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『軍師官兵衛』第9回「官兵衛試される」で
「孫子きた〜〜〜〜
はい、もちろん忘れてはおりません。
周回遅れではありますが・・・フォローしたいと思います。
9回のお題は
「 兵之情主速 」 兵の情は速やかなると主とす。
主君の説得で半兵衛に助力を貰ったことに対し、半兵衛に感謝をしつつも、
「自分の力で主君を説得したかった。」と悔しさとプライドを示す官兵衛に対し、
「兵の情は速やかなるを主とす」と半兵衛は一言孫子の言葉で返答し、
官兵衛が苦笑し納得する場面であった。
これは、孫子の九地編に書かれた一説である。
早速全文を紹介したい。
【原文】
敢問、敵衆整而将来、待之若何、曰、先奪其所愛則聴矣、
兵之情主速、乗人之不及、由不虞之道、攻其所不戒也
【和訳】
敢えて問う、敵 衆整にして将に来たらんとす。これを待つこと若何、
曰わく、先ず其の愛する所を奪わば、則ち聴かん。
兵の情は速を主とす。
人の及ばざるに乗じて不虞の道に由り、その戒めざる所を攻むるなりと。
【解説】
おたずねしたいが、敵が秩序だった大軍でこちらを攻めようとしているときには
どのようにしてそれに対処したらよかろうか。
答え。相手に先んじて敵の大切にしているものを奪取すれば、敵はこちらの思い通りになるであろう。
戦争の実情は迅速が第一。
敵の配備がまだ終わらない隙をついて思いがけない方法を使い、
敵が警戒していない所を攻撃することである。
ちなみに【九地編】とは
九とおりの土地の形勢とそれに応じた対処について述べた章である。
九地とは
散地、軽地、争地、交地、衢地(くち)、重地、圮地(ひち)、囲地、死地 をさす。
個々についてはまた別途解説したいが、今回の第十一の三は、むしろ調略の心得に関する内容であろう。
「先ず其の愛する所を奪わば、則ち聴かん。」
いわゆる「脅迫のすすめ。」であろう。
人質の略取とも取れる。
官兵衛が腹黒いのであれば、孫子なんて、真っ黒であろう。
しかし、それは味方だけでなく、敵にとっても最小限の犠牲で戦に勝つことを最大の目的としているからだ。
上記についても、人質を略取するにしても、その人質を殺せとは言っていない。
敵が大軍で攻めてきて絶対絶命の場合は、たとえ人質を取ってでも敵の弱みを突け、と言っている。
その場合、調略、謀略にしても、実行するのであれば、速やかなることが肝心だということだ。
孫子の凄みが分かるとともに、
その教えを官兵衛に対しても実行してみせた竹中半兵衛も、相当な凄みのある人物だと言えるだろう。
ところで話は変わるが、
昨日 2014年3月11日で、東日本大震災から丸3年を迎えた。
まだ3年だ。問題は山積している。特に福島第一原発事故は・・・・
頑張ろうニッポン連呼の、おざなりの追討番組のオンパレードにやや辟易していたが、
その中で昨夜の【報道ステーション】は光っていた。
放射線被曝と小児甲状腺ガンの関係についてかなり踏み込んだ長時間ドキュメンタリーを放映したのだ。
スタッフの気骨と覚悟をひしひしと感じた。これぞジャーナリズムである。
一昔前は、NHKスペシャルやEテレなど、こういう核心をつくドキュメンタリーはNHKのおはこであったが、
現会長や経営委員の下では、もはやのぞむべくもないだろう。
公共放送が政府の広報機関となってしまった情況では、
情報の収集も含め、判断することも行動することも、自分で考えなければならない。
自分の身は自分で守る時代がきたといえる。
そんな事を考えていたら、ある孫子の言葉を思い出した。
2014年3月11日。己の気持ちを忘れないために、
その言葉をここで記載したいと思う。
【原文】
塗有所不由、軍有所不撃、城有所不攻、地有所不争、君命有所不受
(九変編第八の二)
【和訳】
塗(みち)に由らざる所あり。 軍に撃たざる所あり。 城に攻めざる所あり。
地に争わざる所あり。 君命に受けざる所あり。
【解説】
道路は(どこを通ってもよさそうであるが)、通ってはならない道もある。
敵軍は(どれも撃ってもよさそうであるが)、撃ってはならない敵軍もある。
城は(どれを攻めてもよさそうであるが)、攻めてはならない城もある。
土地は(どこを奪取してもよさそうであるが)、争奪してはならない土地もある。
君命は(どれを受けてもよさそうであるが)、受けてはならない君命もある。
合掌 with LOVE & PEACE
未来と希望を忘れない |
歴史の扉 戦国2
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「軍師官兵衛」も、いよいよ【毛利攻め】が始まる。
そこで、今回は秀吉軍が得意とした【城攻め】を中心に
戦国時代の戦(いくさ)の実態をご紹介したいと思う。
【城攻め】
戦国時代の【城】は、当然ながら戦(いくさ)を想定した建築物で、
要害、要塞の設備を兼ね備えていた。
攻められても落ちないことが最大の目的であったのだ。
例えば、昨年の大河「八重の桜」の会津籠城戦で、
アームストロング砲含む砲弾で1日1200発以上も被弾しながら
結局最後まで崩壊しなかった鶴ケ城天守閣の姿を思い出してもいいだろう。
城攻めは、ことほどさように難しかったのである。
城が戦場となる合戦は、
守る側からすれば「籠城戦」となり、攻める側からすれば「攻城戦」となる。
一般的に野戦とくらべ、城の攻防戦は時間がかかり、激しい戦闘になることが多い。
小谷城攻めは、約3年 (秀吉の横川城入りから落城まで)
有岡城の戦いは、約1年
敵味方とも、攻める側も籠城する側も、忍耐を強いられる合戦であった。
最もオーソドックスな攻め方は「力攻め」。
文字通り、力任せ兵力任せに攻める戦法だ。
しかし守る側も、城という要塞内から撃退できる。
攻める側の犠牲も多かった。
鉄砲狭間、槍狭間、石落とし 云々,
今でも現存天守へ登城すれば、戦国時代の名残を観ることができる。
味方の犠牲を抑える戦法としては「兵糧攻め」が揚げられる。
別名「餓え(かつえ)殺し」といい、城外から城中への兵糧を絶つことにより
開城に追い込む戦法で、秀吉が得意としていた。
秀吉の兵糧攻めでは
「三木の干し殺し (三木城)」
「鳥取の餓(かつえ)殺し (因幡鳥取城)」 が揚げられるが
どちらも戦国史上もっとも壮絶な兵糧攻めといわれている。
(2件の城攻めとも軍師官兵衛で取り上げられるはずなので、そこで解説を書こうと思っています)
秀吉は金の力で食料を買占め、海上を封鎖し、土塀等を築いて城を包囲して、
毛利からの兵糧搬入を徹底的に阻止した。
まさに蟻(忍び)一匹も通さない徹底管理で城を締め上げたのだ。
確かに攻める側の犠牲は少ないだろう。
しかし城内は目覆うような「飢餓地獄」であった。
当時の日本人は仏教の影響で肉食の習慣はなかったが、城内の馬、家畜から、
虫、草、根っこ、ありとあらゆるものを漁りつくし、最後は餓えて死んだ人肉まで・・・・
餓死するものは数千人に上ったという。
城内の悲惨な情況に絶えかねて、どちらの城も降服を願いでた。
城兵の助命と引き換えに城主切腹である。
開城した直後、秀吉は城内で粥を焚き、餓えた人々に振舞った。
そのとき「ゆっくり食べろ」と何度も注意したが、それでも多くの者が命を落としたそうだ。
極度に餓えた人間は、大量の食料を掻き込むと内臓が対応できず頓死するという。
兵糧攻めは、武士の、いや人としての尊厳を奪う戦法であり
黒田官兵衛はあまり好まなかったと言われている。
事実、播州三木城せめも因幡鳥取城攻めのときも
官兵衛は陣中には居なかった。
三木城攻めの間は、有岡城で幽閉されており、
因幡鳥取城攻めの間は、秀吉の名代で四国に渡っていた。
ちなみに、もう一人の軍師・竹中半兵衛は体調を崩し、
播州三木城攻めの陣中で病死している。
二人の軍師が陣中に居れば、ここまでの惨劇にはならなかったのかもしれない。
秀吉の得意としたもう一つの戦法が「水攻め」である。
城の周りの地形を有効利用して川を塞き止め城を水浸しにする戦法であった。
川並衆であった蜂須賀党が彼らの土木工事技術を駆使して川をせき止めたと言われている。
備中高松城がその典型である。
私は実際自分の足で現場を歩いてみて、想像以上に、いやもうびっりするぐらい広大な範囲が
水に浸された事実を知り、秀吉という男の底力を実感したものだ。
これほど広大な土木工事を短期間の突貫工事で完成させるには、
相当な人力とお金が必要であったに違いない。
官兵衛が「命の使い道」であるなら、さしずめ秀吉は「お金の使い道」であろう。
その他、珍しい戦法として「もぐら攻め」がある。
城外からトンネルを掘り、城内の井戸に毒を入れたり、井戸を破壊して水を絶ち、
開城に追い込む戦法だ。
これは武田信玄が得意とした。
金山の金堀人を集めて、金堀の技術を駆使してあっというまにトンネルを完成させたという。
元亀2年(1571) 駿河深沢城攻め、
天正元年(1573) 三河野田城攻めが有名である。
信玄は 「風林火山」を旗印に野戦でも最強を誇っていたが、城攻めも強かった。
しかも力攻めではなく、金堀職人の技術を活用し、忍びや細作で撹乱させるなど
お金も犠牲も最小限に食い止めようとした。
スマートな戦略家だったと思う。
「孫子」の本質を理解し、実行した、真の継承者であったのだろう。
さて「城攻め」は長期戦が常である。
兵糧を断たれたら城攻めどころではない。
籠城する者も攻める者も、食料の確保は合戦を左右する重要なポイントであった。
大将は戦いをあらかじめ予想し、それにあわせて兵糧を準備して、出陣と同時か、もしくは
先発させる必要があった。
兵糧輸送の部隊は「小荷駄(こにだ)隊」と呼ばれていた。農民が運送していたのである。
食料の準備から輸送の実務までを差配していたのが、『兵站奉行』である。
合戦の規模が大きくなり、戦火が遠くなればなるほど、この兵站奉行の差配が重要となった。
兵站奉行は、前線ではたらく武将と同格以上の評価をうけていた。
特に武力で踏み潰すよりも、じわじわ「城攻め」を得意とする秀吉は、特に「兵站」を重要視した。
秀吉の兵站奉行として、石田三成、増田長盛、長束正家などが挙げられる。
なかでも石田三成の兵站手配は、抜きん出ていいた。
結果、豊臣人事においてメキメキと頭角を現していくのである。
参照 : 『戦国手帳』 小和田哲男先生 (静岡大学名誉教授)
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戦国武将の甲冑姿にしびれるファンは多いと思う。
私も一度は着てみたいと、実は、清洲城で体験したこともある
【軍師官兵衛】関連でいえば、
黒田24騎の後藤又兵衛の甲冑の現物を大坂城で見たときは、まじで鳥肌ものだった。
後藤又兵衛所用 野郎形獅噛前立兜・日月竜文蒔絵仏胴具足/大阪城天守閣蔵
大阪の陣で意地を見せ付け壮絶に散った、後藤又兵衛。
一騎当千の浪人・最後のサムライなのである。
しかし、意外と甲冑の何たるかは知られていないと思う。
【甲冑】とひとくくりでは語りきれない様式や用途があるのだ。
そこで、今回は【甲冑の基礎知識】をご紹介したいと思う。
甲冑は、【甲】が鎧で、【冑】が兜を表す。
鎧によって胴体を守り、兜で頭部と頸部を防護する。
室町以前の鎧は「大鎧」と称されたように、華美だがかなり重たかった。
しかし戦国時代に入ると、装飾に凝った華麗なものではなく、小ぶりで実戦的となる。
戦法が、それまでの騎馬戦主体から、歩兵戦主体となっていったからだ。
兵士達が身に着けていたのは、機動力を重視した【銅丸】や【腹巻】と呼ばれる鎧で、
戦国時代の主な鎧である。
戦国合戦において、大将たる戦国武将たちが身に着けていたのは、【当世具足】と呼ばれおり、
銅丸や腹巻よりは堅牢に出来ていた。
しかしそれでも実戦重視のため華麗さに欠けていた。
武将たちはステータスシンボルとして、鎧よりも兜に意匠を凝らし始めた。
いわゆる「変わり兜」と呼ばれる派手で華麗な兜の誕生である。
烏帽子型、兎型、茄子型、唐冠形、宝珠形、一の谷型など・・・
戦国武将の変わり兜といえば、大河ドラマ「天地人」で一躍有名になった
直江兼続の「愛」の兜などを思い出す人も多いのではないだろうか。
そういえば、「愛」のバレンタインチョコも流行ったね
個人的には、実物を見た変わり兜のなかでは
藤堂高虎公の兜が印象深い。
藤堂高虎の変り兜(黒漆塗唐冠形兜) /伊賀上野城天守閣資料館
は、羽・・・?! フロペラ
つーか、この兜かぶって馬に乗るだけでも相当バランス難しそう・・・
(過去記事)
その他、伊達政宗公、徳川家康公、加藤清正公、もちろん豊臣秀吉公 等々
変り兜の愛用者であった。
戦国大名だけでなく、末端の土豪や地侍も兜をかぶっていたので需要も高く、各地に多くの職人もいた。
甲冑の製造と聞くと、銅や鉄を思い浮かべるが、実は「皮作り」が欠かせないのである。
特に鎧の場合、金属片と金属片をつなぐさいに、布や紐では擦り切れてしまうので、
皮を細く切ってひも状にして使うことが多かった。
また皮そのものを銅丸の銅として使用することもあり、戦国大名やその家臣達にとって
皮の捕獲と、皮職人の確保は、重要不可欠であった。
なかには、山間部の百姓に、米の替わりに、鹿皮10枚を納めさせた例もあったそうだ。
それでは、最後に【当世具足】の各名称を下記図にてご紹介。
( 左上から)
兜鉢 前立 吹返 頬当 垂 籠手 佩盾
(右上から)
脇立 革毎 小鰭 袖 胴 打刀(太刀) 草摺 臑当
結構色々なパーツを装備しなければならず、急な出陣前は相当バタバタだったと想像される。
個人的には、大河ドラマなどで
信長公が煌びやかな具足を濃姫や小姓たちに着装させているシーンを思い浮かべてしまう
甲冑を身に着けることで、日常世界から、命懸けの合戦モードへと気持ち切り替えたのであろう。
戦場に赴く以上、死と隣り合わせだ。
甲冑や当世具足は、死の恐怖から自分の命を守る最後の砦となるからだ。
やっぱしびれるな〜。
また近々、大坂城天守閣へ甲冑を観にいってこようか
(おまけ: 息子の「愛」の甲冑姿 【参照】 小和田哲男(静岡大名誉教授)監修 『戦国手帳』より
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「軍師官兵衛」第3回、期待していたとおり
「孫子、きた〜〜〜
高まるうう。
今回は、
「怒りは復(ま)た喜ぶべく、慍(いきどおり)は復た悦ぶべきも、
亡国は復た存すべからず、死者は復た生くべからず。」
初恋の女性を惨殺された復讐心と哀しみで、仕事に身が入らず腑抜けになった官兵衛を
父・職隆が諌める言葉だ。
これは、孫子の火攻篇十二の四に書かれた一節である。
早速、全文を紹介したい。
【原文】
夫戦勝攻取、而不修其功者、凶、命曰費留、
故曰明主慮之、良将修之、非利不動、非得不用、非危不戦、
主不可以怒而興師、将不可以慍而至戦、合於利而動、不合於利而止、
怒可以復喜、慍可以復悦、亡國不可以復存、死者不可以復生、
故明君慎之、良将警之、之安國全軍之道也
【和訳】
夫れ戦勝攻取して其の功を修めざるは凶なり。命(なづ)けて費留(ひりゅう)と曰う。
故に明主はこれを慮り、良将はこれを修め、利に非ざれば動かず、得るに非ざれば用いず、
危うきに非ざれば戦わず。
主は怒りを以て師を興こすべからず。将は慍(いきどおり)を以て戦いを致すべからず。
利に合えば而ち動き、利に合わざれば而ち止まる。
怒りは復(ま)た喜ぶべく、慍(いきどおり)は復た悦ぶべきも、
亡国は復た存すべからず、死者は復た生くべからず。
故に明主かこれを慎み、良将はこれを警む。此れ国を安んじ軍を全うするの道なり。
【解説】
そもそも戦って勝ち攻撃して奪取しながら、その戦果を収め整えないで無駄な戦争を続けるのは
不吉なことで、費留 − 無駄な費用をかけてぐずついている − と名づけるのである。
だから聡明な君主はよく思慮し、立派な将軍はよく修め整えて、有利でなければ行動を起こさず、
利得がなければ軍を用いず、危険がせまらなければ戦わない。
君主は怒りにまかせて軍を興すべきではなく、将軍も憤激にまかせて合戦を始めるべきではない。
有利は情況であれば行動を起こし、有利な情況でなければ止めるのである。
怒りは解けてまた喜ぶようになれるし、憤激もほぐれてまた愉快になれるが、
一旦戦争してもし失敗したとなると、亡んだ国はもう一度立て直しはできず、
死んだ者は再び生きかえることはできない。
だから聡明な君主は戦争については慎重にし、立派な将軍は戒める。
これが国家を安泰にし軍隊を保全するための方法である。
*この一段は火攻と直接関係がなく、「孫子」全編の総括ともとれる。
孫子の兵法は「戦わずして勝利を修めること」を最善の策としており
無駄な殺戮を嫌った黒田官兵衛にとって理想のテキストであった。
「孫子」は8世紀に遣唐使によって日本に伝えられたが、当初は実戦に使われることはなかった。
戦国時代となり足軽が登場して組織戦が取りいれられるようになって、ようやく実戦に取りいれられるようになった。
武田信玄が信奉していたことは有名であるが、黒田官兵衛も「孫子」を好んで学び、実戦で活用している。
中国春秋時代の兵法であるが、平成の世の中でも処世術として通用する普遍性がある。
【費留】など、明日からでも仕事で活用できそうな言葉である。
さあ、次回も「孫子」が使われるだろうか?
楽しみにしたい。
【過去記事】
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大河ドラマ「軍師官兵衛」 で
戦国ヲタクの血が騒ぎ始めた
今回は「孫子」が引用されていた。(1回は「三略」)
もしかして、度々引用されるのではないだろうか?
「風林火山」で孫子の【兵者詭道也】取り上げたことがあり、
その時に、シリーズ化しようとも思ったのだが、時間的余裕もなく頓挫したことがある。
そこで、今年は改めて「孫子」に着目して、ブログで紹介したいと思う。
今回は、軍師官兵衛 第2回「忘れえぬ初恋」より
官兵衛の初陣のシーン。
敵の罠に気づいた官兵衛のセリフ 「半進半退者、誘也」 (半ば進み半ば退くは誘也) を取り上げたい。
これは 「孫子」の【行軍編第九の七】の一節である。
全文を紹介したい。
(原文)
辭卑而益備者、進也、 辭彊而進驅者、退也、
輕車先出居其側者、陳也、 無約而請和者、謀也
奔走而陳兵車者、期也、 半進半退者、誘也
(和訳)
辞の卑くして備えを益す者は進むなり。 辞の強くして進駆する者は退くなり。
軽車の先ず出でて其の側に居る者は陳するなり。 約なくして和を請うものは謀なり。
奔走して兵を陳ぬる者は期するなり。 半進半退する者は誘うなり。
(解説)
敵の軍使の言葉がへりくだっていて守備を増強しているようなのは、進撃の準備である。
言葉が強硬で進攻してくるようなのは、退却の準備である。
戦闘用の軽車を前に出して軍の両横を備えているのは、陣立をしているのである。
行き詰まった情況でもないのに、講和を願っているのは、陰謀があるのである。
忙しく走り回って兵士を整列させているのは、決戦の準備である。
敵の部隊の半分が進み半分が退いて統制がとれていないように見えるのは、誘いをかけているのである。
う〜む、深い。深すぎる!!
「孫子」とは、ご存知の方も多いと思うが、
中国・春秋時代の思想家、孫武の作とされる兵法書で、紀元前515年頃に書かれたと推定されている。
そして、紀元200年頃、いわゆる三国時代に曹操により整理され、本論13篇だけが受け継がれていくようになった。
紀元前に、このような人間の行動原理と深層心理を兵法に組み入れたとは・・・
兵法書でありながらも、立派な心理学書ともいえる。
超合理主義者で現実主義者の曹操が熱心に研究したわけも分かるというものだ。
ちなみに曹操がまとめた13編とは、
① 計篇 - 序論。戦争を決断する以前に考慮すべき事柄について述べる。
② 作戦篇 - 戦争準備計画について述べる。
③ 謀攻篇 - 実際の戦闘に拠らずして、勝利を収める方法について述べる。
④ 形篇 - 攻撃と守備それぞれの態勢について述べる。
⑤ 勢篇 - 上述の態勢から生じる軍勢の勢いについて述べる。
⑥ 虚実篇 - 戦争においていかに主導性を発揮するかについて述べる。
⑦ 軍争篇 - 敵軍の機先を如何に制するかについて述べる。
⑧ 九変篇 - 戦局の変化に臨機応変に対応するための9つの手立てについて述べる。
⑨ 行軍篇 - 軍を進める上での注意事項について述べる。
⑩ 地形篇 - 地形によって戦術を変更することを説く。
⑪ 九地篇 - 9種類の地勢について説明し、それに応じた戦術を説く。
⑫ 火攻篇 - 火攻め戦術について述べる。
⑬用間篇 - 「間」とは間諜を指す=スパイ。敵情偵察の重要性を説く。
今回取り上げた「半進半退者、誘也」は、第九編にあたる「行軍編」 七条にあたり
【行軍編第九の七】とナンバリングされている。
行軍編では、軍を押し進めることに関して、軍隊を止める場所や敵情の観察など
行軍に必要な注意事項が述べられており、
ドラマの中で、初陣の官兵衛が、【物見】を任され、戦場を観察するさいに、
孫子からヒントを得たという流れであった。なかなか面白かったと思う。
さて次回も「孫子」は引用されるのだろか?
楽しみがまた一つ増えたなっし〜〜
【過去記事】
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/48183913.html 兵者詭道也 (孫子計編第一の三)
【参考】
「新訂 孫子」 金谷治先生訳注 (岩波文庫)
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