|
6月2日 朝日新聞朝刊社会面(31ページ)で当ブログ
「ゆーくんはどこ?」が紹介されました。
【温故知新 白村江の戦い】として組まれた特集記事で
最古の集団的自衛権としてネットでの反響などを報道されています。
この記事の中で、
私が2013年1月10日にUPした「白村江の戦い」を取り上げて頂いたのです!
先週、朝日新聞社会部の記者さんから取材の問い合わせを受けたときは
正直驚きました。
皆様ご存知のように、吹けば消えそうな細々ブログの、1年半も前の記事が、
朝日新聞社会面の特集記事で紹介されるのは、
気恥ずかしい反面、やはり、嬉しい気持ちで一杯です。
こちらが、該当記事です。
【白江村の戦い】
今読み返しても、コテコテの古代史オタクぶり満載ですね
膨大な情報が秒単位で流れるネットという大河のなかで、
砂粒のような「白江村の戦い」という記事を拾って頂き、光を当てていただいた事、
朝日新聞さんには、心より感謝申し上げます
そして当ブログのモットーは
「歴史オタク&ミーハーであり続けること。」
政治経済文化を高尚に語るよりも、自分の気持ちは伝わるはずですから。
今後とも、「ゆーくんはどこ?」をよろしくお願いいたします。
PS
佐藤達弥記者さま、ありがとうございました
|
歴史の扉 古代史2
[ リスト | 詳細 ]
|
先週の日曜日(10/27)奈良国立博物館 「正倉院展」へ行ってきた。
今回で9年連続。
昨年、正倉院デビューした息子も、もちろん一緒だ。
第65回 『正倉院展』
奈良国立博物館
平成25年10月26日(土)〜11月11日(月) 全17日
午前9時〜午後6時
すっきりと晴れた秋の奈良公園を抜けて、会場についたのは11時過ぎだった。
毎年入館するだけで約1時間ちだったが、今年は待ち時間なしで入館できた。
9年間で待ち時間ゼロは初めての奇跡だ!
前日の台風で出足が鈍っているかもしれない。
待ち時間対策のためわざわざDS持ってきたのに、ゲーム好きな息子はちょっと拍子抜けだったようだ。
でも、おかげでゆっくりと観て廻れる。
今回も 親子で「音声ガイド」を借りる。1台500円X2 の出費だが、
丁寧な解説と、なによりも息子の食いつきが違う。
音声ガイドの機械が、新品に替わっていた。
デジタルで使い易く、小学生の息子も、すんなりと操作できていた。
今回の出陳品は、合計 66件 (北倉11件、中倉26件、南倉26件、聖語蔵3件)、うち初出陳16件
毎年毎年、全く違う宝物が出品される。しかもすべてが国宝以上の『御物』。
価値などつけられない皇室の財産、日本国の至宝である。
1300年間、正倉院で大切に保管し管理し続けた東大寺僧侶達の、
勤勉さ誠実さがにただただ頭が下るのみだ。
尚、正倉院展に出陳される宝物は宮内庁正倉院事務所によって選定され、
一度出陳された宝物は10年間は出陳しない慣例がある。 それでは、今回も個人的にとても感銘をうけた『宝物』をPICK UPし、簡単にご紹介したい。
平螺鈿背円鏡 [へいらでんはいのえんきょう]
螺鈿飾りの鏡 (北倉42 ) 「北倉」は、主に聖武天皇、光明皇后ゆかりの品が収められ、正倉院の中でもとりわけ価値が高い。
この鏡も北倉に保管された聖武天皇のご遺愛の品で、螺鈿や琥珀で背面を飾った美しい鏡である。
歴史の教科書などで一度は目にするような、正倉院を代表する至宝の一つである。
間近でみると、唐花文に4羽の鳥がとまる可憐なデザインで、
小鳥の姿が、とにかくキュートであった。
可愛い図柄なので、むしろ女性好みに思えるが、
実は、聖武天皇は繊細で、現代でいうところの「草食系男子」。
美しく可憐な身の回り品も数多く愛玩され、
そんな繊細な夫を、優しく守る姉御肌の光明皇后との夫婦愛を想像して心が癒される。
ちなみに、背面を飾る夜光貝、鼈甲は東南アジア産、琥珀はミャンマーあるいは中国産、トルコ石はイラン産、
ラピスラズリはアフガニスタン産だと考えられ、シルクロードの終点である国際都市・奈良の都を象徴している。
尚、正倉院には56面の鏡が伝わっており、内、螺鈿細工の鏡は9面あった。
しかし鎌倉時代の寛喜2年((1230)に盗難に合い、北倉の鏡 8面が持ち出された。
犯人はまもなく逮捕され、鏡を粉砕し東大寺大仏殿の小社に隠したことを自白した。
特に平螺鈿背円鏡の被害は甚大で、もと7面のうち5面が割られた。
粉々に砕かれた1面を除き、4面は破片を接続して補修したものである。
今年出陳された平螺鈿背円鏡は、盗難被害から免れた奇跡の一面であるが、
隣には鎌倉時代に割られてしまった同種の鏡や、
明治時代に修理された鏡も一緒に出陳されていた。
鎌倉時代に砕けた鏡の破片を見ながら、北倉に侵入した賊と、憲兵か東大寺僧兵の大捕り物を
アニメ的に妄想してしまった・・・。
鳥毛帖成文書屏風 [とりげじょうせいぶんしょのびょうぶ]
(鳥毛文字の屏風) 2扇 (北倉42 ) この屏風も北倉に納められており、聖武天皇が手元に置かれていた屏風の一つ。
6扇2扇で一つの屏風を構成していたうちの今回は第1扇と第4扇が出陳される。 じつは、2009年の第58回 正倉院展で、別の2扇をこの目で見ている。
残りの2扇を観れば、6扇全て拝見したことになる!(壮大なスタンプラリーだ
写真をご覧になれば、よりはっきりするが、
奇数の扇は緑青を塗り、偶数扇は丹(だいだい色)に塗られている。
文字は楷書で、日本のキジの羽毛が文字からはみ出ないよう、キレイに張られていた。
青緑と朱色の屏風に羽毛の楷書が交互に6面並んだ屏風・・・!
実に豪華で華々しく、王家に相応しい。
内容は四言四句からなる漢文で、文章は君主の座右の銘。
(第一扇 青緑) 【種好田良易以得穀 君賢臣忠易以至豊】
種がよく田がよければ実りが多い。それと同じように君子が賢く忠義であれば国は豊かになる
(第四扇 朱色) 【父母不愛不孝之子 明君不納不益之臣】
父母は親不孝な子供を愛しはしない。それと同じように明君は益のない家臣を受け入れたりはしない
第一の句は納得だけど、第二の内容には賛同しかねるなあ。
どんな子供も可愛いし、時に耳の痛いことでも忠義の心を以て諌言してくれる家臣こそ、大切。
聖武天皇の側近は YESマンばかりだったのだろうか。
この屏風を前に、漢字大好きな息子は「父母不愛不孝之子」を訓読みし、
周りから「おお〜すごいね〜」と誉められた
すっかり調子づいて、それ以降、出典品解説文も、頑張って読み出した
いいね、いいね〜。きっかけは何であれ、歴史好きになってほしいものだ。
そして、今回の目玉宝物!!
漆金薄絵盤 [うるしきんぱくえのばん]
(香印坐[こういんざ]) 1基 (南倉37 ) 23年ぶり二度目の出陳だそうだ。
間近で拝観するために、20分待ちの行列になっていたが、このチャンスを逃せば
もう10年は絶対に見られない。有無を言わせずに最後尾に並んだ。
南倉宝物であるが、ここには仏具類のほか、東大寺大仏開眼会(752年)に使用された物品なども
納められている。
仏像の蓮華座のような形をした木工品。
岩形の基座の上に華麗な蓮弁を配置し、盆状に作った蓮肉をのせている。
蓮弁は黒漆を塗り、外側は金箔を押し、蓮弁一枚一枚に、美しい彩絵が描かれている。
唐花文や迦陵頻伽(かりょうびんが)、花喰鳥(はなくいどり)、鳳凰、鴛鴦(おしどり)、獅子などが
繊細な筆致で、まるで曼荼羅のように描かれていた。
奈良時代の人々の、グローバリズムに長けた恐ろしいほどのセンスの良さに簡単するのみであった。
いや、平成の今でも、この器のデザインは、世界に通用するであろう。
何より、極彩色溢れる木工品を、当時の色艶のまま、保管し保存することの勤勉さを思わずにはいられない。
奇跡のようで奇跡ではない。
正倉院宝物を守った東大寺の人々は、日々綿々と地道に宝物を守り続けたのだ。
尚、岩座の裏面に「香印坐」という墨書があり、仏前に供える香具の台座であったことがわかる。
同じ香具のレプリカで実際に御香を作成した実験のパネルも展示されており、
恐らく7〜8時間は、お香を焚きつづけられたそうだ。
尚、漆金薄絵盤は甲・乙2基あり、今年出陳される品は甲。
乙は平成5年に一度出陳されているそうだが、それでも20年前だ。
一期一会、これこそ観るなら、「今でしょ!」
花喰鳥刺繡裂残片 [はなくいどりのししゅうぎれざんぺん]
(花喰鳥の刺繡の残片) 1片 (南倉185) これも、驚くほど美しい刺繍であった。
洋裁品なので、女性の関心が高く、その出来栄えの素晴らしさに皆、感嘆の声を揚げていた。
私も同じだ。
花枝を銜えた鳳凰を刺繡した裂(きれ)の残片。
鳳凰は唐花(からはな)の上で片足立ちをし、大きな尾羽を立ち上げている。
散花(さんげ)と蝶が配され、輪郭やくちばしに金糸、銀糸が用いられており、
天平時代を代表する、非常に華麗な刺繡裂である。
写真ではその華やかさと、超絶な刺繍テクが分かりにくいのが残念だ。
そして毎回関心するのは、ファブリックの鮮やかな色や艶が、1300年の時を経ても、
まったく損なわれていないことだ。
しかもこの端切れ、昭和50年(1975)に染織品整理中の唐櫃から発見されたという。
正倉院は、時空を越えたワープスポットでもあるんじゃないだろうか・・・
投壺 [とうこ]
(投げ矢の壺) 1口 (中倉170)
一目みて
「はくしょん大魔王
銅製、鍍金(ときん)の壺。下膨れの胴、両耳を付けた長い頸(くび)が特徴的なエキゾチックな壷である。
魔法の壷でも、酒壷でも、花瓶でもない。
これは、 古代中国で「投壺」と呼ばれた、宴会ゲーム用の壷なのだ。
離れた場所から壺に向かって矢を投げ入れ、その優劣を競い、負けたものは一気飲み!
「投壺」用の矢・ 投壺矢 も一緒に展示されていた。 先が矢じりではなく、丸くなっていた。 なんだかとっても面白そうだ。
そして 出陳品の最後を飾るのは、毎年恒例の『正倉院古文書』
漢字大好きな息子も、ところどころ読んでいた。
・・・・つうか、子供でも完璧に読み取れるほど、美しい文字である!
「文字がきれい」ということは、長所であり、当時はそれだけで出世の武器になったのだろう。
弘仁二年勘物使解 [こうにんにねんかんもつしのげ]
(宝物点検の記録) 1巻 (北倉164) 弘仁2年(811)9月に正倉院宝庫の宝物を点検したときの報告書。
平安時代初期は宝物の出入蔵が多く、点検記録は当時の宝物の状況を知る上で貴重な史料である。 今回出陳された、鳥毛帖成文書屏風や平螺鈿背円鏡の名前も挙げられていた。
いつ誰に貸し出して、いつ返却されたか、しっかりと記載されていた。
身分の上下など関係なく管理することで、横流しや横領から天下の至宝を守りぬいたのであろう。
続々修正倉院古文書 第三十八帙 第八巻[ぞくぞくしゅうしょうそういんこもんじょ]
(神宮内宮の建物の飾金物に関する書類など) 1巻 (中倉20) 当時は大変貴重であった多種の文書の裏紙を貼り継いで一巻(14紙)としたもので、
そのうち、7紙目から10紙目にかけて大神宮飾金物注文が記されている。
○○三枚、とか、▲▲口 など・・・実に細かい。
これは天平神護2年(766)の遷宮に向けての準備に関わる史料とみられ、
現代まで綿々と続く、伊勢神宮の『式年遷宮』について確認できる最古の文章だといわれているそうだ。
日本人の小まめで几帳面な性格だけでなく、
現代人が忘れてかけている「物を大切に使う」事の大切さを、教えてくれる。
面白いと思ったのは、
続修正正倉院古文書 第二十三巻
[写経生の借銭申請書を収めた巻」 (中倉)
これは官営の写経所で働く下級役人(写経生)が、写経所から借金をした際の「借用書」である。
月の利率は十三文か十五文で、担保まで取っていた。
当時の担保としては布が多く、ほかには土地、建物、衣服などがあったようだ。
天平時代にも、満田銀次郎や半沢直樹がいたのかもしれない。
古代に生きた一般庶民の、リアルな暮らしぶりが伺える古文書である。
すべての出陳品を見るだけで2時間。
しかし、まったく飽きない。
西新館1階ホールで、図録(1200円)とグッズを購入。
これも毎年の楽しみ!
今年は、漆金薄絵盤にちなみ、「古代のお香セット」を購入。
あと、ハンドタオルやブックカバーなども一緒に買った。
正倉院宝物はデザインが優れているのでグッズになっても、どれもお洒落で素敵だ。
そして奈良公園で、鹿せんべいを買って、息子は鹿と触れ合う。これも昨年と同じコース。
天気もよく、散歩に最適であった。
難しい漢字が読めるようになったため、息子も昨年よりは、関心が高かった。
歴史を通じて、人の生きた息吹や感情を感じ取って欲しい。
正倉院宝物は、シルクロードの終点であったわが国が、中国大陸や朝鮮半島との濃厚な文化交流を得て、
煌びやかで国際色豊かな、天平時代を築き上げたその躍動感を、直に現代へと伝えてくれる。
人は一人では生きていけないように
国もまた隣国との交流や助け合いで文化や経済を発展させることができるのだ。
そして、わが国独特の、繊細でセンスがあり超絶美しい至宝の数々が生まれたのである。
今こそ、正倉院至宝の美しい輝きの意味を考える時ではないだろうか。
期間は、11/11 まで。お時間のある方は是非。
9年も通った証として、過去記事を列挙します。
来年は10周年・・・
2005年 第57回 正倉院展 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/17025914.html
2006年 第58回 正倉院展 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/43726857.html
2007年 第59回 正倉院展 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/53215344.html
2008年 第60回 正倉院展 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/58726598.html
2009年 第61回 正倉院展 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/63008868.html 2010年 第62回 正倉院展 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/64061931.html
2012年 第63回 正倉院展 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/64906984.html
2013年 第64回 正倉院展 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/65667585.html
|
|
NHK大型時代劇 阿弖流為という名前が朝廷側の史料で登場するのは、たった2回。 ドラマの後編は、その2度目にあたります。 それは、坂上田村麻呂が征夷大将軍として出陣した、第三回目の丹沢遠征にあたります 記録に残っているのは、平安時代に編集された『日本記略』という歴史書ですが、 正史に準じる一級資料です。 この史料に記された史実をご紹介してから、ドラマ後編の感想を述べたいと思います 残された史料の原文を記載します。 【801年 延暦20年9月27日】 征夷大将軍 坂上宿禰田村麻呂らもうす。 臣聞く、云々。夷賊を討伏せり。 【802年 延暦21年4月15日】 造陸奥胆沢城使 陸奥出羽按察使従3位 坂上宿禰田村麻呂等言す。 夷大墓公'''阿弖流為'''、盤具公'''母礼'''等種類500余人を率いて、降る。 【802年 延暦21年7月10日】 造陸奥胆沢城使 田村麻呂来る。夷大墓公二人並び従ふ。 【802年 延暦21年8月13日】 '''夷大墓公 阿弖流為'''、'''盤具公 母礼'''らを斬る。 この2虜は、並びに奥地の賊首なり。 二虜を斬る時、将軍ら申して曰く、この度は願いに任せて返し入れ、その賊類を招かんと。 しかして公卿執論していう。野性獣心、反復定まりなし。たまたま朝威に縁り、この梟師を獲たり。 もし申請に依り、奥地に放還するは、所謂虎を養いて患いを遺すなり。 即ち両虜を捉えて、河内国杜山に斬る。 上記の経緯と概略を説明します。 延暦13(794)年正月 大伴弟麻呂は桓武天皇から節刀をたまわり、胆沢遠征に出発。(第二回丹沢遠征) このとき、副将軍として坂上田村麻呂も出陣しました。 日本略記の内容から、遠征軍の実戦部隊の総指揮官は田村麻呂だったことがわかります それなりの戦功を揚げた田村麻呂は6月、10万の遠征軍が蝦夷を下したと、京に報告しました。 しかしそれでも阿弖流為ら胆沢軍は落ちません。 延暦16年(797) 11月5日 坂上田村麻呂は征夷大将軍任じられます。 4年の準備期間を持ち、満を持して、延暦20年(801)2月 第3回胆沢遠征に出発したのです。 ところが合戦の詳細は一切不明です。 同年9月27日、田村麻呂が「夷賊を討伏す」とあるだけです。 ただし、遠征軍は胆沢を落とし、更に「閉伊地方」(現在の久慈・閉伊地方)にまで軍を派遣し、 ほぼ蝦夷を平定したと推測されます。(『日本後紀』弘仁2年12月13日条)。 翌、延暦21年(802) 1月9日 田村麻呂は胆沢城造営のために3度蝦夷へ向かいました。 そして・・運命の時を迎えます。 延暦21年(802) 4月15日、 夷大墓公 阿弖流為、盤具公 母礼 等種類500余人を率いて、降る。 胆沢城造営中の田村麻呂の元へ、阿弖流為、母礼らが蝦夷兵500余人を率いて投降したのです。 そして同年 7月10日 田村麻呂は阿弖利為と母礼を伴い京へ凱旋したのです。 阿弖利為と母礼の処分は裁判に掛けられました。 その裁判の席で、田村麻呂は 将軍ら申して曰く、この度は願いに任せて返し入れ、その賊類を招かんと。 「蝦夷の人々の恭順、馴化には、二人の協力が不可欠だ」と、 阿弖利為と母礼の嘆願を申し立てたのです。 田村麻呂は、エミシ、蝦夷と差別し蔑んだ異国人を「人」として認め、 国の為、故郷のために投降した、阿弖利為と母礼の命を請い、 この二人とともに蝦夷の復興をすべき、と朝廷に願いでたのです。 当時の人々も、田村麻呂のこの嘆願に、驚き、心を動かされたのでしょう。 丹沢合戦の詳細はまったく触れていませんが、阿弖利為と母礼の投降から、処刑にいたるまでをしっかり記録しているからです。 とはいえ、田村麻呂の嘆願はあえなく却下されてしまいました。 「野性獣心、反復定まりなし。奥地に放還するは、所謂虎を養いて患いを遺すなり。」 蝦夷の人々を野獣呼ばわりし、 嘆願に従い国へ返せば、叛乱は繰り返す、と処刑を命じたのです。 そして、京から河内国杜山に送られた後、 8月13日、阿弖利為と母礼は処刑されたのです。 ドラマでは、長引く戦争のため、自然が破壊され また、多くの戦死者を出したことで人の心もすさんでいく様が描かれていました。 自然の荒廃により食糧難に陥った事も痛手であったでしょう。 これ以上の戦争は不毛だ・・・ 蝦夷の人々を守るために、阿弖利為は陸奥国への移民を決断するのです。 そして盟友・母礼と共に、田村麻呂の元へ投降したのです 田村麻呂の人格と器を見込んで、阿弖利為は京へ行くことを願い出ます そして自ら帝に「なぜ蝦夷を憎むのか?」と問いたいと・・・ 我らがなにをしたのか? 何故、土地を追われ故郷を焼かれ家族を失わなければならないのか? と。 しかし、逆賊人として入京した阿弖利為と母礼への仕打ちは冷たいものでした。 田村麻呂の嘆願も却下され、帝の謁見などあろうはずもなかったのです。 処刑が決定した日、 田村麻呂へ「われの問にたいする答えはいつになる?」と問うアテルイに 高島政宏さん演じる田村麻呂がまったく無言で去っていったのが印象的でした。 征夷大将軍といえども、所詮は官僚。 弱者への思いやりはあっても、それを実行する難しさを、ある意味冷酷に描いていたからです。 蝦夷討伐に心血を注いだ桓武天皇ですが、阿弖流為と母礼が処刑された2年後の延暦23年(804年)、 藤原緒嗣が「軍事と造作が民の負担になっている」と論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため、 征夷は中止になってしまいました。 阿弖流為と母礼の処刑で桓武天皇の熱も醒めたのでしょうか・・・ そうであれば、阿弖流為と母礼も無駄死にではなく、故郷を守ったことになります。 せめてそう思いたい。 アテルイは故郷の人々に 「故郷を忘れないで欲しい、そしていつか必ず戻ってきて欲しい」と祈りながら死んでいきました。 涙がとまりませんでした・・・ 権力者によるマイノリティー差別、蹂躙は、古今東西消えることはありません。 平成の日本にも、差別問題は深く根を下ろしています。 そして世界各地で勃発する領土問題や侵略戦争も・・・ 古代史にほんの数行しか登場しない蝦夷の人々の物語ではあれども、 阿弖利為と母礼、そして坂上田村麻呂の姿に、普遍の人間性を観ることができます。 このドラマは、俳優の熱演もさることながら、 ほぼ、オールロケだったことに、感激しました。 夏の合戦なのに、息が白かったのはご愛嬌でしたが・・(苦笑 それは、このドラマの鍵が、東北の雄大で深い自然だから、なのでしょう。 自然と寄り添って生きることに、震災後の東北復興の鍵もあります。 「アテルイ伝」は時代劇でありながら、今の日本を映す壮大な人間ドラマでありました。 たった4時間ではあまりにももったいない! このスケールは「大河ドラマ」にぴったりです。 大沢・阿弖利為と 北村・母礼 で是非ともリピートして欲しいです! ちなみに、阿弖利為と母礼の最期の地とされる河内国杜山ですが、 河内に杜山という地名はなく、未だ特定されていません。 ただ、枚方市宇山にかつて存在した塚と、その近くの片埜神社の旧社地に存在する塚を、 それぞれアテルイとモレの胴塚・首塚とする説があり、2007年(平成19年)3月に「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑が作られました。 アテルイにはまった頃、片埜神社付近まで塚を捜しにいったことがあるのですが、 当時は石碑もなく、結局見つけられずに帰ってきたことがあります 今度こそ御参りに行きたいです! 尚、「アテルイ伝」ですっかりファンになった大沢たかおさんが、 NHK BSプレミアムの再登場されます! 大沢たかお 神秘の北極圏 第一夜 2013年4月13日 (土) 午後9時〜11時 第1夜「奇跡のオーロラ大爆発」 第二夜 2013年4月20日 (土) 午後9時〜11時 第2夜「幻想の夜明けブルーライト」 NHK&大沢さん蜜月! もしかして大河ドラマ主役も期待できるかも・・・?
|
|
NHK大型時代劇 素晴らしいドラマでしたね! 録画を何度見直しても、感激してしまいます 感想を書こうと思い立ったものの、 やはりアテルイについて史実をしっかり調べてからにしよう、と、 あれこれ資料を漁っておりました。 阿弖利爲と母礼への礼儀だという思いもあります。 とはいえ、阿弖流為という名前が朝廷側の史料で登場するのは、たった2箇所。 『続日本紀』、『日本紀略』登場します。 まず『続日本紀』(延暦8年6月3日)原文をご紹介します。 長いですが、朝廷と蝦夷の戦の模様が、かなり詳細に描かれています。 '''『 続日本紀 』''' 【776年 宝亀7年11月26日】 陸奥軍3000人を発して胆沢の賊を伐つ。 【789年 延暦8年3月9日】 諸国の軍、陸奥多賀城に会し、道を分け賊地に入る。 【789年 延暦8年5月12日】 征東将軍に勅して曰く、比来の奏状をかえりみるに、官軍進まずなお衣河に滞るを知る。 もって去る4月6日の奏にいふ。 3月28日官軍河(衣河)を渡り営(たむろ)を3處に置く。その勢い鼎足の如し。 それよりこのかた30余日を経るにいまだ審(つまびらか)にせず、何の事故によりてこれ留連(逗留)いたす。居して進まず、未だその理を見ず。 それ兵は拙速を貴ぶ。未だ巧遅を聞かず。また、6・7月は計るに応に極熱すべし。 如今入らずば恐らくその時を失わん。その時を失はば悔いても何の及ぶところあらん。 将軍ら機に応じて進退して、更に間然なかれ、ただ久しく一處に留まり日を積み、粮を費やす。 朕の恠(あや)しむ所、ただこれにあるのみ、宜しく滞る由し及び賊軍の消息をつぶさに駅に付し奏来るべし。 【789年 延暦8年6月3日】 征東将軍副将軍奏す。 副将軍外従位下入間宿禰廣成、左中軍別将従5位下池田朝臣真枚、 前軍 別将外従5位下安部煖嶋臣墨縄らと義すらく、3軍謀りを同じくして力を併せ、 河を渡り賊を討せんと、己に畢る。 これにより中後軍2000人を抽出して、同じくともに凌ぎ渡る。 賊師、夷 '''阿弖流為'''の居に至るころおい、賊徒300許人ありて、迎え逢いて、あい戦う。 官軍勢強くして、賊衆引き逃れる。 官軍かつ戦い、かつ焼き、巣伏村に至る。まさに前軍と勢を合せんとす。 然れども前軍、賊のためにはばまれ、進み渡ることを得ず。 ここに於て、賊衆800許人、更に来たりてはばみ戦う。その力はなはだ強く、官軍ようやく退くとき、賊徒ただちにに衝く。 更に賊400許人、東山より出で官軍の後ろを断つ。前後に敵を受け、賊衆奮い撃ち官軍排せらる。 別将丈部善理、進士高田道成、会津壮麻呂、安宿戸吉足、大伴五百継ら並びに戦死す。 賊の居を焼き亡ぼすこと14村、宅800許烟。機器、雑物別の如し。 官軍戦死25人、矢のあたるもの245人、河に投じて溺死するもの1千36人、裸身にて泳ぎ来るもの1257人。 この延暦8年夏の戦いを「胆沢合戦」と呼びます。 ドラマ・アテルイ伝【前編】でしっかりと描かれていましたね。 経緯を簡単に説明しますと、 延暦7(788)年12月、征東大将軍として、紀古佐美(きのこさみ)に胆沢遠征の命令が下りました。 遠征軍は坂東諸国から集められた52,800余人で、 兵士にはこれまでの戦闘経験者、戦功者、弓馬に長けた者たちが選抜されました。 翌延暦8(789)8年3月上旬、遠征軍は多賀城を出発し、胆沢へ進軍しました。 同月末には胆沢の南端の衣川(北上川)に到着し、軍を前・中・後の3軍に分けて布陣しました。 ところが、遠征軍は衣川で長期の逗留を余儀なくされます (ドラマで描かれていたように、長雨による大水が原因と想像されます) 長期間も無駄に時間を費やし、兵糧を無駄にする遠征軍に業を煮やした桓武天皇が、 「今入らずば恐らくその時を失わん。その時を失はば悔いても何の及ぶところあらん。」 と紀古佐美を叱責し、6月になりようやく遠征軍が進軍を開始したのです。 遠征軍は、3軍から精鋭を選んで合同で当ることになりました。 前軍が北上川右岸を、中・後軍は各2,000=4000人の兵で同左岸をそれぞれ北上し、 アテルイの拠点地域である巣伏村を目指したのです。 ドラマで描かれていたとおり、3軍で挟み撃ちにする作戦だったのです。 ここで日本史に初めて阿弖流為の名前が登場しました。 阿弖流為は巣伏村を本拠地としている、と書かれてあります。 この巣伏村(すぶせむら)は、現在の 奥州市水沢区東郊一帯 のようです。 阿弖流為軍は、遠征軍に対してゲリラ攻撃を幾度もしかけ、 300人、400人、そして800人から成る小部隊を編成して、遠征軍にゲリラ攻撃を何度もしかけ 逆に遠征軍を挟み撃ちし、撃退しました。 遠征軍は、別将 丈部善理、進士高田道成、会津壮麻呂、安宿戸吉足、大伴五百継ら25人が戦死し、 矢のあたるもの245人、河に投じて溺死するもの1千36人 という大惨敗を喫したのでした。 ちなみに、戦死者が25人は少なすぎる気もしますが、 溺死者が1036人、裸で泳いで助かった者が1257人 というかなり細かい数字が信憑性を感じさせます。 阿弖流為は衣川や山間部という地の利を生かした作戦で 遠征軍を翻弄したのでしょう。 この後、朝廷は2回胆沢遠征軍を派遣しますが、アテルイ軍はその攻撃に耐え、 13年間にわたって、これを戦い抜いたのです。 わずかな史料ではあっても、アテルイの武将としての器の大きさが伝わってきます。 部族単位で生計を立てていた蝦夷の人々を、一つにまとめ、そして統率し、的確なゲリラ作戦を 実行する、しかも13年間! 戦国時代に生まれていても、伊達政宗といい勝負ができたでしょう。 いや、アテルイの生まれ変わりだったのかもしれませんね(^m^ ドラマで、大沢たかおさんは、蝦夷を率いた若きリーダー阿弖流為の圧倒的な存在感を 見事に演じていらっしゃいました。 史実には阿弖流為の年齢、容姿などの記述はないのですが、 ゲリラ部隊を指揮する体力とセンスを考えれば、若者のイメージです。 また、阿弖流為 の「弖」は文字通り”弓にすぐれた人”を表現しています 強弓を馬上から射る・・! ドラマのアテルイ、そのものではないでしょうか! 大沢さん、乗馬と弓の練習をされたのでしょうね。とてもさまになってました〜。 優れたリーダーアテルイ率いる蝦夷軍に、13年も敗北し続けているというのに、 桓武天皇の蝦夷討伐への野望は全く衰えることはありませんでした。 むしろ、宿願と相成ってしまったのです。 国家の威信を示すために、天皇は巨大な権力と財力をもって、 新たな遠征軍の準備を始めました。 そして、延暦16年、3回目の遠征軍の征夷大将軍に命じられたのは、 天皇の信任厚い坂上田村麻呂。 田村麻呂は延暦6年 30歳で近衛少将になった桓武天皇の側近。 延暦11年(791年)には大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられ、 延暦12年(793年)2回目の蝦夷遠征軍に加わり、蝦夷の情報にも通じていました。 征夷大将軍に任じられたのは40歳のとき。油も乗り切っていたことでしょう。 まさしく遠征軍の『最終兵器』と呼ぶに相応しい男でした。 強力なライバルが出現したアテルイ軍でありますが、 内部にも深い亀裂が生まれ始めていました。 13年間も戦場となったため、丹沢の地は次第に疲弊していったのです。 ドラマでは武器を作るための『たたら』の為、大量の森の木々を伐採して火を燃やし続けた結果 森や川が破壊されてゆき、その現実を目の当たりにして、もがき悩むアテルイの姿がありました。 また、京で田村麻呂に命を助けられ、田村麻呂の従者として 小役人の道をあゆむ兄の末路も描かれていました。 戦は生活する土地や自然だけでなく、人の心も破壊していく・・・ ドラマ・アテルイに決断の時が迫ってきたのです。 5000文字超えましたので、後編に続きます。 (ちなみに、アテルイの兄の話は勿論フィクションですし、原作にも登場しません)
|
|
皆さん、NHK時代劇 をご覧になっただろうか? 私は昨夜初めて録画していた「前編」を観たのだが、 思えば10年ほどまえ、 高橋克彦先生の小説「火怨 北の耀星アテルイ」を読み感激し、 その後、劇団新感線の舞台「アテルイ」を東京の新橋演舞場まで観にいって感激し、 大阪枚方市にある、アテルイとモレの墓を探しに行ったほどだ。 (当時はマイナーすぎて結局見つからなかったのだが・・) そして妊娠中に坂上田村麻呂が創建したと伝わる清水寺に詣で アテルイや田村麻呂のような元気な男子誕生を祈願して 「アテルイ・モレ顕彰碑」にも手を合わせてきた。 このように思いいれのある作品が、NHKのBS時代劇となって昨年放送され、 3/23 & 3/30 に地上波で放映される事となった。 その地上波・前編を観たのである。 そして、今・・・魂が揺さぶられるほど強く感激した自分がいる。 大沢たかおさん演じるアテルイの存在感の確かさ! そして北村一輝さん演じるモレとの濃厚な信頼関係。 特に、虐げられた辱められた同郷人のさらし首をみて、 阿弖流爲が巨大な大和軍と闘う決意をするシーンは 凄まじい迫力があった。 故郷を愛し家族を愛する東北人の誇りと自尊心に、震災を重ね合わせて涙がでた。 また、 原作者の高橋克彦先生も度々仰っているが、 蝦夷=大和朝廷に蹂躙されたマイノリティーとう、ある意味タブーな日本の暗黒史を 日本の公共放送が真っ正面から取り上げ渾身の作品にしたことにも、拍手を送りたい。 NHKとんでもない作品を作ったものだ。 この「アテルイ伝」 キャストは同じで、大河ドラマでリメイクして欲しい。 長編でも充分描き足りうる、壮大な物語だ。 もちろん、大沢たかおさんがアテルイで、モレは北村さんだ。 明日 3月30日午後9時から後編が放映される。 是非一人でも多くの人にこのドラマを観てほしい。 PS
「アテルイ」がドラマになったことを、このブログへのコメントで教えてくれたOutbotyanさん、 本当にありがとうございました。 |

- >
- エンターテインメント
- >
- テレビ
- >
- ドラマ番組


