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秀吉が聚楽第の門の落書きに激怒して
罪なき門番を処刑したという 非情なエピソードを丁寧に描き、 やがて訪れる秀吉の暴挙、狂気、 そして豊臣政権の崩壊の『前兆』を描いていました。 北政所が 『殿下はなあんも変わとらん。 昔から冷たくて怖いお人じゃ。』 と呟くシーンはゾクっとしましたね。 京香さん、さすがの演技でした。 そして、そんな秀吉の本質を知るもう一人の人物、豊臣秀長… 『病に伏せっている場合じやないの…』 返す言葉が見つからない三成の苦悩。 月の如く兄を支えてきたこの実弟の死もまた、これから起こる豊臣家の悲劇の前兆でありました。 なかなか深みのある三谷脚本、 面白かったです。 さて、ドラマのテーマとなった、 茶々と聚楽第について、 そういえば昔書いたなあ、と思い出し、 軍師官兵衛の感想ですが、 その部分を抜粋して、改めてご紹介したいと思います。 【軍師官兵衛 跡を継ぐ者 感想】 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/67468557.html ************************************* (浅井茶々) 茶々をめぐる豊臣家の内情について、簡単に説明します。 天正15年(1587) 秀吉は京都に「聚楽第」を建てる。 これは、関白となった秀吉が、貴族として構えた邸宅であった。 翌、天正16年4月14日には、後陽成天皇が、この聚楽第へ御幸され、華々しく饗応。 その席で、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせている。 天正16年から秀吉の側室となった茶々が、懐妊した。 懐妊を喜んだ秀吉から山城国の淀城を賜った茶々は、「淀の方」と呼ばれるようになった。 天正17年、茶々が 鶴松を生む。 秀吉は、初めての嫡子である鶴松を、自分の後継者に指名した。 お世継ぎの生母として、茶々の権威が益々盛んとなる。 ところが、天正19年(1591)、わずか3歳で鶴松が夭折してしまう。 秀吉は嘆き悲しみ絶望のどん底に突き落とされた。 まだ54歳ではあったが、もはや実子は望めないと、自分の甥である秀次に関白職を譲ってしまう。 今で言う、後継者指名である。そして秀次は、聚楽第の当主にもなった。 豊臣秀次は、秀吉の姉・とも の長男で、実子のいなかった秀吉の養子となった。 織田信長と浅井長政が対立したとき、幼い身でありながら、長政の家臣・宮部継潤の元へ 人質として養子に出されている。 浅井氏が滅んだ後、奇跡的に帰還し、秀吉に従い、賤ケ岳の戦い、四国征伐、小田原征伐にも従軍し それなりの武功を上げている。 つまり、秀吉から後継者指名されるまでの秀次は、それなりの評価を受けていた人物であったのだ。 しかし、「天下人の後継者」という立場が、秀次の人格を変えてしまう。 実は、我らが官兵衛も、関白秀次と関わりをもつことになる。 文禄元年(1592) 文禄の役(第一次朝鮮征伐)で、秀吉の勘気に触れ、朝鮮からの帰国を命じられた官兵衛は、 帰国後、秀吉の命で、関白秀次の「訓導」という役目に就く。 天下人の秀吉が、老骨に鞭打って、名護屋城で朝鮮征伐の指揮に全力を傾けているというのに、 秀次は、関白という要職にありながら、京で遊興三昧の日々を送り、秀吉の居る名護屋城へ 一度も下ろうとはしない、それはどういう了見なのか? と、官兵衛は、秀次を厳しく諌めているのである。 官兵衛は、秀次の傲慢な態度に、危険を察知していたのであろう。 そして、官兵衛の悪い予感は、当たってしまうのである。 鶴松の死からわずか2年後の文禄2年(1593) 、淀は第2子・お拾(後の秀頼)を産む。 秀吉ならずとも、血の繋がった我が子を後継者にしたいと考えるのは当然だ。 (うるさい?)官兵衛が再び朝鮮へ渡った後、秀吉は、秀次の追い落としを図るようになる。 鶴松逝去で絶望したからとはいえ、一度、世継ぎと決めた後継者を、わずが2年で交代させるためには、 体面上、それなりの理由が要る。 そこで「殺生関白」という話が、まことしやかに流布されることとなるのである・・・ もちろん、茶々の後押しもあったであろう。 しかし、自身の甥っ子でただ一人の姉の息子を、追い詰める秀吉の姿もまた、異常であったろう。 おねの心労もまた、計り知れないのである。 (続きはドラマの進行に合わせてまたご紹介します) ところで、茶々の息子達であるが、秀吉の種ではなく、不義の子だという噂は 当時から密かにささやかれていた。 正妻、おね だけでなく何百人もいた(300人超えていたらしい) 側室をもちながら子供が授からなかった秀吉なのに、老齢にも関わらず、 何故か茶々だけが身ごもったというのは、できすぎた話だからだ。 また、秀頼は、秀吉に似ず、長身で(180cmもあったそうだ)、大柄色白の かなりの美男子だったことも、疑惑を助長している。 石田三成が怪しい、という声もあるが、 忠義に篤く、生真面目な三成が、よもや主君の側室に手を出すとは考えられない。 しかも若く美しい茶々は、しかしその高貴な出自ゆえに深窓の奥方であり、 秀吉の目を盗んでの不倫は容易ではなかった。 淀君に近づけた男性は、そう多くはいない。 もし不義の子であるとすれば、最も怪しいといわれているのは 大野治長 という秀頼の側近。 茶々の幼馴染でもある。 そして彼の人生を知ると、茶々との初恋から禁じられた関係、そして永久の愛を つい想像してしまう。 大野治長(大野修理亮) 1569 〜 1615年 大野治長は、茶々の乳母、大蔵卿局の子供で、近江の小谷城で育ち 茶々とは幼馴染であった。 茶々が秀吉の側室になると、馬廻衆として秀吉取り立てられ、 秀吉亡き後は、豊臣秀頼の重臣として仕えた文官である。 秀吉亡き後、徳川家康と石田三成の権力闘争に巻き込まれ 「徳川家康暗殺疑惑」の首謀者の一人として、下野国へと流罪となってしまう。 翌年、関が原の戦いでは、家康の監視下にあったため東軍につき、 上杉討伐に参戦したこで、家康より罪を許される。 しかし、豊臣家への忠節絶ち難く、また茶々への思いもあったのだろう、 家康の使者として大坂に入った後、江戸には帰らず、再び、秀頼の側近として 大坂城に居残ってしまう。 1614年11月、大坂冬の陣。 茶々の意向もあり、家康との和議を進める。 ところが相手は狸おやじの家康だ。 翌年、大坂城の堀が埋められる結果となり、治長の詰めの甘さに非難が集中する。 戦術をめぐって 真田幸村と対立したのも、この男である。 1615年、大坂夏の陣では万策が尽き、 家康の孫で、秀頼の正室であった千姫を助けることを交換条件として 豊臣秀頼と茶々母子の助命を家康に懇願している。 しかし、すでに勝利を確信していた家康はこれを拒否。 慶長20年(1616) 5月20日 大坂城内の山里曲輪で、大野治長は、秀頼、茶々とともに自害して果てた。 享年47歳。 家康への最後の懇願といい、茶々と秀頼への特別な愛を感じてしまう。 もし、秀頼の本当の父親であれば、愛する女と共に命散らすのは、本望であったのかもしれない。 おそらく、再来年の大河ドラマ「真田丸」で、必ず登場する人物です。 ************************************* 以上、抜粋でした。 ま、大野治長はあくまでひとつの説です。 ご参考程度でお読みください。 大野治長は大坂の陣の重要人物で、 真田幸村(信繁)とも因縁ある役どころ。 同じ馬廻衆ですしそろそろ登場するのかもしれませんね。 キャストは決まったのかな? でも、その前に、 名胡桃城事件、からの 小田原征伐‼️ 真田昌幸が再び主役に躍り出ます。 |
真田丸〜私的備忘録
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黒漆塗仏二枚胴 (真田信綱所用)
長野・信綱寺蔵
この、いかにも戦国らしい鎧は、 真田昌幸の長兄であり、真田信幸、信繁の伯父でもある真田信綱の鎧である。
真田信綱は、天正3年(1575)の長篠合戦で戦死した。
この鎧は、江戸時代の享保2年に、
信綱の菩提寺である『信綱寺』の墓のなかから発見されたもので、
信綱戦死時に着用していた可能性もある貴重な鎧である。
激しい戦闘のためか、損傷が激しいが、
金箔も残っており、当時天下無敵を誇った武田軍団 二十四将たる誇りを見るようだ。
昌幸と武田二十四将図〜真田丸私的備忘録
真田幸隆の嫡男であった信綱は、元亀元年(1570)年ごろに
父から家督を継承したが、
幸隆の死から1年後の1575年に、39歳で亡くなった。
長篠合戦では、幸隆の次男 昌輝も戦死しており、
そのため三男の昌幸が、真田家家督を継ぐことになったのだ。
真田信綱は武勇に優れ、武田信玄からの信頼も厚く、
昌幸の自慢の兄であった。
信綱寺は、昌幸が兄の位牌を奉じるために建立した寺で、兄弟の厚い絆を感じる。
信綱の官位は「左衛門尉」で 偶然ではあろうが、信繁と同じである。
尊敬する伯父のように強い男になりたいとの願いがあったのかもしれない。 最期、信繁は武勇を天下に轟かせて戦場に散る。 一方、昌幸の嫡子である信幸が「源三郎」なのは 真田家は長男が早死にするジンクスを忌み嫌ったからであり
その最大の要因はやはり長兄の早すぎる死であったことは想像に難くない。
(ちなみに真田信綱の幼名は、源太郎。)
昌幸の祈願が届いたのか、信幸(之)はなんと93歳の長寿をまっとうしたのである。
真田信綱は、信幸の最初の正室 清音院殿(ドラマでは、こう)の父でもある。
つまり、信幸とこうさんは、いとこ同士の夫婦である。
39歳で亡くなった信綱の遺児であれる娘を嫡男の妻とすることで
真田家の系統を守ったと同時に、亡兄の親代わりとなり、遺児を見守り育てたのだろう。
真田家の家族愛の強さは、
親兄弟が殺しあう下剋上の戦国時代にあって、より輝いて見える。
そして『真田丸』での清音院殿=こうさん と 信幸。
幼なじみのいとこ同士らしい、ほのぼのとした雰囲気に癒されますね。
こう が 年上の妻として設定されているのも、的を得てます。
「ごほごほ・・・」と病弱であったかどうかは不明ですけどw
そんな、ほのぼの夫婦に暗転が訪れる。
本田忠勝の娘 小松姫の輿入れで、
正室の座から落とされて、側室となる。
(ネタバレですが、たぶんみなさんご存じですよね?)
しかしそれは言い換えれば、側室としてでも側に居てほしいと願う信幸の愛情であろう。
そして、側室としてでも夫を支えたいと願う 清音院殿の愛情であろう。
尚、真田信幸であるが、
着用していた鎧の寸法などから185cmのモデル並みの長身であったようだ。
しかも、心穏やかなやさしい殿様で、かなりのイケメンもてもてだったのでは?と推測しております。。。。
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今回は珍しく?ドラマ『上洛』の感想を書きたいと思います。
真田昌幸の上洛の経緯を描いていたのですが、
上杉景勝による秀吉のとりなしや、上洛への昌幸の説得(ドラマでは直江)など
また、秀吉に拝謁後、駿府へ出向き、家康の与力大名になる旨頭を下げる過程まで
ほぼ史実どおりでした。そこらへんはさすが、三谷さんの脚本です!!
しかし・・・・
真田昌幸の心情についての描写は
どうも納得がいきませんでした
なぜ、昌幸が、急に「井の中の蛙」のごとき、
視野の狭い田舎武将になってしまったのでしょう?
武田が滅亡して以後、織田、北条、上杉、徳川、上杉・・と目まぐるしく主君を変え、
自ら表裏者となって真田家と真田の土地を守り抜いた男が、
急に、秀吉の傘下になることを嫌がり、
「わしはどこで間違ったのだろう?」と息子たちに弱音を吐くほど落胆してしまったのか
納得ができません。
史実でみても、昌幸が秀吉を嫌っている様子はなく
寧ろ、秀吉と昌幸間の書状のやり取りは頻繁に行われており
ホットラインがあったこともわかってます。
そして源三郎、源二郎が言っていたように、
「父上は間違っていません。真田家と真田を守り抜いたのですから。」
それこそが、昌幸の最終目的であり、
秀吉から本領安堵のお墨付きを頂いた時点で、
昌幸の「外交」戦略は、成功したと私は思っております。
事実、上田合戦で、陣中から秀吉に書状を送って援軍を要請しているのは
昌幸自身です。
そして、木曽義昌、小笠原貞慶と示し合わせ、秀吉による石川和正の寝返り工作に
加担した(と思われる)昌幸です。
真田昌幸宛羽柴秀吉書状 〜 真田丸私的備忘録10
真田信尹や井浦昌相からの情報で、秀吉の権力の拡大とその器を見込だ上で、
その秀吉にすり寄っていくことに
真田昌幸は何の躊躇もなかったでしょう。
尚、これら一連の史実は、ドラマではすべて割愛されておりました。
おそらく昌幸の上洛に合わせて、昌幸の心情を描くために、
三谷幸喜さんが、敢えて 描かなかったのでしょう。
昌幸の上洛が遅れたのは、
徳川軍からの再攻撃が100%取りやめになるまで、上田城を離れることができなかったと同時に、
「真田」の価値を高めるためのじらし作戦であったと、私は思います。
三谷幸喜さんが、家康の上洛と昌幸の上洛に5回もの放送回数をかけたのは、
真田昌幸の「老い」と、信幸、信繁への世代交代を印象付けるためだったのでしょうね。
そしてそれが、「犬伏の別れ」へとつながっていくのかもしれません。
でも、
おばば様のいうとおり、
真田昌幸は「表裏者」でありならがら、戦もめっぽう強いからこそ魅力的であり、
だからこそ、死ぬまで家康が最も恐れた男なのです。
ちなみに、天正15年3月、昌幸は上洛して秀吉に拝謁し、
秀吉の指示により、上田への帰路、駿府城に立ち寄って、家康に帰属の挨拶をしましたが、
このとき、小笠原貞義も一緒に駿府へ出仕しています。
石川和正の寝返り工作に暗躍した人物を家康の与力とするなど、
秀吉は家康を監視し、抑える意図がありありです。
この後も、家康を介すことなく、秀吉から昌幸へ直接指示を発しています。
例えば、小田原攻めの際、真田軍は徳川配下ではなく、
前田、上杉軍と共に、「北国口軍」の一翼を担っていました。
また、先ほども触れましたが、
秀吉から昌幸への書状が数多く残されているにも関わらず、
家康に出仕して与力となったはずなのに、
家康から昌幸あての書状は全く見つかっていません。
これらの状況から
家康の与力大名というのは形だけで、
実質は、秀吉の直臣扱いであったと言えるでしょう。
昌幸の家康の出仕前の、天正15年2月30日付
秀吉→昌幸への書状は、
信濃における武力による領地争いの停止を命じており、「惣無事令」の先駆けとも言えます。
内容は、
「家康も秀吉に人質を入れ、如何様にも秀吉次第だから、信州も関白秀吉の存念次第だと
よく心得て、矢留せよ。」と命じています。
すなわち、信濃での戦闘を固く禁じ、家康も秀吉の配下であることを強調して
ある意味、真田昌幸の顔を立てているといえるでしょう。
さて、家康、昌幸の上洛後、真田丸はどうなるのでしょう?
秀吉の天下統一事業としては
天正13年、四国平定 (真田家に無関係のため完全スルーされておりましたww)
天正15年に九州平定、
天正16年、北条氏の上洛に伴い、「沼田問題」が再びクローズアップされます。
天正17年、名胡桃城事件が勃発します。
天正18年、小田原攻め
天正16年までは、真田家のホームドラマ(コメディ)になるかな?
小松姫の輿入れもそろそろのようです。
信幸とこうさん夫婦も、ほんわかして好きだったので、
陰ながら夫を支えるこうさんの心情を思うと、もうはやくも複雑な気持ちになります。
尚、名胡桃城事件前後からは、
秀吉から真田信幸への書状も増えてきます。
すなわち、豊臣政権下におけるお兄ちゃんの存在感が増してきている証拠です。
これら秀吉から昌幸、信幸への直筆の書状の多くが真田宝物館に保管されており
関ヶ原後に、真田家が「家宝」として密かに守り抜いた書状でした。
真田信幸も、父のDNAを受け継いだ真の「表裏者」であったのでした。
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「再会」は、
信繁と姉 まつとの再会
旭姫と大政所との再会
そして秀吉と家康の再会・・・!
にしても、
上田合戦後、天正14年から15年にかけての家康と昌幸の上洛をとことん引っ張りますね!!!
いやはや、さすが三谷幸喜さん。
以前も書きましたが、きっと昌幸の上洛は1回だけで詳細はスルーされ、
すぐに胡桃城事件へと物語は突き進んでいくと思っていたのですが
あれから4話を費やしても、
まだ昌幸は上洛してません
![]() ![]() 天正14年から15年の
康上洛と真田攻めの問答は、史実として書状も多く残っており
ヲタク的にはとても興味深く、
個人的には、秀吉、家康、上杉景勝、真田昌幸の心理戦ともいうべき
外交駆け引きが超面白い
と思っていただけに、三谷脚本のこのこだわりが本当にうれしいです。
一連の上洛の駆け引きですでに4話も消費しており
これから、胡桃城事件、小田原征伐、北条氏の滅亡、伏見城普請、信幸&信繁の婚礼、
秀頼の誕生、朝鮮出兵、秀次の死 etc ...
と関ヶ原まで山のように事件が待ち受けているというのに、
ここで4話も使ってしまって、いいのか?大丈夫か?
と逆に心配になるくらいです。
漏れ聞こえてくる情報では、
な、なんと小田原攻めで「忍城攻め」を撮影中だとか・・・!
ああなんてことでしょう。
【のぼうの城】として一躍有名になった「忍城の水攻め」が、大河ドラマでがっつりと描かれるのは
おそらく初めて? なのではないでしょうか?
ちなみに、真田昌幸、信繁父子が援軍として三成のもとに駆け付けております。
この忍城攻めで、『三成の戦下手』を目の当りにしたはずの真田昌幸が
なぜ関ヶ原で三成の誘いに乗ったのか・・・?
そのあたりの考察から、
犬伏の別れは「真田家の陰謀」ではないか、と個人的に思っているのですが、
ドラマではどう描くのでしょう??
NHKだし、無難な展開なのか?
いや三谷幸喜さんだから、ひねりを加えてくるのか、
今から楽しみでしかありません。
つか、関ヶ原の後は九度山配流、そして大坂の陣と
さらなるクライマックスを控えてるし、
「真田丸」で2年でも3年でもかけてほしいと、ひそかに願うくらいです
きっと、天正14年の、秀吉、家康、上杉景勝、真田昌幸の駆け引きを
じっくりと描くことで、今後の展開におけるキーマンのキャラクターを
視聴者に植え付けるつもりなんでしょうね〜〜。
『新選組!』でも、多摩時代や上洛までの経緯に前半のほとんどを使い
隊士の個性をしっかりと描ききってから、後半の悲劇へと突入していきましたね。
キャラが固定すれば、
キャラが勝手に動き出す。
三谷さんの手法は、今回もさえわたっているように思います。
閑話休題・・・
前回の「再会」ですが、
家康の上洛までの経緯を、これまた史実に忠実に、かつユニークな脚色を施して
描いてました。
特に、秀吉の妹、旭姫w
清水ミチコさんの怪演が光ってました!
史実については、
以前、「軍師官兵衛」の感想文で紹介しておりますので、
その部分を抜粋して、再掲載させていただきます。
軍師官兵衛 第35回「秀吉のたくらみ」
天正14年、家康上洛での「秀吉の陣羽織」のエピソードは史実です。
家康が秀吉に謁見する前夜、密かに家康の部屋を訪れた秀吉は、家康に「わしに頭を下げてくれ」と懇願し、
二人で一芝居うったのでした。まさに、猿と狸の化かしあい・・・
尚、秀吉が家康の上洛を促すため、妹と母親を人質として差し出したのも、史実。
このエピソードはドラマとして描かれていませんでしたが、興味深いので簡単に補足しておきます。
天正14年、秀吉の妹、旭姫が人質の正室として輿入れしました。
旭は44歳は家康45歳。熟年同志の政略結婚でした。
面白いのは、家康は旭姫を飾り物の正室として扱ったのではなかったことです。
大切にしたと伝わっています。
家康には数多くの側室がいましたが、高貴な女性好みの秀吉とは違い、 身分の低い女性や、年配の側室も多く美人好みでもなかったようです。
実は旭には、長年連れ添った夫がおりました。
副田甚兵衛(もしくは、佐治日向守)という、橋にも棒にもかからない平凡な男でしたが、
夫婦仲は良く幸せに暮らしていました。
ところが、秀吉により無理やり離縁させられ、その後の消息は不明です。
突然の離縁という上意に怒り、秀吉からの加領の申し出を断わり、切腹したとも言われています。 夫の悲惨な末路に、旭姫は嘆き悲しんだことでしょう。
ところが、旭を輿入れさせてもいっこうに上洛してこない家康の煮え切らない態度に、
とうとう秀吉が人質としてさしだしたのが生母の大政所。 秀吉は親戚縁者が少なく、これが豊臣家の政権上の最大の弱点でありました。
秀吉とおねの間には子がいないだけでなく、弟の秀長や旭にも子がいませんでした。
人質として切れるカードが少ないため、実の母親を人質として差し出すという苦渋の決断をしたのでした
母親思いで有名な秀吉が、まさか・・・? 「大政所の替え玉ではないか?」と疑う家康は、旭姫にまずあわせ、その反応確かめたのです。
浜松で対面した母娘は、しかと抱き合い尾張弁で声を掛け合い涙を流していました。
家康は、本物の大政所だと判断し、そこまでするなら、と上洛を決断したのでした。
寺尾聡さんの、家康ぶり。だんだんと本性を現してきましたね!!
天下一の弓取りと呼ばれるほどの戦上巣な上に、権謀術にも長けており、
我らが官兵衛が、彼がもつ叡智のすべてをかけて、人生の最後に覇権を争った男です。
竹中秀吉 vs 寺尾家康の駆け引きも、これからの見所です。 ところで
真田信繁(幸村)が、秀吉の馬廻りとなったのは史実か否か?
じつは不明です。
しかし、多くの小説で、幸村は秀吉の馬廻り衆として描かれております。
それは、田舎武将の次男坊でしかない幸村が
やたらと三成と懇意になり、さらに豊臣政権の奉行である大谷吉継の娘を正室として迎え入れており、
秀吉からは、豊臣姓をもらって官位を与えられるなど、
秀吉とその側近に相当気に入られていることがはっきりと確認できるからです。
最初は 大坂城へ人質として預けられた幸村が
秀吉の身近でお仕えできる職種としての「馬廻り衆」着任は、
100%史実とは確認できないけれども、かなり説得力があると言えるでしょう。
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大河ドラマ「真田丸」で
大泉洋さん演じる悩める兄源三郎信幸が、
自由奔放な父や弟の替わりに、家族を見守る優しさが秀逸だ。
前々回で、弟信繁の娘「すへ」と堀田作兵衛に話しかけて
「自分の乳をすわせている」と屈託なく語る作兵衛に
「乳はやめておけ・・・」とちょっと困ったような顔をして答える信幸のシーンは
いかにも三谷幸喜さんらしいペーストとユーモアのあふれるいいシーンだった。
いや、「すへ」はお梅ちゃんの替わりに「私が育てる!」と断言してたじゃないか?きりさん
![]() しかもきりは源二郎に夢中で、華やかな大坂城で楽しそうに暮らしているし・・・
長澤まさみさんが悪いわけではなく、
あえて「うざい」キャラに設定されてしまっているのでしょうね、きりさんは。
高梨内記の娘(ドラマでは、きり)が、真田信繁(幸村)の側室の一人になることは史実であり
高梨内記が真田昌幸の側近中の側近であったことから、信繁とは幼なじみであっただろうこともたぶん本当で、
さらに内記が昌幸に従い、高野山九度山に落ちていっていることから、
きりが信繁に最後まで寄り添った女性であるとの設定も、間違いではなく・・・
つまり、三谷さんは史実からキャラを膨らませていることは、理解もしておるのですが、
でも戦国ヲタクの許容範囲を超えすぎているのですよねあの立ち居振る舞いが
![]() いえいえ、、もうグチは言いません
きっと、あの「うざキャラ」にも回を追うごとに慣れてくるだろうと、自分を信じております。
さて話をもとに戻しますが、
ドラマで堀田作兵衛の乳をすって
大きくなっている信繁の娘「すへ」。実は、女性では珍しくその名も存在も確認されている実際の人物(少女)である。
ここからは、ドラマ大坂の陣に関する「ネタバレ」もあるので、
もし読みたくない方は、ご注意くださいませ。
真田信繁(幸村)には、大谷吉継の娘と正式に結婚する前に
侍女であったとみられる女性との間にできた娘がいた。
名前は「すへ」。
すへは母(ドラマでは梅)の兄(父という説もある)で、
真田家の家臣であった堀田作兵衛の養女となり、
その後、上田領内長窪(現、長和町)に住む石合十蔵のもとへ嫁いでいた。
関ヶ原合戦で失脚した昌幸、信繁の替わりに
おそらく真田信之が取り持った縁談であったと推測される。
なぜ、「すへ」の存在が確認されているのかというと、
離れて暮らす娘の身の上を案じる信繁の自筆の書状が残されているからだ。
これがその書状である。
石合十蔵宛 真田幸村(信繁)自筆書状
慶長20年2月10日 石合知子氏蔵
【訓読】
父子事御安事(案じ)、作兵衛方迄御尋ね尤もに候。
我等篭城の上は必死に相極め候間、此の世にて面識はこれ有る間敷く候。
何事もすへこと心に叶はざる義候共、
御見捨てこれ無きように頼み入り候。
委しくは惣右申すべき候。 謹言。
二月十日 真左衛門佐
石合十蔵殿
【背景&解説】
すへの夫、石合十蔵は、幸村とともに大坂城に篭城中の堀田作兵衛宛てに、
真田信繁(幸村)と大助父子を案ずる書状を送ってきていた。
その手紙を知った幸村は、娘婿に直接返事を書いていたのである。
「必死の覚悟で篭城中の故、此の世でもうお会いすることもないでしょう。
ただどうしても娘の「すへ」のことが気がかりですので、どうかお見捨てならないよう頼み入ります。」
短い手紙であるが、決死の覚悟と娘の身を案じる親心がしみじみと伝わってくる書状である。
尚、この書状でも明らかだが、
堀田作兵衛は、上田領内から大坂城の信繁(幸村)のもとに馳せ参じていることがわかる。
作兵衛以外にも大勢の家臣達が、幸村の呼びかけに応じて、上田から駆けつけていた。
すへの娘婿である石合家の「申伝書」によると、50騎もの家来が信州領内から馳せ参じたという。
真田信繁(幸村)の人望、人柄、誠実さを物語る重要な書状であり
おそらく、大河ドラマ「真田丸」の後半でも描かれるであろう、重要なエピソードと思われる。
ドラマを見ながら、この「すへの乳吸い」の場面が、
伏線になってくるのではないか?と三谷脚本に期待しつつ、今回、取り上げた次第である。
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大きくなっている信繁の娘「すへ」。

