ゆーくんはどこ?

皆様ありがとうごさいました。アメブロへ引越しますので、また、お会いしましょう! 我人に媚びず、富貴を望まず。(黒田官兵衛)

歴史の扉 戦国2

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京都四条ぶらり散策

連休如何お過ごしですか?

私は連休初日の土曜日に
再び京都四条へ行ってきました。
前回同様、息子の塾関係です。

塾が終わるまで小一時間ほどあったので、
四条周辺を再び散策してきました。

前回は五条方面だったので
今回は四条から河原町までぶらり。

まずは新京極のど真ん中におわす
「錦天満宮」
はい、学問の神様ですからしっかりとお参りしてきました。

錦天満宮

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祭神は天満天神。菅原道真公の邸宅趾だそうです。

天満宮に必須アイコンの牛さんです。

イメージ 2




長保年間(999〜1004)、菅原道真公の旧邸菅原院の旧殿を、源融公の六条河原院跡地に移し、歓喜寺とし、その際道真公の霊を祀って鎮守社とし、1299年(正安1)には時宗善導寺を迎え、当時は歓喜寺と呼ばれていたそうです。
天正年間(1573〜92)に豊臣秀吉の都市計画のため、錦小路東端に移り、錦という社命の由来となります。
明治の神仏分離令により歓喜光寺別当寺(神護寺)を解消、寺は東山に移り、現在は神社のみが残り、錦天満宮と呼ばれて観光スポットになっています。


錦天満宮からは、「京の台所」錦市場が伸びています。

錦市場

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歴史は古く、何と平安時代から
1300年の歴史を誇る現役バリバリの市場です。
この日も凄い人混みでした。



市場のはじまりは、豊富な地下水を利用し京都御所への新鮮な魚を納める店が平安時代に集まり始めたものだそう。
古代かり京都市民からは「にしき」という愛称で呼び親しまれ、「京の台所」として地元の市民で賑わっていました。
近年は新京極商店街や寺町京極商店街とともに、外国人観光客や修学旅行生が訪れる活気のある観光名所としてもテレビなどで
よく紹介されてます。


錦市場の人混みから引き返して
今度は四条大橋へと向かいました。
四条大橋から鴨川、五条大橋を撮影しました。

イメージ 4



四条大橋

八坂神社の「社家記録」によると、1142年(永治2年)に勧進により架けられたのが始まりだそうです。
以後何度も水害により流失し、そのたびに架け直されています。
平安時代末期から鎌倉時代にかけては、平家の六波羅が鴨川の東にあったことから、多くの公家貴族がこの橋を牛車で渡った事でしょう。

四条大橋のふもとには
先斗町があります。


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寛永10年(1670)鴨川河川工事により町並みが作られてか続く古くからの歓楽街。

ミーハな私は、ついつい先斗町を闊歩する
土方歳三様たち新選組の面々を連想してしまいます

何故「先斗」という名前がついたのか?
地名の語源はポルトガル語のponto(「先」の意)にあるとされてますが、正しいポルトガル語は"PONTA"なのに「ポント」と読まれることや、なぜ「先斗」の字があてられたのかなどが謎だそう。

鎖国の御禁令など気にせず、
外来語を町名に取り入れる辺りに、京の人々の気骨と洒落っけを感じますね。

四条大橋を八坂神社方面へと渡ると
出雲阿国像があります。

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逆光すみません


出雲 阿国は、安土桃山時代の女優兼ダンサー
ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを創始したことで知られており、このかぶき踊りが様々な変遷を得て、現在の歌舞伎が出来上がっています。
ここ四条大橋のたもとで、男装のかぶき踊りを演じた事で人気を博しました。


出雲阿国

生没年不詳
安土桃山時代から江戸初期にかけて活躍した阿国歌舞伎の創始者で,歌舞伎の始祖とされる女性。
出雲大社の巫女であったといわれ,芸能団を組織して各地を歩き勧進のために入洛。
北野天満宮の定舞台で名声を得ました。
1603年京都四条河原で 先鋭的な伊達男の扮装で念仏踊りをベースにした「かぶきをどり」を披露。関ヶ原合戦後のすさんだ世に都人を驚かせ人気を集めました。さらに簡単な所作を加えて阿国歌舞伎に発展させました。

しかし江戸時代に入ると、その内容が猥雑であり風紀を乱すと「女歌舞伎禁止令」がでて、男が女形を演じるようになり今日の歌舞伎に発展しました。
一座の狂言師名古屋三十郎(三九郎?)が夫とする説もあります。
阿国は晩年出雲へ戻り尼となって生涯を終えたと伝えられています。
島根県大社町と京都大徳寺高桐院にお墓がありますが、生没年とも不詳です。


ちなみに、大河ドラマ新選組!が放送された翌年、NHK金曜時代劇で菊川怜さん主役の「出雲阿国」が放送されました。
とっても面白かったです

特に堺雅人さんが名古屋三十郎役で、これでもかと言わんばかりの色男役を熱演されてました。最近、銀行マンや弁護士に医師と硬い役柄が多いですが、堺さんのチャラい色男役もまた観たいです


プチ観光でしたが、やはり京都はどんな街角にも歴史があり見所いっぱいですね。
2014年7月20日〜21日
夏休み初日から旅行に出かけた。

今回は、観光、史跡、グルメ、温泉など、盛沢山の旅となった。
写真をメインに紀行文をざっと書き、
「登城記」については、別途詳細な歴史記事をUPしたいと思う。
 
降りたのはは「小田原駅」。

そう、後北条氏の難攻不落の名城「小田原城」がその目的地である。
駅のホームから天守閣が垣間見れた。
徒歩5分。戦国で一二位を争う難攻不落の姿はなく、今は駅前の城である。
駅近だが、とにかく暑い。
 
小田原城
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15世紀に大森氏が築いた山城が前進で、

その後、戦国大名、小田原北条氏(後北条氏)の居城となってから

関東支配の拠点として次第に拡張された。


豊臣秀吉からの攻撃に備えて、

城下町を囲む9kmにおよぶ【総構え】を組むことで、城の規模は最大に達したという。

天正18年(1590)

豊臣秀吉の小田原攻めにより、北条氏は滅亡

同年、徳川家康の家臣、大久保忠世が入城、その後何代かの改易等を経て幕末に至る。

明治3年、廃城となり、売却、解体された。

現在の天守閣は昭和35年に復興された、復元天守。

3重4層の鉄筋コンクリート造りで、付櫓、渡櫓を配している。

江戸時代の雛形や、引き図を基に設計されており、往年な雄姿とほほ変わりない。

私が今回この城に登城したのは、
「百名城」であるという事と、
われらが「黒田官兵衛」ゆかりの城でもあるからだ。


豊臣秀吉は天下統一のため、天正18年(1590)小田原城を攻めた。


関東の覇者後北条氏のこの城は、上杉謙信も武田信玄の侵攻も退けた難攻不落の城であった。


秀吉は小田原城に近い「石垣山」に一夜城を築き、大軍で包囲し北条氏に圧力をかけるも

いわゆる「小田原評定」でなかなか降伏しなかった。


そこで、われらが黒田官兵衛が、単身丸腰で、決死の直談判を試み、

その結果、北条氏政、氏直親子は、降伏開城を決意するのである。

3か月に及ぶ籠城を経ての、いわゆる無血開城である。
「軍師官兵衛」初回のオープニングが忘れられない。
足を引きずりながら、岡田・官兵衛が小田原城城門にて単身、名乗りを上げるあのシーン!

ああ、これは凄いドラマになる!と私は直感。鮮明な幕開けだった。
アイドルでもあり抜群の運動神経を持ち武術にも通じた岡田准一君が、

史実どおり、「足を引きずらせて」いきなり登場してみせた、その『覚悟』とでもいおうか。
 
そして、単身敵の城に交渉のため乗り込むのは「有岡城」の見事な複線でもある。
私の直感どおり、官兵衛の人生、人格を変えた「有岡城の幽閉」を

1か月以上に渡り描ききったことも個人的にうれしかった。

官兵衛が「天下統一のため、戦を終わらせるため」
決死の覚悟で単身佇んだかもしれない、小田原城の門前に自分も立ち

黒田官兵衛の武将の気骨とヒューマニストたる側面を感じとった次第である。


天守閣内は資料館になっており、甲冑、刀剣、絵図、古文書が展示されていた。


個人的には、北条新三郎遺愛の甲冑に心奪われた。

こんな垂れ幕も掲げられていた。
「北条五代を大河ドラマに!」 
大賛成だ!

2010年、信州旅行で「真田太平記を大河ドラマに!」という広報があり

大いに賛成し、進んで署名したのだが、再来年の大河ドラマでその夢が実現した。

もしかしたら、北条5代の大河ドラマも実現するかもしれない。

面白いこと間違いないだろう。


小田原城の後は、「熱海」へ向かった。
最大の目的は女子?の友、「温泉」である。
 
ところが、あれほど炎天下だった天気が、熱海に着くころに急変し、雨が降り出した
土砂降りである。
市内観光を予定にしていたのだが、とてもまわれそうにない。
 
仕方ないので「寛一お宮の松」だけ見て、それから「日帰り温泉」へ直行した。
 
イメージ 2
 
最近肩こりがひどく、今回の旅は「湯治」も大きな楽しみの一つだった。
観光はあきらめたが、その分長くゆっくり温泉につかることができた。
熱海の温泉は、肌にやさしいお湯であった。
 
夕方、雨も上がったが、明日の予定もあるので、熱海から「三島駅」へ出発した。
 
「三島駅前」が今夜の宿だ。
明日のメインイベントの最寄駅がここだからだ。
 
チェックインしたのは6時ごろ。早速、夕食を食べに出かけた。
駅前においしそうな寿司屋があった。
三島は沼津に近く、沼津の新鮮なネタだという。
 
イメージ 3
この握り
むっちゃ美味しかった!どのネタもやわらかくて絶品だ。
幸せな気持ちになった。
 
 
2014年7月21日夏休みの旅、二日目。
本日のメインイベント「山中城」へ朝から出発した。
結論から言うと、本当にすごい城跡であった。
城好きにはたまらない穴場だと言える。
 
 
アクセスを簡単にレポートしたい。
JR三島駅前から「沼津登山東海バス 箱根西坂方面行き」のバスに乗る。(三島駅南口5番乗車場)
富士山の麓からドライブウェイをぐんぐん登っていく。
 
快晴であれば、行く手の左側に「富士山」が見えるはずであったが、
あいにくの曇り空でそのお姿を見ることは叶わなかった。
 
バスに揺られること約30分で、「山中城跡」に到着する。
 
山中城
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永禄年間(1560年代)、小田原城を護る城として後北条氏によって築かれた山城である。
しかし、天正18年(1590)、天下統一を目指す豊臣秀吉の大軍に攻められ
わずか半日で落城した悲劇の城である。
 
この城は、石を使わない土だけの山城で北条氏独特の築城術の粋を結集した、全国でも珍しい城跡だ。
特に、「障子堀」が有名である。
歴史的かつ技術的に価値が高く、もちろん「日本百名城」に選定されている。
深い山の中であるが、「史跡公園」が整備されていて、隅々まで手入れが行き届いていると同時に、
散策コースも1〜2時間に設定されており、山城らしい登山気分も味わえる。
 
とにかく、「障子堀」が見事であった。
 
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私も数多くあちこちの城を訪ねているが、このような堀を見たのは初めてだ。
そして本当に「石垣」が見当たらない。
 
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おそるべし、後北条氏!
 
さらにこの城は、富士山の絶景を拝める城としても有名である。
快晴であれば、富士山が見えたはずなのだが、残念ながら、天候が回復せず、
その優美なお姿を見ることは叶わなかった 。
再訪問し、そして富士山の雄大な絶景を一望してみたいものだ。
 
山中城で大満足した私たちは、再び「三島駅」へ帰った。
ここからは息子の大好きな「鉄道タイム」である。
 
三島駅は「箱根登山鉄道」の始発なのだ。
そしてその終点は、「修善寺」である。
 
ローカル線大好きな「乗り鉄」の息子はもちろん、
修善寺といえば、鎌倉幕府関連史跡が多く、また温泉もある。
お決まりの先頭車両に乗り込み、のんびりとローカル線の旅を満喫した。
 
30分ほどで修善寺駅に到着した。
駅前からバスにのり、修善寺温泉駅で降車。
徒歩10分エリア内に、多くの史跡と温泉旅館が立ち並んでいる。
 
修善寺
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弘法大師が大同2年(807)に開基したと伝わる古刹である。
鎌倉時代には源氏一一族興亡の舞台となった。
 
隣接する「日枝神社」は修善寺の鎮守様であった。
源範頼が幽閉されていたとも言われている。
 
「指月殿」は伊豆最古の木造建築だそうだ。
北条政子が暗殺された息子・二代目将軍 源頼家の冥福を祈って建立した経堂だ。
 
境内には、頼家の墓もある。
将軍の墓にしてはあまりにも狭く小さい。
栄枯盛衰・・・・源氏三代の悲劇を感じずにはいられない。
 
虎渓橋のたもとにあるお蕎麦屋で遅めのランチとなった。
ざるそばもさることながら、付出しの「きゅりのわざび漬け」が絶品だった。
 
そしてお楽しみの温泉タイム!
日帰り温泉専門の「はこ湯」に入った。
 
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この温泉は、源頼家も入ったほど由緒があるそうだ。
ちなみに、修善寺温泉を発見したのは弘法大師。
今から1200年も前、桂川で病父を洗う少年に心打たれた弘法大師が
独鈷(仏具)で川の岩を打ち、霊湯を沸き出させ、湯治を伝授したのが始まりだそうだ。
「はこ湯」の入浴料金は600円。
だだし、タオルも石鹸もシャンプーもなく持ち込み、もしくは購入となるので要注意。
 
ここでも小一時間たっぷりと修善寺の湯を楽しんだ。
おかげで肩や首がだいぶ軽くなった。
 
温泉堪能後、三島に帰る。
三島駅から新幹線の指定席を取っているのだが、まだ時間があった。
 
そこで三島市内観光に出かけた。
三島は「湧水とせせらぎと歴史のまち」がキャッチフレーズだ。
 
三島大社
 
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駅から徒歩12分。
伊豆国の一宮。
祭神は大山祗命、積羽八重事代主神の2柱で、総じて三島大神と称されている。
創建時期は不明だが歴史は古い。
源頼朝が挙兵に際し祈願と寄せ、緒戦に勝利したことでも有名だ。
 
 
三島駅徒歩一分の「楽寿園」の自然公園を散策してのち、
 
源兵衛川へ。
 
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びっくりするほどきれいな川であった!
 
 
源兵衛川は、楽寿園から流れる富士山の伏流水を源流とし、
夏の夜は蛍が舞うという。
 
近所の子供たちがサンダルに履き替えて、川遊びに興じていた。
川の中には飛び石があり、ひざ下くらいで、なによりも透明度が高い!
 
サンダルがない息子ははだしでさっそく清流の中へ。
「きもちい〜〜!」
 
うん、観ているだけでも涼しいよ。
 
「次回はサンダルもってこようね!」
新幹線の出発時刻までの小半時、最高に美しくきれいで楽しい時間をすごすことができた。
 
三島拠点に伊豆、箱根へと 是非とも再訪したい魅力的な土地であった。
 
(「小田原城」と「山中城」のマニアックな「登城記事」は改めて書く予定。こうご期待!)
 
 
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                   【三木城址に建つ別所長治像】
 
播磨三木城の青年城主・別所長治が、織田信長に反旗を翻したのは、天正6年2月末であった。
 
前年の天正5年、姫路城主 黒田(小寺)官兵衛の説得を受け、
織田方に味方すると決定してからわずか半年のことであった。
 
別所氏は、鎌倉時代から播磨に勢力を伸ばした古い家柄である。
室町幕府にあって、侍所所司、播磨、美作、備前3国の国守を務めた、名門・赤松氏の庶流であった。
「嘉吉の乱」で赤松一族が播磨を追われると、ともに他国へ流れるが、
赤松氏が再び播磨で勢力を挽回すると、東播磨八郡の盟主となり、播磨最大の勢力を持つに至った。
三木城に入城して、長治で4代目となる。
 
ちなみに黒田家が仕えた、小寺家も、赤松氏の家臣の家柄で、
西播磨に勢力を持ち、別所氏に次ぐ豪族であった。
 
別所長治の執権の一人で、幼いころより長治を補佐してきた叔父・別所重棟と
黒田(小寺)官兵衛は昵懇の仲で、それゆえ、織田信長への帰参を承諾した経緯があった。
 
ちなみに、天正5年当時、秀吉は、柴田勝家の後詰めを命じられていた北陸加賀から、
信長に無断で同勢3500人を率いて長浜へ帰っており、信長の怒りを解くために長浜で謹慎中であった。
 
ことのほか軍法違反に厳しい信長公である。
正直、秀吉らは、死罪も覚悟していたのであった。
 
秀吉が長浜で蟄居の最中、
秀吉の実弟・羽柴小一郎は、蜂須賀小六、竹中半兵衛 らと軍兵 わずが数百人で播磨へ先行した。
わずかな時間で別所氏ら播磨の豪族たちを味方につけ、信長の勘気を解き、
秀吉の復権をもくろんだのであった。
 
更にこの時、小一郎は今まで蓄えた金品をほぼ使い果たすほど、
信長や信長近辺へ、高価な贈り物を届け続けたという。
 
 
秀吉の実弟・小一郎の名参謀ぶりがよくわかる。
地味で目立たないが、秀吉が小一郎を決して側から離さず最も厚遇し、
旗下の豪傑武将らもみな、小一郎を慕い指示に従ったのも頷ける。
竹中半兵衛も、小一郎の武将としての実力を最大級に評価している。
 
 小一郎らは、官兵衛の嫡子・松寿丸を人質に貰い受けて、安土へと連れて行った。
信長に、播磨での調略が進んでいることを証明するためであった。
さらに、別所長治帰参内諾の知らせも、信長の勘気を解くに十分であったろう。
 
信長公は秀吉の軍法違反を許しただけなく、中国討伐をも命じた。
秀吉と小一郎兄弟の大博打は見事に成功したのである。
 
ところが、肝心の三木城で不穏な動きが出始める。
 
別所長治の叔父で、重棟とともに執権職を務める、別所吉親が、毛利に通じていたのだ。
重棟と吉親兄弟は仲が悪く、家中が「織田派」「毛利派」に二分されていたのだ。
一旦は、信長につくと決めた別所長治であったが、もう一人の叔父の言葉に次第に惑わされていったのだ。
 
三木城内に軍兵を集め、堀割、鹿柴を構える作業を盛んに進めだした。
 
竹中半兵衛や蜂須賀小六が、播磨目代である秀吉の許しを得ずに城普請を行うことを咎めると、
別所長治は、すでに信長の了解を得ていると、涼しい顔で返答する。
事実、長治は信長に「毛利は大国であるから播磨安全のため城普請を早々に行いたい」旨の書状を送っており
信長も「もっとも神妙である。」と返事を与えていたのだ。
 
三木城には、鉄砲、硝煙が堺より運び込まれ、雑賀鉄砲衆まで入城していることも分かったが、
半兵衛も小六も、信長のお墨付きである以上、普請を止めることができない。
 
長浜に帰還していた秀吉も、播磨からの連絡に別所への不審を募らせながらも、
まさか東播磨の主たる豪族らが反信長へ反旗を翻すとは思ってもいなかったろう。
 
そして、事件は起こる。
天正6年2月23日、播磨へ戻った秀吉は、加古川城にて別所一族ほか諸豪族を集めて
中国攻めの「戦評定」を開いた。
軍議の席で、別所吉親が、赤松家代々の軍功を長々と語った上で、秀吉の軍略を批判したのだ。
秀吉は激怒し、万座の前で、別所吉親に罵詈雑言を浴びせて、恥をかかせたのである。
そして三木城へ帰った彼らは、恨みを込めて主君へ報告した。
「織田は、裏に剣を磨ぎ、表に和を装う痴れ者に違いありませぬ。」と。
 
この事件が直接の引き金となり、別所長治は謀反を決意したと
「播州太平記」、「別所長治記」「別所記」に記されている。
 
(尚、加古川評定事件」の詳細は、過去記事にも参照ください)
 http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/67003664.html  『軍師官兵衛 第15回「播磨分断」』
 
加古川評定事件が直接の契機であるなら、裏の理由もあった。
別所の謀反には、反織田勢力からの誘いがあったのである。
 
丹波八上城主の波多野秀治だ。
 
波多野一族は、鎮守府将軍 藤原秀郷を祖とし、因幡、伯耆、美作三国の守護を務めた名門である。
信長は、越前平定の後、明智光秀に丹波平定を命じていた。
 
光秀ほどの武将であっても、波多野氏の八上城はなかなか落ちなかった。
 
丹波富士の山頂に築かれた山城で、さらに支城40余を設けた、堅牢で知られた難攻不落の城であったのだ。
とはいえ、光秀は持前の忍耐でもって次第に八上城を攻略し、焦った波多野秀治は、
光秀の背後に控える三木城を味方につけて、織田と明智軍の分散を図ったのである。
 
別所長治は、この波多野秀治の妹を妻とし、さらに長治の弟、治定、友之も波多野一族から妻をめとっていた。
つまり、両家の関係は強固で、浅井朝倉の如く、
波多野氏からの誘いがあれば、それを断ることは難しかったのである。 
 
そんな家中の動きに呼応するように、本願寺と毛利からも調略の手が伸びてきた。
本願寺と一蓮托生である雑賀の鉄砲隊が早くから三木城に入っていたことがそれを証明している
 
ここまで包囲網が構築されたなら、織田の司令官である足軽上がりの羽柴秀吉など、ものの数ではない。
まだ若い城主が、大きな野心を胸に抱いたとしても、不思議ではないのである。
 
天正6年2月末、軍議の結果、志方(光姫の実家)、神吉、高砂、野口、淡河、端谷の6城主は自城にて籠城することになり、その他小城主は、居城を焼き払い、士卒を率いて三木城へ参集することになった。
「別所決起」である。
ただし、織田派の叔父・別所重棟は、黒田官兵衛との信義を重んじて秀吉方にとどまっている。
 
当時の三木城は、周囲一里で、本丸、東の丸、二の丸に天守閣まで備わっていた。
外郭は美嚢川の断崖、鷹の尾砦、古刹雲仙寺や月輪寺の伽藍を城地とし、自然の地形を利用した
水堀、空堀、土塁、木柵を備えた実に堅牢な城であったようだ。
領内の百姓、町人、僧侶のほとんどが別所にくみしており、城内は武器弾薬兵糧が山積みされ、
兵士たちの士気は極めて高かった。
 
羽柴秀吉1万余軍は、緒戦の夜襲で大敗し、姫路の書写山で軍略を練る。
竹中半兵衛の献策により、三木城を俯瞰できる平井山に本陣を置き、周囲に付け城を多数築き、
敵の支城を落としていく作戦が決まった。
 
しかしその直後の4月、小早川隆景率いる毛利の大軍5万余が備前国境を越え
怒涛のごとく播磨へ進撃してきた。
結果、尼子の守る国境の上月城が取り囲まれてしまったのだ。
 
秀吉は、中国平定の協力者である尼子勝久を救うために三木城攻めを中断して上月へと向かった。
しかし毛利の重囲は厚く、総勢4万余の織田信忠が援軍に駆けつけるも硬直状態に陥ってしまった。
 
上月城と三木城では、規模も勢いも違う。
ここで尼子を見捨てて三木城を抑えなければ、播磨の情勢がさらに悪化する恐れもある。
信長公は、上月城からの撤退を指示し、神吉、志方を攻め落として三木城を全軍で落とすよう
信忠へ命じた。
尼子の信義から上月救援を求める秀吉の嘆願は無視された。
そして信長の命じたとおり、織田勢は、神吉、志方をたちまちに攻め落としたのである。
 
 
ところが秋になり、衝撃の事件が起こる。
荒木村重の謀反である。
 
(村重謀反については、散々触れているので、先週までのブログを参照頂きたい。)
 
摂津一国を一色支配する村重の謀反で、信長の中国戦略は変更を余儀なくされた。
三木城攻めと、八上城攻めを一旦中止し、
秀吉、光秀含む、織田全軍を有岡城攻めのために京都へ集結させた。
 
毛利も本願寺も、してやったりであったろう。
しかし、織田信長という男の凄みここからだ。
 
天正6年11月6日、伊勢で秘かに建造を命じていた「鉄甲船」6隻が大坂湾に襲来し、
石山本願寺へ兵糧を運び込もうとしていた600隻余の毛利水軍に壊滅的な打撃を与えたのだ。
瀬戸内海の海上権を奪い、石山本願寺を兵糧不足に陥れ、戦力を減退させた。
これぞ、進撃の信長!
これで勝利の目算がついたのであろう、信長は秀吉に播磨三木城攻めの任務へ戻るように命じた。
 
天正7年に入り、籠城1年を迎えて 三木城では次第に焦りが広がりはじめた。
 
加古川の水運を利用して三木へ兵糧を運んでいた、高砂城や端谷城も落ち、
秀吉は、三木城を本格的に兵糧攻めにする。
 
とはいえ、荒木村重の支城である花隈城を経由して、地元の百姓、僧侶、女子供らが
夜間の山道を超えて、決死の運搬を行うため、兵糧攻めの効果はなかなか上がらなかった。
 
別所氏は領民からこれほど慕われていたのだ。
 
6月13日、秀吉の軍師で三木城攻略の策を講じた竹中半兵衛が肺の疾患でこの世を去る。
重態の身でありながら、「軍師は陣中にて死すべし。」と平井山本陣へ戻ったのは、
自分の立てた作戦へのプライドと責任感の表れであったろう。
秀吉、小一郎、蜂須賀小六らに看取らての静かな死であった。
三木城攻めは半兵衛の弔い合戦ともなったが、それでも城はなかなか落ちなかった。
 
手詰まりを打破しようにも、秀吉の両兵衛の一人、軍師・黒田官兵衛が
昨年末から有岡城に説得へ赴いたまま帰還しない。
 
業を煮やした織田信長により、織田信忠や丹羽長秀らが援軍として派遣されてきたが、
それでも三木城の守りは固く、成す術なく、引き上げるという状況であった。
 
ところが6月28日、明智光秀が調略により波多野秀治ら主従13人を捕えた上に、
難攻不落を誇った八上城をも攻略した。
強固を誇った 別所&波多野の共同戦線が崩壊してしまった。
 
さらに、10月に入り、備前の宇喜多直家が織田へ寝返り、毛利の援軍がほぼ不可能な情況となる。
そして11月には、有岡城が落城。
これにより、三木城への兵糧輸送は完全に杜絶え、秀吉の「干殺し」が本格化する。
 
三木城内では飢えに苦しみ、籠城者は始め、糠まぐさを食い、それがなくなると牛馬、鶏を食い
(当時の日本人は仏教の影響で肉食を嫌っていた)、しまいには人肉まで食らい、
餓死するものは数千人に及んだとも言われている。
地獄である。
 
天正8年正月6日、秀吉は城攻めに転じた。
三木城南の八幡山宮の上砦をおとし、南側外郭を打ち破り、三木城大手門へと殺到した。
大手門は楠の1枚板で厚み5寸(15センチ)、隙間なく鉄金具を打ち並べ高さ4mにも及ぶ堅牢な城門である。
見分役で参戦していた明智光秀が、八寸の大斧をふるって打ち砕き、羽柴軍は城内になだれ込んだ。
 
本丸に立て籠っていた別所長治は、意を決して軍使を秀吉に送り、
「弟、叔父とともに一族こぞって切腹するかわりに、
1年10か月の籠城に耐え抜いた家来、町人どもの命を助けてほしい。」と嘆願した。
 
長治の書状の文面は以下である。
 
「いま、願うところは、長治、吉親、友之の三人、来る十七日猿の刻(午前四時)切腹つかまつるべく候。
然るうえは、士卒雑兵等、町人等は科なき者ゆえ憐憫を加え、一命あい助けられたく候。
然らばわれら今生のよろこび、来世の楽しみ何物かこれに加えん。」
 
秀吉はこの申し入れをただちに受け入れ、樽酒に肴を添えて、城内へ運び入れさせた。 
 
長治は、秀吉贈呈の酒肴にて城中で別離の宴を開くにあたり、
本丸広場に町人を集めて訣別の辞を述べた。
 
「明日はわれら城主一族、浄土の仏身とあいなれば、こでにて最期の別れじゃ。
そのほうどもがわれらに身を捧げての働きの数々、死んでも忘れぬ」
 
翌17日、身を清めた長治は、先に自害した妻子の遺骸を大庭に下し、
火葬にしたのち、弟とともに切腹して果てた。殉死する家臣も多かった。
 
別所長治の辞世の句
「いまはただ、うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる我が身とおもへば」
 
正妻 照姫の辞世の句
「もろもろに消え果つるこそ 嬉しけれ おくれ先立つ ならいなる世を」
(あなたと一緒にあの世に逝くことが嬉しいのです。普通なら夫婦のどちらかが死に別れる世なのに)
 
長治 23歳、妻は21歳であった。
奥方の健気な思いは涙を誘う。
 
三木城落城ののち、城下12村の名主は、秀吉に願い出て、城主一族の遺骨を貰い受け、
久留美庄の法界寺に手厚く埋葬し、冥福を祈った。
何度も強調するが、別所長治は、それほど領民に愛されていたのだ。
それゆえに、一旦「織田」と決めた気持ちをぐらつかせた弱さが悔やまれる。
最初、織田方有利を長治へ説いていただけに、同じ播州人として、官兵衛も悔しかっただろう。
戦乱においては、一瞬の判断ミスが国を滅ぼす結果となるのだ。
 
ともあれ三木城落城にて、織田信長と秀吉の播磨平定は成し遂げられた。
そしてこの年、大きな功績を挙げた二人の武将が、信長配下における出世争いを激化させていく。
羽柴秀吉と明智光秀である。
 
明智光秀は、波多野攻略の功で、丹波一国29万石と亀山城を信長から与えられ
更に山城、大和の大官領30万石をゆだねられた。
 
羽柴秀吉は、播磨平定の大功で播磨16群51万石を与えられ、
弟・小一郎には、但馬一国13万5千石を与え、更に配下の蜂須賀小六らも万石取りの大名となった。
ちなみに、我らが黒田官兵衛は、播磨国揖東郡に1万石を与えられ篠の丸城を居城とする大名となっている。
 
しかし一方で悲劇もあった。
天正7年の丹波攻略で、明智光秀は波多野秀治兄弟の降伏と助命の条件として、
自身の母親を人質に差し出し、捕らえた波多野兄弟を安土へと連れていった。
しかし、信長公は曖昧な決着を望まず、そのまま兄弟を磔にしてしまった。
怒った八上城の兵達は、人質となっていた光秀の母親を惨殺したのである。
 
忠義の塊のような光秀が、次第に信長への謀反を募らせる要因の一つが、
母を見殺しにした信長への恨みとも言われている。
 
天正8年、三木城落城の裏で、「本能寺の変」へのカウントダウンはもう始まっていたのである。
 
 
参考文献 「名将名城伝」 津本陽先生
 
 
 
軍師官兵衛 第17話「見捨てられた城」にて、
 
孫子 きた〜〜〜〜〜!! ・・・だったのですが、
 
5月に入り、公私共にあまりの多忙ゆえに、ついつい後回しになっておりました。
 
今回のお題は 「不戦而屈人之兵、善之善者也」
官兵衛が敵である毛利へ潜入し撹乱作戦を練る時に、
家臣たちとこのフレーズを復唱していましたね。
 
わりあい有名な言葉なので、ご存知の方も多いとは思いますが
原文の格調高さを堪能して頂きたく、ブログにアップしたいと思います。
 
それでは、早速解説に入りたいと思います
 
 
【原文】
 
孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之、
全軍為上、破軍次之、全旅為上、破旅次之、
全卒為上、破卒次之、全伍為上、破伍次之、
是故百戦百勝、非善是善者也、
不戦而屈人之兵、善之善者也
 
 
【和訳】
 
孫子曰く、凡そ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るはこれに次ぐ。
軍を全うするを上と為し、軍を破るはこれに次ぐ。
旅を全うするを上と為し、旅を破るはこれに次ぐ。
卒を全うするを上と為し、卒を破るはこれに次ぐ。
伍を全うするを上と為し、伍を破るはこれに次ぐ。
是の故に百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。
戦わずして人の兵を屈するは、、善の善なる者なり。
 
 
【解説】
 
孫子はいう。
およそ戦争の原則としては、敵国を傷つけずにそのままで降服させるのが上策で、
敵国を討ち破って屈服させるのはそれに劣る。
軍団を無傷でそのまま降服させるのが上策で、軍団を討ち破って屈服させるのはそれに劣る。
旅団を無傷でそのまま降服させるのが上策で、旅団を討ち破って屈服させるのはそれに劣る。
大隊を無傷でそのまま降服させるのが上策で、大隊を討ち破って屈服させるのはそれに劣る。
小隊を無傷でそのまま降服させるのが上策で、小隊を討ち破って屈服させるのはそれに劣る。
こういうわけだから、百たび戦闘して百たび勝利を得るというのは、最高にすぐれたものではない。
戦闘しないで敵兵を屈服させるのが、最高にすぐれたことである。
 
ちなみに孫子の春秋時代の軍編成は、以下のようであった。
軍 : 1万2500人の部隊
旅 : 500人
卒 : 500人から100人
伍 : 100人から5人
 
 
紀元前(前515~497頃と推測される)に、このように高度な兵法を編み出し理論化した「孫子」恐るべし。
何よりも、人類愛と平和主義がその根底にある点が素晴らしい。
 
そして黒田官兵衛もまた、孫子の兵法を実戦するだけの、頭脳と感性を持ち合わせていたのだろう。
毛利と織田という天下覇権をねらう大軍の前哨基地となり、
有無を言わさず戦乱の地となってしまった故郷・播州を守るため、
同族同士、血で血を洗う戦闘を避け播磨統一の道筋を探ろうと奔走した
官兵衛の決意と高い志を感じてしまう。
 
そのため官兵衛が武器としたのは、彼の類稀な「交渉術」であろう。
今で言うなら、外交ルート。 
優秀な情報網を駆使した、スパイ活動もその一環であった。
 
恩義ある御着の殿・小寺政職と、友人・荒木村重を、再び織田へ翻意させるため、
単身、有岡城へと乗り込んだ官兵衛は、「自分なら何とかできる」という自信も自負もあったろう。
 
しかし、待ち受けていたのは、「殺せ」という主君からの裏切りの言葉。
 
牢獄に幽閉された官兵衛は、身体だけでなく、その自尊心もまた砕け散ったに違いない。
が、勝たねば、「善の善」にはならぬのも、孫子の兵法。
 
窮地に陥った官兵衛を救ったのは、彼の家臣や家族達であったことは、
黒田官兵衛に多くのことを教えたに違いない。
 
そういう意味からも、有岡城の戦いは、軍師官兵衛にとっても、大きな正念場であり、
人生の大きな転機であったのだ。
 
 
参考文献: 岩波文庫 「孫子」  金谷治先生訳注
 
軍師官兵衛 第13回・・。
久しぶりに 「孫子きた〜〜〜〜! 」 。
 
ということで早速解説をしたいと思います。
 
今回のお題は 「囲師必闕(いしひっけつ)」
 
官兵衛が「福原城攻め」で用いた戦法として有名だ。
敵を追い詰めても四方をすべて包囲するのではなく、必ず逃げ道をつくれというもの。
 
早速、原文を紹介したい。
 
【原文】
 
孫子曰、凡用兵之法、高陵忽向、背丘忽逆、絶地忽留、
佯北忽從、鋭卒忽攻、餌兵忽食、帰師忽遏、圍師必闕
窮寇忽迫、此用兵之也
 
【和訳】
 
孫子曰わく、凡そ用兵の法は、高陵には向かうことなかれ、
背丘には逆らうことなかれ、絶地には留まることなかれ、
佯北には従うことなかれ、鋭卒には攻むることなかれ、
餌兵には食らうことなかれ、帰師には遏(とどむる)ことなかれ
囲師には必ず闕き、窮寇には迫ることなかれ。
此れ用兵の法なり。
 
 
【解説】
孫子はいう、およそ戦争の原則としては、高い陵にいる敵を攻めてはならず、
丘を背にして攻めてくる敵は迎え撃ってはならず、
険しい地勢にいる敵には長く対してはならず、
偽りの誘いの退却は追いかけてはならず、
鋭い気勢の敵兵には攻めかけてはならず、
こちらを釣りにくる餌の兵士には食いついてはならず、
母国に帰る敵軍はひき止めてはならず、
包囲した敵軍には必ず逃げ道を開けておき、進退きわまった敵をあまり追い詰めてはいけない。
 
以上、常法とは違ったこの九通りの処置をとることが、戦争の原則である。
 
 
つまり、孫子の用法においての 「圍師必闕」は、
進退窮まった敵を救う方法であったのだ。
 
敵味方問わず、人の命の尊厳を大切にした官兵衛であったなら、
孫子の教えに習い、勝利のために敵将は討ち取っても、
その他兵士への温情のため、一箇所包囲網を開けていた可能性はあると思う。
 
「帰師には遏(とどむる)ことなかれ」 (母国に帰る敵軍はひき止めてはならず)など、
思わず、涙腺が緩んでしまう。
 
孫子の用法は、人間の尊厳をも忘れない。
思想書の香りもするから、好きだ。
 
参照 「孫子」 (岩波文庫) 金谷治先生訳注
 
 

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