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徳川家康が、天下普請 で築いた城、
篠山城! 5月3日登城先はこの城だ。 地味だが、実に家康らしい 質実剛健、堅牢などっしりとした城であった。 勿論、日本百名城。 同じ兵庫県下にある姫路城のような華やかさはないが、 姫路城同様、きたる大坂城の豊臣との大戦を想定した、戦国仕様の城であった。 まずは、篠山城のデータを。 名称 : 国指定史跡 篠山城跡 城地種類 : 平山城 城の形状 : 輪郭式と悌郭式の併用 面積 : 19.3 平方メートル 築城年 : 慶長14年(1609) 築城者: 徳川家康 天守 : 天守台のみ残る 構成 : 天守台、本丸、二の丸、三の丸、内堀、外堀、馬出 初代城主: 松井松平康重 最終城主 : 青山忠敏 最終石高: 6万石 (明治4年廃藩) 総奉行は、池田輝政 縄張は、築城の名手、藤堂高虎。 豊臣秀頼の拠点である大坂城を包囲し、 かつ、豊臣家ゆかりの西国大名を牽制するため、山陰道の要である丹波に築いた城である。 更に、旧豊臣大名の経済力を弱めるために 天下普請とし、近畿、中国、四国など 15か国20名もの大名が動員された。 城は、当時『笹山』と呼ばれた丘に築かれ、開始からわずか一年弱の短期間の突貫工事で完成した。 しかもこの笹山は、全体が岩盤で出来ており大変な難工事であったという。 家康は老年である自身の目が黒いうちに、 豊臣家をつぶす事を悲願としていたのだ。 篠山城築城は、家康の焦りと執念と必勝のための緻密な戦略が具現化している。 JR篠山口からバスに乗り、二階町て降車後、5分程で、城門に到着。 表門からぐるっと一周したが、実にいい。 最近三国志オタクとなった息子も、 『これは攻め難い城だ』 と唸っている。 そこで、 『孔明や黒田官兵衛ならどう攻める?』 と城攻めの視点で、再度登城してみた。 まず行く手を阻むのは、 幅広い外堀。 縄張りは、 典型的な『回』の字型で この幅広い外堀が、回の字型の城を 手厚く守っている。 表門にたどり着いたとさしても、 直角に曲がる枡形虎口が待ち受けている。 この枡形は、2度直角に曲がっており 入り込めは、袋小路、袋の鼠である。 城兵が、枡形城壁の上や横から 矢や礫、鉄砲を雨あられと敵兵に浴びせる様子が目に浮かぶ。 中心部の本丸、二の丸は、 すべて見事な高石垣に守られている。 この見事な高石垣! 伊賀上野城同様、 藤堂高虎の高石垣は、頂上付近の反り返りや刀のような角といい、美しすぎる。 この高さと急角度では 忍者もやすやすとは登りきれまい。 二の丸の大書院。 平成12年に復元され、資料館となっている。百名城スタンプが設置されていた。 この大書院の前に、かなり大きな井戸がある。金網越しに覗き込むとかなり深い。 固い岩盤の下の伏流水であろう。 枯れたことはない、と説明書きにあった。 さらに二の丸の南でも、大きく深い井戸があった。 二箇所の井戸で水を確保し、 籠城に備えたのであろう。 二の丸の北に『埋門(うずみもん)跡』がある。 高石垣の天辺の間口の狭い入り口である。 内堀に囲まれた本丸、二の丸は虎口が極端に少なく、広い二重の堀との相乗効果で 更に守りが強化されている。 しかも埋門から一歩でると、 断崖絶壁である。 覗き込むと、犬走りがあった。 防御に重点を置いたかが、この門からも分かる。 家康は高虎に『堅守の城を築くれ』と 注文したのではないか?と想像してしまうくらいだ。 ちなみにこの埋門周辺の石垣には、 篠山城内で最も符号や刻印があるとの事。 刻印好きの血が騒ぎ、探してみたら いくつか見つけた。 特にこの『三佐之内』の刻印は、 普請総奉行の池田輝政の名前、三佐衛門を印したものと言われている。 多くの西国大名を束ねて、 突貫の、難工事をやり遂げた 池田輝政の苦労とプライドを見たようだ。 三の丸から外堀を渡ると 『南馬出』がある。 馬出とは、城の入り口を固めるために 外堀の外に造られた曲輪の一種で、 城からの出撃に際しては、 馬を集めて一斉攻撃の最前線となった。 篠山城では、大手、東、西の三ヶ所に設置された。東馬出と西馬出が現存する。 正方形『回の字』のシンプルな形状で 守りを固めると共に、回の字の端に三ヶ所の小さな馬出を設けて、 攻守のバリエーションを広げたのだ。 シンプル イズ ベスト。 当時としては最先端の築城技術が用いられている。 老いてなお研究熱心な藤堂高虎、 家康から最も愛された外様大名の面目躍如である。 尚、実戦重視の城である事から、天守閣は築城されなかった。 無駄を嫌う如何にも家康らしい城である。 二の丸からの眺め。 丹羽の山々に囲まれた、天然の要害だとわかる。 地味に見えて、実は全く隙のない城だと実感した。 共に見物した息子に 『孔明や曹操なら如何に攻めるか?』 と再度質問したところ、 『これだけ守りが固いと、調略か、内部通報者による撹乱しかないなぁ』 なんてのたまう。 いやしかし、息子よ、 徳川家康は、そんな考えなどお見通しだ。 篠山歴代城主として、 江戸幕府の信頼厚い、譜代大名の4家が 藩主として次々と勤め上げている。 謀反の芽も摘み取られていたのだ。 大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し、 徳川幕府が安定すると、 篠山城は、西日本の諸大名の抑えの城となった。 中国、近畿、北陸に繋がる要衝として 家康が最も恐れた西国へ、江戸期に睨みを効かせた、堅守の城であった。 |

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