ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

真田丸〜私的備忘録

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年も越え、今更感たっぷりですが、
真田丸の最終回について
感想を書いてみます。

もう『おんな城主直虎』が
明日から始まりますしね


正直、夏の陣については
端折り過ぎて、
時間が足りない感がありました。
せめて30分拡大版とかできなかったのでしょうか。
五人衆の奮戦記とその最期も、もう少し詳しく描いて欲しかったなあ。
特に毛利勝永が物足りないっす。
それと、きりちゃんのその後も
むっちゃ気になります。

まじで、五人衆と重成、幸村との友情を軸に、それぞれのスピンオフ 5話を熱望します。

幸村の最期も史実とは違いましたね。

ただ、幸村が佐助の介錯で切腹するとき
穏やかに目を閉じた…
その瞬間に、
大坂の陣が終わりを告げたのは
見事な演出だと感心しました。

現在の安居天満宮の境内で
幸村が最期を遂げた時はまだ、
大坂城は落ちていませんでした。

幸村は息絶えるその最期の瞬間まで
豊臣秀頼や大阪城の再起、息子の生存
を信じていたに違いありません。


堺雅人さんが目を閉じた刹那、
信濃や上田の幼き日からの日々が
走馬灯の如く駆け巡り、
大阪城で千姫の助命嘆願の朗報を待つ
秀頼や淀君、真田大助らの不安そうな姿が
映し出されました。
あれは幸村の脳裏にフラッシュバックされた記憶や願い、一人称の映像です。

最後の最後まで、
真田家視線のみのドラマ構成、
だからこそ、本能寺の変も関ヶ原合戦も
華麗にスルーし、また、ナレ死も成立したのです。

真田幸村の死をもって
大坂の陣も大河ドラマも
終焉を迎え、それが成り立つ見事な演出でした。

そして、真田丸の乗員の一人、真田信之が
本田正信とともに、領国経営の妙を語り合う場面は、真田家が松代で徳川の世を生き抜く未来を示し、
松代藩から、佐久間象山の出現を語る事で
真田昌幸、幸村の徳川打倒の本願成就を予言し、真田丸の長い航海は、
終わりを告げたのです。


しかし、穿った見方をするなら
真田幸村も、大助、秀頼らの
最期の姿も、放送されてはいません。

それは、もしかしたら、
彼らは佐助の手引きで、
堺から薩摩へ落ちのびた可能性も
あり得るわけです。
まあ、個人的な希望です!

三谷幸喜さんは、
きっとそこまで想定したと思います

ロスの消えない視聴者の一人として、
スピンオフを、
できれば、大坂夏の陣のスピンオフを
願うばかりです。

さて、
幸村の最期について
史実で分かっている姿を簡単にご紹介し、
当ブログに於ける、
大河ドラマ『真田丸』へのエピローグと
させていただきます。


***********

イメージ 5



慶長20年5月7日
大坂夏の陣の最後の決戦の時を迎えた。
真田幸村最期の日でもある。

徳川軍は大坂城南方に、布陣した。
家康は天王寺口に本陣を構え、
秀忠は岡山口に本陣を敷いた。

対する豊臣方は、
真田幸村隊が、茶臼山に、

イメージ 1

(茶臼山本陣跡)


毛利勝永と大野治長隊は四天王寺付近に
布陣し、家康本陣から天王寺口を固めた。
大野治房隊は岡山口防衛にあたった。

両軍合わせて、21万人の大軍による史上空前の大規模な戦闘の、口火が切られた。

イメージ 6

(大坂夏の陣布陣図)


戦闘は昼頃から開始され、乱戦となった。
幸村隊は越前の松平忠直隊と激突した。

激戦の後越前松平隊を突破すると
幸村隊はたちまち、家康本陣へと迫った。

家康は幸村の猛追に逃げ場を失い、
切腹まで決意したと言われる。

幸村は三度、家康本陣に攻め込み、
三度目で力尽きた。

隊を立て直した松平忠直隊に
背後をつかれて壊滅したのだ。

この激戦て負傷した幸村は、
現在の安居神社付近で体を休めていたところを、松平忠直隊の家臣、
西尾仁左衛門に討ち取られたと言われている。

安居神社境内には、
真田幸村戦死跡碑と、幸村像が
建てられている。

イメージ 2


イメージ 3


過去の訪問記はこちら↓


「真田幸村戦死跡之碑」と「茶臼山陣」
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/64789157.html



幸村隊を撃破した徳川軍は、
天王寺口、岡山口も突破して、
大坂城へとなだれ込んだ。

大坂城内から火の手があがり、この日の内に、天守閣は落城。
翌5月8日、大坂城内、山里曲輪に潜んでいた、豊臣秀頼、淀君、側近や女房達が自害し、大坂夏の陣は終結、
豊臣家も滅亡した。

イメージ 4

(山里丸跡地)

自害した側近の中には、幸村の嫡子大助も含まれていたとされる。
秀頼出馬を頼みに、前日父幸村の命令で
大坂城中に戻っていたと言う。

過去の訪問記↓

【大阪城〜山里丸と石垣】

http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/64749013.html


尚、幸村隊を撃破し家康本陣を守った越前の松平忠直は、夏の陣に於ける第一の戦功とされた。
しかし後に不行跡を理由にあっけなく改易されてしまう。

秀忠との不仲が要因とされるが、
徳川家康が幸村の猛攻に逃げ回り
惨めな姿を晒した事の口止ではないかと
個人的には思っている。
いや、もしかしたら、家康はその時
幸村に討ち取られ死亡し、
影武者が擁立されたのかもしれない。

とまれ、
真田幸村は戦場に散り、
その勇猛果敢な姿は、
多くのサムライ達の心に焼き付けられたのだ。

トップ写真は、
『大坂夏の陣図屏風』
(大阪城天守閣蔵)

大坂夏の陣最後の決戦となった5月7日の模様を描いた屏風で、
徳川方に参戦した、福岡藩主 黒田長政が
戦勝記念に描かせたと伝わり、我が国の合戦屏風の中の最高傑作と名高く、
国の重要文化財に指定されている。

真田幸村隊は、ほぼ中央に描かれ、
敵将ながらも合戦屏風の主役級の扱いだ。

徳川方の松平忠直隊との激戦が始まっており、幸村隊の前線が戦況を押している様子が、生き生きと描かれている。

幸村は栗毛の馬にまたがり、
鹿角の兜を被って采配を振るい、大助はその後方で同じ鹿角の兜を被っている。
軍装は赤で統一された『赤備え』。

松平忠直は幸村隊を評して
『つつじが花盛りに開いているようだ』と
言ったそうだ。

幸村隊の奮闘は、徳川方の他の諸大名からも賞賛された。
細川家が『古今これなき大手柄』と讃え
島津家は、かの有名な言葉で
最大級の賛辞を送っている。

『真田、日本一の兵、いにしえよりの物語にもこれなき』

武士が惚れる武士、漢!
兎にも角にもかっこいい‼️

それが真田幸村という武将なのです。

幸村については、
真田丸以後も、また当ブログにて
これからも書いていきたいと思います。



「真田幸村戦死跡之碑」と「茶臼山陣」
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/64789157.html

【大阪城〜山里丸と石垣】
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/64749013.html
いよいよこの日を迎えてしまいました

真田丸、最終回。


本日用事があり
オンタイムで観ることは出来ませんが、
6時の早丸、8時の本丸、
どちらも録画予約しました。


『絶対に録画失敗したくないので!』

幸村の最期は?
三谷幸喜さんの仕掛けはあるのか?
きっと何かある?

固唾を飲んで
その時を待ちたいです。

録画組は、
ネタバレ怖いので、
ツイッターなどのトレンドも観ないように
しましょう。

おのおの抜かりなく!


以下は
真田丸、最終回の写真ギャラリー



イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6


どの写真も
カッコ良すぎー


最後の一枚は
大助との別れかな…?

写真みただけでも泣けますね。

大坂夏の陣

大河ドラマ「真田丸」もあと2回を残すのみ・・・

「引鉄」の回では、最終回を予感させるいくつかの伏線がありました。

佐助が暗殺したのは家康の「影武者」であった。
野戦で敵の大将の首を取る手段を義兄から聞いた。
幸村(信繁)は利休の隠した「馬上筒」(様式の短銃)を2丁発見した。
豊臣方がこの戦に勝てば、秀頼は大坂城を退出して四国へと移る。
そして、
きりは佐助の求婚を瞬殺。

・・・・・


これって、もしかしてもしかしたら・・?
以前書いた希望のエンディングが期待できるのでは?と妄想してしまいます。 ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/69220072.html 「真田幸村の甲冑と軍事秘伝書(和泉生存説)」

ともかく、あと2回!
「おのおのぬかりなく」、幸村や真田家の面々が乗った「真田丸」の最期の航路を見守りましょう!


それでは、「大坂夏の陣」への緒戦を書いてみたいと思います。

*********

大坂冬の陣の後の和議にていったん休戦となり、
家康は駿府へ、秀忠は伏見へと戻った。
一時の平和が大坂城内に戻ったものの、来るべき次の戦いが最終決戦だと多くの者たちは感じていた。

真田幸村(信繁)が、姉のまつの夫小山田茂誠への最期の手紙を書いたのも、この頃だ。

「定めなき浮世にてそうらえば、一日先はしらざる事。
我々事などは浮世にあるものとは思し召し候まじく候。」

再び戦になれば後戻りはできないので、自分はもうこの世にいないと思ってほしい。
と討ち死にを覚悟したような言葉がつづられている。

豊臣方が勝つことでしか、現状打破や地位回復を望めない浪人たちにとて、
豊臣の敗北が濃厚となれば、もはや「死に花を咲かせる」ことしか残されていない。

大坂城を退去せず、豊臣秀頼の思惑を超えて、
大坂城内の浪人たちが、不穏な動きをみせたとしても、致し方ない。
彼らの行動を抑えるすべは、もはや残されていなかった。

慶長20年3月15日、
京都所司代の板倉勝重より、駿府の家康の元に、
大坂城の浪人たちの乱暴、狼藉だけでなく、堀や兵の復旧の動きが報告された。

直ちに徳川方は、浪人の解雇か豊臣家の移封を要求する。

そして4月4日には、徳川義直の婚儀のためと称して、駿府を出立して名古屋へと入城した。

4月5日に、大野冶長の使者が家康の元に訪れ、「秀頼の移封はできない」と要求を拒否、
家康は、「是非なき仕合わせ」(それならばとうしようもない)と返答。
翌日には諸大名に、鳥羽、伏見への集結を命じた。


4月18日、家康は名古屋城を出て、二条城へと上洛。
4月21日、秀忠も二条城へと到着し
翌22日には、二条城にて、本多正信、正純父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議行い
15万の軍勢を、2手に分けて、河内と大和路より大坂へと攻め入ることになった。

一方、大坂城内では
4月9日 大野治長が場内で襲撃された。
治長は徳川方とのパイプ役であったため
徳川方との交渉は困難となった。


4月12日には、大坂城内に蓄えてあった金銀を浪人に配り、浪人たちは武具を買いそろえて、
戦闘準備を始めた。

まる裸の大坂城での籠城戦では勝つ見込みがないと、
野戦で敵の総大将、家康の首を取るチャンスを狙い、野戦にて徳川方を迎え撃つ作戦が決定された。

大坂城内で再戦が決定的となった頃、
和議を唱えていた織田有楽斎は「もはや城内にいても無意味」と許可を得て
大坂城から退所した。 
大坂の陣後も3万石のままお咎めなしの優遇から、
有楽斎は徳川への密通者とも云われており、その確率は高い。

4月26日、
先発隊として、大野治房(治長の弟)の一隊が、暗峠を超えて大和郡山城を急襲、これを落した。
4月28日には、堺を焼き討ち
4月29日には、一揆と共闘して紀州攻めを試みるも
樫井にて先鋒の壇直之が討ち死にした。(樫井の戦い)

豊臣方による大和と堺での軍事行動により、全面戦争は必至となる。

5月5日、
家康と秀忠は京から出陣、
その際、「三日分の兵糧でよい。」と自軍に命じた。(結果はその通りであった)

そして運命の5月6日・・・
「大坂夏の陣」が勃発する。

大和路から大坂城へと向かう徳川軍35000を迎え撃つべく豊臣軍は出陣。
6日早朝、道明寺付近にて両者は激突。
これが、「道明寺合戦」である。
この戦には、後藤又兵衛、真田幸村、毛利勝永の最強部隊が出陣した。

先のブログにも書いているが・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/69264448.html 「後藤又兵衛と毛利勝永の最期」


朝からの濃霧に阻まれ、また、豊臣隊同士の緊密な連絡ができず
真田、毛利隊が戦場に間に合わなかったため、
後藤隊 2800 単独で、35000の大軍を迎え撃つこととなり、
又兵衛は奮戦の末に討ち死にした。


また同じ 5月6日、
八尾、若江付近でも、木村重成隊 6000 と 長曾我部盛親、増田盛次 3500の隊が、
河内冶から大坂城へと進軍する徳川本隊12万を迎え撃った。
これが「八尾、若江合戦」である。


長曾我部隊は、霧を利用して、藤堂高虎隊5000を急襲、
藤堂一族の武将の首など、多数の首を取る働きを見せるも、
数に勝る幕府軍の援軍に阻まれ、追撃を受けて壊滅。

木村重成隊も、藤堂軍を破り、井伊直孝隊3200と激突、
奮戦するも敗北し、木村重成は討ち死にした。

5月6日の防衛線で
豊臣方はいずれも敗退。敗戦濃厚となった。

そして5月7日・・・・
幸村最後の日を迎えるのである。

以下次号。

********************

大坂夏の陣における
幸村ゆかりの品をご紹介!

六連銭文軍旗 (真田幸村奉納)
大坂・志紀長吉神社蔵

イメージ 1

慶長20年5月6日
道明寺合戦の際、豊臣軍は境内のすぐ近くを通る古市街道を通って戦場へと向かった。
道明寺合戦で後藤又兵衛らの討死にで大敗した豊臣軍は、真田幸村を殿として
大坂城へ退却した。(殿には諸説あり)
その途中でこの志紀長吉神社に立ち寄った幸村は、麻布の六連銭文軍旗と刀剣を奉納して
戦勝を祈願したと伝わる。
これがその軍旗であるが、刀剣は残念ながら現存しない。
このとき幸村が休息をとった場所が、境内近くにあり
大正13年(1924)11月に「真田幸村休息所」の石碑が建てられた。


百年も前の大正時代に建てられたことが
幸村の大坂での不動の人気を物語っていますね!

さあ今回は、源三郎、源二郎の兄弟の再会が描かれるようです!
真田太平記の名場面のように、
三谷脚本はどのようにこの兄弟の物語を描いてくれるのか・・・
犬伏同様きっと二人とも笑顔なんだろうな。。。
と思うだけでも涙が出そうです!!






大坂冬の陣における和議で、
大坂に立て籠もる幸村(信繁)や五人衆たちにも
しばし休息の時間となった。

和議の条件は

①大坂城の二の丸、三の丸の堀を埋め立てること
②淀殿を人質にしないこと
③秀頼が浪人を招き入れたことの罪を問わない事

で双方が合意に達した。

この3項目の合意で
真田幸村ら牢人たちの身の安全も保障された。



史実でも、幸村が叔父の信尹と接触したり、
毛利勝永などは、配流先であった山内家の陣に不義理の挨拶に訪れたなど、
比較的自由に行動ができたようだ。

しかし
徳川軍を苦しめた真田丸を含む巨大な堀を、
和議が成立した翌日から、人海戦術で徹底的に埋めたことなどから
家康が攻め寄せてくる事だろうことは、簡単に予測できた。

将来への緊張を強いられてはいたが、しばしの安穏の時であった。

このつかの間の休日に、
幸村が上田の姉夫婦にしたしめた
2通の書状が現存している。

1通は
幸村の実姉「まつ(村松)」への書状。
まつは、真田家重臣 小山田茂誠のもとに嫁いでいた。


真田幸村書状  
慶長20年正月24日付 むらまつ宛  (長野・小山田恒雄氏蔵)

イメージ 1


「この度は思いがけず合戦となり、私もここ(大坂城)に参りました。
その気持ちをどうかお察しください。
ただしまずまず講和となって私も死を免れました。
明日をもしれない情勢ですが、今のとことは何事もありません。」

今年発見された幸村の書状でも
姉夫婦が九度山の幸村にお歳暮を贈っていたことがわかっており
弟のことを気遣い、心配する姉のことをおもんばかったのか、
穏やかな文面になっている。

真田幸村が、上田の家族や家臣からも
時と距離を超えて愛された理由がわかるような、やさしい手紙である。

しかし、「明日をもしれぬ我が身」と正直な気持ちも吐露しており、
甘えん坊の弟と姉の、心の交流を感じさせる。


もう1通は
村松の夫である、小山田茂誠と、その子・之知への手紙だ。

正月に姉へ送った手紙にたいして
義兄も何らかの書状を幸村へ送り、その返信なのかもしれない。

小山田家は、兄・信之の家臣でもあり
大坂の陣では敵でもあるが、
そんな関係をも飛び越えた家族の強い絆の証明でもあろう。

家康が徹底的に破棄しても、家族の乗った「真田丸」は、
びくともしないのである。

尚、これは現存する幸村の書状で、最後の手紙でもある。

真田幸村書状
慶長20年3月19日  小山田壱岐守・茂誠、同主膳之知 宛 (長野 小山田恒雄氏蔵)

イメージ 2



「大坂城内における自分の立場は、殿様(秀頼)の信頼は並大抵ではありません。
しかし、色々と気遣いは多いです。」
とかなり正直に大坂場内における外様の立場を述べている。

また今後の見通しについても
「定めなき浮世なので、一日先のこともわかりません。
私のことは、この世にあるとは思わないでください。」

とすでに討ち死にを覚悟したかのような言葉がつづられている。


先に紹介した村松への手紙と比較しても
悲壮感は強くなっている。

自分は所詮浪人であり、秀頼個人からの信頼は厚いけれども
秀頼の回りを固める側近に気を使わざるをえない、難しさがあってのことだろう。

勝利の為に献策をしても
その策が、受け入れられないもどかしさや気苦労は
幸村の心を重く憂鬱にしただろう。


ともかく、この手紙を書いた3月には
秀頼や幸村らの意向を超えて、
大坂方の主戦派は再び戦闘態勢を整え始め、
家康の元にも、その不穏な動きは伝えられていた。

というか、むしろ家康が煽って、彼らを決戦へと助長させたのだろうと思う。

ところで、和議が成立したこの時期、
池波正太郎先生の名著「真田太平記」では
小野のお通の手引きで、真田信之、幸村の兄弟再会の場面が描かれている。
もちろん史実ではなく、池波先生のフィクションであるが、
この場面は涙なしでは読めない、名場面中の名場面だ。

兄夫婦と手紙のやり取りがあったなら
恐らく兄弟の間でも、何らかの書状があったと想像してもおかしくはないし
恐らく忍びを通じてのやり取りはあったと私は思っている。

故に、『真田丸』 に小野のお通が登場したときから
兄弟の最期の再会の場面も描かれるのではなか、と期待していた。
三谷さんの脚本ではどうなんだろう?


仲の良さが史実でも確認できる兄弟なのだから
ドラマでも堺雅人さんと大泉洋さんの
最期の絆をどう表現していくのか、二人の演技に大注目したい。




『真田丸』もあと4回を残すのみ・・・

大坂夏の陣が迫ってきており、すでにロス状態です

皆さまもご存じのように夏の陣は、豊臣方の滅亡、悲劇へのカウントダウン。
ドラマの大坂城内の面々の最期の時が迫っております。

堺雅人さん演じる幸村はもとより、
五人衆も牢人たちも秀頼や秀頼側近たちのチームワークも素晴らしく
このキャストのまま、あと20回はドラマを描けるのではないかと思えるほど
見事なはまり具合♡

ブログで書く時間も限られてきており、
今回は、大坂城に立て籠もった五人衆のうち、後藤又兵衛と毛利勝永の遺品を紹介しつつ
ネタバレにもなりますが、その最期にも触れていきたいと思います。


まずは、
後藤又兵衛 所用と伝わる甲冑。
(1560〜1615)
日月竜文蒔絵仏胴具足
(京都井伊美術館保管)

イメージ 1

このブログでも何度か取り上げたが、
10年前の平成18年に開催された「真田幸村展」を見に行ったときに
この具足も特別展示されており、
観たとたんに、電気が走ったようなオーラを感じ、ものすごく感動した具足だ。
今でも青黒く光るその姿を思い出すことができる。

後藤又兵衛という武将の、すさまじい気迫が乗り移ったかのようだった。
おそらくその人物自身も、廻りを圧倒する迫力ある人物であったのだろう。

大河ドラマ『軍師官兵衛』でも重要な人物として描かれていたが(速水もこみちさん)
黒田官兵衛だからこそ、この規格外の男を扱えたのではないか、と想像できる。

後藤又兵衛(基次 1560〜1615)
黒田官兵衛とその子、長政に仕えた重臣で黒田24騎の一人である。
朝鮮出兵や関ヶ原合戦で武功をあげ、黒田家で1万6千石を領した重臣であった。
しかし官兵衛死去後、黒田長政と対立して脱藩。
浪人時代に、福島正則から3万石で勧誘されたほどの大物武将であったが、
黒田長政からの根回しで、なかなか士官が叶わず、一時京で乞食のような暮らしも強いられたと言われている。
大坂の陣で豊臣方に馳せ参じ、歴戦の大物武将として五人衆の一人となった。

その最期も壮絶であった。
慶長20年(1615)5月6日、
夏の陣における、『道明寺合戦』において、真田幸村(信繁)、毛利勝永軍の来援が遅れたため
自身の兵でのみ徳川の大軍に立ち向かわなければならず、獅子奮迅の奮戦ののち、討ち死にした。
後藤軍18000 VS 徳川軍 34000 であった。
豊臣方遅延の理由は、濃霧のためと言われている。
道明寺合戦における後藤又兵衛の奮戦は、真田幸村同様徳川方大名からも称賛されている。

先日、後藤又兵衛の最期を伝える書状が見つかった。

「後藤又兵衛 討死」詳細に 秀頼へ報告、部下がメモ 大坂の陣


 岡山県立博物館(岡山市北区)は17日、大坂の陣で活躍した戦国武将、後藤又兵衛(基次)の討ち死にの場面を主君・豊臣秀頼に報告する書付が見つかったと発表した。真田幸村とともに豊臣方として戦った又兵衛の新たな資料として注目を集めそうだ。

資料は「書付『後藤又兵衛討死之時』」。又兵衛の配下で戦った武将、金万平右衛門(こんまへいえもん)の子孫宅(京都府内)に残されているのを今年6月末に同館が確認し、調査していた。

又兵衛が討ち死にした際、金万らが秀頼から拝領した脇差し行光で首を討ったことや又兵衛の指物(刀)「かえり半月」の片折れを秀頼に差し上げたなどの記述が見られるという。



  
同館の内池英樹主幹は「秀頼に又兵衛の死を報告する場面を示す資料はこれまでなかった。秀頼が又兵衛を信頼していた証しと見ることができる」と評価。又兵衛研究に取り組む福田千鶴・九州大教授は「金万平右衛門自身、もしくは子孫が記した記録であり、大坂方の希少な記録だ」と話している。

***********
秀頼から拝領した脇差での『行光』で首を討った・・等
又兵衛の最期の描写がリアルに報告されている。

じつに武士らしく見事な散りきわではないか。
ドラマで哀川翔さん演じる又兵衛は、「死に場所を求めて」大坂城に入ったものの、
秀頼や幸村、五人衆らとの連帯感や友情をきっかけに、
秀頼のために戦うことを生きる目的として、次第に快活になっている。

敗色の濃い道明寺合戦にあっても、仲間である幸村や毛利勝永の遅延を恨んだりせず、
堂々と武士らしく最後まであきらめずに戦ったであっただろう。
秀頼拝領の脇差で最期を遂げたことが、その熱い心情を物語っている。

尚、又兵衛討ち死にの地として、大阪府柏原市の玉手川公園内に、
『後藤又兵衛基次之碑』が建立されている。 享年55歳。


毛利勝永
(1578〜1615)
大坂夏の陣で、毛利勝永隊が所用した旗印。
切裂靡御指物  
(毛利吉江氏寄贈 大坂城天守閣蔵)

イメージ 3

毛利勝永隊に配属された秀頼の馬廻り衆所用と伝わる。
毛利勝永もまた、秀頼からの信任が厚かったことがこの旗印の云われからもわかる。

毛利勝永は、真田幸村と境遇が似ている。
父・毛利勝信は、豊前小倉城主であったが、関ヶ原合戦で石田三成に味方したため
戦後領地を失い、嫡子 勝永 と共に土佐藩山内家に預けられ、高知県北部の久万村で生活をした。
父勝信は慶長16年(1611)に土佐で病没している。
慶長19年、豊臣秀頼の招きを受けて、長男 勝家とともに配所先を脱出して大坂城に入った。

実に境遇が似通っていますよね。
そのこともあって勝永と幸村は、気もあったようで、大坂城内でも共に行動することが多かったそうだ。


尚、土佐脱出に際し、
山内家には、「藩主・山内忠義とは衆道の間柄故、共に徳川方で働きたい。」と説明したそうだ。
衆道が理由なる、そういう時代であった。
そして嫡子毛利勝家と次男鶴千代を人質に出すと頼みこんだ。
実際は、嫡子勝家とともに、配流先を脱出している。

「真田丸紀行」でも取り上げられていたが、
大坂方へ付きたいが、そのため妻子に難儀が降りかかることを恐れて涙する勝永に、
妻が「残るものが心配ならば私たちは波に沈み命を絶ちましょう」と励ました。

徳川家康はこの話を聞きいたく感銘を受け、
土佐に残された妻子を処罰してはならぬと山内家に命じ、妻子は土佐城内にて保護されたという。

大坂夏の陣、道明寺合戦で、真田幸村隊と毛利勝永隊は
先に述べたように、濃霧のため遅延し、後藤又兵衛の後詰に間に合わず
又兵衛は討ち死にしてしまう。

遅れて合流した幸村は、又兵衛を救えなかったことを恥じ、豊臣家の武運も尽きたと嘆き
その場で討ち死にを覚悟した。

そんな幸村に「ここで討ち死にしては益がない。願わくば右大臣様(秀頼)の馬前で
華々しく死のうではないか。」と励ました。

おそらくドラマでも重要なシーンとなるはずだ。
岡本健一さん演じる勝永の、前向きで明るくさっぱりとした性格は、
史実の勝永にとてもよく似ていると思う。

そして勝永は、又兵衛の残軍を素早く収容し、
自分の隊から選んだ鉄砲隊を殿(しんがり)に配して、自分は本軍を率い、大坂城へと撤退した。

そして翌日の5月7日、大坂夏の陣の最終決戦において、
幸村の陣取る茶臼山の東にある四天王寺門前に陣をしいた。

ここは、徳川本陣の正面にあたる。
勝永は4千の兵を率いて、徳川軍と激突。
本多忠朝や、小笠原秀政、忠脩父子を打ち取った。
さらに徳川精鋭部隊である本多忠純、酒井家次、浅野長重隊などを次々と撃破、
徳川家康本陣に突入するという凄まじい活躍をみせた。
しかし、真田隊が破れて四方から徳川軍の大軍に囲まれたため
撤退を決意。
井伊直孝や細川忠興らの軍を退けて、大坂城内へと戻った。
翌日の5月8日、大坂城にて、秀頼の介錯を行った後に、息子の毛利勝家らとともに
蘆田矢倉で自害したという。 享年37歳。

幸村同様、大坂の陣でその武名と器が評価された武将である。
家康もその命を惜しんだことであろう。

尚、土佐城にて保護されていた毛利勝永の妻子3名は、
家康の命令で京に護送された。
息子の鶴千代は成敗されたが、妻と娘は助命されて土佐に返された。


『真田丸』 大坂夏の陣を描く最終回は、
タイトルなしの無題だそうだ。
視聴者の皆さんでつけてほしいとのディレクターの言葉があり、
堺雅人さんは「笑顔」とつけたいとおっしゃったらしい。

五人衆や木村重成らの最期も、笑顔であれ、と願うばかりだ。





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