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慶長19年(1614) 方広寺鐘銘事件をきっかけに
豊臣と徳川の関係は急速に悪化し、
10月1日、徳川の和解に奔走していた片桐且元が進退窮まり大坂城を退いたことで
徳川と豊臣は断絶し、武力衝突は避けられない状況となった。
徳川家康は、豊臣秀頼と豊臣家を潰すために
方広寺鐘銘への難癖をつけたことはあきらかで
秀頼は、そのワナにまんまと陥れられたと言える。
秀頼は大坂城にて籠城の準備を始め、徳川恩顧の大名や武将達に
大坂入城を促す密使を送った。
関ヶ原以降、それまでの地位を失い不遇の生活を送っていた牢人衆が
続々と大坂城に集まってきた。
その一人が、真田幸村 である。
家康は、豊臣攻めの準備のため、駿府を出て上洛の途にあった。
豊臣恩顧の大名の離反を抑えるためにも、早めの開戦をもくろんでおり、
老体に鞭打っての執念の上洛であった。
当時、京都所司代の板倉勝重は
大坂城の状況を、こまめに家康へ報告しており、幸村の消息もつづられていた。
板倉勝重書状を抜粋すると
10月12日、家康が掛川で受け取った書状には、
10月6、7日 京都に居た浪人衆のうち
長曾我部盛親、仙石宗也、明石全登、松浦弥佐衛門、その他 無名の牢人1000余人が
大坂に入城した。
10月14日、家康が浜松で受け取った書状には
10月10日 九度山を脱出した、真田左衛門佐が大坂城に入った。
と報告がある。
さらに、方広寺鐘銘事件で暗躍した、家康の側近 以心崇伝にも、
高野山より「幸村九度山脱出」の知らせが入っており、
崇伝もまた、家康にすぐに報告していた。
徳川家康は、天敵であった真田昌幸の次男坊、幸村の大坂入城を
ほぼリアルタイムで把握していたことが、確認されている。
家康にとって天敵昌幸の次男坊の入城は、捨て置けぬ情報であったろう。
幸村の叔父である真田信尹に幸村懐柔の工作を密かに図るなど、
徳川家康の複雑な心情を想像すると面白い。
ただ、 以心崇伝の書状には
大坂城に集まった浪人どもは、しょせん日雇い同然と侮っている。
たしかに、烏合の衆の寄せ集めでは、
合戦における軍事部隊としての質は低い。
しかし、大名クラスの大物の牢人は、その名前だけでも烏合の衆を束ねることが可能となり
士気もあがり、軍隊の質は向上する。
大坂陣の五人衆とは、その意味で徳川が恐れる大物武将であた。
その序列は、
長曾我部盛親 (四国の覇者・長曾我部元親の嫡子)
毛利勝永 (元豊前小倉藩主 毛利勝信の子)
真田幸村 (ご存じ 真田昌幸次男)
後藤又兵衛基次 (黒田長政の元家臣)
明石全登 (宇喜多秀家の重臣)
五人衆以外にも、仙石宗也 (小諸城主 仙石秀久の次男)も大物武将として挙げられる。
戦国時代を生き抜き、あまたの合戦で武功を上げ続けた戦国武将たる家康にとって、
戦を知る彼ら大物武将の入城は、大いに警戒すべき事態であった。
京都所司代の板倉重勝の報告によれば、
真田幸村は、入城の際に、当座の手当てとして、黄金200枚と銀30貫を秀頼より遣わされている。
また、戦功として50万国を約束し、
6000人の兵と共に籠城したとある。
九度山に蟄居していた幸村に6000の兵を集めることなど不可能で、
それはすなわち、幸村は、大坂入城後に、牢人たちを組織し、訓練して
真田軍を即座に組織したことが推測される。
幸村の大坂入城は、10月10日
大坂冬の陣の開戦は11月19日
つまり、たった1か月で、幸村は最強の赤備え真田軍団を組織したのだ。
武将としての際立つ才覚があったこが、このことからもうかがえる。
一方、徳川家康は、10月23日に京都 二条城に到着した。
ここで、大坂城攻めの軍議を開き、秀忠の到着を待ってから
11月15日に、京都を出陣した。
家康は 16日に奈良で一泊し翌日は法隆寺に一泊して
11月17日には、大坂の住吉大社の社家 津守氏宅に本陣を構えた。
秀忠も同日、平野の全興寺に本陣を構えた。
徳川軍の諸大名は、それぞれの持ち場に陣を張り、
合戦の時に備えたのである。
豊臣方は、秀吉が建てた大坂城の堅固さを信じて、籠城策をとった。
しかし、真田幸村は、城の最も外側の惣構の南側の防衛線が弱いと判断して、
そこに出丸を構築して、そこで守りを固めた。
この出丸こそが「真田丸」である。
当時の文書にも、大坂外堀の一角に「真田のほり」と「真田出丸」と呼ばれていることが
確認されている。
ちなみに真田丸の跡地は大坂陣後に完全に壊されたため、現在、その範囲を特定することは困難であるが、
大坂天王寺区の空堀町には、「真田山」の地名が残っており、おそらくこの付近が
「真田丸」であったと推測されえいる。
現在は、天王寺区真田山町へとその地名が引き継がれている。
さて、真田幸村の実兄の信之は、
徳川の大名として、当然、大坂出陣を命じられた。
しかし信之自身は、病気のため参陣せず、上田城に残った。
その名代として、長男の信吉、次男の信政を参陣させている。
実の弟の参戦を複雑な思いで受け止めていたことは想像に難くない。
11月19日、大坂冬の陣が勃発し、
最大の激戦である「真田丸の戦い」が起こるのは、12月4日であった。
赤備え 真田軍の 出陣である!!!
写真は
絹地六連銭文四半旗 (真田幸村隊所用) 真田徹氏蔵(東京)
大坂の陣で真田幸村隊が使用したとされる四半旗。
真田家の家紋 六連銭文が染められている。
この旗は、幸村の遺児、真田大八の子孫宅に伝来したもの。
大坂の陣後、仙台伊達藩の重臣片倉小十郎は、真田幸村の遺児たちを保護し
国元の白石城に連れ帰った。
大坂陣の当時、まだ4歳であった真田大八は、改名して片倉久米介と名乗り
片倉家の家臣となった。
さらに、ネタバレになりますが、
片倉小十郎の妻は、幸村の娘「お梅」ちゃんですよ〜〜。
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