ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

大河ドラマ「軍師官兵衛」

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光姫と力姫の涙に、うるうるしてしまいました。
 
「女が泣くことのないよう、子らが悲しむことのないよう、
戦乱の世を早く終わらせてください・・・」
 
身内同士が戦う悲劇を体験した官兵衛だからこそ、
たとえ腹黒いといわれようとも、敵味方とも血を流さず戦を終わらせる最善の策を講じる・・・
 
だからこそ、天才軍師と呼ばれるのです。
 
 
それでは・・・早速。
「上月城の戦い」について、史実を簡単にご説明したいと思います。
 
福原城を落とした秀吉軍は、隣接する上月城を包囲した。
上月城は姫路から伯耆・出雲方面へ通じる戦略上の要所で、
毛利の最前線でもあった。
そのため毛利は備前の宇喜多直家の兵3000を送り込んだ。
 
秀吉軍は約3万
上月城は、本隊7000, 宇喜多直家の弟・宇喜多広雄の援軍3千の 合計1万の兵で迎え撃った。
 
ちなみに、上月城の城主としては、
赤松政範とする説と、上月景貞とする説があり、定かではない。
定説では、
秀吉軍との戦が始まった1577年(天正5年)11月の城主は 赤松政範。
しかし秀吉軍の猛攻で敗色濃厚となり、
天正5年12月3日、赤松政範は、先に妻を刺し殺し、一族郎党と共に自害した。
 
赤松自害ののち、宇喜多直家の命令で、天正5年2月に上月城に入ったのが上月景貞。
官兵衛の妻・光姫の姉の夫であったのだ。
 
秀吉軍は、籠城する上月城を三重の猪垣で包囲し、水の手を断って攻め立てた。
それが功を奏したのか、配下の江原兵庫助の謀反により落城する。
 
景貞は負傷しながらも城外へ脱出し、わずかな手勢を率いて高倉山の秀吉の本陣を目指し奮戦するが叶わず、
千種川沿いの櫛田(兵庫県佐用町櫛田)の山中にて自刃または討死したとされる。(『上月城史』・『上月町史』)
 
もしくは、城中の謀反人が上月十郎(景貞)の首を取って差し出し、秀吉に許され助命されたとも、
秀吉は許さず、城兵はもとより女・子供200人以上を見せしめのために、磔・串刺しにしたとも言われている。
 
(ドラマでは、信長の命で謀反し降伏した兵すべて処刑されたことになっている)
 
イメージ 1
 
上月夫人(ドラマでは力姫)は2人の子と共に、義弟である秀吉軍の黒田官兵衛の陣中を頼る。
官兵衛はその悲境を憐み、秀吉の許しを得て3人を黒田家で引き取ることになった。
後に夫人は出家して妙寿尼と称し、二人の子供は黒田家で育てられた。
 
ドラマでは、鈴、花のニ姉妹になっていましたが、どうやら史実では、姉、弟だったようだ。
その後、姉は小早川秀秋の家老・平岡石見に嫁ぎ
弟は元服して名を上月次郎兵衛正好と改めた。
 
その後上月正好は黒田姓を称し、中津で黒田家の旗本になっている。(後の朝鮮の役で戦死)
 
正妻の子、いわば嫡子を引き取って育て、上月の名で元服させて、黒田家の旗本に取り立てるなど・・・
甥っ子とはいえ、敵将の息子としてはかなりの厚遇である。
 
黒田官兵衛は、妻の家族や親族を本当に大切にしている。
 
後に、小寺政職の嫡子(ドラマでは斎くん!)も引取り育てて黒田の旗本にしている。
恩義もあるし、櫛橋光姫は小寺氏の譜代(親戚)筋でもあったのだ。
 
官兵衛の懐の深さ、優しさが、滲み出るエピソードだ。
 
さらに黒田家が福岡城に移ったときに、如水(官兵衛)は、妙寿尼を福岡に呼び寄せ、
出家して照福院と称していた妹の光姫とともに、本丸西の屋敷で同居させ、
姉妹仲良く余生を送った。
 
旦那さま、奥様を本当に愛していたのでしょうね!!!!
 
ドラマの後半で、酒井若菜さんもきっと登場されることでしょう。
 
さて天正5年に時を戻そう。
 
上月城を落とした秀吉は、尼子勝久と山中鹿介ら、尼子再興軍を城内に入れて、防衛させた。
ドラマでの勝久と鹿介の涙には、私もぐっときた。
 
上月城は、尼子再興の足がかりになるはずであった。
しかしよもや、対毛利の最善戦であるこの城を、織田信長が見捨てることになろうとは・・・
鹿介も秀吉も官兵衛も・・・まったく予測もしなかったであろう。
(もしかしたら竹中半兵衛は予期していたかもしれませんが・・・)
 
ちなみに、別所哲也さんの山中鹿介さま!!良かったですね。
馬上で槍を振り回しての登場は、迫力がありました。
さすが、「山陰の麒麟児」と呼ばれただけのことはあります。
 
しかも鹿介は美男だったそうで、天正5年当時は38〜39歳で、年令的にもぴったりです。
 
ただし、私達がよく知っている 【三日月の前立てに鹿の角の脇立ての冑】 ではなかったような。
 
イメージ 2
 
鹿介は三日月に祈る事を糧としており、
尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったことは有名だ。
(ドラマでもしっかりと描かれていましたね!)
 
鹿介と三日月だから、【三日月の前立てに鹿の角の脇立ての冑】なんですけど、
鹿の角はなかった、三日月じゃなくて半月だった等々、諸説あり定かではない。
ドラマでは三日月の前立てのみ。
 
どっちでもいいじゃん?って思われそうですが、
ヲタクはこういうところが妙に気になってしまうのです。
 
さて・・・・
福原城と上月城を落としたことで、「播磨平定」は表面上、成ったように見えた。
しかし表向きは織田氏に臣従しながら、なおも立場を明確にしない
別所長治(三木城)や、官兵衛の主君・小寺政職(御着城)ら播州諸勢力の懐柔に手を焼いた。
 
そして、いよいよ運命の天正6年(1578)を迎える。
 
ちょいネタバレにはりますが、天正6年の出来事を時系列に書いておきます。
 
天正6年(1578年)2月    三木城主・別所長治が信長に背く
         4〜7月    上月城が毛利の攻められ、織田軍の援護なく落城 
                  尼子勝久は自刃、山中鹿介は処刑される
         11月      有岡城主・荒木村重が謀反。
                  官兵衛が自ら説得に赴くも逆に幽閉されてしまう。(約1年)
                  信長は松寿丸の殺害を命じるが、竹中半兵衛の機転により救われる
 
さあ、皆様、ドラマは前半の大きな山場を迎えます。
ドラマ予告では、美しき顕如さまに誘われ心揺れる村重様のお姿も写っておりました。
 
ドキドキしてきました。。。目が離せませんよ!
 
・・・にしても、
播磨平定で大働きをした蜂須賀小六親分のお姿が、まったく登場しないっつうのは
何でなんでしょうね。やっぱり寂しいです
 
「大義の前に誓詞など紙くず同然」
「戦乱の世を終わらせ泰平の世をつくることこそ、我らが軍師の大義。」
 
両兵衛 かっこよかったですね。
 
そして今回は、官兵衛の二人の上司との微妙な関係も描かれていました。
 
黒田官兵衛のある意味不幸であったのは、
そのありあまる軍師としての才能を、彼の上司が生涯にわたり嫉妬し妬んだことでしょう。
 
御着の殿・小寺政職は、嫉妬心や甘えから、その後官兵衛を裏切り、
そして秀吉も・・・
 
今回、義兄弟の契りを交わした秀吉と官兵衛。(史実はちょっと違いますが)
播磨遠征のころの秀吉が、官兵衛に寄せる信頼は大きなものがあったのは間違いありません。
 
しかし天下統一した秀吉は、次第に官兵衛を遠ざけ、
官兵衛の大きな功績に対しては決して多く報いることはなく、実際
「あの男(官兵衛)に50万石ももたせてみよ。わしの天下はたちまち取られてしまうわ。」
と漏らしたといわれています。
 
御着の殿も秀吉も、自分の才能を見出し抜擢してくれた恩人。
官兵衛自身は、小寺政職にも、また羽柴秀吉にも、心から忠節を誓い、
裏切る気持ちや下克上の野心など、微塵もなかったというのに。
 
恐らく天下への野心を抱いたのは、家康に対してだけでであったでしょう。
 
そんな官兵衛の生き様は、会社で上司や部下との葛藤に悩む現代のサラリーマンにも
通じるドラマだと思います。
 
今回で個人的にうなったのは、
三木城の別所長治について。
なかなか史実に沿った展開で、さすがだな〜と感心した次第。
 
幼くして当主になったため、叔父の別所吉親と重宗が後見人として支えていたのですが、
毛利派の吉親と、信長派の重宗の板ばさみになって、逡巡する様子がしっかりと描かれていました。
 
これが、その後の「三木城攻め」へと繋がっていくのです。
別所長治の悲劇もまた、恐らく史実に沿って描いてくれるだろうと、確信いたしました。
 
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/66864357.html 「戦国時代の城攻めについて」
 
それではまず、
秀吉の中国攻めの皮切りとなった、【福原城攻め】について解説したいと思います。
 
 
秀吉が本格的に中国征伐に乗り出すと、
官兵衛は無駄に播磨で血を流すよりも、闘わず調略による平定を秀吉に進言し、
各城の城主に信長側に着くことの有利を説いて回った。
 
多くの城主は説得に応じたが、中には頑として拒否する城主もいた。
毛利に近い西播磨の福原城主・福原助就(すけなり)もその一人であった。
 
福原助就(1548〜1578) は赤松氏の庶流で、福原城(佐用城)城主として
隣接する上月城とも密接な関係にあった。
前回説明したように、上月城は宇喜田直家配下の城としえ、最初から毛利側に付き
福原城も同じ与力として西播磨を押さえていたのである。
 
天正5年(1577)11月、秀吉は1万5000の兵で福原城を攻撃した。
先鋒は二手に分かれた。
一方は官兵衛、もう一方は竹中半兵衛・・・両兵衛のそろい踏みである。
官兵衛は、福原城の詰城である「高倉城」攻めを担当した。
この時、官兵衛が用いたのが、孫子の兵法 「囲師必闕(いしひっけつ)」である。
 
官兵衛率いる秀吉軍は、高倉山城を厳しく包囲しつつ、
わざと1箇所だけ包囲網を開けていた。そして夜になると激しく三方から一斉攻撃を仕掛けたのだ。
激しい戦闘の後、夜があけると、わざと開けた一箇所から、敵の将兵たちが続々と抜け出てきた。
そこへ、待ち構えていた官兵衛の手勢が襲い掛かり、敵将を次々に討ち取っていたのである。
 
この時の戦闘で、城主の福原助就はからくも逃げ延びたが、結局逃げ切れず、
福原家の菩提寺である福円寺に入って、自刃した。
 
この鮮やかな戦法こそが、孫子の兵法「囲師必闕」である。
 
⇒ 孫子の原本については、別記事参照ください。
 
 
竹中半兵衛と官兵衛との友情物語も良かったですね。
 
嬉しいことに、以前このブログでご紹介したエピソードが描かれていました!
(第8回「官兵衛試される」 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/66868869.html )
 
史実と違うのは :
秀吉との義兄弟の誓約書ではなく、「領地補償」誓約書だったことでしょうか。
 
史実について、改めてご紹介します (引用ですが ) ↓
  
黒田官兵衛は、秀吉から「自分が立身すれは欲しいだけ領地を与える」という誓約書を貰っていました。
しかし、秀吉は一向に約束を守る気配はなく、なかなか領地を与えられませんでした。
官兵衛は、先輩の半兵衛にその事を愚痴ります。
 
(官兵衛が秀吉の悪口を言うという事は、二人は何でも話し合える間柄だったんでしょうね。)
 
半兵衛は、「その誓約書をみせて欲しい」と言い、官兵衛が素直に取り出してみせると
半兵衛はいきなりその書状を破り火鉢に投げ入れて燃やしてしまいました。
突然の出来事に顔色を変えて抗議する官兵衛に対して、
半兵衛は、涼しげな表情で
「こういうものがあるから、不平不満が生じるのです。こんな誓約書は破り捨てたほうが良い」と
答えました。
官兵衛は、「さすが半兵衛殿!」と大いに感心し、納得したと言われています。
 
まさしく阿吽の呼吸。
大義の前に誓約書など紙くずといった竹中半兵衛は、
軍師としての志を、官兵衛に托したのでしょうね。
 
今回、喀血するシーンも描かれていましたが、
半兵衛が志半ばにして逝去するのは天正7年(1579)。
ドラマのとおり結核(労咳)であったと推測されています。
  
さて、福原城を落とした秀吉の次の標的は「上月城」。
いよいよ、「上月城の戦い」へと突入します。
 
上月城は、官兵衛の正妻・光姫の姉が嫁いだ先。
次回は戦乱に引き裂かれる姉妹の悲劇・・・
官兵衛の家族愛に涙腺崩壊必至と思われます。
山中鹿之助様も、ご登場です。楽しみです。
 
そして、荒木村重様からも目が離せません。
本願寺との不毛な殺戮に心も病み、
はかばかしい戦功もあげられず、次第に追い詰められる村重・・・
直接の原因はやはり 荒木家の郎党が本願寺への食料を密売したのが発覚し
村重が信長の懲罰を恐れたため、という設定になるのでしょうか。
 
「上月城合戦」「有岡城合戦」「三木城攻め」と、いよいよ前半のクライマックスが近づいてきました。
 
 
【追伸】
超ひらパー兄さん、園長就任おめでとうございます。
是非、軍師官兵衛の「ひらかた菊人形」を復活させてください
世界フィギア、盛り上がってますね!
『胸熱』な時間を与えてくれる選手の皆様に感謝の気持ちで一杯です。
明日のエキシビションは思いっきり楽しんで欲しい。
町田樹選手のエアギターと浅田真央選手のSMILEはソチでも光ってました。
 
と・・・言い訳しつつ
実は、つい今しがた「人質松寿丸」の録画を観たところです。
 
泣けました。
子を思う親の気持ち、親を思う子の成長。。。
 
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「人質になる」と父母に申し出た松寿丸。
「死ぬことは怖くありません!」と言い切る10歳のわが子に
「そなたに何がわかる!」と頬を叩いた光姫。
中谷美紀さんの迫真の演技に涙が溢れました。
 
そして安土で息子とともに信長に拝謁した官兵衛が、
「家臣の人質に何の意味がある?」と信長に厳しく質問されて
「ただ一人のわが子を人質に出すということは、我命を差し出すことと同じ。」
と言い返すシーンも胸に迫りました。
 
そんな父子の姿に対して
「親子の情か?わしには分からぬ」と冷めた口調で答える信長。
 
どんなに幼い子であろうが、織田の血を引く甥っこであろうが、
容赦なく殺し磔にしそのしゃれこうべで酒を飲んだ男です。
(私は、個人的には信長公は身内への愛情はむしろ強かったと思ってはいるのですが・・・)
 
母親である光姫の恐怖は、相当なものであったでしょう。
しかし、「すべては生き残るため」
官兵衛も苦渋の決断でありました。
戦国の世は、それほどに残酷で非情であったのです。
 
 
史実も、ドラマとほぼ同じでした。前回ブログ内容を一部引用しつつ、プチ解説をしてみます。
 
 

秀吉の中国入りに先立つ、天正10年9月22日、
信長公への忠誠を誓うため小寺(黒田)官兵衛は、嫡男・松寿丸を
安土城の信長の元に差し出している。
 
本来であれば、主君・小寺政職の息子が人質になるべきなのだが、
政職の息子は身体が弱かった、障がいがあった、との説がある。
 
 
実は、ドラマで使われた秀吉からの手紙・・・
 
「其方義は、われらの弟小一郎同然に、心易く存じ候あひだ、
何事をば皆々申すとも、其方と直談もて、是非御さばきある可く候」
 
これは、秀吉が官兵衛へ質子を安土へ出すよう説得する書簡の一つである。
官兵衛も人の親、たった一人の嫡子を差し出すのは、かなりの躊躇があったようだ。
 
しかしそうとも言ってはいられない。
9月に差し出すことがきまった。
 
松寿丸はまだ10歳。
ウチの息子と同じ歳だ。もし私が光姫の立場であればと、つい感情輸入してしまうのだ。
安土までの供回りはわずかに4〜5名だと推測される。
目に付けば敵に横取りされる恐れがあるからだ。
そして安土で秀吉とともに信長と面会したと思われる。
 
信長は松寿丸を秀吉に預けるよう命じ、
長浜城に引き取って妻のおねが、質子の世話をした。
松寿丸は、後の大大名の黒田長政である。
強運の持ち主であったのだろう。
おねの手元で一時でも育てられたことで、命を救われることになる。
有岡の戦いまであと1年・・・
松寿丸の数奇な運命の輪が、回り始めたのである。
 
天正10年10月19日、羽柴秀吉が総勢・5600余の兵を引きつれて播州へ乗り込んだ。
自分の嫡男を質子に出してまで願いでたことが現実となったのだ。
 
秀吉は官兵衛の居城・姫路城に本拠を置いた。
当然秀吉は姫路で軍議や評定を行う。
そのことが官兵衛の立場を微妙にした。
 
御着の小寺政職の家老でありながら、羽柴秀吉に取り入って御着をないがしろにし、
はては乗っ取るつもりではないか・・・?と。
猜疑心は小寺政職とその他家臣に次第に広かっていくのである。
 
そしてもう一人、荒木村重の暗いシーンが予告で流れていましたね。
本願寺門徒との終わりのない殺戮の現場でした。
荒木村重の謀反については史実でも定かでなく、NHKがどのような理由にするのか、
興味はあります。
 
ともかく、猜疑心は猜疑心を生み、やがて播磨を壮絶な戦場へと導いていくのでした。
 
有岡城の戦の前に、上月城攻めは描かれるはずです。
もうそろそろ、山中鹿之助が登場しなければならないのですが・・・
 
プレ解説として、山中鹿之助と尼子残党について軽く説明をしたいと思います。
 
永禄9年11月21日、毛利の兵糧攻めを受けて 山富田城主・尼子義久は降伏し、
佐々木源氏の流れを汲む、名門・出雲尼子家は滅びた。
尼子残党にとって、毛利は「絶対悪」、不倶戴天の敵となった。
 
尼子家の遺臣・山中鹿之助(幸盛)は、
元亀元年ごろ尼子再興の支援を取りつぐべく、秀吉をたよっってきた。
 
その後、鹿之助率いる尼子再興軍は因幡に進撃し一体を制圧した。
因幡は毛利の戦力範囲内であったため、毛利は巻き返して城を奪取し、
鹿之助らは再び浪人となってしまっていた。
 
鹿之助は、先代遺児である尼子四郎勝、そして一党の者とともに、秀吉の下に再び身を寄せた。
捲土重来、次ぎのチャンスを待つためである。
 
その読みどおり、羽柴秀吉は中国攻めの総司令官となり、
いよいよ憎き毛利との戦が迫ってきた。
 
鹿之助ら尼子残党も羽柴勢に加わり、毛利との合戦では
「是非、先手にて」と秀吉に願いでており、秀吉もその意を汲んでいた。
 
毛利攻めの手始めの戦は、備前との国境に近い「上月城」で
前回紹介したように、城主の上月景貞は宇喜多直家の与力であった。
(光姫の姉(力姫)が正室として嫁いだ先です。)
 
こうして第一次上月城の戦いへと進んでいく・・・はずです〜。
 
それにしても今年の大河の子役はみんな可愛いですね。
松寿丸君も可愛いし、
鶴ちゃん(小寺政職)の息子・斎君もかわいい。
 
 
では、過去記事をご紹介〜!
 
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/31526639.html  「山中幸盛と鴻池家の起こり」
 
 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/37381895.html 『松永弾正久秀〜乱世の梟雄〜』
 
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/62753862.html  「信貴山・朝護孫子寺」
今回は、「第1回木津川口の戦い」 から 「秀吉の中国入り」までの経緯が描かれていました。
かなり入り組んだ内容ですが、ざ〜っと流した感がありました。
 
歴史ヲタは、ざ〜っと流されるような、そんな細かいところが好きなので、
今回は、ドラマの詳細フォローとして記事を書いてみます。
 
 
織田の敗北は、毛利+石山本願寺を中心とした反織田同盟(第三次織田包囲網とも呼ぶ)を
活気づけさせた。
織田になびいていた播磨の領主達も、離反の動きが出始める。
さらに播磨を脅かす存在として、備前の宇喜田直家の動きが活発となった。
 
宇喜田直家・・・
後に秀吉の養子となる宇喜田秀家の父であるが、
この当時は、下克上で悪名高い反信長の代表格であった。
 
備前の守護代・浦上氏が、守護・赤松氏にとってかわり、
浦上氏の一家来であった宇喜田直家が、本家である浦上氏を乗っ取り、
備前と美作を支配する一大勢力としてのし上がっていた。
 
ドラマで光姫が語っていたように、
毒殺、闇討ちなど暗殺を繰り返してのし上がった武将で、
斉藤道三、松永弾正と並ぶ乱世の梟雄と称されている。
 
尚、官兵衛と宇喜田直家の関係であるが、ドラマの通り、
官兵衛の正妻・櫛橋光姫の姉・妙寿院 (ドラマでは力姫だが、本名は不明)
が嫁いだ上月景貞は宇喜田直家の与力であった。
 
上月景貞は毛利に付いたのだが、国境が隣接する宇喜田氏の支配下に置かれ、
直家の指示で、上月城の城主になっていた。
 
また、黒田家の仇敵である赤松氏と組んで、主君の浦上宗景を攻めた時期もあり、
当面の仮想敵国であった。
しかしその後、秀吉や黒田官兵衛らの調略にのり、毛利から織田に寝返ることとなる。
 
岡田官兵衛がドラマでつぶやいたように、
「利害があると解かれば、義理など無視して寝返る」男であり、だからこそ、梟雄なのである。
 
宇喜多直家は、もし戦になれば、一番最初に戦う事になる。
しかし戦を嫌う官兵衛が調略の為に、早くから接触を試みたのは恐らく事実であったと思う。
 
来るべき戦に備えて、秀吉の命をうけた官兵衛や蜂須賀小六らは着々と下準備を進めていた。
 
年が明けた天正5年(1577)2月、陣触れがでた。
相手は毛利ではなく、紀州雑賀の一向一揆の殲滅であった。
尾張、美濃、伊勢、近江、畿内と大規模な動員がかけられ、当然ながら羽柴軍も出陣した。
大軍の前に紀州雑賀衆は成す術もなく、頭領の鈴木孫市は降伏する。
 
さあ、次ぎこそは、と羽柴勢は播州入りを望んだが、信長の命令は真逆の方向だった。
 
北陸への出陣を命じられたのだ。相手は戦神・上杉謙信であった。
 
織田信長と上杉謙信はそれまで比較的友好な関係を保っていた。
謙信にとっても、加賀、越中、能登の門徒衆は、共通の敵であったからだ。
ところが天下布武を宣言した信長に、上杉謙信は危機感を抱くようになった。
毘沙門天を信仰する謙信にとって、神をも畏れぬ信長は世界の破壊者に見えたのかもしれない。
 
謙信は、石山本願寺と和睦し、加賀、能登、越中の門徒と結託し、
越後から出陣して南を目指し始めた。
手始めに、織田信長派である能登七尾の長九郎左衛門重連を滅ぼし、加賀を制圧すると
越前へと侵攻し始めた。
 
北陸方面の司令官は、柴田勝家である。勝家は越前八郡を支配していた。
勝家は猛将である。
が、相手は戦神・謙信である。
たまらず、安土の信長に援軍を要請し、信長も勝家の嘆願を受け入れて
秀吉軍にも動員が命じられたのである。
 
秀吉やその家臣たちは、皆、播州入りを望み信じていただけに、落胆は大きかった。
中国攻めは手柄を立てる大きなチャンスであり、出世、加増の可能性に満ちていた。
そのために、小六、半兵衛ら羽柴勢は、官兵衛らと共に調略や下準備を進めていたのだ。
 
足取りも重く北陸へ出陣すると、
上杉謙信はすでに越中へ兵を返しており、一揆勢が反乱を起こしている情況であった。
稲の刈入れ時であり、あと一月もしれば雪が降り始める。
羽柴軍は、後詰として戦に加わることもなく、後方で待機するのみであった。
 
 柴田勝家は、加賀の一揆勢をほぼ制圧し、秀吉は、やっとお役御免となるはずであった。
ところが信長からは、
「加賀の国境で砦を修復して立て籠もり、来るべき上杉との戦に備えよ。」
と命令が下った。秀吉も同様だ。
 
しかし事態は急変する。 
10月、松永弾正久秀が謀反し、信貴山に立て籠もった。
 
松永久秀は、以前も信玄と誼を通じ、将軍義昭とも手を結んだ前科があったが、
信長がその不遜な性格を好んで許された経緯がある。
第三次信長包囲網で上杉謙信が越前まで駒を進めたと知るやいなや、
再び信長に反旗を翻したのである。
 
松永弾正が大坂で謀反を起こしたその機会を捉えて、
毛利が播州へと攻め入る可能性は高い。
そうなってしまえば、信長に誼を通じている播州の領主達は、たちまち毛利へとなびくであろう。
蜂須賀小六や竹中半兵衛らが、官兵衛らと地道に準備してきたことが全て水の泡となってしまう。
 
家来達は秀吉に「速やかに兵を返して播州を固めるべき。」と秀吉に注進した。
秀吉も思いは同じである。
柴田に掛け合い、軍議にかけることとなった。
秀吉は、
「冬将軍の季節に上杉謙信が国境を越えて攻め入ることはない。
兵を半分に分け半数は越前に残り、残り半数は信貴山攻めと播州入りすべき。」と提案したが、
柴田勝家は、「上様の命令だ。全軍此処で踏みとどまるべきだ」と主張し、
秀吉の意見をケンモホロロに退けた。
 
憤懣やるかたない秀吉と家臣ら、総勢3500兵は、その夜・子の刻、すなわち午前1時という真夜中に
加賀御幸塚の陣を引き払ったという。
秀吉の憤怒が分かるというものだ。
 
ところが怒りが収まると、今度は信長への恐怖心が秀吉を襲ったようだ。
怒りの勢いそのまま播州へ向うと思われた秀吉だが、長浜で蟄居すると言い出した。
命令に背いた者を信長は決して許さないからだ。
しかも、秀吉が去ったのち、柴田勝家は、手取り川で上杉謙信に敗れている。
事実、信長は激怒した。
秀吉は、「謀反の意思はない。」ことを示すため、
兵を長浜城に入れて一歩も出さなかった。
 
ドラマのように、秀吉は連日連夜宴を開いて、謀反の心ないことをアピールした、とも
髭も剃らずにやつれた姿で謹慎したとも、どちらとも伝わっている。
 
が、ともかく秀吉の猛アピールが効いたのか、それとも呆れたのか、
秀吉の「謀反なきこと」を信長はしぶしぶ認め、沙汰なしとなった。
 
そして、天正5年10月5日、
秀吉は織田信忠の指揮下で信貴山に立て籠もる松永弾正を攻め、これを滅ぼした。
 
その功もあり、やっと羽柴秀吉は信長から中国攻めの総司令官に任命され、
念願の中国攻めが始まるのであった。
 
天正10年10月19日、羽柴秀吉が総勢・5600余の兵を引きつれて播州へ乗り込んだ。
彼らを出迎えたのは、我らが、小寺(黒田)官兵衛。
 
秀吉の中国入りに先立つ、9月22日、
信長公への忠誠を誓うため播州の領主たちの中で、ただ一人、嫡男・松寿丸を
安土城の信長の元に差し出している。
 
実は、ドラマで使われた秀吉からの手紙・・・
 
「其方義は、われらの弟小一郎同然に、心易く存じ候あひだ、
何事をば皆々申すとも、其方と直談もて、是非御さばきある可く候」
 
これは、秀吉が官兵衛へ質子を安土へ出すよう説得する書簡の一つである。
官兵衛も人の親、たった一人の嫡子を差し出すのは、かなりの躊躇があったようだ。
 
しかし、秀吉は、その手紙に書いたように、温情を持って、松寿丸を扱った。
 
信長は秀吉からのアプローチもあったのであろう、松寿丸を秀吉に預け、
秀吉は長浜城に引き取って妻のおねが、質子の世話をした。
松寿丸はまだ8歳。
しかしおねの手元で一時でも育てられたことで、命を救われることになる。
松寿丸の数奇な運命の輪が、回り始めたのである。
 
尚、本来であれば、主君・小寺政職の息子が人質になるべきなのだが、
政職の息子は身体が弱かったとの説がある。
 
次回は、松寿丸人質の顛末が描かれるようだ。
いつもは女の子のように可愛い松寿丸が、凛々しく見えた。
 
 
そして・・・どうしても言いたい!
 
ユスト高山右近さまの初登場!
演じているのは、ジャニーズの演技派・生田斗真くん。ぴったりのキャスト
 
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何故、有岡城に、ユスト右近さまが居るかというと、
高槻城の高山右近と、茨木城の中山清秀は、荒木村重の両翼と目される与力であったのだ。
官兵衛は、秀吉の中国入りに関しても、摂津の有岡城へ荒木村重を訪ねて
何度も打ち合わせをしている。
ドラマ同様、本当の友人だったのだ。
 
この当時、荒木村重は信長の命で 石山本願寺攻めに加わっていた。
総司令官は佐久間信盛でその配下に配属されている。
 
「門徒との戦いは心が滅入る。」とポツリともらしたがシーンが印象的であった。
田中哲司さん演じる村重の目は、すでに光を失っていた。
この頃から、心に闇が生まれつつあったのだろう。
 
荒木村重と黒田官兵衛との、数奇な運命と不可思議な友情を
是非とも史実どおりに描いてほしい。
岡田くんと田中哲司さんに、すごく期待しています。
 
次回は、ちらりと 松永弾正さまもちらりと登場。
 
同じ戦国の梟雄と呼ばれながらも、宇喜多直家はあまり好きになれないが、
松永弾正はかなり好きだ。生き様に強烈な美学があるからだ。
織田信長が何度も裏切られても其の都度許し重用したのは、
残酷だけど美しい・・・彼の美学を理解していたからだろう。
ビスコンティの映画のようなイメージ?!
 
そして、もう一人。
残酷なのに美しい・・・顕如さまのご尊顔を仰ぎたいものです。 
蜂須賀小六オヤブンは・・・・ 半ば諦めかけです
 
過去記事
 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/37381895.html 『松永弾正久秀〜乱世の梟雄〜』
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/58826231.html 『高山右近と高槻城』
 
 
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播磨灘に突如現われた夥しい船、船・・・・
 
ど迫力の映像でした。まさしく
 
『毛利来たー〜〜〜!
 
 
 
今回は『英賀(あが)合戦』がメインでした。
官兵衛の実質軍師デビューとなった戦です。
 
ほぼ史実どおりでしたが、合戦の背景なども含めて早速解説に入りたいと思います。
 
播磨灘の『英賀』は、毛利と石山本願寺にとって重要な領地であった。
石山本願寺と通じていた毛利は、この英賀を中継して、
石山本願寺へと武器弾薬や兵糧を支給していたからだ。
 
英賀城は、戦国時代当時、三木城、御着城と並び、播磨三大城に数えられる城であった。
英賀城内には、英賀御坊が築かれ、播磨の本願寺門徒が集結し、
英賀城主・三木通秋と結託して、石山本願寺へ兵も送り込んでいたのだ。
 
織田信長が、播磨を中国攻めの最重要拠点と位置づけたのは、
播磨を制圧することで、毛利から本願寺への支援を断ち切りることも狙っていたのだ。
 
つまり、毛利にとっては、英賀に隣接する小寺氏の信長への寝返りは痛手であり、
早々に手をうつ必要があったのだ。
 
英賀城主・三木通秋は、自身が熱心な本願寺門徒であった。
播磨三木氏の第9代目当主として、以前は姫路の小寺(黒田家)とも昵懇の間柄であったのだ。
事実、姫路が赤松政秀の攻撃をうけた【土器山合戦】では、窮地に陥った官兵衛の救援に駆けつけ
黒田家を助けたこともある。
しかし、仏敵・織田信長と小寺家が通じたことで袂を分かち、戦禍を交えることとなる。
(その後、天正8年、秀吉の攻撃をうけて、英賀城は落城する。)
 
毛利輝元は 天正4年(1576)4月、
5000の軍勢を率いて播磨灘から英賀に続々と上陸し、
官兵衛の姫路城と、小寺政職の御着城を攻撃しようとした。
 
毛利の突然の襲来に、御着の小寺政職はうろたえたが、
官兵衛は、「断固戦うべし」と英賀へ出陣する。
信長に帰順した姿勢を世に示す必要があると考えたからだ。
 
しかし、敵が5000の兵力に対し、官兵衛は500の兵しかない。
そこで官兵衛は奇策を講じたのである。
 
付近の農民らに惜しみなく金を与えて、動員し、
彼らに、幟(のぼり)や、旗、鉦(かね)、太鼓を持たせて密かに後方に待機させて、
官兵衛の兵が毛利軍に攻め込むと同時に、農民達にいっせいに鬨(とき)の声をあげさせた。
 
それを聞いた毛利の兵士たちは、敵の援軍が来たと勘違いして
たちまち海岸へと敗走し、官兵衛は寡兵で10倍の敵兵に見事快勝したのである。
 
ここぞ、というときに、気前よく金銭を与えて人を動かす戦略は、
商人として黒田家の基礎を築いた祖父・重隆の教えからであろう。
その点は、秀吉とも同じ考えであった。
 
ともあれ、毛利との勝ち戦は、信長公を大いに喜ばせ、
信長は、荒木村重を通じて、官兵衛に感状を送っている。
 
この奇策による鮮やかな勝利で、
小寺(黒田)官兵衛の名前は、織田家中で広く知られることとなった。
 
ところが、英賀合戦での勝利からわずか3ヵ月後、
官兵衛の元に、衝撃のニュースが飛び込んできた。
連戦連勝・無敵を誇った織田軍が、毛利水軍に敗北したのだ。
 
これは、【第一次木津川口の戦い】 と呼ばれている。
 
本願寺付近の海上を封鎖していた織田水軍と
石山本願寺への兵糧補給を目的とした毛利水軍が、木津川口で武力衝突したのである。
 
毛利水軍とは、毛利本隊の水軍、小早川水軍、そして村上水軍の瀬戸内連合艦隊で、
およそ800隻。
一方、織田水軍は、九鬼水軍を主力とした約300隻。
 
毛利水軍は、船舶数で圧倒していただけでなく、戦略的にも織田を圧倒した。
村上水軍の繰り出す【焙烙火矢】の連続攻撃に、織田水軍は潰滅的な敗北をきす。
 
焙烙火矢(ほうろくひや)とは、
【焙烙】に火薬を入れ、導火線に火を点けて敵方に投げ込む兵器である。
手で直接もしくは縄を付けて遠心力を使った投擲が行われ、手榴弾に似ていた。
敵兵の殺傷のみならず、敵船に火をつける効果もあり、木製の船が主流だった当時は、
相当効果的であったとされる。
 
毛利軍の勝利により、石山本願寺への海上からの兵糧補給が確保されてしまい
劣勢だった石山本願寺が活気づき、織田軍 VS 石山本願寺&毛利連合軍との戦は、
泥沼化していくこととなる。
と、同時に、播磨の領主達も、毛利へとなびくものが続出する結果となったのだ。
 
信長公は、この木津川口での敗北がよほど悔しかったのであろう。
焙烙火矢に対抗するため、即座に九鬼嘉隆に命じて【鉄甲船】の建造を命じ、
歴史的な海戦 【第二次木津川口合戦】へと繋がっていく。
 
ちなみに、毛利水軍の実質の司令官は、小早川隆景であった。
官兵衛 VS 小早川 の智将対決もまた、見ごたえがあるに違いない。
尚、毛利が秀吉に恭順して後は、官兵衛と小早川隆景は心許せる友となる。
戦を重ねるなかで、互いが互いを認め合っていたのだ。
 
小早川隆景は、かなり好きな武将で、三原城にも行ってきた。
(過去記事を参照ください。)
 
しかも小早川隆景演じる鶴見信吾さん、渋いし演技上手いですよね。
美しき顕如さま同様、楽しみで〜す。
 
ところで、英賀合戦に、からくも勝利した岡田官兵衛が、
光姫の膝枕で甘えるシーンが、なんとも微笑ましかったですね。
 
家の外、上司や部下の前では強気でも、
家に帰って愛する女性の前だけは、己の弱さを吐露するなんて・・・・
女性にとっては、最高のシチュエーションではあませんか
 
基本、硬派なドラマだけに、スイートなシーンは、なんだか照れくさいほど際立ってますね
 
奥様にだけ甘える一途な官兵衛に対して、
浮気癖が治らない秀吉。
対照的な二人の男性の描き方も面白かったです。
 
次回は、秀吉の謹慎騒動が描かれるようですね。
う〜ん、でもさ・・・
次回、蜂須賀小六親分が登場しないと、わたし、ちゃぶ台ひっくり返しまっせ〜
 
 

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