ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

大河ドラマ「軍師官兵衛」

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黒田(小寺)官兵衛と竹中半兵衛が出合いました。
 
秀吉の「両兵衛」から転じて、秀吉の「良・平」とも呼ばれた稀代の軍師二人。
良・平 とは漢の高祖を助けて天下を取らせた「張良」と「陳平」になぞらえたのした。
 
その例えとおり、官兵衛と半兵衛は協力し合って秀吉の中国攻めを成功に導いていくのです。
 
ドラマでは竹中半兵衛は官兵衛の実力を試すために、一つの課題を与えます。
それは、播磨の名門三家を信長に拝謁させる難題でした。
 
播磨名門三家とは、官兵衛の主君・御着の小寺政職と、龍野城・赤松政広、そして、三木城の別所長治。
 
得意の話術と交渉力で赤松と別所の説得に成功するも、
肝心の主君・小寺政職がいつもの優柔不断を発揮して首を縦にふりません。
 
困り果てた官兵衛に助け舟を出したのは、竹中半兵衛でした。
信長に直談判して、荒木村重の軍隊を御着に派遣し圧力をかけたのです。
 
こうして、天正3年(1575)10月、播磨三家は、信長に拝謁し、
その甲斐あって、播磨の中小豪士達は織田に帰順を申し立てるようになりました。
 
が・・・・
官兵衛が単独で乗り込み、敵を信長側に説き伏せた、というのは
官兵衛をヒーローにするためにフィクション半分。
 
実はこの調略に最初に関わったのは蜂須賀小六と言われています。
秀吉の書状を携えて、まず摂津の荒木村重を訪ね、
共に播磨の有力城主を説得するよう、小六は村重に依頼したのです。
 
荒木村重は、黒田官兵衛と誼を通じており(親友だったのです)
そのつてをたどって、村重と小六は御着の小寺氏を訪ねて、官兵衛共々、政職を説得したのでした。
そして小寺政職は、「織田信長公への忠節を示す」と、
別所長政説得のため三木城にも同行したとされます。
 
つまり、三木城を訪問したのは、
蜂須賀小六、荒木村重、小寺政職、そして恐らく黒田官兵衛 だと推測されるのです。
 
だから、フィクション半分なんですね・・・(苦笑
 
三木城の別所長治は若年で、叔父の吉親と、重宗が後見となっていました。
弟の別所重宗は、何度か上洛して信長に拝謁するなど織田に誼を通じていたが、
兄の吉親は毛利側でした。
叔父の対立に挟まれた別所長治は、荒木や小寺氏(官兵衛)の説得で織田につくことを決めたのです。
 
別所長治の織田家帰順に呼応するように、播磨の有力城主たちは次々と織田氏になびき、
秀吉の計らいで上洛し、天正3年10月、信長に拝謁したのでした。
 
このとき上洛した播磨城主は、播磨名門三家(小寺、赤松、別所)に加えて
浦上氏、神吉し、長井氏ら、でした。
 
 
しかし・・・先のブログ「戦国時代の城攻め」でも少し触れましたが、
別所長治は、その後突然毛利へ寝返ったのです。
三木城の裏切りをきっかけに周辺の多くの城主が長治に同調したため、秀吉はピンチに立たされます。
それゆえの無情な「三木の干し殺し」を実行したともいえます。
 
龍野城の赤松政広もまた、織田に反旗を示します。
しかし、天正5年、秀吉の中国攻めであっさり降伏し、蜂須賀小六の配下になります。
天正3年ごろからの小六との誼を通じで秀吉に降伏を申し入れ、それが通じたということですね。
結果、龍野城主は、蜂須賀小六となりました。
 
赤松政広は、秀吉の配下として良く働き、
その恩賞として天正14年、但馬竹田城2万2,000石を与えられました。
天空の城、日本のマチュピチュとして最近有名になった竹田城の最後の城主なのです。
 
さてドラマでは、
天正3年10月、播磨城主の信長拝謁で上洛した官兵衛は竹中半兵衛が再会し、
半兵衛に「自分の力で主君を説得したかった。」とプライドを示すものの
「兵の情は速やかなるを主とす」と孫子の言葉で返答され、官兵衛が苦笑するシーンがありました。
お互いの技量を認め合った上での、なかなか面白い掛け合いでした。
 
 
ちなみに二人の軍師に関するエピソードを紹介します。
 
黒田官兵衛の実力を認めた秀吉が、陣営の軍師として重用し始めたころ、
野心を隠さず謀略を得意とする官兵衛の評判は芳しくありませんでした。
特に、蜂須賀小六は「キレモノすぎて油断ならない。」と反対したといいます。
 
そのとき竹中半兵衛は「毒薬も時には良薬になる」と小六らを説得し、官兵衛の登用を進めたのでした。
 
官兵衛の腹黒さは、「無駄な血を流さず戦わずして勝利する」という孫子の教えを踏襲し実行したからであり
その本質はむしろ平和主義、博愛主義に満ちたヒューマニストであることを
半兵衛はいち早く見抜いていたのです。
 
また官兵衛と半兵衛の二人の先輩後輩関係を示すエピソードもご紹介します。
 
黒田官兵衛は、秀吉から「自分が立身すれは欲しいだけ領地を与える」という誓約書を貰っていました。
しかし、秀吉は一向に約束を守る気配はなく、なかなか領地を与えられませんでした。
官兵衛は、先輩の半兵衛にその事を愚痴ります。
官兵衛が秀吉の悪口を言うという事は、二人は何でも話し合える間柄だったんでしょうね。
 
半兵衛は、「その誓約書をみせて欲しい」と言い、官兵衛が素直に取り出してみせると
半兵衛はいきなりその書状を破り火鉢に投げ入れて燃やしてしまいました。
突然の出来事に顔色を変えて抗議する官兵衛に対して、
半兵衛は、涼しげな表情で
「こういうものがあるから、不平不満が生じるのです。こんな誓約書は破り捨てたほうが良い」と
答えました。
官兵衛は、「さすが半兵衛殿!」と大いに感心し、納得したと言われています。
 
二人の軍師が、じつに良好な関係であったことが分かりますね。
 
さて次回は「英賀合戦」です。
毛利&石山本願寺との全面戦争がはじまります。
 
・・・にしても、真島秀和さんの「顕如」・・・
 
美しい!!!
 
史実の顕如も、相当な美形だったとのことですし、
カリスマという意味でも他を圧倒するオーラーをかもし出していましたね。
 
田中哲司さんの荒木村重と黒田官兵衛、そして顕如と役者は揃いました。
有岡城合戦のカウントダウンが始まったといえます。
 
 
 
ただし、播磨攻略で一番の功績をあげた蜂須賀小六がまったく登場しないってのは、
あまりにも寂しいです・・・
 
 
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官兵衛と織田信長、そして羽柴秀吉がとうとう出会いました。
官兵衛にとって、最大の人生の転機です。
 
前回の感想でも書きましたが、
官兵衛は、最大のチャンスで最高の結果を引き出しました。
気難しい信長から評価され名刀「圧切」まで頂戴したのですから、
これ以上ない結果であったでしょう。
 
ドラマでの信長公と官兵衛の会話の内容も、
前回ご紹介した史実を踏襲していましたね。 ↓
 
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/66830955.html 【第7回 決断のとき】
 
この、できるだけ史実に忠実であろうとする製作&脚本のスタンスが
今年の大河ドラマ、最大の売りだと実感した次第です。
 
それと同時に、
官兵衛の情報収集能力と人物眼の鋭さにも感服しました。
戦国時代は当然ながらネットも新聞も雑誌もなく、
他国の情報を収集する手段は限られていました。
しかし官兵衛は播磨の田舎にいながら、天下の情勢を見極め、信長の力量を高く評価し、さらに事前に荒木村重に会い信長の人物像について、情報を入手していました。
 
商人から成り上がった黒田家は、祖父の代から姫路城下に職人長屋を設け
全国を旅する彼らから、各地の情報を入手していたのです。
まさに祖父の薫陶は「生き残る道」であったといえるでしょう。

さらに、実際の接見の場で、
信長公はどういう答えを欲し、何を必要としているのか?を察知し、言葉を選び
発言したのでしょう。

おそらく信長公もそんな官兵衛の「人心掌握術」と「巧みな話術」を瞬時に認め
「この男は使える!」と重臣の面前で評価したと同時に
「毛利攻め」を暗に宣言したのでした。
 
しかし、「出る釘は打たれる」し、「男の嫉妬」ほど怖いものはありません。
官兵衛の岐阜での成功を妬む御着城内の亀裂は、やがて官兵衛を追い詰めていくのでした。
 
一方、百姓あがりの出世を快く思っていない重臣達との関係に苦慮する秀吉と、官兵衛は、
これまた似たもの同士。

秀吉は稀代の「人たらし」
官兵衛もまた当世一の「話術」の持ち主でした。
互いに騙しあっても腹などすぐに見透かされてしまう・・・
 
長浜城で、ミミズやムカデの珍味を味わいながら、酒を酌み交わす二人の間には
友情が芽生えていたようにみえましたが、私は正直疑問でした。
 
しかし最後・・・やはり今回のドラマは手ごたえがあります。
秀吉は、竹中半兵衛を密かに播磨潜入させ、官兵衛発言の裏をとっていたのです。
そして「使える男」なのかどうかを試すと言った。
 
これほどでなければ、天下はとれません
そして官兵衛も、秀吉の思惑を恐らく感じ取っていたことでしょう。
 
これぞ「兵は詭道なり」!
 
竹中半兵衛の「お試し」とは何なのでしょうか?
「英賀合戦」でしょうか?
 
半兵衛と官兵衛の・・・互いの力量を認め合う熱い友情の始まりなのでした。
 
ただし・・・
石田三成の田中圭くんにやや違和感あり。
田中圭くんのような掴みどころのない草食系男子じゃなく、
鼻から頭に抜けるような切れ者でないとイメージが合いませんよ〜。
小朝の光秀といい、ちょっと納得できないなあ。
 
「夜のせんせい」でひねくれITベンチャー社長役の田中圭くんは
すごっくハマッているので、好きですけど^^

それと蜂須賀小六親分。今回もたったワンシーン(涙
しかも、もこみち君の引き立て役・・・
おいおい秀吉さん、小六親分を差し置いてそれはないでしょう。
かなり鬱憤がたまってきたので、
この頃の小六親分の立ち位置を軽くご紹介したいです。
 
 
【秀吉という男】
天正3年夏・・・官兵衛が秀吉と出会いました。
ドラマでは、信長へ官兵衛をとりなしたのは荒木村重となっていますが、
実は まず秀吉を官兵衛に紹介したのが村重で
秀吉のとりなしで官兵衛は信長に拝謁した、という説もあります。
 
まあどちらにしても、
官兵衛を信長、秀吉に取りなし、世に出したきっかけとなったのは荒木村重であることは間違いなく、
生涯不可思議な友情を保ち続けた理由の一端なのかもしれません。
 
秀吉の中国入りに関しては、また別の説があり、
播磨に目星をつけたものの、土地勘がない秀吉は、
蜂須賀小六を使者として荒木村重の有岡城へ派遣し、
荒木村重が懇意にしていた黒田(小寺)官兵衛を紹介してもらい、
そのつてで、御着城ではなく、姫路城へ入ったとも言われています。
 
蜂須賀小六と官兵衛の面識は
このころだったというのは間違いないでしょう。
 
小六親分と官兵衛は秀吉の命令をうけ、二人三脚で播磨の郷士や城主に密かに接触し、
毛利ではなく信長につくよう、説得にまわりました。
その信頼関係もあり、その後官兵衛は、嫡子長政の正室として、蜂須賀小六の娘を嫁に迎えるのです。
(長政の最初の妻です)
 
さらに言えば、荒木村重が信長に謀反の態度を示したとき
最初に説得のため有岡城に出向いたのは、蜂須賀小六でした。

その後、明智光秀など村重と親しい武将も説得を試みますが上手くいかず、
最後に、村重の親友であった官兵衛が、従者も連れずたった一人で有岡城に赴いたのでした。
そこで悲劇が起るわけなのです。
 
これ以外にも有岡合戦に関しては、エピソードがてんこ盛りで
史実を読むだけでも涙腺が緩みます。
 
登場人物も揃っているし、役者も粒揃いだし、
大河ドラマはきっとすごい迫力なんじゃないか、と思っています。
 
尚、秀吉が姫路入りしてから備中高松城の水攻め、本能寺の変、中国大返しに至るまでの
長きに渡る毛利との激しい攻防は、
秀吉をリーダーに、小一郎、蜂須賀小六、黒田官兵衛、竹中半兵衛等・・・
いわゆる【チーム秀吉】の団結力と知恵が、最も発揮された時期です。
秀吉が一番輝いていたともいえます。
 
蜂須賀小六も【チーム秀吉】の一員として、
主に官兵衛とのコンビで毛利への調略作戦や、土木工事など裏家業を請け負います。
わがご先祖様も恐らく共に働いたに違いなく・・
ドラマでしっかり描いてくれたら。。。と願わずにはいられません。
 
黒田官兵衛については、腹黒い、とか権謀家だとか、そういう評価ももちろんあります。
しかし蜂須賀小六が信頼し、娘を嫁にだした男です。
義理に厚く、仁義を尊ぶ人物であったろうと、思う理由です。
 
まだ先の話ではありますが・・・
中国大返し⇒山崎合戦で明智光秀を滅ぼし、電光石火の勢いで天下人に成り上がった秀吉ですが、
天下を取ってから、人格が変貌していきます。
それと同時に、あれほど結束の固かった【チーム秀吉】に隙間風が吹き始めるのです。
その筆頭は官兵衛です。。
豊臣家を見切って家康に近づいたのは、家を守る保身だといわれていますが、
キリシタンでもあり正義感も強い官兵衛は、自分の良心や秀吉との仁義との狭間で、
かなり葛藤し苦悩したと思います。
そういう部分も注目したいですね。
 
【過去記事】
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/48183913.html  兵者詭道也 (孫子計編第一の三)
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いやはや、寝不足でござる・・・
 
女子フィギアSP&フリーと二日連続でほぼ徹夜。
でもでもでも・・・徹夜してよかった。
浅田真央選手の素晴らしい演技には涙がとまりませんでした。
そして最終組のメダリスト達の演技。ほぼノーミスでした。
これぞ女の意地!!
一流アスリートの、最後まで諦めないその熱い気持ちと闘争本能にしびれるばかりでした。
 
もう「真央ちゃん」なんて呼び方は失礼ですよね。
はい、浅田真央選手には引退ではなく、ぜひとも4年後も、とついつい思ってしまいます
 
素人の感想ではありますが、
あの完璧なフリーの演技を観て、
「ああこの選手は、普通にSPを演じることができたなら、絶対にメダルを取っていた」と確信。
マスコミの過度の報道や期待で身体が言う事をきかなかったというのも、
言い訳ではなく、十分納得できる酷い情況でもありました。
 
1年くらいお休みして、リラックスして。。。
そしてマスコミも私達日本人も、そっと見守るスタンスで、浅田選手の復活を願えたらなあ
 
と・・・・
 
実はこの前振りは私の言い訳でもあります。
男女フィギアだけでなくスノーボードやジャンプ陣の活躍に付けとなり
今週はドラマの録画を全く観ることができず・・・
実は、軍師官兵衛も、今日、再放送をやっと観ることができました。
ですので、感想を書くための資料もまったく集めきれていません。
 
手元にある資料のみで、感想を書かせていただきますので、
そこんところは、ご容赦お願いします。
 
では、本題、「軍師官兵衛 第7回」 GO
 
時は天正3年、官兵衛 30歳の夏。
人生の転機となる「評定」が待っていました。
 
「天下布武」を宣言た織田信長は、浅井朝倉を滅ぼし、足元の火種であった長島一向一揆を制圧し、
畿内の地盤を固めることに成功していた。
となれば西への侵攻は自然であり、中国地方を支配する毛利氏との衝突は
もはや避けられない情況になっていた。
 
毛利と隣接する播磨の小寺氏が、織田か毛利かどちらに附くかは、一家の存続に関わる
重要な問題であったのだ。、
 
小寺政職(片岡鶴太郎さん)は自分で決断することができず、
今後の去就について家臣の意見を聞こうとしたのだ。
 
政職は御着城に家臣を集めて、「小寺家は織田か毛利かどちらに附いたほうが得策だろうか?」と
評定に挙げたのである。
 
まず筆頭家老である小河三河守が口を開き
「毛利は頼りになる大樹。また律儀が家風ゆえ、誼を通じる播磨の武将は多く、
我々も毛利に附くべきだ。」と応えた。
これは家中の大半の意見であり、小寺の家臣の多くは毛利派であったのだ。
 
しかしここでまだ若輩でありながらも家老職である官兵衛が反論する。
 
「毛利は強国といえども先代・毛利元就の残した家訓に固執して、自国の領土を守るばかりだ。
輝元はまだ幼く凡庸で、小早川隆景と吉川元春の両川がいなければ何もできない。
それに比べて織田信長は戦略に長け、進取の気質に富んでいることはご存知の通り。
天下は必ず信長の手に落ちるでしょう。小寺家は信長に従ってこそ、生き残ることができるのです。」
 
実に理路生鮮とした内容で同席した重臣たちを圧倒したという。
 
これは岡田官兵衛がドラマで語った内容どおりですね!
 
最初は三河守ら毛利派の考えに傾きかけていた政職も、官兵衛の意見に心を動かされて、
信長に附くことを決意するのだ。
 
ちなみに、吉川英治先生の歴史小説「黒田如水」は
御着でのこの評定から始まり、有岡城の戦いで終わる。
私が黒田官兵衛について感銘を受け興味を持つきっかけの小説だ。
詠みやすいのでお勧めしたい一冊です。
 
 
信長側につくと決めた以上、その旨を早く知らせるに限る。
小寺政職は信長への使者として、当然ながら官兵衛を指名した。
 
天正3年(15757)7月、官兵衛は信長の居城・岐阜へと出発した。
岐阜への途中、敵地を通過する危険な旅路であったので、官兵衛は従者ともども商人に変装し
京見物と伊勢詣を装ったという。
商人から成り上がった官兵衛の祖父の薫陶や生き様が生きたといえる。
 
信長は2ヶ月前、天正3年5月に長篠にて武田軍を殲滅していた。
まさしく天下人に一番近い人物であった。
対して官兵衛は、播磨の一武将、小寺氏の家老でしかない。
普通は恐れ入って震えあがる場面であった。
 
しかし官兵衛はたとえ相手が信長であろうと物怖じせず、
信長やその重臣達の前で、播磨から中国情勢やその計略方法について
滔々とそれこそ理路整然と申し立てたのである。
さらに信長の中国平定のため、主君・小寺政職は、自分の城の一つである姫路城(すなわち官兵衛の城)を
献上する覚悟だと述べたのである。
 
「姫路城献上」は官兵衛の一存であり当然小寺政職の考えではない。
しかし官兵衛は、そうすることでしか小寺家や黒田家を守れないと予見していたのである。
 
信長は、官兵衛の言葉に深く頷き
「自分の意j件もほぼ同じである。毛利との戦いでは播磨は重要な意味を持つ。
姫路は戦略の拠点となるだろう。いずれ、羽柴秀吉を総司令官として中国平定に向わせるので
共に協力願いたい。」
と答え、官兵衛へ自ら名刀「圧切」を与えたという。
 
信長公は、黒田官兵衛の才能を瞬時に高く評価したのである。
 
信長公は才気溢れる野心家を「面白い」と無条件で好む癖があった。
官兵衛は信長好みの「面白い」男だったのだ。
 
官兵衛の話術は、戦国時代、刀や槍で人を殺めるよりも、
戦わず血を流さず敵に勝つための、官兵衛の最大の武器となる。
 
ちなみに名刀「圧切」について、恐ろしい由来がある。
あるとき一人の童坊(茶坊主)が信長の機嫌を損ねてしまう。
恐れおののいた童坊は膳棚の下に入って出てこない。
ますます怒った信長は、童坊を引き出すとその胴にこの刀を押し当てた。
するとまるで羊羹を切るように胴がスーッと切れたので、「圧切」という名前がついたのだそうだ。
 
羊羹の圧切ね・・・・
 
ちょっと、次回(第8回)のネタばれもありますが、そこは流れですのでご容赦願います。
 
 
ちなみに、今回もたったワンシーンながらも蜂須賀小六親分が登場しましたね。
木下藤吉郎が小谷攻めの功績で、北近江三郡を与えられ城持ち大名に出世するシーンです。
 
官兵衛が主役ですから、小谷攻めについてはまるまる割愛されていましたが、
秀吉の弟・小一郎と小六親分はともに秀吉の指揮下で大働きをしています。
 
ちなみに羽柴秀吉と名前を改めたのは、
織田信長の重臣柴田勝家と丹羽長秀の二人から一字づつ頂戴し、
「身の程をわきまえお二人の上には立ちません。」という意思表示にしたというのは有名な話であるが、
それ以上に、織田信長公へ「私は決して謀反はいたしません」というアピールにもなった。
 
ドラマで荒木村重が「上様はとても難しいお方だ。」としみじみ言っていたように
織田信長に対しては、人たらしの秀吉ですら細心の注意を払って接していたことが伺える。
 
 
さて、最後にドラマで気になったシーンについて取り上げたい。
 
まずは、ワンシーンだけでしたが『長篠の戦い』についてもちょっと解説。
「長篠の戦い」とは、天正3年5月、三河長篠城とその周辺で繰り広げられた合戦をさす。
長篠城の攻防も含まれるのでご注意ください。
 
織田信長・徳川家康連合軍と、武田勝頼との最終決戦が行われたのは、設楽原。
織田・徳川連合軍は3万8000人、
武田軍は1万5000人。
 
実は、兵の数では織田徳川軍は2倍以上の兵力があったのだ。
それでも武田騎馬隊は野戦であるなら、敵が2倍であろうと負けるはずがない、と
当時は信じられていたし、実際それほど強かったのだ。
 
しかし織田信長は、当時最新の武器であった鉄砲1000丁を準備し
向ってくる騎馬隊にむけて連射させた。
 
この鉄砲隊の前に、最強の武田騎馬軍団はなすすべもなく殲滅させられたのである。
圧倒的な兵力に最新武器での武装と、信長公は「必勝」体制で戦に臨んでいたことは明白である。
世間は「信長危うし」であったろうが、当の本人にとっては「勝つべくして勝った」と思うところであろう。
 
 
それと、少年期の後藤又兵衛が登場しましたね。
先のブログ「戦国時代の甲冑について」のトピックスで又兵衛について触れていただけに、
ちょっと嬉しいです。
 
又兵衛の幼少期については、不明な点が多い。
一説によれば、幼少の8歳頃、父が病死したことから、父の友人であった黒田官兵衛に引き取られた。
しかし官兵衛が荒木村重の謀反で幽閉されたときに、主君の小寺政職と共に、又兵衛の叔父やその子らが
村重側につき、幼少ながら又兵衛も連座したとみなされて、黒田家から追放されたといわれている。
 
又兵衛は好きな武将なので、注目したいですね〜。
 
さて次回は官兵衛と秀吉との出合いが描かれます。
官兵衛の飛躍の時がきました。
 
 
 
 
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ええ?
先週、義昭を携えて京へ上洛したと思ったら、今週は早くも室町幕府滅亡ですか・・・!
ってか、吹越満さん、もうはやばやと退散なのかな〜。けっこういい味だしてたんだけども。。
いやはや、展開早すぎ。
戦国好きならこの間になにがあったのかは大体わかってはいるでしょうけど
一般視聴者はおいてけぼりではないでしょうか?
荒木村重の再登場も唐突。
いきなり串刺し団子たべちゃってるし・・・(これは有名な逸話なんですけどもね)
 
軍師官兵衛が秀吉に出会い信長と面会するのは、天正3年(1575)ですから
それまでは、かっとばす予定なんでしょうね〜。
 
とはいえ、信長信者にしてみれば、それではあまりにもツマラナイ。
そこでこの間の信長公の動きと、荒木村重の台頭について、ざくっと解説しちゃいましょう。
 
 
 
 
永禄11年(1568)、信長に擁されて15代将軍に就いた足利義昭であったが、
自分の言いなりにならない信長の言動に不信感を募らせるようになる。 (←第5回はここまで)
 
永禄12年(1569年)、信長は【殿中御掟九ヶ条】のちには追加7か条を発令し、
なかば強要するかたちで足利義昭にそれを認めさせた。
将軍の権力を制限するためであった。
 
信長への憎しみを募らせた義昭は、
越前の朝倉義景、三好三人衆、近国の大名、そして石山本願寺などに対して
密かに「信長追討」を働きかけた。
【第一次信長包囲網】である。
 
その動きを察した信長は、徳川家康との同盟を強固にし
元亀元年(1570)、湖北の姉川にて、朝倉義景&浅井長政連合軍と全面衝突し、見事勝利する。
世に言う「姉川の戦い」である。
 
(過去記事)
 
一旦は信長と和睦した義昭であったが、見せ掛けであった。
密かに浅井朝倉氏、三好氏、石山本願寺、延暦寺、六角氏、甲斐武田氏(信玄)に
信長追討の御内書を下し、各地で反信長の火の手があがりはじめた。
【第二次信長包囲網】である。
 
元亀2年9月、信長は、朝井浅倉に味方した比叡山延暦寺を焼き討ちにした。
長島一向一揆も鎮圧するなど、電光石火の猛攻で反信長勢力を潰しにかかる。
 
そして翌元亀3年10月、信長は義昭に対して17条からなる詰問文を送り、
両者の対立は決定的なものとなった。
 

そんな中、義昭を狂喜乱舞させたのは、甲斐の武田信玄の西上であった。

元亀3年12月、徳川領内に進攻した武田軍は、三方ヶ原の戦いで、徳川家康を散々に打ち負かした。

信長も援軍を送ったがそれは微々たる数であった。
 
(過去記事)
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/25786931.html 【家康の「しかみ像」】
 

武田軍の勝利を受けて義昭は元亀4年(1573)1月 二条御所(旧二条城)に篭って挙兵した。

(ドラマでは、信長は義昭のこの挙兵を待っていた、という事になっている。)

ところが頼みの綱の武田軍の西上が遅々として進まない。信玄は重い病に倒れていたのである。

おそらく諜報活動を重視した信長公は、この情報を把握していたたと思われる。

信長は京へ進撃。このとき、義昭を見限った、荒木村重と細川藤孝が信長側に寝返った。


4月12日、信玄が病死し、武田勢は徳川領より撤退を開始したのであった。

自身の遺言で信玄の死は3年間秘匿される。
 


同年7月、足利義昭が再び謀反し山城守護所(槇島城)に立て籠もった。


義昭は信玄の死去を知らなかったと言われている。

が信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府は事実上滅亡する


同年8月、信長軍は一気に北近江、越前へ攻め込む。

8月24日,義景を自害。

9月1日、小谷城落城。浅井長政も自害した。

同年11月なると 三好義継を若江城で討ち、12月には松永久秀も降伏。


これにて、第二次信長包囲網は瓦解したのである。


尚、足利義昭は京を追放された後、各地を経て鞆へ移るが、懲りずに信長打倒と京都復帰のため、
指令文書を各勢力に出すものの、次第に相手にされなくなった。


しかし皮肉なことに、信長よりも長生きし、本能寺の変後、再び上洛して60歳まで生きた。

晩年は秀吉の話し相手であったという。


将軍義昭が仕掛けた包囲網を見事に打破した織田信長であったが、

更に強大な敵と対峙することとなる。


各地で頻発する一向一揆を背景に一大武装勢力となった、【石山本願寺】と
その本願寺と密かに結んだ中国の覇者 【毛利氏】である。


そう、黒田(小寺)官兵衛は、織田信長 VS 毛利 、石山本願寺 との
熾烈な覇権争いに巻き込まれ、めきめきと頭角を現していくのである。



それでは、もう一人の気になる登場人物、荒木村重の台頭について
簡単にご説明します。


村重の素性については、第3回感想に書いているので,下記を参照ください。
 
(過去記事)
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/66751590.html 【軍師官兵衛「命の使い道】


荒木村重は最初は摂津池田城主・池田勝正の家臣であった。

永禄11年、足利義昭を擁して上洛した織田信長は、
当初摂津を池田勝正・伊丹親興・和田惟政の3人に任せた。
ゆえに「摂津三守護」と称されていた。

ところが2年後池田家の内紛により、勝正は池田豊後守・池田周防守を殺したうえで
自ら大坂に出奔してしまった。


池田宗家は弟の重成が継ぎ三好三人衆に寝返ったものの、一族を統率する力を失ってしまった。

かわりに台頭してきたのが、勝正(もしくはその父長正)の娘婿で、池田信濃守と名乗っていた
荒木村重である。


村重は下克上に相応しい男であった。

元亀元年、摂津守護の和田惟政と郡山で戦いその首をあげ

さらに伊丹城へ攻め込み、もう一人の摂津守護・伊丹忠親も追い出した。


忠親に代わって伊丹城に入った村重は、そこを【有岡】と改め巨大な惣構えの城を築く。
 

信長は自分が任命した「摂津3人衆」が悉く倒されたにも関わらず、
荒木村重をいたく気に入って、摂津十三郡の支配を任せた。
 



信長公と村重の出合いについては、「刀餅を食らう」逸話が有名だ。
ドラマでもしっかり描かれていましたね〜。
 
 
『太平記英雄伝』によると織田信長に拝謁した村重は、
「摂津国は13郡分国にて、それがしに切り取りを申し付ければ身命をとして鎮め申す」と言上した。
これに対して、信長は突然腰刀を抜き、饅頭3〜5個を突き刺して「食してみろ」と村重の目の前に突き出した。
周りにいたものは青ざめてしまったが、村重は「ありがたくちょうだいします」と大きな口を開け
剣先が貫いた饅頭を一口で食べ、それを見ていた信長は大きな声を上げて笑い、
摂津を村重に任せたという。
 
 

ともかく、剛毅で度胸があり且つ調略にもたけた成り上がり男は
珍しいものが大好きな信長公好みであったのだ。
 


何より、摂津は、京から中国、北陸へと通る重要拠点。

この場所を村重に任せたことだけでも、信長の信頼を得ていたことがわかる。
 



しかしそんな信長に対して村重は謀反を起したのか?

じつは諸説あって定かではないが、そのヒントよなるのは、彼の正室となった「だし姫」である。
 
ドラマは、桐谷美玲さんが演じていましたね。美人です!
 


村重の寵愛を受けたこの姫。嫁いだときはまだ10代の美少女だった。

美しいだけでなく出生も煌びやかであった。


彼女は、石山本願寺の法主・顕如の側近、下間頼廉の愛娘であった。

下間頼廉は、自ら安芸へ赴き、本願寺と毛利との同盟を強固にした人物であった。

荒木村重が信長恩顧から本願寺顕如へと次第に傾斜していったきっかけと推測される。
 


たし姫とその嬰児の運命については・・・ネタバレなので後日にでも。
 



今回のドラマでは、茶人としての村重の姿も描いていましたよね。
後の「利休の七哲」伏線なのかもしれません。
 
 

以前も書きましたが、村重は堺の北向道陳から茶の湯を学んでいた。

北向道陳は堺の医者であの千利休に茶の手ほどきをしたほどの人物であった。
 

ドラマで村重が官兵衛に自慢した大名物の茶碗は
おそらく「荒木高麗」であろうと思われる。


村重は茶道具の蒐集家としても有名で、「荒木高麗」を筆頭に、
「兵庫の大壷」、「寅申の大壷」、「遠浦帰帆の絵」、「桃尻の花入」などの名物を持っていたという。
 
 



荒木村重の波乱万丈の人生は、下克上で成り上がり、謀反という賭けに負けた男であると同時に

複雑で深く、どこか哲学的な香のする人物だと私は思っている。
 

田中哲司さんって、そういう村重にぴったりなんですよね。


官兵衛も、史実をみるかぎり、同じような「哲学の香」がする武将であり、
そういうところも、岡田准一君にぴったりのキャストだと思っています。
 


常人には理解しがたい不可思議な友情で結ばれた官兵衛と村重の姿を
重厚に描ききってほしいです!
 
 



でも・・・
今回も、蜂須賀小六親分は登場せずちょっと寂しいです。


秀吉と竹中半兵衛と小六親分とのスリーショットで是非ともお願いしたいです!
 
 
 
 
戦国時代らしい臨場感溢れる内容でした。
 
中谷美紀さんの光姫はずば抜けて美しいですね。
16歳で出産した幼な妻ながらも、夫と対等に物事を考える自立した女性像を
初々しくも爽やかに演じていらっしゃいました。
これからドラマが進むにつれて、さらに艶っぽさも加味されていくのでしょう。
 
黒田官兵衛が生涯唯一愛した正妻に相応しい輝きぶりでした。
 
そして、戦国ヲタクを刺激したのは、
姫路城の質素な造り。
光姫達が守る姫路城の全景が映し出されましたが、
あれこそが、戦国時代の城の姿。
私達が思い浮かべる煌びやかな天守閣を擁した城は、やや平和になってからのもの。
戦国真っ只中の城は、あのドラマ同様の【要塞】といったほうがいいでしょう。
まことに納得なのです。
 
そういえば、先週末の「タモリ倶楽部」で「城ラマ」として取り上げられた長篠城も、
天守閣などない掘っ立て小屋が並ぶ要塞で、
タモリさんたちヲタクは「これこそ戦国の城!」と歓喜してましたね。
さらに「地形あっての城、縄張りあっての城」とは明言!私もまったく同感でした。
いやはやタモリの博識ぶりには本当に驚かされます。
 
閑話休題・・・
 
 
今回のドラマ内容についての史実を追っていくと・・・
 
永禄11年(1568)12月3日 嫡子・松寿丸(のちの黒田長政)誕生
永禄12年(1569) 5月〜6月 青山・土器山の戦いで、龍野城主・赤松政秀を打ち破る
 
母里武兵衛(永井大)さん、もっと長生きして欲しかった・・・・
 
イメージ 1
 
『青山・土器山の戦い』 について解説したいと思います。
 
官兵衛 24歳。
家督をついでから初めての大きな戦に臨むことになった。
 
永禄12年(1569) 5月龍野城主・赤松政秀が3000の兵を率いて姫路城を攻めてきた。
姫路城を守るのは、官兵衛と父・職隆。
 
赤松政秀は、赤松氏の庶流に属し、本家の赤松晴政の娘を妻としていた。
晴政が、浦上政宗の画策により長男の赤松義祐に家督を奪われると、晴政の復権を目指して
義祐と争うようになった。
さらに浦上政宗が、小寺氏(黒田職隆)と同盟を結んだことから、
政宗の二男・清宗と職隆の娘で官兵衛の妹(ドラマではおたつ)との婚礼の日に
卑怯にも攻撃をし掛けて、浦上政宗親子ともども殺害されたという悲劇があったのだ。
 
言わば、官兵衛にとって赤松政秀は、妹の仇、その恨みを晴らす弔い合戦の意味合いもあった。
 
とはいえ、赤松軍を迎え撃つ小寺方の兵は、わずか300.
官兵衛は、姫路城での籠城ではなく、自ら兵を率いて出撃。
姫路城西の青山の地に潜んで赤松の大軍に奇襲作戦を仕掛けて、一旦はそれを撃退する。
 
しかし同年6月、赤松政秀は再び3000の兵を率いて来襲。
官兵衛は、夢前川東岸の土器(かわらけ)山に布陣して、わずか150の兵で対抗するも、
圧倒的な兵力の差により苦戦を強いられる。
 
そこへ、英賀城主・三木通秋が援軍として馳せ参じ赤松軍に突撃し、
官兵衛らは、一旦危機を脱した。  
 
ドラマでは、英賀城の三木通秋の援軍について触れられていませんでしたね。
恐らく、その後の英賀合戦で敵味方になる不条理を描きたくないのかもしれません。
しかし、荒木村重同様、『昨日の友が明日の敵』、これこそが戦国時代・・・なのですけどねえ。
 
この戦闘で小寺方(黒田軍)は多くの死傷者を出す。
しかし休む暇もなく、官兵衛は、あえて自軍に再出陣を命じた。
 
身体の七箇所に怪我を負った家臣・母里武兵衛が、
「これほど傷を負った者に出陣せよとは、死ねということか」と問うと、
官兵衛は「多分そうなるだろう」と答えたと言う。
 
想像だか、このとき二人は、笑顔でこの会話を交わしていたに違いない。
主従という関係を超えて、幼い頃から共に過ごしてきた親友の阿吽の会話だと思うからだ。
 
小寺(黒田)軍は、官兵衛隊が先鋒、職隆隊が殿の布陣で、赤松軍を急襲した。
赤松政秀にしてみれば、小寺軍がまさか数時間で再来襲するなど予想だにしていなかったろう。
赤松軍は大混乱に陥る。
官兵衛は敗走する政秀を追撃し、多くの敵兵の首を挙げた。
 
しかし、傷を負った身なれど、官兵衛とともに先鋒として奮闘した母里武兵衛は
さらに身体を7本の槍に貫かれて壮絶な死を遂げる。
 
この青山土器山の戦いで、北見三省さん演じる・母里小兵衛、そして息子の武兵衛を含む
一族24人が戦死した母里氏は、後継を断たれてしまった。
 
その事を惜しんだ官兵衛は、父・職隆に仕えた曾我一信と、母里氏の女との間に生まれた子供に
母里姓を継がせた。
この子供が、黒田24騎の一人となる、母里太兵衛である。
 
ドラマでは、速見もこみちさんが演じていましたね。
槍にすぐれた勇将で、黒田八騎に讃えられ、『黒田節』の逸話でも有名な人物です。
 
後の黒田8騎では、今回、高橋一生さんえんじる、井上九郎右衛門之房も登場しました。
官兵衛の参謀でありかつ長政の家老でもあり、武勇だけでなく頭脳で官兵衛に重用された人物です。
 
初回から登場している濱田岳さん演じる栗山善助にとっても、青山・土器山合戦は初陣であり、
この戦以降、めきめきと頭角を現し、24騎のなかでもリーダー格として、
黒田官兵衛が最も信頼する家臣に成長するのでした。
 
24騎そろい踏みが今から楽しみです!
 
ともかくも、寡兵で大軍を打ち破った小寺(黒田)官兵衛の名前が播州で評判になり、
やがて、信長、秀吉との運命の出会いを掴むこととなるのです。
 
青山・土器山合戦の翌年・永禄11年(1568)
織田信長は足利義昭を擁して京へ入り、現将軍・義栄を廃すと、義昭を15代将軍に就け
自ら後見人となりました。
室町幕府と足利義昭を傀儡として京都での基盤を固めることが信長の真の目的でした。
和泉一国の守護任命の恩賞だけを賜り岐阜へ帰国したのも、義昭の本性を見透かした上でのこと。
義昭の下での「副将軍」など、【天下布武】を目指す信長にとっては「小さい」ことに過ぎなかったのでした。
 
そして竹中半兵衛が、秀吉の三顧の礼を受けて、秀吉の軍師になることを承諾しましたね。
ただし、今回は、我らが蜂須賀小六親分が登場せず、拍子抜けでした・・・・・
 
「群雄の中、ここに蜂須賀正勝あり。
秀吉の動くところ 正勝のあらざるなく。」
 
次回は是非とも小六親分の登場&活躍に期待したいです。
そして、予告を見るかぎり、どうやら荒木村重と信長公の出合いも描かれるようですね!
田中哲司さん演じる荒木村重が私のイメージにはまってりまくっていて、これまた楽しみです
 
 
【過去記事参照】
『竹中半兵衛と「三顧の礼」』  http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/37055644.html

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