奔走していたのであろう。
 
前回の感想でも書いたように、
主に、宇喜多直家の調略に奔走したと推測される。(スパイ活動ゆえ、資料には殆ど残っていません)
ちなみに、当時の宇喜多氏は 【浮田直家】と記されることも多い。
虚偽豹変のこの男には、むしろ「浮田」のほうが似つかわしい。
 
宇喜多直家の不穏な動きは毛利の知ることとなり、
また三木城戦が長期戦になることを見越して、
吉川元春は出雲へ、小早川隆景は安芸へと、それぞれ撤退したのである。
官兵衛の調略活動の賜物であろう。
 
一方、上月城から撤収した秀吉は、信長の命令で、播州三木城攻めから外され、
但馬攻略を命じられた。
中国総司令官が、但馬へ追いやられるのは屈辱でしかなかったが、
竹中半兵衛の判断もあり、秀吉は従った。
半兵衛は、「堅牢な三木城は、三位中将信忠様とて、そうやすやすとは落ちません。
但馬平定を速やかに行えば、必ず秀吉様に指揮権が廻ってくるでしょう。」
そしてその言葉どおり、秀吉軍はわずか40日余りで僻地山間の但馬を平定してみせたのである。
竹中半兵衛も但馬掃討にて陣頭指揮を行っているが、その病状は日に日に悪化していった。
 
さらに、秀吉と共に、上月城から撤収した荒木村重もまた、運命の岐路に差し掛かっていた。
 
以前の感想文でも記載したが、
荒木村重は石山本願寺との和睦交渉の一環として、
独断で、米百石を本願寺へ売っていた。
 
さらに、この年(天正6年)7月、神吉城攻めで西の丸を攻めた際、
かねて昵懇であった神吉藤大夫が侘びを入れてきたため、首を刎ねるに忍びず
一命を助けたところ、神吉藤大夫は三木城へと駆け込んでしまった事件があった。
(これはドラマでも説明されていましたね)
ところが、実情は神吉城の西の丸を攻めたのは、佐久間信盛も一緒であり、
神吉藤大夫を助命したのも佐久間信盛も承知の上であった。
 
佐久間信盛はこの2年後、織田信長から【折檻状】を送られ失脚し、
失意のまま高野山で死去することになる。
 
また、ドラマでも田中哲司さん演じる荒木村重を、小朝演じる明智光秀が庇い励ますシーンがあったが、
二人は茶の湯を通じて仲が良かった。
また先に謀反した松永弾正も、荒木村重と懇意であったという。
なにやら、謀反や転落の「連鎖」を感じずにはいられない。
 
荒木摂津守村重の不穏な話は、毛利にも届いており、狂歌にもなっていた。
 
「あらき(荒木)弓はりま(播磨)のかた(方)へおしよせて
いるもいられず、引くもひかれず」
 
毛利も荒木の窮地を知り、謀略の罠を張っていたのだろう。
 
もちろん、織田信長にも不穏な噂は届いている。
織田信長はにわかには信じず、この暴君には珍しく、当初は穏便な解決を望んだ。
 
荒木と昵懇である明智光秀と、側近の宮内卿法印、万見仙千代の3人を有岡城へ遣わし、
事情を質した。
村重は、「逆心など片隅もない。」と答えた。
信長は「別儀がないのであれば、母親を人質に出し、安土へ顔をみせよ。」と村重に伝えるも
村重は、それに応えず、有岡城に立て籠もった。
 
いよいよおかしいということになり、秀吉の元にも信長から命がきた。
「摂津守村重を翻意させよ」と。
以前も書いたように、信長は荒木村重の力量を買っていたのだ。
そうでなければ、信長最大の宿敵・本願寺担当を任せはしない。
さらに、摂津という要所を任せることもなかっただろう。
秀吉は、村重と仲の良かった蜂須賀小六にその役を命じた。
蜂須賀小六親分は、有岡城を訪ねて、村重本人と直談判したが、村重はかたくなになっており
説得に失敗した。
 
そして・・・官兵衛の出番である。
村重とは秀吉と出会う前からの親友である。
さらに、荒木村重に呼応して、御着の殿まで謀反したとの噂まで聞こえ始めた。
 
上司と親友・・・
軍師などという肩書きを忘れ、御着城から有岡城へと、荒木村重の説得に向うのである。
しかも、たった一騎である。(これは史実です)
策略、謀略に長けた男がこんな行動をするであろうか?
軍師ではなく、友人としての命懸けの行動であろう。
私が黒田官兵衛を好きなのは、有岡城の幽閉事件の顛末があるからだ。
 
黒田官兵衛。天正6年11月。
人生最大の危機が訪れようとしています!!!
 
松寿丸と竹中半兵衛の物語も涙腺崩壊間違いなしですぞ。
 
【過去記事】
 
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/39507538.html  鴻池家と山中幸盛(鹿介)
 
ちなみに今回の「孫子きた〜〜〜!」は
別記事にてUPしたいと思います。
イメージ 1
 
イメージ 2
今回も、
金子ノブアキさん演じる櫛橋左京進さまにぐぐっときてしまいました。
 
織田を離反し毛利につくと決めた兄を説得するため
単身、実家でもある志方城を訪ねた光姫。
このままでは櫛橋家が滅びてしまうと涙ながらに伝えるも、
兄の決意を覆すことは叶いませんでした。
 
久しぶりの実家で、兄妹二人きりでの会話。
幼い日々兄姉妹仲良く笑い合って過ごした日々が嘘のように
いまや敵となり戦う運命にある皮肉。
「戦のない世はきますでしょうか?」 ・・・妹の悲痛な心の声に
「わしには分からぬ。しかし今から我ら兄妹の縁をきる。さらばじゃ・・」と
優しく声をかける左京進。
中谷美紀さん・・・光姫になりきって本当に涙を流していらっしゃいましたよね。
姉に続き、兄とも戦をすることになった光姫の心情は、たとえ600年前の戦国時代とはいえ
同じようにわが身を裂くような苦しみであったことでしょう。
 
以前もご紹介したように、左京進や光姫の父・櫛橋伊定はなかなか立派な城主であったようで
娘婿となった黒田(小寺)官兵衛を高く評価し、婚礼の祝として兜と胴丸を贈っており、
官兵衛自身もその贈り物を生涯大切にし、今もなお現存しているほどです。
 
櫛橋家と志方城は、光姫の台詞のように、
父、母、兄姉妹が仲良く日々笑いあう城であり、家族であったろうと想像できます。
 
ネタバレですが・・・・
 
三木城攻めの前哨戦として、織田信長の嫡子・三位中将信忠を総大将とする織田の主力部隊が
志方、神吉城を攻めます。
志方城は気概を見せて踏ん張り、織田の大軍に対して1ヶ月も持ちこたえるも、毛利の援軍が間に合わず
結局、落城します。
 
さらにネタバレですが・・・
 
当然、城主たる櫛橋左京進は切腹もしくは処刑される運命にありました。
しかし官兵衛が「我が義兄の命を・・・」と秀吉に助命を願いでて、左京進の命は助かります。
左京進はその後黒田家の家臣になるのですが・・・
 
あれほど感情的に敵意むき出しであった官兵衛と左京進が、お互いの気持ちをどう説得し納得するのか、
岡田准一&金子ノブアキさんの熱演が期待できそうです!
 
多分、志方城へ単身乗り込んだ光姫の切実な思いを二人が汲み取るんじゃないかな〜〜と想像するのですが
間違いなく涙腺崩壊になりそうですね。
 
さて、それでは、「上月城の攻防」含めて、プチ解説にいきたいと思います。
 
天正6年(1578)2月、三木城主・別所長治が信長に反旗を翻し、毛利に寝返った。
志方城含む周辺の多くの城主が長治に同調してしまった。
播磨でも堅牢で名高い牙城・三木城は織田との全面戦争に備えて籠城の準備を整えた。
 
 
とはいえ、オセロゲームのように三木城離反を契機に白から黒へと寝返った播磨の諸城主を
ひとつひとつ攻め落とさなければならない。
 
秀吉の本陣があった当時の姫路城は、館といっていいほどの、
決して堅牢とは言い難い城であった。
 
 
姫路の北方に書写山という霊山があり、僧坊も多く兵糧の蓄えも十分ゆえ、
僧侶を追い出して本陣を移してはいかがかと、官兵衛が秀吉に勧めた。
秀吉は官兵衛のアドバイスに従い、書写山に本営を移し、そこから指令を出すことになった。
 
空になった姫路城は、官兵衛の父で隠居していた小寺職隆が城代として入る。
その後、有岡城に官兵衛が幽閉されたとき、官兵衛の救出を指揮し、
姫路城を守りぬいたのも父・職隆の偉業である。
 
 
秀吉は、長治の叔父で織田シンパの別所重棟に長治を翻意させようとするが失敗。
逆に、毛利輝元の軍8000が、重棟の別府城へと攻め寄せる事態となった。
秀吉の命で官兵衛は、わずか500の兵を率いて別府城に入り、城兵を指揮して
毛利の大軍を撃退した。 

(ドラマでは上月城に官兵衛が乗り込んだことになっていましたが、史実では別府城です)
さらに、安土の信長の命令で、織田信長の嫡子・三位中将信忠を総大将とする
滝川、明智、丹羽、荒木の派遣部隊が、三木城攻略の為に播磨に到着した。
 
いよいよ三木城をめぐる毛利との戦が迫ってきた。
同年、春爛漫の4月、三木城援護のため出兵した毛利の大軍が上月城を包囲した。
小早川隆景軍約2万、吉川元春軍約1万5千、宇喜多直家軍約1万5千。
合計5万の大軍である。
 
一方、上月城は尼子勝久と山中鹿介率いる僅か600(ドラマでは500)余の城兵のみ。
さらに播磨沿岸に毛利水軍700余艘の兵船が、集結している。
秀吉の元へ直ちに援軍要請が届けられた。
 
上月城は、宇喜多、毛利領に隣接する要所であり、捨ててはおけない。
秀吉は、直ちに、官兵衛、荒木村重とともに、1万の兵を率いて、上月城の東にある高倉山に布陣した。
 
しかし、高倉山と上月城の間に、毛利は柵を植え、塹壕や堀などの防御線で幾重にも防御され、
わずか1万の兵では攻める術のない包囲網が構築されていた。
 
ことの重大さに、秀吉は安土の信長へ急使を送り、「信長公の出馬」を願い出た。
ところが同時期、暴風雨で河川が氾濫して道中の危険があり、信長は動かなかった。
 
焦った秀吉は自ら安土へと上り、信長の出馬を直々に願いでた。
しかし信長の態度は冷たいものであった。
昨年末には「播磨攻略は成ったと同然」と秀吉から報告があったにもかかわらず
わずか2ヶ月で情況は一変し、劣勢にたたされている。
信長公は「追って沙汰する」と冷たく言ったのみで、秀吉は空しく播磨へ帰った。
 
播磨に駐在する織田譜代から、「上様直々のご出馬は不要」なる献言が寄せられていた。
滝川一益らからみれば、中国遠征軍の総司令官となった成り上がり者の猿にたいする
そねみの心理もあったのであろう。
 
信長は、これまでだらだらと帯陣し続ける息子・信忠へ検使を遣わし、こう命じた。
「上月の陣を急ぎ引き払い、総勢が一丸となって神吉、志方の出城を落として
三木城を攻略せよ。」
 
上月城と三木城に味方の軍勢が2分されることを危惧し、三木城攻略に専念しろとの命だ。
 
結局信長は上月城を見捨てたのであった。
 
官兵衛も秀吉もこの命令にしばし呆然とした。
上月城を見捨てるということは、すなわち、城中の尼子勝久や山中鹿介を見殺しにせよ、と同意である。
義に従い上月城に籠城する彼らである。
武士の情けとしてこれはあまりに酷く、忍び難い、と。
 
思い悩んだ秀吉は竹中半兵衛に相談した。
半兵衛は
 「安土の御命には逆らえません。陣払いを。」と苦渋の決断の後押しをした。
が、「一夜のみ日延べして上月城へ密使を送り、脱城するよう最後の連絡を。」と言ったという。
しかし、毛利の大軍の前に最後の連絡も叶わず、上月城は「捨て子の城」となったのであった。
 
高倉山を陣払いした秀吉は、信長から「但州攻め」を命じられる。
播州担当も外されたのだ。
但馬には別所の与党である山名氏が居たが、秀吉の敵ではなかった。
 
そしてこのころ、官兵衛は備前岡山へ潜伏していたようだ。
宇喜多直家の調略である。
 
宇喜多直家に落とされた、備前和気の天神山城主の浦上氏は、官兵衛の親戚筋であった。
天神山城攻略にあって宇喜多直家の甘言に乗り浦上氏を裏切った家臣のなかに
官兵衛と気脈を通じる男、明石飛騨守景親なる男がいたのである。
官兵衛は度々秀吉の本陣を抜けて、明石景親が城を構える八幡山城へ潜行し、
明石氏を通じて、宇喜多直家に誘いの餌をチラつかせたのである。
 
策士・官兵衛の真骨頂である。
 
 
尚、ドラマで陣内さん演じるエロ・直家の正妻 「お鮮」。
後に秀吉の側室となる美貌の未亡人ですぞ・・・
竹中秀吉のエロ演技も炸裂することでしょう・・・
 
閑話休題
 
ところで今回、書写山への陣移りの模様が描かれていましたが、
名馬:書写山のエピソードがなかったので、補足したいと思います。
 
官兵衛の勧めで書写山へ陣を移した秀吉は、
官兵衛の功績を讃えて、一頭の黒馬を官兵衛に与えた。
安土にて信長から拝領し、安土から打ち乗り始めて書写山に繋いだので
「書写山」と名づけて可愛がっていた。
みれば、呂布の赤兎にも勝るような見事な名馬。
さすがは安土の厩屋で信長の眼にかなうだけの若馬であった。
 
官兵衛は大いに喜び一礼すると、秀吉の目前で家臣の母里太兵衛を呼びたてて
「そなたの昨今の戦功は目覚しいものがある。これは今、筑前様から拝領した名馬だが、
わしの戦功へ下さったものゆえ、これはそちに譲ってつかわす。
筑前様へ深くお礼をもうしあげるがよい。」
とあっさりと与えてしまった。
母里太兵衛はあまりに過分な出来事に感激し、手綱を頂きぼろぼろと涙を流した。
秀吉は官兵衛の家臣を束ねる器量を見直したという。
 
ひとたらしの秀吉ですら感服した官兵衛の人心掌握術。
後年の秀吉が黒田如水を警戒するのもなるほどわかるというものです。
 
そして気になるのは荒木村重の行動。
田中哲司さんの村重の存在感がありすぎて・・・もう目が釘付けです。
竹中半兵衛の病状も悪化していますね。
志方城、上月城の命運もあわせて、次回も見逃せません!
 
イメージ 1
 
櫛橋左京進演じる金子ノブアキさんの演技が光りましたね!
 
妹や姉への思い、愛情が強いだけに、
義弟の官兵衛を許すことができない葛藤。
 
左京進自身も、官兵衛が妹も姉も姉の子供たちへの愛情を持ち、
妻の実家である櫛橋家を、とても大事に思い、接していることを、分かっていたでしょう。
しかし、どうしても自分の気持ちやプライドを折ることができない男の面子。
 
播磨分断という事態は、
官兵衛の妻の親族をも敵見方に分断してしまう辛い現実となってしまったのでした。
戦争とは無情で哀しく辛いことなのです。
 
 
今回のストーリーも、ほぼ史実どおりでしたが、
補足説明を加えつつ、感想を書いてみたいと思います。
 
 
冒頭、天正6年正月の、安土における茶会の席が描かれていた。
 
秀吉は先年の暮れに、「播磨平定」の報をもって安土へ凱旋し
信長への戦勝報告と、次ぎの作戦への指示を仰ぐためであった。
信長は「序戦としては申し分ない。」と喜び、
秀吉へ鍾愛の茶器である「乙御前(おとごぜ)の釜」を与えた。
 
信長から茶道具の名器を賜ることは、当時にあっては、勲章を授与されると同義であった。
すなわち、信長の重役として名実共に認められたことを意味する。
さらに「茶釜」を与えられたということは、秀吉主催の茶会の開催も公認されたのだ。
これ以上の厚遇はない。
 
ドラマに描かれていないが、
天正6年(1578)の正月。安土城にて数多の歴々たる武将が大広間に平伏して信長に新年を賀した。
その席で信長は秀吉を御座へ呼び寄せ、
「侍といわれるほどの者はこの筑前(秀吉)にあやかるがよい。筑前こそまことの武辺者よ。」
満座で褒めたという。
秀吉はこれ以上ないほどの面目を果たした。
しかし、その一方で、秀吉不在の播磨では、毛利の調略が密かに進んでいたのである。
 
天正6年2月、秀吉は再び播磨へ下った。その陣容は更に3000追加され強化されていた。
播磨では、官兵衛ら織田方の一群は、加古川で出迎えた。
そして、加古川の陣屋で、織田方お味方の大宴会が開かれ、
宴が終わると、席を替えての軍議へと移った。
 
秀吉は、既定方針と織田家の必勝のみ述べておけば今回はまあよかろうと考えていた。
宴会の後でもあるので、軍議とはなばかりの体裁だけの、顔合わせ的な評議だと、
軽く考えていたのだ。
 
しかし、それが罠だったのだ。
軍議になって、やたらとしゃべる男がいた。
三木城主・別所長治の叔父・別所吉親である。
酒が入った酩酊の様子でありながらも、しきりに呼びかけて、毛利の強さを説きはじめた。
さすがの秀吉も黙ってはおれず、
「意味がわからぬ。」と憮然と返せば、別所吉親もびくともせずに
 
「御身のために申せば粗忽に中国へ関わり給えば大事を引き起こさんと案じるがゆえ。
ゆえにゆるゆると軍備を固め、毛利の支城枝城をぼつぼつ攻め落とされて後に、虚実を計って
大軍を動かさざるべきではない。」
 
と真っ向から毛利との戦に否を申立たのだ。
 
秀吉は怒り激しい口調で叱りつけた。
「其のほうたちは、ただ、筑前の先手を勤め、わが命を奉じて奮戦すればよいのだ。
根本の戦略は信長公より命を受けて一切、秀吉が決定すること。おぬしらの容喙は許さぬ。」
 
すると別所吉親はしめた、とばかりに
「左様か。なればもうここにおる意義はない。お暇させていただく。」とさっさと退席してしまったのだ。
 
毛利と通じた別所吉親の首をかけた大芝居であった。
城主の代理として出席させた以上、別所長治の責任も問われる。
 
三木城に帰った吉親は、甥の長治に秀吉の傲慢な態度を報告し
「信長の真意は、我ら一族を利用し、中国征伐の成功の後は、個々自滅を与えて
三木城も秀吉へ報償として与えるのではないか?」と伝えた。
 
別所長治が、官兵衛との約束を反故にし、毛利へと寝返った瞬間であった。
 
ドラマでも描かれていましたが、「本領安堵」は口約束で、
信長の本心は、秀吉の切り取り次第(報償として与える)ではないか?という疑心暗鬼が
播磨の離反を招いたというのは、ほぼ事実である。
 
毛利はそこをついて播磨の国衆に調略を仕掛けていた。
そして信長公自身も、国衆の城や土地を織田軍の領地とする腹積もりであったと推測される。
 
信長軍や彼の武将たちは兵農分離された、職業軍人。だから革新的なのだ。
稲作や米の収穫に煩わされず、信長の命があれば、一年中出動できた。
そしてその恩賞として「切り取り次第の領地」が与えられた。
「恩賞」があるからこそ、信長軍は強く死に物狂いで戦い、最強の軍隊であり得たのだ。
 
とはいえ、官兵衛が、播磨の国衆が無駄に血を流すことなく、無血で攻略できるよう
必死で日々苦心し駆けずり回った地盤工作が、一気に瓦解した瞬間でもあった。
 
播磨で最大の勢力をもつ三木城の毛利への寝返りは、忽ち播磨に伝わり、
小城の緒豪も踵を継いでこれに呼応した。
「羽柴軍を中国から一掃せよ」と一種の”播磨ナショナリズムの旗”を与える格好になったのだ。
 
神吉城の神吉民部少輔、志方城の櫛橋左京進、淡河城の淡河弾正忠、高砂城の梶原平三兵衛、
野口城の長井四郎佐衛門、端谷城の衣笠豊前守 等々である。
 
ドラマでも描かれていたように、官兵衛は、加古川評議の後でも
反秀吉に寝返った上記の城主の元を訪ねて、直接翻意を促している。
 
播磨は元々赤松氏の国であり、国衆の多くが赤松氏の諸流や流れを汲む族流が多い。
小寺家も別所家も赤松一族の諸流であった。
血として近い家どおしが、身内で戦うことの愚を避けたかったのだ。
 
特に、妻の実家である志方城の寝返りは、官兵衛にとっても痛恨であったろう。
さらに、官兵衛の仕える御着城の小寺政職にも不穏な動きが出始めた。
官兵衛の人生最大の苦境が始まったのであった。
 
ネタバレになりますが・・・
 
官兵衛は、その後・・・
裏切った友も、裏切った上司も、また袂を分かった義兄も、すべて許すのです。
 
この当時の官兵衛の行動は、実に誠実でそれゆえに大きな苦悩を感じさせるものであり、
黒田官兵衛を純粋かつ思想家の香がする人物だと、個人的に思う理由でもある。
 
 
そして同じ頃、官兵衛同様、苦境にたたされた人物がもう一人いる。
有岡城の荒木村重である。
 
奇しくも加古川評議と同じ頃の天正6年2月、
荒木村重は信長の命を受けて、本願寺の顕如光佐の許を訪れ和睦を申し入れた。
そのとき信長は荒木にこんな書面を持たせている。
 
「本願寺との和睦の義が成り立ち候うえは、永々八木(=米)五万石を寄進。
和泉、河内両国の内において三郷の地永代進上候。その地へ本願寺建立あって、
当石山を速やかに開城給う事朝廷へ忠義、万民和楽」
 
しかし、播磨の国衆ですら信長の不実を疑い反旗を翻したのだ。
永年に渡り門徒を虐殺された本願寺が、この申し出を信じるはずなどない。
和睦を飲み開城したら手のひらを返す謀略だと主だった幹部は反対した。
 
しかし、信長軍に包囲されて石山の門徒は空腹にあえいでいた。
そこで顕如はこう回答した。
 
「石山を明け渡すわけにはいかない。しかし和睦は受け入れよう。衆徒は言い含めて在所へ返す。
しかし今彼らは腹を空かせておりこのままでは帰れない。
空腹を満たすため、百石ほど米を届けてほしい。」と。
 
村重は茶道にも通じた文化人で非道になりきれない男であった。
信長の狙いは石山本願寺の開城であり、この和睦案を受け入れるはずはなかった。
しかし村重は、目の前で空腹にあえぐ門徒を見過ごすことはできなかった。
そこで、信長へ報告にあがる前に独断で米を百石送り届けたのだ。
 
結局、村重の和睦交渉は失敗に終わった。
が、信長はそれほど怒らなかった。普段の信長なら烈火のごとく怒ったであろう。
さらに米百石の件も、信長の耳には入っていたはずなのに、あえて不問とした。
そして、荒木村重には秀吉の播磨攻めに協力するよう申し伝えただけであった。
 
(ドラマでは村重が秀吉の与力になったという描かれ方でしたが、実際はちょっとニュアンスが違います。
あくまでも援軍であり協力しろ、的解釈が妥当と思われます。)
 
信長公は、荒木村重をそれだけ重宝し信用していたと言える。
考えてみれば、本願寺攻めは、信長にとって最も厄介で長年かけてもどうしても勝てない相手であった。
そんな極めて厄介で難しい本願寺攻めを村重に割り振ったことは、それだけ信頼している証拠でもあろう。
もっとも割の合わない役目であるからだ。
 
しかし、人の心は不可思議だ。
不問にされ厳しい処分を受けなかったことが、かえって村重の心に暗闇を広げる結果になってしまった。
軍法違反をした秀吉のように蟄居でもさせておけば、村重の気持ちは軽くなったのかもしれない。
 
心に芽生えた疑心暗鬼がやがて悲劇を巻き起こし、官兵衛や黒田家も巻き込まれることとなる。
 
さあ次回は、上月城の悲劇が描かれるようですね。
 
名馬・書写山のエピソードは描かれるのでしょうか?
岡山潜伏(宇喜多調略)のエピソードもそろそろ・・・?
 
楽しみです。
 
 

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