食うべき詩

お笑い芸人の件から生活保護受給者へのバッシングが一気に吹き出た。濫給と漏給のほんとの実態を知ってほしい。

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ブログの世間(2)

阿部謹也の「『世間』とは何か」は、日本ではいまだ「社会」は未成熟であり、あるのは「世間」であること、わずかな例外を除いては西欧的意味での「個人」は存在せず、したがって「世間」も対象化されてこなかったことを論じている非常に刺激的な著作です。
世間とは個人個人を結ぶ関係の環であり、会則や定款はないが、個人個人を強固な絆で結び付けている。しかし、個人が自分からすすんで世間をつくるわけではない。何となく、自分の位置がそこにあるものとして生きている。(中略)
世間には厳しい掟がある。それは特に葬祭への参加に示される。その背後には世間を構成する二つの原理がある。一つは長幼の序であり、もう一つは贈与・互酬の原理である。(中略)贈与・互酬とは、対等な関係においては貰った物に対してほぼ相当な物を贈り返すという原理である
「『世間』とは何か」 講談社現代新書 p16-17
西欧では社会というとき、個人が前提となる。個人は譲り渡すことのできない尊厳をもっているとされており、その個人が集まって社会をつくるとみなされている。したがって個人の意思に基づいてその社会のあり方も決まるのであって、社会をつくりあげている最終的な単位として個人があると理解されている。日本ではいまだ個人に尊厳があるということは十分に認められているわけではない。しかも世間は個人の意思によってつくられ、個人の意思でそのあり方も決まるとは考えられていない。世間は所与とみなされているのである。
同p13-14

「なぜ日本では個人の権利や自由というものが軽んじられるのだろう」と事あるごとに考えていたわたしは、すばらしく単純明快で鮮やかな解答を示されたと思いました。そっか、個人や個人が作る社会という考え方が根付いていないのに個人の権利もクソもないか。「世間は所与とみなされている」・・・まったくそのとおりです。だから、「世間体が悪い」とか「世間の目」とか「世間様」とか「世間並み」とか「世間知らず」とかそんな言葉には、理屈で反論しづらいような圧力を感じるんだな。逆らうと「世間じゃ通用しない」などと言われてしまうんだな。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」(「草枕」)と夏目漱石も書いたように、多くの日本人にとって、人の世=世間はままならないものと意識されてきたようです。「浮世(憂き世)」という言葉遣いにも、そういった意識がにじみ出ている。世間というのは、はじめからある、柔らかくて巨大な壁みたいなもので、動かしたり変えたりできないというあきらめが人々の意識の底にある。いつも世間の目を気にして、世間に通用するような生き方をせざるを得ないことに、ときには反発したり憂鬱になりながらも、「世間はままならない。。。」ってあきらめちゃう。

歴史を通じて個人と社会の関係を規定してきた「世間」は、明治の文明開化をもってしても解体することはできませんでした。言葉の上では、特に法律や政治や教育などの方面の書き言葉は「世間」から「社会」に置き換わったけれども。更に敗戦の結果もたらされた新憲法が、もう一度社会と個人の関係を規定しなおしていくら個人の尊厳や基本的人権を謳っても、世間にはまだ通用していないのが現状です。書き言葉=文字では「社会」という言葉が使われるけれど、話し言葉=会話から「世間」は消え去っていません。話し言葉を対象化することの重要性を、阿部謹也は次のように書いています。
 この百年の間わが国においても社会科学が発達してきたが、驚いたことにこのように重要な世間という言葉を分析した人はほとんどいない。私達は学校教育の中で西欧の社会という言葉を学び、その言葉で文章を綴り、学問を論じてきた。しかし文章の中では扱われないことを会話と行動においては常に意識してきたのであって、わが国の学問が日常会話の言葉を無視した結果がここにある。
 いわば世間は、学者の言葉を使えば「非言語系の知」の集積であって、これまで世間について論じた人がいないのは、「非言語系の知」を顕在化する必要がなかったからである。しかし今私達は、この「非言語系の知」を顕在化し、対象化しなければならない段階にきている。そこから世間のもつ負の側面と、正の側面の両方が見えてくるはずである。世間という「非言語系の知」を顕在化することによって新しい社会関係を生み出す可能性もある。
同p27

ブログのもつ革新的な可能性について考えていることがあります。
(1)ブログは文字中心であること。思想や学問に関する記事でなくても、たとえ扱う内容が日常会話レベルの延長でも、自分の考え・思いを文字に綴る事(表現)は、ある程度以上自分の考え・思いを自分と切り離して対象化しなくてはなりません。この作業を社会の各層が、特に今まで表現と無縁だった人々が行うことは、いわば新しい形での社会参加です。参加の規模と深度にもよりますが、世間のあり方になんらかの影響を与えるかもしれません。
(2)ブログは実社会での人間関係から切り離し可能であること。世間のしがらみにわずらわされず、世間の目を気にせずに、自分の考え・思いを表出できるわけです。否定的反応があっても、せいぜい荒らされるくらいで、実社会での生活に波及する事は基本的にはありません。世間は、本音と建前を分けること、分けることに違和感を持たなくすることにも作用していると思いますが、この日本的思考スタイルにブログがなんらかの影響を与えるかもしれません。

まだまだ続きます。

■虫干しにあたっての補遺(22) 2009/02/26
「まだまだ続」いていません。。。
(元の書庫【ブログのこと】)
過去記事の虫干しにあたって

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最後のパラグラフでブログの可能性について書かれておられますが、ここはすごく頷くのが半分、その反面でクラスター化したコミュニティの中で何となく顕れてくる「同調圧力」と「そのコミュニティだけで通用するプチカリスマ」に現実社会の縮図を見る思いがします。

2006/11/13(月) 午前 0:53 ナイジェル 返信する

スミマセン、続けてになってしまいますが(なぜか「登録できない文字列が…」攻撃がヤフから来てしまいました)、ネット上の議論(もどきも含めて)を見ていても、「国」とか「法律」とかなんでこうア・プリオリなものとして考えられるのだろう、と思うことしきりです。著作権の話なんかはある意味典型なのかもしれません。また「国」を考えるときに何でこう=「政府」と考えられるのか、また自分を「政府」の側に無前提にアイデンティファイできるのか、不思議に思います…。

2006/11/13(月) 午前 0:59 ナイジェル 返信する

o_keke_nigelさん、プチカリスマと同調圧力、まさにそこです。この連載のタイトルを「ブログの世間」としたのは。ブロクの世界にも世間が形成されつつあるのかなと感じています。続編考え中です。

2006/11/13(月) 午後 8:16 トンコ 返信する

国や法律がアプリオリに捉えられてしまうのは、日本固有の現象なのでしょうか。また歴史を通じてそうなんでしょうか。そのあたりがよく分らないのですが、地縁・血縁や友人・知人、学校や職場といった目に見える人間関係にしか関心がもてず、なおかつそういう世間に拘束されつつ自分も世間の一員でいることに疑問をもたない、そういう心性と関係ありそうです。

2006/11/13(月) 午後 8:27 トンコ 返信する

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「私と【わたし】」の記事を読んで、上から三番目のコメントの「一回りしてきた」という意味が理解できました。腑に落ちたと言ったほうがいいかな。

2006/11/20(月) 午後 2:59 牛男 返信する

そうですね、関連はしていますが、ここで言っているのはもっと狭い意味でした。西欧的価値を歴史・地域を超えてストレートに人類の普遍的価値にまつりあげてしまうことへの疑問を持った段階を経て、もう一度その普遍性に気づいた(自分が)ということです。西欧以外の歴史や文化を少しずつ知ったのが背景です。

2006/11/20(月) 午後 8:53 トンコ 返信する

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転載問題でたどり着いたこちらですが、幾つか読んでいまして興味深い内容がありましたのでコメントさせて頂きます。 もしまだご覧になっていらっしゃらなければ、ぜひ下記資料に目を通してみてください。この「ブログの世間」シリーズに限らず、記事の参考になるのではないかと思いますので。 情報社会の倫理と設計についての学際的研究 http://www.glocom.jp/ised/ 削除

2006/12/11(月) 午前 1:27 [ Z ] 返信する

Zさん、はじめまして。よいサイトを教えていただきました。白田秀彰さんの講演&ディスカッションも載っていますね。あの人はすごいです。このシリーズでも白田さんの著作などを参考にしています。阿部謹也さんのことを恩師の一人てどこかで書いていました。繋がってきますね〜!法律のみならず、ネット関係と歴史にも造詣が深いんですよね。ゆっくり読ませていただきます。どうもありがとうございました。

2006/12/12(火) 午前 0:12 トンコ 返信する

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このカテゴリの最新記事がここですので連投になってしまいますがご容赦を。小寺信良氏のコラムも参考になるのではないかと思いますので語溶解させて頂きます。http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0610/16/news008.html 削除

2006/12/31(日) 午前 0:36 [ Z ] 返信する

Zさん、コメント見落としていて申し訳ありません。小寺氏のコラム読ませていただきました。「ネット世間」という言葉を使ってますね。かつての「ネット社会」を一定の秩序あるものととらえてそれとの対比で「世間」としているようです。参考にさせていただきます。

2007/1/4(木) 午前 10:26 トンコ 返信する

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あまり紹介しすぎるのもお腹一杯でしょうけれど、最近の記事から考え真するに次の資料もよいのではないかと思いますのでご紹介します。:http://maname.txt-nifty.com/blog/2006/01/post_ba3d.html 削除

2007/1/6(土) 午後 0:13 [ Z ] 返信する

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う・・・よく考えたらこれはwataritori_novelさんかumikaze_engineerさんへご紹介したほうがよかったかな。でもマルチポストするのは気がとがめるのでここでのご紹介のみでご容赦を。 削除

2007/1/6(土) 午後 0:16 [ Z ] 返信する

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↑Zさん、リンク先、拝読しました(笑)私としては・・・記事の「ネット社会に対する認識」と「趣旨(ブロガーに求める理想的姿勢)」には賛同、現実論としてやや異議あり、といったところかな。ここはトンコさんちなので、感想に留めておきます〜。

2007/1/6(土) 午後 6:12 [ わたりとり ] 返信する

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お気遣いありがとうです。本当は他に読ませたい人がいるのですが、その人からは受け付けてもらえなさそうです・・・ 削除

2007/1/6(土) 午後 8:23 [ Z ] 返信する

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<お上は許しても世間が許さん>というのがありましたけど、私とお上の間に昔は世間があったです…家の地位と権限はおいときます。今、その世間が溶けてしもうて、私とお上直結のアジールなしの息苦しい世の中になってる思います。
世間にはいろいろな意味がある思いますけど、ここは世間=自治と考えていいと思うです。

国家形成が進み、都市化が進展し、近代化が始まると、「世間」も変化を迫られた。なによりも自然環境の変化によって「世間」のなかで人間関係が強く打ち出されることになった。国家形成も都市化も近代化も必ずしも人々の生活にすぐなじむものではなかった。人々はこうした動きの中で抵抗の意志を秘めて「世間」を維持し続けてきたのである。「世間」は人と人とを結びつける原基的意識形態であったからである・・・阿部謹也『『教養とは何か』

阿部・網野・鹿野はよう読みました。
はい。

2009/2/26(木) 午後 10:31 低人 返信する

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前に書いた記事から
・・・死神博士の天本英世は天本は苦労し努力して「非国民」となった人だ。『日本人への遺書』には、この辺りの「私は非国民でけっこう」とか「乞食になるつもりで俳優になった」といういきさつと、彼が愛したスペインが書かれている。その天本英世が「ぼくなんかは60歳になってやっと【非国民】になれたが飯干は20歳ですでに【非国民】だった」と評価するのが飯干晃一だ。
・・・私も【非国民】になろうと日夜努力しております。^ω^

2009/2/26(木) 午後 10:34 低人 返信する

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ああ、何かもの凄く脱力感を伴ってスッキリです。低人さんの引用されてる箇所も。既に「世間」を解説してくれてた人がいたんですね!丹念に過去記事を読ませていただけばよかったです。今までこの辺のことを、何遍も書いては消し書いては消ししていて。
自分が置かれてる状況を的確に言い表せなくて七転八倒した私っていったい、という一抹の寂しさと悔しさが。
教養がないって悲しい・・・私は所詮うれない絵描きだトホホ・・・と。
私もこれはかなり毒を出さなければ。

2009/2/26(木) 午後 11:56 [ MoranAoki ] 返信する

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↑ショックのあまり、自分の無教養を嘆くに留まってしまったので改めて。
この記事を読んで、また何かヒントを頂いた気がしてます。
「世間」の消失は、ジェンダーの問題とも深い繋がりがあると考えはじめてます。
旧来女性が担っていた「視野の狭い頑固な専門家(男性を指しています)の間の文化的社会性を保持 カレル・チャペック【女性と職業】」する役割は世間を媒介にして行われていたと思うのですが、世間が消失したために、男性を介在させない女性同士の独自の繋がりも断たれてしまったように思うのです・・・まだちょっと考え中ですが。

2009/2/27(金) 午後 6:45 [ MoranAoki ] 返信する

>低人さん、このとき『「教養」とは何か』も続けて読んだんですが、意外にピンと来なかったんですよね。近代的な中央集権的な国家作りへの対抗的な側面というのはあると思うのですが、「世間=自治」とするのはどうかな〜。もう一度読んでみます。

低人さんの天本英世の記事は、確か以前にご紹介いただいて読んだ記憶があります。低人さん、努力されているんですか?もう十分非国民な感じしますけど。きしし!!

2009/3/1(日) 午後 10:43 トンコ 返信する

>モランさん、脱力感を伴ってスッキリ?それは良かったです。けど、教養はわたしも人のこと言えないので、なんとも。。。
地方、特にいわゆる村社会的な意識が根強いところでは、歴史用語でいう「惣村」の構造が残っているんじゃないかと思います。このことは低人さんの仰る、「世間=自治」という側面も示しているんじゃないかと考えます。

ジェンダーの問題ですか?カレル・チャペックという人も知らないので、うーん、ちょっとまだ分らないです。。すみません。

2009/3/1(日) 午後 10:56 トンコ 返信する

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