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大河ドラマでは北条氏は滅亡してしまったが、
本ブログでは、もう少し秀吉の小田原攻めについて書いてみたい。
真田の名胡桃城事件が発端となった上に、
秀吉からの書状も多く、秀吉の闇や外交戦術なども見て取れるからだ。
まずは、名胡桃城事件直後に、秀吉が北条氏直あてに送った
長文の書状を紹介したい。
これは宣戦布告状であり、秀吉の並々ならぬ決意の表れが書き綴られ
さらに、自己陶酔的な様子も伺いしれる、有名な書状である。
また、大河ドラマ 真田丸「裁定」の回での
江雪の申し立てを彷彿とさせる内容もあり、
この下りを読むと、三谷幸喜さんの史実へのこだわりと、またその遊び心がよく分かる。
まずは「小田原征伐」を時系列に整理してみよう。
天正17年(1589)11月3日 名胡桃城事件が起こる。
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/68927155.html 「名胡桃城事件〜真田丸私的備忘録21」
天正17年11月10日 真田信幸は徳川家康へ事件を報告。
沼田裁定の上使(津田、富田)へ知らせるよう指示。両使より秀吉へ報告。
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/68908874.html 「沼田裁定〜真田丸私的備忘録」
天正17年11月21日 秀吉から真田昌幸宛てに「北条征伐」を決意した旨の書状が届く。
天正17年11月24日 秀吉から北条氏直あての「宣戦布告状」 ⇒今回のテーマ
天正17年12月10日 聚楽第で小田原征伐の軍議を行う
天正18年(1590)3月1日 秀吉が京都より出陣
天正18年6月 石垣一夜城を築く
天正18年6月5日〜7月17日 忍城攻め (小田原開城まで続く)
天正18年6月23日 八王子城落城
天正18年7月5日 北条氏降伏
天正18年7月11日 北条氏政、氏照 切腹
天正18年7月21日 北条氏直 氏規 高野山へ追放
関東の雄 北条氏は滅亡する。
※ 氏直の従兄弟で氏規の嫡子である北条氏盛は、河内狭山藩主として家督を許され
北条家は幕末まで存続している。
それでは、今回のテーマ、
秀吉の宣戦布告状の訓読、および解説を始めたい。
北条氏直宛 豊臣秀吉条目
天正17年(1589年)11月24日 真田宝物館所蔵
【訓読】
一、 北条事、近年広義をないがしろにし、上洛する能はず、殊に関東に於いて邪意に任せ
狼藉の条、是非に及ばず。然る間、去年御誅罰を加へられるべき処に、駿河大納言(徳川)家康卿、
縁者たるに依り、種々懇望候間、条数を以って仰せ出され候へバ、御請け申すに付いて御赦免成され、
則ち美濃守(北条氏規)罷り上り御礼申し上げ候事。
一、先年 家康相定めらるる条数、家康表裏の様に申し上げ候間、美濃守御対面さるる上は、
境目等の義聞こし召し届けられ、有様に仰せ付けらるるべきの間、家の郎党差し越し候へと仰せ
出され候処に、江雪(板部岡江雪斎)差上りおわんぬ。
家康と北条邦切りの約諾如何にと尋ね候ところ、 その意趣は、
⇒(注)以下 江雪の弁明について述べている
甲斐、信濃の中城々ハ、家康手柄次第申付けらるべし、上野の中ハ、北条申付けらるべきの由相定め、
甲・信両国ハ、則ち家康申付けられ候。
上野沼田の義は、北条自力に及ばず、却って家康相違の様に申し成し、事お左右に寄せ、
北条出仕迷惑の旨申し上げ歟と思し食され、その義に於いては、沼田下さるべく候。
去り乍ら 上野のうち真田持ち来たり候知行三分の二沼田城に相付け、北条に下さるべく候。
三分の一ハ真田に仰せつけられ候条、其の中にこれ在る城をば真田相拘ふべきの由仰せ定められ
右の北条に下され候三分の二の替地は、家康より真田へ相渡すべき旨御究め成され、
北条出仕すべしとの一札出し候はば、則ち御上使を差し遣はされ、沼田相渡さるべしと仰せ出され、
江雪返し下され候事。 ⇒(注)秀吉の裁定結果を詳細に述べている
一、当年極月上旬、(北条)氏政出仕致すべき旨、御請け一札進上候。
茲に因り津田隼人正、富田左近将監を差し遣はされ、沼田渡し下され候事。 ⇒(注)沼田城受け渡し
一、沼田要害請け取り候上ハ、右の一札ニ相任せ、則ち罷り上るべしと思し召され候処、
真田相拘へ候 なくるみの城を取り、表裏仕り候上は、使者に御対面さるべき義にあらず候。
彼の使生害に及ぶべしと雖も、助命し返し遣はし候事。 ⇒ (注)名胡桃城事件について
(注)以下は、秀吉が自ら語る半生、一代記
一、秀吉若輩の時、孤(みなじご)と成りて信長公幕下に属し、
身を山野に捨て、骨を海岸に砕き、干戈を枕として夜は寝ね、夙におきて軍忠をつくし
戦功をはげます。然して中比より君恩を蒙り人に名を知らる。
これに依り西国征伐の義仰せ付けられ(=中国攻め)、大敵に対し雌雄を争ふの刻、
明智日向守光秀、無道の故を以て信長公を討ち奉る。 (=本能寺の変)
此の注進を聞届け、弥(いよいよ)彼の表へ押し詰め、
存分に任せ、時日を移さず上洛せしめ(=中国大返し)、逆徒光秀の頸を伐り、恩恵に報じ会稽を雪ぐ。
其の後柴田修理勝家、信長公の厚恩を忘れ国家を乱し叛逆の条、是又退治せしめ畢んぬ。(=柴田攻め)
此の外諸国叛く者これを討ち、降る者これを近づけ、麾下に属さざる者無し。
中ん就く秀吉一言の表裏これ有るべからず。此の故を以て天命に相叶ふ者哉。
予既に登龍揚鷹の誉れを挙げ、塩梅則闕の臣と成り、万機の政を開く。
然る処に氏直天道の正理に背き、帝都に対し奸謀す。何ぞ天罰を蒙らざらん哉。
古諺に云はく、巧訴(詐)は拙誠に如かずと。所詮普天の下、勅命に逆らふ輩、
早く誅伐を加へざるべからず。
来歳必ず説旄を携へ進発せしめ、氏直首を刎ぬべき事、踵を廻らすべからざる者也。
天正17年十一月二十四日 (朱印) (豊臣秀吉)
北条左京太夫とのへ
【解説】
11月21日 名胡桃城事件を知った秀吉から真田昌幸宛てに「北条征伐」を決意した手紙の
わずか三日後に書かれた、北条氏直あての書状で、明確な「宣戦布告状」となっている。
北条氏直が上洛しない等、北条の態度は大いに問題があったが、
北条氏と姻戚関係のある(北条氏直は娘婿)徳川家康のとりなしで不問としてやったが、
氏規(氏直の叔父)が上洛し、沼田領を引き渡してくれれば氏直は上洛する旨を聴き、
では、北条の言い分を釈明したいと板部岡江雪斎が秀吉に直接弁明し、
秀吉は、沼田領の3分の2を北条に渡す等の「沼田裁定」を自ら下した。
6月に氏政からは同年12月に上洛すると一札が来、
7月に津田隼人正、富田左近を上使として沼田へ派遣し、沼田城を引き渡しした。
しかし氏政は12月上洛の約束を引き延ばししたいと申し入れ、それを拒否したところ
名胡桃城の強奪事件を起こすとは裏切りにもほどがある。
上使(津田、富田)を派遣するので、名胡桃城事件の首謀者を処罰するよう要求している。
そして孤児であった秀吉が信長に仕え、骨身を削って忠節に励み、信長幕下で名をあげて
中国攻めの大役を仰せつかったところ、明智光秀の謀反で信長公は討たれてしまった。
その一報を聞いてすぐに毛利を押し詰め(和議にもちこんだ)、中国大返しの後に
光秀を討伐し、恩恵に報じ会稽を雪ぐ。
其の後も(清州会議後)、柴田勝家が謀反したのでこれも討伐した。
秀吉は、関白太政大臣として国政を預かる身となり、帝都に対して不忠不届きな北条氏直を
誅罰しないわけにはいかない。
昌幸の手紙の3日後に氏直へ宣戦布告状、しかも長文の書状を出していることから、
北条征伐は、秀吉にとっては規定事項であったと思われる。
「恩恵に報じ会稽を雪ぐ」など秀吉らしからぬ?漢文調で
何度も推敲し準備したのではないだろうか。
この宣戦布告状を受け取った北条家は、秀吉の本気度に驚き、
家康にとりなしを頼んだ。
また、名胡桃城を奪ったのは北条家の命令によるものではなく、名胡桃城に上杉の兵が入ってきたため
沼田の前線の兵が攻めたという、苦しい言い訳で弁明した。
しかしすでに賽は投げられていたのだ。
秀吉は、北条征伐を決断し、12月10日に、聚楽第に天下の諸侯を集めて
小田原征伐の軍議を行った。
北条攻め、そして北条氏の滅亡は避けられない事となったのである。
ある意味、沼田裁定は、大義名分を必要とした秀吉による功名なワナであったのかもしれない。
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真田丸〜私的備忘録
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高嶋政伸さんの北条氏政・・・!
素晴らしい演技を讃えて、「北条氏」関連過去記事をまとめてみました
![]() ![]() 北条早雲 謎の前半生と遅咲きの人生
天目山〜武田勝頼と北条夫人①
天目山〜武田勝頼と北条夫人②
小田原〜三島城 夏休みの旅 2014
軍師官兵衛 第40回「小田原の落日」
天地人 第29回「天下統一」
『関東一の美少年・上杉景虎の出自について (北条三郎)
『史実・御館の乱シリーズ』
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/60468731.html 『御館の乱①〜春日山城の攻防』 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/60550710.html 『御館の乱②〜御館 VS 春日山 』 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/60608775.html 『御館の乱③〜武田勝頼との和睦』 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/60701133.html 『御館の乱④〜四屋砦の悲劇 』 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/60792482.html 『御館の乱⑤〜鮫ケ尾城に散る』 天地人 第10回「二人の養子」
天地人 第11回「御館の乱」
天地人 第15回「御館落城」
功名が辻 第35回「北条攻め」
風林火山 第22回「三国激突」
風林火山 第46回「関東出兵」
結構ありますね?
ただ「北条氏政の汁かけ飯」について
どこかの記事で書いたはずなのにみつかりませんでした。
う〜んどこだったかなあ。
とりあえず(皆さまご存知と思いますが)高嶋氏政様の名演技を讃えて
掲載させて頂きます
食事の際北条氏政は汁を一度飯にかけたが、
汁が少なかったので、もう一度汁をかけ足した。
これをみた父の氏康が
「毎日飯を食っているのに、かける汁の量もはかれんとは・・・
北条家もわしの代で終わりか・・」と嘆いたという逸話。
ただしこれは後世の創作で、この逸話のために、氏政の領国経営の能力を
低く評価する向きもありますが
上記の関連記事を読んでいただければ、北条氏政が、領国経営のみならず
外交にも長けた政治家であったことがわかっていただけると思います。
事実、北条氏政の時代に北条家の領土は最大規模となったのでした。
そして個人的には、北条氏康の息子で御館の乱の首謀者となった
関東一の美青年、北条三郎=上杉影虎様と、北条夫人の聡明さに
北条氏の聡明で美しくあるが故の悲劇を感じずにはいられません。
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小田原城
山中城
名胡桃城事件の直後、天正17年11月24日、
秀吉は、北条氏直への宣戦布告状となる長文の書状を発した。
そしてそのわずか半月後の、12月10日、
秀吉は聚楽第で、小田原征伐の軍議を行った。
秀吉に服従した諸大名が参陣を命じられ、未曾有の討伐軍が編成されることになり、
秀吉の出陣も翌年の3月1日と発令された。
ドラマで石田三成が言ったように
「戦が始まると誰も止められない。あっという間に転がりだした」のである。
ましてや、秀吉は北条を攻め滅ぼす好機を狙っていたのだ。
天下統一事業の最後の詰めとして、秀吉の並々ならぬ決意により
着々と準備が進められていった。
小田原征伐の総勢は20万人以上に及び、
本隊17万人 (豊臣秀吉、秀次、徳川、織田、蒲生、黒田、宇喜多、細川、池田 等々)
北国口2万3千 (上杉、前田、真田)
水軍1万 (長曾我部、九鬼、脇坂)
兵站も未曾有の規模で、米20万石以上、黄金1万両が用意され、江尻と清水港に運ばれた。
過去、武田、上杉の大軍を退けた天下に聞こえた難攻不落の小田原城で、
北条が籠城することを見越した大がかりな予算であった。
長束正家が兵站の総奉行であったが、もちろん石田三成も官吏として
この大金と大軍を統制管理しなければならず、腹が痛くなった可能性があったかもしれない。
(確か、三成は関ヶ原合戦でもお腹を壊したエピソードがあったような・・・)
真田昌幸も12月聚楽第の評議に参列し、
前田利家、上杉景勝の指揮する「北国口」隊に配属された。
徳川家康の与力でありながら、本隊に属さないのは、異例であった。
小牧長久手の役の際、家康を裏切った石川和正ですら、
小田原攻めの際には、本隊に配属されているのである。
昌幸の上洛時にこのブログでも書いたが、
真田昌幸は、形式は徳川の与力であるが、豊臣秀吉は直臣に近い扱いを受けている。
これは、真田信繁が人質として大坂に出仕していることも、関連しているであろう。
ライバル徳川家康を牽制した、秀吉らしい人員配置である。
豊臣秀吉は、聚楽第評議で発令した予定の通り、
天正18年3月1日に京都を出発し、
翌月の4月3日には、小田原に陣を進めている。
最初は早雲寺に陣をしいていたが、北条家の重臣、松田憲秀の内応により、
小田原城の西南、笠懸山に石塁を築いた。
これが一夜城とも呼ばれる石垣山の陣である。
秀吉は、石垣城で長期包囲作戦を取り、北条の首をじわじわと絞めていった。
自軍の大将達の倦怠を防ぐためという見地と、北条親子の戦意を削ぐため、
陣中での酒宴、遊行を認め、京と堺から商人や茶人を招くだけでなく、
秀吉は側室の茶々を小田原に呼び寄せ、諸大名にもそれを許した。
利休主催の大茶会や、茶々を連れての箱根の温泉旅行など、
前代未聞の華やかたる陣中となった。
そしてわれらの真田家であるが、
天正18年3月上旬、真田昌幸と信幸は上田城をから出陣し、「北国口」軍に合流した。
北国口軍の陣容は、上杉景勝1万、前田利家1万、真田昌幸3千 等 であった。
碓氷峠から上野へ入った北国口軍は、北条氏の重臣、大道寺政繁の守る松井田城を攻めた。
その戦況について、真田昌幸と信幸は秀吉にこまめに書状で報告を上げており、
秀吉からもそれに応えて、小田原の戦況を、これもまたこまめに知らせてきている。
その秀吉からの「小田原攻略記」ともいえる数枚の書状が、真田家に大切に保管されており、
小田原合戦の貴重な資料となっている。
秀吉と昌幸は共に筆まめで、文通相手のような不思議な関係にあった。
(一方、この当時より、家康と昌幸との手紙は皆無である。)
また真田信幸も父に倣って、秀次へ陣中見舞いの書状を出しており
た豊臣秀次から信幸あての書状も残されている。
尚、小田原征伐に関する真田昌幸、信幸あての豊臣秀吉書状はとても興味深く、
小田原攻めのリアルな様子が伝わってくる大変貴重な資料であるが、
枚数もあり、とても一度には書ききれないので、別途記事にしてご紹介したいと思う。 ここでは、概要を抜粋してみると、
4月14日の秀吉からの書状では、
本隊の小田原城攻めの軍勢は十分なので、小田原へ急ぐ必要はない。
心静かに、松井田城を攻め、敵を討ち果たすように命じている。
松井田城を四方から攻め、猛将 大道寺政繁が降伏して城が落ちたのは、
それから1週間後の、4月20日であった。
昌幸は、次いで、城主が逃亡した上野の箕輪城を受け取った旨を、秀吉に報告している。
そして秀吉からその返書が4月29日付で発せられている。
内容は、農民の帰住を固く申付けるとともに、
関東の風習として、城中下の女、子供の人身売買の禁止を固く命じている。
朝鮮の役や秀次事件の非情さとは裏腹の、秀吉の二面性であろうか。
実弟の秀長が秀吉の狂気を抑えていたと言われているが、
大河ドラマでは、寧さんと大坂城を守る病身の秀長の姿が描かれており、
わずかなシーンながらも、豊臣家の悲劇の予兆のようで、感じ入ってしまった。
北国口軍は、上野の諸城を次々と落とし、
北条氏邦が守る武蔵の鉢形城を取り囲み、6月14日にこれを落城せしめ、
6月23日には、武蔵の八王子城も攻略。
これにて、北条の敗北が濃厚となったのである。
北条の城が次々と落とされていくなか、
唯一最後まで落ちなかった城が、「のぼうの城」として有名な「忍城」である。
石田三成を総大将として、直江兼続、真田信繁(幸村)が先鋒として
攻撃に加わっている。
次回はここも描かれるのでしょうね?!
三谷幸喜版「のぼうの城」、楽しみである。
ところで「攻略」の回で、真田信繁が黄母衣衆として描かれている。
秀吉の黄母衣衆は、馬廻り衆から抜擢されていたので、あながち間違いとは言いがたい。
ただ、小田原城に単身直談判に向かったのは、黒田官兵衛で、
ついおととし、岡田准一君が小田原無血開城を熱演していただけに、
ここで信繁にその代役を務めさせるのは、正直ちょっと無理があったように思える。
ただ、信繁の小田原城潜入以外のシーンは、細かいところも含めて
ほとんど史実を描いていたのは、さすが三谷さんらしい。
石垣城の、秀吉、家康の立ちションシーンも史実。
でもそこにひとひねり加えて笑いをとるのも三谷さんらしい。
関ケ原合戦までの真田信繁(幸村)に関しての資料は、本当に少ない。
長丁場の大河ドラマで描くには、ある程度の想像と創造が必要だ。
だからこそ、無名のはずの真田信繁が、
石田三成や大谷刑部だけでなく、豊臣秀吉に厚遇され信頼を得ていたことを
その他の資料で推理し想像して作り上げていく作業は、大変であり、かつ面白いと思う。
ちなみに、「攻略」の回で、
秀吉、家康が立ちションしながら、「江戸と関八州を家康殿にお渡しする」と告げるシーンについて
ユーモアもさることながら、別の意味でちょっと感激してしまった。
幕末、徳川家のため忠義を尽くした新選組の近藤や土方は、関八州の八王子同心の子孫なのだ。
つい「新選組!」を連想してにやけてしまった。
しかも八王子同心は武田の遺臣達の末裔である。
佐藤彦五郎を演じた小日向さんと、風林火山の勘助を演じた内野さん・・・ね?!
そして、ネットでも騒がれていましたが、
小田原攻めで秀吉が着用していた青い羽根の陣羽織は現存している。
秀吉の「蜻蛉燕文様陣羽織」
熱海神宮宝物館に所蔵されているそうだ。
伊達政宗の死に装束のエピソードもさらりと描かれていたが、
個人的にかなり好きな話なのでご紹介したい。
(実は過去何度か取り上げています
関白秀吉による再三の上洛命令も無視し、また「惣無事令」無視して芦名を滅ぼし会津を分捕った伊達政宗。
「伊達家は、鎌倉時代よりの奥州探題の家柄ゆえ・・」という理由で命令を無視し続けた。
秀吉は卑賤の出身。
伊達政宗が振りかざす名門のへ理屈が、秀吉の癇に障ることを知った上での挑発であった。 このとき政宗。若干23歳。
この豪胆ぶり。 しかし、北条攻めは長期戦となり、ただでさえ大名達の懐は厳しくなっていた。
もし、北条を討った後で、東北へ出陣ともなれば、軍の維持費だけでも相当なもの。 秀吉の側近達は、秀吉の暗黙の了解を得て、
伊達政宗懐柔を進めていった。 特に熱心だったのが、前田利家と浅野長政。 前田利家は自身が北国軍の戦陣にあっても、せっせと伊達政宗に書状を送り続けている。
秀吉の圧倒的な軍事力と戦況を知らせ、小田原城はもう落ちる。
落ちてから参陣しても手遅れだ。 と 説き続けたのです。 伊達政宗は、小田原の状況を知るにつけ、
そろそろ腹を決めなければ、伊達家の命運も尽きると覚悟を決めた。 しかし、伊達家は実母・義姫と実弟の伊達小次郎との確執を抱えており、
そのため長期間の遠征ができなかったという事情もあった。
母の義姫は、政宗ではなく弟の小次郎に家督を継がせようと画策。
「小田原への参陣」の挨拶に、義姫を訪れた政宗は、
母の差し出した膳で、あやうく毒殺されかかったといわれている。(異説あり) 政宗は、小田原へ出立する直前、
実弟・小次郎を殺害し後顧の憂いを絶った 同母弟の暗殺・・・
断腸の思いであったろう。 5月9日、伊達政宗は、側近の片岡小十郎らわずか百人ほどの手勢を率いて会津を出立。
しかし、北条領を迂回して甲斐・信濃路を通ったため、小田原へ着陣したのは、6月5日であった。 激怒する秀吉は、政宗を引見せず、箱根の底倉に監禁させた。
秀吉は、政宗を見せしめのため切腹させる腹積もりであった。 しかし、絶体絶命のピンチにあって、政宗は
「今生の思い出に千利休から茶を習いたい」と申し出る。 側室の茶々だけでなく千利休も呼び寄せていたことを政宗は知っており、そこに賭けたのだ。
秀吉の許しを得て利休は、伊達政宗に茶をたてた。
東北の田舎侍と思われていた政宗は、見事な茶さばきで対応 千利休は、政宗の風雅に、見事も魅了されたのであった。
利休だけでなく、前田利家も、浅野長政も、伊達政宗と秀吉との仲介を続けるうちに
この若者に惚れこんでしまっていた。 政宗の魅力は、彼ら側近達からも秀吉に伝えられ
ひとたらしの秀吉は、俄然、政宗に興味をもち、直接謁見することとなったのだ。 天正18年6月9日、
底倉で監禁されてわずか4日後、 豊臣秀吉は、小田原石垣山本陣で、大勢の大名達と共に、伊達政宗を引見した。 伊達政宗は、髪を切り、白装束で現われた。死を覚悟しているというパフォーマンスである。
派手好きの秀吉も、お得意のパフォーマンスで対応した。
平伏する政宗に向かって太刀(杖とも)を振り上げ、衆目が固唾を呑む中
肩のところでピタリと止め、 「政宗、よく来た!」と一喝、そしてあっさりと許したのである。
秀吉と政宗のこのど派手な引見劇は評判となり
政宗は、一躍人気者となった。 政宗は、秀吉に気に入られたものの、侵略した会津を召し上げられることを、承諾。
そして他の大名達と交誼をかわし数日後、小田原を風塵のごとく去っていったのである。 これぞまさしく、伊達者!
秀吉の惣無事令に違反しながらも ボタンを掛け違えた北条氏政との
運命の分かれ道であった。
TOP写真は、2015年7月に登城した、小田原城と山中城。
どちらも小田原征伐で落城した城。
【小田原〜三島の旅】
特に山中城は素晴らしい史跡で大感激しました。 |
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天正17年(1589)11月
秀吉の裁定により真田の所有とされたばかりの名胡桃城が、
北条の兵に奪い取られる事件が勃発する。
先の沼田裁定でも触れたが、
上野国、利根郡にある名胡桃城は、沼田城の西方約一里半、利根川をへだてて向かい合う城で
沼田城を支える抑えの城であり、沼田城が秀吉の裁定で北条の所有となった今は、
沼田=北条を監視し牽制する城となっていた。
沼田城代で北条氏邦の配下、猪俣能登が突如攻めてきて乗っ取ったのである。
名胡桃城代の鈴木主水の妻の弟、つまり義弟である中山九兵衛の裏切りが発端であった。
中山九兵衛は、沼田城の猪俣能登からの調略に乗せられ、
鈴木主水が7人の家来と共に名胡桃城を離れた隙に、北条を手引きして城を乗っ取ってしまったのだ。
義弟の裏切りに気づいた鈴木主水が名胡桃城に引き返したものの時すでに遅し。
このままでは武士の名に恥じると、かねて懇意にしていた沼田領の正覚寺に入り、
猪俣能登に降伏を申し入れ、猪俣能登と中山九兵衛への対面を希望した。
降伏は見せかけで、その場で差し違える覚悟であった。
ところが敵もその意図を察して正覚寺には現れず、
汚名を注ぐためにもと、鈴木主水をその家来6人は正覚寺で切腹。
主命で主水と6人の介錯を頼まれ、泣く泣く一人生き残った家来(渋川某)は、
正覚寺の住職に鈴木主水と6人の供養を頼み、その足で
岩櫃城の矢沢綱頼に事の顛末を報告し、すぐに上田城の昌幸にも伝えられた。
名胡桃城の惨事は真田家中の怒りを爆発させた。
しかし、このとき真田昌幸の取った行動は冷静そのものであった。
北条による秀吉の沼田裁定と惣無事令への重大違反になるからと、
直ぐさま北条への報復を唱える部下たちの声を抑えて、
外交駆け引きへと持ち込んだのである。
まず利用したのは、徳川家康であった。
事件勃発直後に、真田信幸が徳川家康に、名胡桃城事件の詳細を伝える手紙を出している
その手紙を受け取った家康から、真田信幸への返事の書状が残されている。
天正17年11月10日付
真田信幸宛 徳川家康書状 (真田宝物館蔵)
(訓読)
来書披見候。然れば、なくるミの事其の意を得候。
左候へば、其の許の様子京都n両使存ぜられ候間、則ち彼の両人迄其の方使者差し上げ候。
定めて披露申されべく候。将又菱喰十到来、悦喜せしめ候。
猶、榊原式部太輔申すべき也。
十一月十日 家康 (花押)
真田源三郎殿
家康は、沼田裁定の検使、津田、富田の二人にまず知らせるように信幸へ指示し、
きっとその両人から秀吉に報告されるであおうと、書いている。
榊原康正の名前が出ているのは、沼田城引き渡しの際も立ち会っていたからである。
[ 沼田裁定] で詳細を説明しております 。 ↓
徳川は秀吉と北条の仲介役であり、徳川家と姻戚関係にある信幸からの火急の手紙は
家康の信幸への好感度を上げたことであろう。 犬伏への伏線ともいえる重要な書状と思える。
そして、二人の検使から正式に名胡桃城事件の報告を受けた秀吉は、激怒した。
惣無事令への重大な違反だと、北条征伐を決断する。
そして、被害者である真田昌幸にまず書状を出した。
真田昌幸宛 豊臣秀吉書状
天正17年(1589)11月21日 真田宝物館蔵
長文の手紙であるが、真田家にかかわる重要な書状ゆえに
訓読を列挙したい。
(訓読)
其の方相抱ふる なくるみの城へ、今度北条境目の者共手遣せしめ、者主討ち果たし、
彼の用害北条方へのっとるの旨に候。
此の比氏政出仕致すべき由、最前御請け申すに依り、たとへ表裏有と雖も
其の段相構へられず、先ず御上使を差し越され、沼田城の渡し遣はし、其の外知行方以下
相究めらるるの処、右動き是非無き次第に候。
此の上北条出仕申すに於いても、彼のなくるみへ取り懸り討ち果たし候者共、
成敗せしめざるに於いては、北条赦免の義これ在るべからず候。
其の意を得、境目諸城共来春迄人数入れ置き、堅固に申し付くべく候。
自然其の面人数入り候はば、小笠原、河中島へも申し遣わし候。
注進候て彼の徒党等を召し寄せ賭け留め置くべく候。
誠に天下に対し抜公事表裏仕り、重々相届かざる動きこれ在るに於いては、
何れの所成り共、堺目の者共一騎懸けに仰せ付けられ、自身御馬を出され、
悪逆人等首を刎ねさせるべき義、案の中に思し召され候間、心易く存知すべく候。
右の堺目又は家中の者共に此の書中相見せ、競べを成すべく候。
北条一礼の旨相違に於いては、其の方義、本知の事は申すに及ばず、
新知等仰せ付けらるべく候。
委曲 浅野弾正少、石田治部少輔申すべく候也。
十一月二十一日 (朱印) 豊臣秀吉
真田安房守とのへ
(解説)
上洛しない北条の態度は大変問題があったが、不問とし、
上使を派遣して、要求どおりに沼田城を渡してやったにも関わらず、
このような次第では、たとえ北条が今更、自分の下に出仕しようとも、
その名胡桃城へ攻めかかった者どもを成敗しないことには、許すことはできない。
そして、北条が裁定違反をしたからには、「本地」すなわち、沼田は真田昌幸へ与える。
北条と境界の城を固く守り、
またこの書状を家中に見せてもよいとまで書いている。
豊臣秀吉にとって、名胡桃城事件は、渡りに船ともいうべき好機であった。
沼田裁定後、3か月たっても北条は上洛の約束すら果たしていなかった。
このまま放置していれば、秀吉の威信にかかわる、
東北の伊達などの大名もまだ上洛しておらず、その見せしめの意図もある。
ほころびは少しも許すことはできない。
豊臣政権のためには北条を滅ぼすしかないと、秀吉は決意していたのだ。
けっして怒りに任せての思い付きではなかった。
そして真田昌幸にしてみれば、
沼田城を秀吉のお墨付きで取り返すことができるのだ。
目先の復讐にとらわれず、「惣無事令」を盾にまず家康と秀吉に事件を報告した裏の意図もまた
いかにも昌幸らしい外交駆け引きといえる。
北条家では、「名胡桃城ごとき」と高をくくっていたのであろうか、
秀吉の怒りの激しさに驚き、家康にとりなしを頼んだが、
後の祭りであった。
北条の当主、氏直は家康の娘婿でもあった。
ここで徳川の最大の同盟者である北条を倒すことは、間接的には家康の力をも削ぐことになる。
秀吉にとってはこれほどの好機はなかった。
真田昌幸がそこまで意図して、即座に報告したのかかどうかは不明であるが、
(個人的にはそこまで読んでいたと思います)
名胡桃城事件は秀吉にとって、北条征伐への「大義名分」となる事件であった。
次回は小田原征伐について書いてみたいと思います
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豊臣秀吉は天正13年(1585)に四国を、天正15年には九州を平定し
そして同年、関東、奥羽に『惣無事令』を発した。
惣無事令とは、領主間の武力による争いを私闘として禁じ、
領地紛争については、秀吉が裁定すると定めた命令である。
天正16年には、京の聚楽第に正親町天皇を迎え、
未曾有ともいうべき豪華絢爛な盛儀を執り行い、豊臣家の権威を世に知らしめた。
すなわち、時世は戦国の世に終止符を打ち、
豊臣秀吉の元で新たな秩序による天下国家の到来を体現してみせたのである。
秀吉による天下統一事業の完成はもう目の前であった。
ところが、関東の覇者、北条氏だけはいまだに上洛せず、
北条早雲以来の武力と権威を誇り「秀吉ごときに」という態度を崩していなかった。
天正16年の秀吉からの上洛命令に、当主・北条氏直は応じず、
徳川家康が両者を仲介。
家康の顔をたてるために、ようやく北条氏政の弟である北条氏規(氏直にとっては叔父)が
名代として上洛した。
このとき氏規は、
「真田の沼田領をお引渡し頂けるのれあれば、甥の北条氏直は明年にも上洛します。」
と約束した。
氏直の上洛と沼田領を天秤にかけたのである。
惣無事令は、領地紛争は秀吉の裁定と、自ら定めた経緯もある。
秀吉は、さっそく動き出した。
翌天正17年七月、
真田と北条の長きにわたり紛争の種であった、沼田領問題を決着させるため
津田隼人、富田左近の二人を、検視として沼田まで派遣した。
このとき、秀吉自らが、真田信幸に、
「上田から沼田までの案内と伝馬人足を出すように」と命じている。
これがその朱印状である。
真田信幸宛 豊臣秀吉朱印状
天正17年(1589)7月10日 真田宝物館蔵
昌幸ではなく、源三郎信幸宛てとしては、初めての秀吉書状である。
信幸も天下人から一人前と認められたと思ったのか、真田家の家宝とし大切に残されていたようだ。
興味深いので、詳しく説明したい。
(訓読)
今後関八州, 出羽、陸奥面々分領、堺目等を立てられるべき為、
津田隼人、富田右近将鑑、御上使として差し下され候。
案内者として同道すべし。
然れば、其の地より沼田迄、伝馬六十疋、人足弐百人 申し付け
上下共送付すべし。
路地宿以下馳走肝要に候也。
七月十日(朱印) (豊臣秀吉)
真田源三郎とのへ
「ご馳走用意するのが肝要」という一文に秀吉らしさを感じる。
二人の検視への接待を誤れば、沼田の裁定にもケチがつく。
若殿、信幸は大いに奮発したであろう。
秀吉の「源三郎」呼びにも萌える・・・💛
尚、秀吉が昌幸ではなく信幸に命じていたのは、
ドラマのように真田昌幸が在京していたからと推測されると同時に、
昌幸は、嫡男信幸に領主としての「帝王学」を学ばせており、
実質は、信幸が領地管理をしていたとも推測される。
その後、二人の検視からの報告を受けた秀吉により裁定が下された。
上州の真田領のうち、
3分の2は北条領 : 沼田城、小川城 含む
残り3分の1は真田領 : 名胡桃城、須田城、猿ケ京城含む
岩櫃城は、真田領
真田の減少分の替地として、徳川から伊奈郡箕輪が真田に与えられた。
秀吉の裁定は、速やかに実行され、
同年7月26日に、真田は沼田城を北条に明け渡した。
強大な敵から何度も守りぬいた 沼田城を明け渡すことは、 昌幸、真田家にとっては断腸の想いであったろう。 しかし、秀吉に逆らう事はできない。 昌幸はこの裁定を呑んだ。 このとき、家康の重臣である 榊原康政も立ち会いに出向いている。
そして、各城代が入城した。
沼田城 : 猪俣能登守邦憲 (北条)
小川城 :富永助道 (北条)
名胡桃城 : 鈴木主水(真田)
岩櫃城 : 矢沢綱頼 (真田)
この裁定は、かつての徳川と北条の密約などまったく無視した、
秀吉独断の絶妙な振り分けであった。
沼田を明け渡す事で北条の上洛条件を満たしながらも、その実は、真田優位であった。
岩櫃や、三国峠など交通の要所はことごとく真田領となり、
やっと手に入れた沼田城も、名胡桃城から観察されるために
戦略的価値が半減となった。
氏政にしてみれば、まんまと喰わされたような鬱積した気持ちが溜まっていき、
やがて名胡桃城事件から小田原合戦へと突き進んんでいくのである。
ある意味、秀吉による巧みな筋書きであったのかもしれない。
さてドラマでは、沼田の命運をかけた信繁のディベートが描かれるようだが、
実際は、秀吉が現地に検視を派遣させての裁定であった。
秀吉直々の書状で、検視のご一行を迎え入れるエピソードも、ドラマで取り上げて欲しい。
右往左往する源三郎お兄ちゃんと、そんな若殿を支えるために、ちょこまか動く
「元気になった」こうさん。
ツボです。 ![]() |




