ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

真田丸〜私的備忘録

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大河ドラマ 真田丸 『完封』

むっちゃ感激しました!!幸村かっこいいいいいい〜〜〜。

徳川の大軍を撃退した真田幸村の戦いぶりは、
関西人として、むっちゃスカッとします。

戦の様子も、ほぼ史実通り。

空堀が現れたシーンでは、
「ブラタモリ」の、あの高低差のある街並みがフラッシュバックして、まさに鳥肌もの。

堺雅人さんの幸村が、これまた幸村らしくて素晴らしいかったです。
冷静でありながらも、燃えるほむらのような目・・・しびれますね。

脇を固める高梨内記や堀田作兵衛ももちろんのこと、
大助が敵を挑発するために「たかさごや〜〜」と唄いだしたシーンは、
上田合戦の信繁の役回り同じ。

作戦会議で五人衆や木村重成を前に
「おののぬかりなく」と昌幸の名台詞も飛び出し、
これこそが、真田の戦だと、
あらゆる伏線が大坂の陣につながって怒涛の演出となっておりました。

まさしく「日本一の兵(つわもの)」!

ちなみに、

真田幸村と共に真田丸で奮戦した木村重成。
史実でも、木村重成軍は、真田丸の背後の城内を固めておりました。

木村重成は、豊臣秀頼の乳母の子で、秀頼の近臣。
大坂城内の侍女が色めき立ったほどの長身の美男子だったそうです。

大坂冬の陣後の平和交渉において、
慶長19年(1614)12月21日に、徳川秀忠の陣所である岡山に大坂方の使者として赴き、
秀忠の誓約書を受け取ります。

合戦に及び腰な豊臣方にあって、武闘派の五人衆の信頼も厚く、
ともに激戦に身を投じた若武者。
ドラマで、幸村の見事な策略と戦いぶりに感激し、頬を紅潮させて「お見事」と幸村を讃え、
そんな重成に「心の蔵が飛び出すほどだった。」と幸村が胸襟を開くるシーンが爽やかでした。

寄せ集めの烏合の衆と侮られた大坂方が、
真田幸村の奮闘などで一体感を増し、戦う集団へと成長していきました。
このまま戦闘を続けていたなら、もしかしたら・・・大坂城は落ちなかったかもしれません。

それゆえに、家康の老獪さが際立っているといえます。
真田丸の『完封』勝利から、わずが半月後、徳川に有利な講和が成立してしまうのです。

次回のタイトルは『砲撃』。
家康の反撃が始まります。

講和に至るまでのいきさつを簡単に書いてみたいと思います。

*****

慶長19年(1614)、12月4日、城南の真田丸の激戦で東軍の大軍を相手に見事な勝利を挙げた、真田左衛門佐幸村の武名と知略は、天下の聞こえることとなった。
戦況は、12月16日夜、加藤嘉明の家臣であった牢人武将・塙団右衛門が、
船場の蜂須賀至鎮の陣を夜襲して、中村右近など百余人を打ち取ったなど
小戦闘が行われたほか、変化はなく、東軍は攻撃の手をゆるめた。

その一方で家康は、大坂城への砲撃を強めた。

大坂城の北側になる天満川の中州にある備前島を手中にした東軍は、
その陣所から、大坂城の本丸と天守閣を狙って砲撃を始めた。

狙いは、大坂城に立て籠もる淀君ら子女に恐怖心を植え付ける事であった。

備前島は、大坂城の京橋口の目と鼻の先位置する。
そんな近所から、巨大な砲丸や石火矢が撃ち込まれてくるのである。

(布陣図で備前島を参照してください)

イメージ 1


徳川家康が、イギリスやオランダから買入れた、巨大な大砲が城に向かって砲撃し、
四貫目〜五貫目の砲丸が、爆音とともに飛んでくる。

大砲がさく裂するたびに、城内の子女は顔色を失い恐怖の渕へと追い込んでいった。

まるで、八重の桜の会津籠城戦を彷彿とさせますね。

この大砲による攻撃を指南したのが、片桐且元と言われている。

備前島に陣を張った且元は、秀頼幼少のころからの側近中の側近。
城内の様子をつぶさに知っており、適任であた。

また家康は、城外からトンネルを掘り、大坂城本丸の下まで掘り進め
大量の火薬を仕掛けて天守閣を吹き飛ばす、との風評を広めさせた。

毎月18日は太閤秀吉の月命日なので、秀頼が城内の豊国神社へ参詣する。
片桐且元はそれを知っていたので、
12月18日、秀頼の豊国神社参拝を狙って大砲で砲撃した。
その砲丸は淀君のいた天守の二層目に命中し、淀君の二人の侍女の身体を吹き飛ばした。
目の前の惨劇に淀君の恐怖は頂点になった。


そのころ合いをもって、
家康は大坂方に休戦を密かに持ち掛けたのである。

それより先に、後水尾天皇の勅使が茶臼山の家康本陣を訪ねて、大坂方との和睦を進めたが
家康はその進言を無視していた。

朝廷主導ではなく、家康主導である計略をもって、和平工作を進める腹積もりであったのだ。

家康の和平工作は、内通者と言われる織田有楽斎から、大野治長、秀頼へと伝わった。
しかし秀頼は、
砲撃が怖くて「何のための戦じゃ。」と当初は反対をした。

そこで家康は、淀君の妹・常高院に目をつけた。
常高院は、本名は初。 浅井長政と市の娘で、秀忠の正妻・江の姉にもあたる。
浅井三姉妹の二女だ。
京極高次へ輿入れしたが、高次の死後仏門に入り、大坂城への出入りも自由であった。

妹の説得に淀君の心は休戦に傾いた。
砲弾からの恐怖から解放されたいとの思いだろう。

幸村ら五人衆は、和睦には反対であった。
幸村は休戦などもってのほか、今は寧ろ茶臼山の家康本陣を攻めるべきだと主張したという。

秀頼も同じ気持ちであっただろうが「おふくろさま」の意に反することはできない。

数回の交渉ののち、慶長19年12月19日、両者が合意に達し和議がなった。

翌日20日、21日に、大坂方の使者が家康、秀忠本陣を訪れて誓約書を受け取り、
22日には、徳川方の使者が大坂城に入り、秀頼、淀君の誓約書を受領。
これで冬の陣は終結した。
大坂方の使者はこのときまだ若干19歳の木村重成。
徳川方の使者は、家康の側室、阿茶の局、家康側近の板倉重昌、秀頼側近の阿部正次。

和議の条件は
ー、大坂城の二の丸、三の丸、惣構の堀を埋め立てること。
ー、淀殿を人質としないこと。
ー、秀頼が牢人を招き入れたことの罪を問わないこと。

であった。
大坂方は、休戦に持ち込み、老齢の家康の死を待つ作戦であったと思われる。
城内は、休戦合意でやっと戦から解放されると、安堵した気持ちとなったであろう。

しかし、家康は、和議がなった翌日、12月23日に
「すぐさま城の外堀を埋めよ」と下知した。

諸大名から招集された約8万もの作業人夫が、昼夜問わず突貫工事を勧めた。
二日後の25日には南の惣構の壕の大半が埋め立てられたとある。
恐らく幸村の「真田丸」もこのときすでに破壊されていただろう。

そもそも、和議の内容では、二の丸、三も丸の埋め立ては、大坂方の割り当てであったが、
家康は、その約束を無視して、東軍の人夫で三の丸の壕も埋め立てにかかったのだ。

難攻不落の大坂城は、家康の策略でまる裸となってしまった。
もはや籠城はできない。

苦心して築いた真田丸が破壊されたと知ったときの幸村の心情やいかに・・・
真田丸の最終章、大坂夏の陣が刻一刻と迫ってきている。


尚、家康へ寝返り、大坂城の秀頼、淀君の居間や行動予定を家康や秀忠へ注進した片岡且元であるが、
大坂城が落ちる直前、大野治長が、秀頼と淀の助命嘆願を兼ねて、二人の居場所(山里丸)を
密かに伝えてきた。
しかし且元はこの内容を秀忠に通報し、豊臣は助命ならず滅亡してしまう。

そのわずか20日後、且元は持病の肺病が悪化し、5月28日に京都で病没する。(享年60歳)
良心の呵責か、豊臣方の恨みなのか、三成を裏切った金吾同様、後年の評判は芳しくない。

大河ドラマで小林隆さん演じる且元は、この難役をどう演じるのか、
注目している。


***********

そういえば、
予告で、出浦様のお姿が!!! うれしいです。
信之の替わりに、信州のそばがきを大坂城へ持ち込むのでしょうか?

弟のために何か手助けをしたいという信之の気持ちを察したお幸さんが、
そっとそばがきの量を信之に伝えるシーンも胸に響きました。
お幸さんにとっても源二郎は可愛い義弟。
源二郎とお梅の祝言で、病弱の身体を押して踊った姿を思い出しました。

それと、きりちゃんが淀殿の侍女になりましたが、
家康の砲撃事件の被害者になるわけないよね・・?
数々の危機を乗り切ったきりちゃんには、大坂陣後もたくましく生き抜いて欲しいです。


イメージ 2


写真は、『六連銭文黒塗水筒』 (大坂城天守閣蔵)

黒漆塗の縁に、金泥を塗り真田家家紋が描かれている。
和泉伝来の真田幸村所用の甲冑(胴具足)と共に伝わる真田幸村にゆかりの一品。
大坂の陣で幸村がその喉をうるおした水筒なのかもしれません。
今でも使いたいほど、おしゃれです。

ドラマ「真田丸」、築城された出城に立つ幸村(信繁)が
「これで城持ちになったわ」
「してこの出城の名前は何と?」と
高梨内記に問われて
内なる闘志を讃えた堺・幸村が「真田丸だ。」と答えるシーンは、
鳥肌ものにかっこよかったっすね。

そしておそらく今夜!
大坂冬の陣、最大の激戦「真田丸の攻防」が描かれるものと思います。

幸村同様、視聴者たる私たちもまた、湧き上がる興奮を抑えることができません。

昨夜のブラタモリでも詳細が検証されておりましたが、
幸村率いる真田軍が大坂城を完璧なまでに守りきった「完封」劇を前に
「真田丸」について簡単に述べたいと思います。

これが、ブラタモリで紹介された古地図。

イメージ 1

「真田丸  詳細な最古絵図 松江で発見」



松江市は12日、大坂冬の陣(1614年)で戦国武将、真田信繁(幸村)が
大坂城の南側に築いた「真田丸」を詳細に描いた最古とみられる絵図「大坂 真田丸」(縦27.8センチ、横40.6センチ)が見つかったと発表した。
絵図には真田丸の中に「出丸」(出城)などが描かれていた。
絵図の調査を担当した奈良大の千田嘉博学長(城郭考古学)は
「真田丸が大坂城の付属施設でなく、独立した城だったと考えられるとしている。
     絵図の北側には「出丸 廿五(二十五)間程」と記載があった。
    真田丸の北側には、大坂城があり、当時は防御の必要性が低かったとみられるが、
    出丸の東側には側面を防御する「腰曲輪(こしぐるわ)」も描かれていた。
    こうしたことから、真田丸の独立性がうかがえるという。

    また、真田丸南の堀を「惣構(そうがまえ)堀」と記され、堀の底に下りるようなスロープが描かれていた。
     市によると、真田丸を詳細に描いたこれまで最も古い絵図は、
    広島市立中央図書館所蔵の「摂津 真田丸」(1753年)とされてきた。
    今回の絵図は松江市の男性が1953年に市に寄贈した絵画集「極秘諸国城図」(74枚)の1枚。
    絵画集を保管する博物館「松江歴史館」が今年2月に別の城を調査する過程で、絵図を確認した際、
    真田丸の絵図を発見した。
    絵画集の包み紙には作製時期を示すとみられる「元禄」(1688〜1704年)の文字が書かれていた。
    【長宗拓弥】

    うーむ凄いですねー‼️
    ブラタモリの興奮を思い出します!



    真田丸は、幸村が昼夜を問わない突貫工事で築いた出城である。

    通説えは、南北220M X 東西150M 程の小さな出丸と言われていたが、
    最新の研究では、 南北270M X 東西280M の半月形の出丸であったろうと推定されている。
    (異説あり)

    イメージ 2

    ブラタモリでも検証されていたが、
    真田丸は、上町台地を利用したもので、出口は、東西に門を設けた。
    出丸の周囲には深い空堀をめぐらせた。
    塀をめぐらし、幾つもの櫓をたてた。
    さらに、弱いとされていた南側には一間の土塁を築き、そのうえに頑丈な柵を二重に張り巡らせた。

    出丸の北面は、大坂城の惣構えの壕に隣接しており、その間に細い土橋を設けていた。
    大坂城との通路であり、いざというときは、橋を壊して、
    真田丸が孤立してでも大坂城を守る設計であったようだ。

    さらにドラマでも描かれていたが、
    幸村がこの場所に出丸を築いたのは、
    難攻不落の大坂城の唯一の弱点である南側に、出丸を築き敵をおびき寄せ、
    巧妙に仕掛けられた出丸で集中攻撃を浴びせて勝利するためでもあった。

    壕を超えて押し寄せる敵兵へ、出丸の側面と、大坂城惣構え内から
    確実に矢や鉄砲を射かけることができるからだ。

    巨大な大坂城の局部(=真田丸)に敵を集中させることで
    少人数であっても効率よく敵を撃退できる。
    孫子の兵法にも通じる。

    味方(大坂城)の弱点を補強しつつ、積極的に敵を撃破する、
    攻守にすぐれた出城を、幸村は短期間で築き上げたのだ。

    とはいえ、いくら出丸の設計が優れていようと、
    兵が弱くては意味がない。
    指揮官の命令通りに動かなければ、大軍に飲み込まれてしまうだろう。

    徳川軍は20万の大軍である。

    一方、幸村は約6000の兵を秀頼から預かった。(4千の説もある)
    最初の彼らは雑兵の烏合の衆でしかなかった。

    その烏合の衆を、ほぼ1か月の短期間で統率させたのだ。
    しかも、真田丸を築城しつつである。

    ここに幸村の凄さがある。

    池波正太郎先生の「真田太平記」では
    幸村は真田丸の築城において、太鼓や鐘を使って集団作業を行い、
    兵の統率と団結を強めていったと書かれているが、おそらくその通りだろうと思う。

    限られた時間でいかに効率よく目標を達成させるか。。。
    幸村のリーダーとしての素質がいかんなく発揮されたと言えよう。
    そして、兵たちも、短期間ながらも幸村に心酔していった。

    その幸村の自信が、真田の「赤備え」である。

    武田の勇将・飯富兵部の「赤備え」
    井伊の赤備え
    等、

    戦場で殊更目だつ「赤備え」は、戦闘での自信なくしてはできぬことだ。
    事実、戦後「真田の兵は一兵とも死を恐れずに勇猛に戦った」と敵兵からも讃えられることになる。

    これは、冬の陣の布陣図だ。

    イメージ 3


    大坂城の南、 平野口の側に、真田丸がある。
    真田丸の背後大坂城惣構え内には、 木村重成らが配されている。

    真田丸の前には、前田、松平、井伊軍が布陣している。
    徳川秀忠本陣はその後ろだ。

    家康も、大坂城南が突破口だと、強兵を配していたのがわかる。

    大坂冬の陣は、11月19日、
    木津川口、伝法川口にあった、豊臣付城を徳川方が攻めたことから本格的な戦闘に入った。

    11月26日、 鴫野、今福 で戦闘
    11月29日、 博労、渕、野田、福島 で戦闘

    徳川軍は、次々に豊臣の付城を攻め落とし、大坂城の包囲網を狭めることで
    豊臣を孤立させていった。

    と同時に、大坂城の難攻不落を知り尽くした家康は、長期戦を見越して
    平和交渉に向けた裏工作も始めていた。

    そんな状況で起こったのが、「真田丸の戦い」である。

    12月4日 早朝、
    松平忠直(越前北庄)、前田利常(加賀金沢)、井伊直孝(近江彦根)軍が
    真田丸への攻撃を開始した。

    家康からの指示ではなく、大坂城、惣構えを前に、武功にはやったフライングであった。


    堀を登ろうとすると、すでに察知した幸村隊が、弓、鉄砲による一斉射撃を行い、
    徳川軍は、大損害を被った。
    堀は死者で埋め尽くされ、1万にも上ったと噂されたという。
    家康は激怒して、攻撃を中止させた。

    この戦で、真田幸村は大いに名をあげ、徳川敗退の情報はすぐに京まで伝わった。

    家康は、平和交渉を早くから進めていたことからも、
    この大坂城を攻め落とすことを考えていなかった。

    諸大名も動員をかけて徳川家の忠誠を確かめることがれきでば
    それで十分であった。

    真田丸での敗北で、これ以上戦闘を行えば、有利に平和に進めることが怪しくなる。

    家康は大坂との交渉を急ぎ、
    12月22日、徳川の使者が大坂城に入り、秀頼、淀殿の誓約書を受け取って
    徳川、豊臣双方で誓約書が交わされ、大坂冬の陣は終結した。

    和議の内容は、
    大坂城の二の丸、三の丸、惣構えの堀を埋め立てること。
    淀殿を人質としないこと。
    牢人を集めた秀頼の罪を問わないこと。

    この3点であった。

    尚、徳川の使者にたったのは、
    家康の側室・阿茶の局、家康側近の板倉重昌、秀忠側近の阿部正次であった。

    女性ながらもこの大役を果たした阿茶の局!
    ドラマで、茶々とのやり取りが想像できますね。

    しかしこの和議で、
    難攻不落の大坂城は、まさに丸裸となってしまった。
    徳川の大軍を退けた真田丸も完全に破壊されたのは言うまでもない。

    ・・・にしても、恐るべし「ブラタモリ」!
    高度かつ難解な研究内容を、安易に流さず
    アカデミックかつ地道な研究者の検証をリスペクトしつつ、まるでその場に自分が立っているような
    そんな臨場感を伴いながらも、上質なエンターテイメントとして「真田丸」を現場検証していましたね!

    従来より『明星高校』付近が真田丸だろうと言われていましたが、
    松江で発見された精度の高い古地図を現場検証して、
    その場所でほぼ確定されたのではないか、と思われます。

    まじで、タモリさんやばい。
    ブラタモリで生き生きとしているタモさんを見ると、
    「いいとも!」を終えて、全国津々浦々を探索できて良かったなあ、としみじみ思います。

    ブラタモリを見ながら
    この秋、松江へ行きながらも、
    あまりの悪天候と激しい雨のため、松江城から歴史博物館へ行くのを断念し、
    この古地図を見ずに帰ってしまった自分をこれほど悔いたことはありません (泣)
    ※ 尚、私が雨天であきらめたちょうど同じ日に
    ブログの先達、佐々木様が、この古地図をご覧になっております!!
    さすがです。

    是非おたずねくださいませ。

    真田信繁の手紙発見

    真田信繁直筆の手紙が発見されたというニュースを読みました。
    イメージ 1


    http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20161025/KT161024KQI090007000.php

    真田信繁 老い嘆く書状 原本100年ぶり発見

    http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/news-image/IP161024TAN000188000.jpg信繁の花押(サイン)=中央下=が書かれた書状の末尾
     戦国武将真田信繁(幸村)が、義兄小山田茂誠(しげまさ)宛てに書いた自筆書状の原本が、行方不明になってから約100年ぶりに見つかった。写しがあるため、配流(はいる)(流罪)されて老け込んだ信繁の様子が分かる史料として知られていた。国文学研究資料館特定研究員の丸島和洋さん(39)が24日、京都市の表装店で鑑定し原本と判断した。「老いや病という内容に反して、文字には力強さがある」と話している。

    書状は今月上旬、三重県内の収集家男性(58)が古書店で購入した。丸島さんの著書「真田信繁の書状を読む」に収録された写しの写真を見て、出版した星海社(東京)を通じ丸島さんに鑑定を依頼。信繁の筆跡と特徴が一致したことなどから原本と判断した。丸島さんは「写しでは筆の勢いや墨の濃淡までは分からない。書状は信繁自筆とみられていたが、原本の発見でより確実になった」と言う。

    丸島さんによると、信繁が出した文書は17点が確認され、原本が見つかっていたのは9点だった。今回見つかった原本は、明治時代の実業家、岡本貞烋(ていきゅう)(1853〜1914年)が所蔵し、1904(明治37)年に帝国大学文科大学史料編纂(へんさん)掛(現・東京大史料編纂所)が書写を作った。岡本の没後、原本の所在が分からなくなっていた。

    書状には
    「は(歯)なと(など)もぬけ申候、ひけ(ひげ)なと(など)もくろきハあまり無之候」
    など、信繁が自らの衰えを嘆く記述が目を引く。新年の祝儀に鮭(さけ)を贈られたことへの謝意などもつづられている。

    「手紙をもらえるとは思っていなかった」など諦めを感じさせる内容から、丸島さんは、書かれたのは九度山(和歌山県)配流の末期で、「大坂の陣」に参陣した1614(慶長19)年の可能性もあるとみる。同年に書かれたとすれば40代の書状になるという。相手の茂誠は当時、信繁の兄信之の重臣となり、今の長野県小県郡青木村を中心に領地を持っていた。

    原本の所有者はこれを巻物にして、依頼があれば博物館などに貸し出すという。丸島さんは「信繁は英雄かもしれないが、一人の人間でもある。機会があれば長野県の人たちにも、直筆の手紙の繊細なところや内に秘めた炎を見てもらいたい」と話している。

    真田氏の歴史に詳しい元上田市立博物館長の寺島隆史さん(65)は「飾らない性格がよく表れ、信濃名産の鮭を贈られたという内容も面白い書状」と説明。「信繁は優美な字を書く人だった。(原本は)信繁の筆勢が分かる貴重な史料だ」と話している。

    (10月25日)

    こちらのNHKサイトにも詳しい情報が掲載されている。

    姉まつの夫である(義理の兄)小山田茂誠への直筆の書状で、
    九度山の配流生活の末期で、大坂陣へ参陣した1614(慶長19)年の可能性もあるそうだ。

    祝儀として鮭二匹をおおくりいただきました。
    かたじけないことです。”
    “去年から急に年をとり、ことのほか病気がちになりました。
    歯も抜けてしまい、ひげも黒いところはあまりありません。”

    など、飾らぬ言葉が並んでいる。


    古文書好きの血が騒ぎ
    書状をざっと見ましたが、

    信繁の直筆の書状と
    文体や筆の勢いがとても似ており
    個人的にも、信繁直筆と思う。

     
    実は、幸村(信繁)が大坂の陣より、この義理の兄、小山田茂誠宛てに宛てた書状が
    もう1通残されいる。
    現存する信繁(幸村)の書状では、生前最後の手紙である。
    また大坂の陣より 姉のまつへ宛てた書状も有名だ。

    信繁(幸村)と姉夫婦との、敵味方を超えた心の交流は
    恐らく、大河ドラマ「真田丸」でも描かれるだろう。

    (この2つの書状はまた取り上げたいと思う。)


     字はその人を現す、という。

    信繁の字体がそことなく華やかで
    恐らく、九度山の山中で暮らしながらも、
    もって生まれたオーラがあった人物だったのだろう。

    自由で、素直で、
    気負いもなく、
    武士は、男子は、こうあらねばならぬ、
    というこだわりもなく、
    自分の気持ちを素直に吐露するおおらかさは
    家族やまわりを魅了したに違いない。


    愛すべき弟キャラなのに、やたらと強い!
    信繁の手紙は、坂本龍馬に通じるものがある。


    この華やかな甲冑具足もまた、真田幸村所用の品と伝わる。

    鉄二枚胴具足
    (大坂城天守閣蔵)

    イメージ 1


    鉄錆地の頑丈な西洋風二枚胴に、兜、面頬、籠手、佩楯、臑当を完備した当世具足。
    まるで戦国時代から抜けだたように、実践的である。

    手甲には、真田家家紋の六連銭文が打ち付けられている。
    (写真の手の部分をよおくご覧ください)

    胴はヨーロッパ甲冑の影響を受け日本で製造した南蛮具足である。
    仙台真田家伝来の幸村所用の南蛮具足もそうであったが、
    幸村の審美眼を感じさせる。

    幸村は信州上田の田舎侍だが、
    若いころに秀吉の馬廻り衆として煌びやかな大坂城で過ごした影響であろうか、
    実にハイセンスである。



    この甲冑にも、大坂の陣における歴史秘話が伝わっている。

    本品は、陣貝、陣鐘、陣太鼓、および、「源家訓閲集」 と題された、軍事秘伝書とともに、
    和泉国(大阪南部)の尼寺にて、真田幸村所用の品として伝来したものである。

    なぜ、幸村所用の品が和泉国に残されていたのか?

    それは、大坂の陣後に広く流布した幸村、大助生存説に深くかかわる。

    幸村の嫡男、大助は、大坂城で豊臣秀頼に殉じて自害したのではなく、
    和泉国堺に逃れて生き延び、これら幸村の遺品も当地にて大切に保管されたというのだ。

    事実、大坂の陣から33年後の、正保4年(1647)
    能役者として幕府に召しだされた 堺出身の高井平右衛門は、大助の実子だと記録にある。
    (「左衛門佐君伝記稿」)

    この真偽は不明だが、
    関西には、幸村、大助の生存説は根強い。
    大坂の陣後に、二人の亡骸を見分したという記録がないからだ。

    幸村と大助は堺に落ち延び、堺でその生涯を終えたとも、
    また堺の港から密かに薩摩へと落ち延びたとも云われる。

    と同時に、家康が大坂の陣で幸村に刺されて亡くなったという「家康死亡説」も根強い。
    堺の南宗寺には、なんと家康の墓まである。

    家康の死は秘匿され、その後は影武者が家康を装ったといわれるゆえんだ。


    先日、真田丸がクランクアップした、というニュースがあった。
    ところが、堺雅人さんのコメントのみで、
    そのクランクアップ映像どころか、幸村姿の堺さんの写真すら発表されていなかった。
    かなり異例のことらしい。

    これはもしかしたら、
    三谷幸喜さんによる、大どんでん返しがあるのではないか?と
    ふと思ってしまった。

    きりのその後も同様だ。
    幸村の正妻(大谷刑部娘)とその子ら4人の遺児が、伊達藩に保護されたことは判明しているが、
    側室である高梨内記の娘とその女児(いち)の行方は・・・謎だ。


    さらにもう一つ、
    先に述べた、和泉国の尼寺由来の当世具足とともに伝来した軍事秘伝書がこれだ。

    「源家訓閲集」 42巻  (大坂天守閣蔵)

    イメージ 2
    鎌倉時代から軍学の主流を占めた小笠原流の秘伝書で、
    幸村所用と伝わっている。

    第一巻、第21巻、第26巻の記述により、本品は永禄8年(1565)に
    小笠原儀成が、南蔵院秀盛に与えたものと判明している。
    すなわち、真田昌幸の生きていた時代と重なる。

    書物の中央に、円が描かれている・・・
    なにやら、ドラマで昌幸が遺した軍事書にも通じる。

    大助が昌幸の遺品をもって和泉国堺へと落ち延びた、なんて想像もありなのかもしれない。

    三谷幸喜さんの「真田丸」の特徴は、
    史実を膨らませた脚本。

    だからこそ、これらの品々が実存する限り、
    何か起こってもおかしくはないと思う。

    最終回まで、わくわくしながら真田丸の行く末を見守りたい!

    http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/69209180.html 「幸村甲冑と片倉小十郎」

    真田幸村所用 南蛮同具足
    東京・真田徹氏蔵


    イメージ 1



    真田幸村の遺品で、幸村の遺児・大八の子孫宅に伝わった具足。
    西洋の騎士のよろいを意識して作られた、一種の南蛮具足である。

    この具足の由来には、大坂の陣における歴史秘話が伝えられている。



    大坂の陣に参戦した、伊達政宗の重臣・ 片倉小十郎重長(1584〜1659)は
    夏の陣の折に、敵将である、真田幸村の遺児5人を保護した。

    恐らくは、伊達政宗が幸村の人となりを惜しみ、
    家臣である片倉小十郎に、この難役を秘密裏に命じたのであろう。

    徳川や高野山の手で捕縛され人質となり命の危機に陥る前の保護であった。
    まさしく大坂の陣における奇跡の「あしながおじさん」である。


    幸村は正妻である大谷吉継の娘(ドラマでは春さん)
    との間に6人の子供をもうけている。
    二男の名は 「 大助、大八 」
    四女の名は、 「梅、あくり、しょう、かね」


    さらに側室との間に二女がいた。
    一女は、堀田作兵衛の妹であった侍女(ドラマではお梅ちゃん)との間にできた 「すへ」ちゃん。
    兄・信之の家臣である石合十蔵の元へ嫁いでいる。

    もう一人の娘の名は「いち」
    この娘が高梨内記の娘との間に生まれた女児である。
    (ドラマでは桐ちゃんとの娘、のはずですが、いまだプラトニックな関係の二人

    保護したのは女子4人と男児一人なので、
    正室の子供たちと一致する。

    夏の陣で幸村と大助が討ち死にした戦後に、
    片倉小十郎は、保護した遺児5人を、国元の白石城に連れ帰った。

    大坂の陣から5年後の元和6年(1620年)
    片倉小十郎は、遺児の一人である「梅」を自分の妻とした。
    お梅ちゃんは、美しく成長したのであろう。
    片倉小十郎は36歳・・・・もしかすると、梅は亡き父の面影を、
    この優しき「あしながおじさん」に求めたのかもしれない。

    そして梅の弟である大八を、片倉久米介守信と改名させて
    片倉家の家臣とした。

    「守信」の名前に 真田信繁の「信」の字を使っていることからも
    幸村の遺児たちが、東北で手厚い保護を受けて暮らしていたことを推察できる。

    この幸村の遺品の具足は、
    片倉家の家臣となった大八の子孫宅に伝わった由緒ある一品である。

    大八は夏の陣の折はわずか4歳。
    敵将の男児として、最悪なら処刑、命を許されても出家させられるとことを
    伊達政宗の男気と、片倉小十郎の勇気と優しさが、幼い男児の人生を救ってくれたのだ。

    わが子らが伊達藩にて密かに保護されたことを幸村が陣中にて伝え聞いていたかは不明だが、
    忍びの者を通じ聞き及んでいたのかもしれない。

    心残りなく、真田本隊の先陣となり、徳川家康の本隊へと、ただまっすぐに突き進んでいった
    真田幸村の、晴れ渡った武士の本懐をも連想させてくれる。

    敵味方を超えた、人としての「真田幸村の人格」が忍ばれるエピソードである。

    豊臣が滅び、世が徳川による太平な時代となった頃、
    真田幸村の兄、真田信之の孫にあたる、信濃松代藩三代目藩主・真田幸道は、
    伊達家の屋敷を訪問した。

    そのとき 六連銭文の服を着て、片倉を名乗る伊達藩家臣と遭遇し、
    しばし、語り合ったという覚書が残っている。(古前島助之進覚書)
    この家臣こそが、真田大八自身か、もしくはその子で間違いないだろう。

    にしても、堂々と六連銭文の服を着て江戸を闊歩するとは
    さすがは、幸村の子供(もしくは孫)である。

    言い換えれば、幸村の武勇は、
    その当時すでに武士の誉れとして広く認知されていたことの証でもある。

    ちなみに、この具足は、平成18年に大坂城天守閣に出展され、
    私は実物をこの眼で見たく、馳せ参じた次第である。

    南蛮らしい華やかな具足で、幸村の象徴でもある「鹿角の兜」に、テンションがあがった。
    鎧は赤紫で、赤備えの陣羽織によく似合っていたのではないか。
    自由人たる幸村らしい、お洒落な具足であった。

    このとき、後藤又兵衛の具足も展示してあり、その黒青色のごつごつとした質感との違いに、
    異色異能の集団であった五人衆の、個性豊かなチームワーク想像させてくれたりと、
    実に有意義な展示会であった。

    その時、この具足を所蔵されている、真田徹氏 ご本人様も来られており
    ご挨拶をさせて頂いた。
    その時のお名刺も、大切に保管している。
    (むちゃかっこいい名刺ですよね)

    イメージ 2


    真田徹氏は、真田大八のご子孫、
    すなわち、正真正銘の真田幸村のご子孫さまである。

    今から10年も前になるが、
    真田徹氏は、当時のはやりの細身のスーツをびしっと着こなされた、
    エリートサラリーマン風の細身のイケメンで、
    信州上田と東京を行き来しながら、真田家による上田観光の振興を熱く語っておられました。

    きっと今年の大河ドラマ「真田丸」の大ヒットに満足されていることと思います。

    【関連記事】
    http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/68834234.html 『堀田作兵衛とすへ』




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