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年も越え、今更感たっぷりですが、
真田丸の最終回について 感想を書いてみます。 もう『おんな城主直虎』が 明日から始まりますしね ![]() 正直、夏の陣については 端折り過ぎて、 時間が足りない感がありました。 せめて30分拡大版とかできなかったのでしょうか。 五人衆の奮戦記とその最期も、もう少し詳しく描いて欲しかったなあ。 特に毛利勝永が物足りないっす。 それと、きりちゃんのその後も むっちゃ気になります。 まじで、五人衆と重成、幸村との友情を軸に、それぞれのスピンオフ 5話を熱望します。 幸村の最期も史実とは違いましたね。 ただ、幸村が佐助の介錯で切腹するとき 穏やかに目を閉じた… その瞬間に、 大坂の陣が終わりを告げたのは 見事な演出だと感心しました。 現在の安居天満宮の境内で 幸村が最期を遂げた時はまだ、 大坂城は落ちていませんでした。 幸村は息絶えるその最期の瞬間まで 豊臣秀頼や大阪城の再起、息子の生存 を信じていたに違いありません。 堺雅人さんが目を閉じた刹那、 信濃や上田の幼き日からの日々が 走馬灯の如く駆け巡り、 大阪城で千姫の助命嘆願の朗報を待つ 秀頼や淀君、真田大助らの不安そうな姿が 映し出されました。 あれは幸村の脳裏にフラッシュバックされた記憶や願い、一人称の映像です。 最後の最後まで、 真田家視線のみのドラマ構成、 だからこそ、本能寺の変も関ヶ原合戦も 華麗にスルーし、また、ナレ死も成立したのです。 真田幸村の死をもって 大坂の陣も大河ドラマも 終焉を迎え、それが成り立つ見事な演出でした。 そして、真田丸の乗員の一人、真田信之が 本田正信とともに、領国経営の妙を語り合う場面は、真田家が松代で徳川の世を生き抜く未来を示し、 松代藩から、佐久間象山の出現を語る事で 真田昌幸、幸村の徳川打倒の本願成就を予言し、真田丸の長い航海は、 終わりを告げたのです。 しかし、穿った見方をするなら 真田幸村も、大助、秀頼らの 最期の姿も、放送されてはいません。 それは、もしかしたら、 彼らは佐助の手引きで、 堺から薩摩へ落ちのびた可能性も あり得るわけです。 まあ、個人的な希望です! 三谷幸喜さんは、 きっとそこまで想定したと思います ロスの消えない視聴者の一人として、 スピンオフを、 できれば、大坂夏の陣のスピンオフを 願うばかりです。 さて、 幸村の最期について 史実で分かっている姿を簡単にご紹介し、 当ブログに於ける、 大河ドラマ『真田丸』へのエピローグと させていただきます。 *********** 慶長20年5月7日 大坂夏の陣の最後の決戦の時を迎えた。 真田幸村最期の日でもある。 徳川軍は大坂城南方に、布陣した。 家康は天王寺口に本陣を構え、 秀忠は岡山口に本陣を敷いた。 対する豊臣方は、 真田幸村隊が、茶臼山に、 毛利勝永と大野治長隊は四天王寺付近に 布陣し、家康本陣から天王寺口を固めた。 大野治房隊は岡山口防衛にあたった。 両軍合わせて、21万人の大軍による史上空前の大規模な戦闘の、口火が切られた。 戦闘は昼頃から開始され、乱戦となった。 幸村隊は越前の松平忠直隊と激突した。 激戦の後越前松平隊を突破すると 幸村隊はたちまち、家康本陣へと迫った。 家康は幸村の猛追に逃げ場を失い、 切腹まで決意したと言われる。 幸村は三度、家康本陣に攻め込み、 三度目で力尽きた。 隊を立て直した松平忠直隊に 背後をつかれて壊滅したのだ。 この激戦て負傷した幸村は、 現在の安居神社付近で体を休めていたところを、松平忠直隊の家臣、 西尾仁左衛門に討ち取られたと言われている。 安居神社境内には、 真田幸村戦死跡碑と、幸村像が 建てられている。 過去の訪問記はこちら↓ 「真田幸村戦死跡之碑」と「茶臼山陣」 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/64789157.html 幸村隊を撃破した徳川軍は、 天王寺口、岡山口も突破して、 大坂城へとなだれ込んだ。 大坂城内から火の手があがり、この日の内に、天守閣は落城。 翌5月8日、大坂城内、山里曲輪に潜んでいた、豊臣秀頼、淀君、側近や女房達が自害し、大坂夏の陣は終結、 豊臣家も滅亡した。 自害した側近の中には、幸村の嫡子大助も含まれていたとされる。 秀頼出馬を頼みに、前日父幸村の命令で 大坂城中に戻っていたと言う。 過去の訪問記↓ 【大阪城〜山里丸と石垣】 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/64749013.html 尚、幸村隊を撃破し家康本陣を守った越前の松平忠直は、夏の陣に於ける第一の戦功とされた。 しかし後に不行跡を理由にあっけなく改易されてしまう。 秀忠との不仲が要因とされるが、 徳川家康が幸村の猛攻に逃げ回り 惨めな姿を晒した事の口止ではないかと 個人的には思っている。 いや、もしかしたら、家康はその時 幸村に討ち取られ死亡し、 影武者が擁立されたのかもしれない。 とまれ、 真田幸村は戦場に散り、 その勇猛果敢な姿は、 多くのサムライ達の心に焼き付けられたのだ。 トップ写真は、 『大坂夏の陣図屏風』 (大阪城天守閣蔵) 大坂夏の陣最後の決戦となった5月7日の模様を描いた屏風で、 徳川方に参戦した、福岡藩主 黒田長政が 戦勝記念に描かせたと伝わり、我が国の合戦屏風の中の最高傑作と名高く、 国の重要文化財に指定されている。 真田幸村隊は、ほぼ中央に描かれ、 敵将ながらも合戦屏風の主役級の扱いだ。 徳川方の松平忠直隊との激戦が始まっており、幸村隊の前線が戦況を押している様子が、生き生きと描かれている。 幸村は栗毛の馬にまたがり、 鹿角の兜を被って采配を振るい、大助はその後方で同じ鹿角の兜を被っている。 軍装は赤で統一された『赤備え』。 松平忠直は幸村隊を評して 『つつじが花盛りに開いているようだ』と 言ったそうだ。 幸村隊の奮闘は、徳川方の他の諸大名からも賞賛された。 細川家が『古今これなき大手柄』と讃え 島津家は、かの有名な言葉で 最大級の賛辞を送っている。 『真田、日本一の兵、いにしえよりの物語にもこれなき』 武士が惚れる武士、漢! 兎にも角にもかっこいい‼️ それが真田幸村という武将なのです。 幸村については、 真田丸以後も、また当ブログにて これからも書いていきたいと思います。 「真田幸村戦死跡之碑」と「茶臼山陣」 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/64789157.html 【大阪城〜山里丸と石垣】 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/64749013.html |

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