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徐京植氏のテレビ番組経由でプリーモ・レーヴィを知ってから、事あるごとに1987年のプリーモ・レーヴィの自死について考えるようになった。事あるごとに、というのは、イスラエル国家によるパレスチナ人に対する恒常的な抑圧、組織的な虐殺に関する報道を目にする度にということだ。 プリーモ・レーヴィはイタリア生まれのユダヤ人で、アウシュビッツ収容所から奇跡的に生還し、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺の貴重な証人の一人となった。「これが人間か」(邦訳書「アウシュヴィッツは終わらない——あるイタリア人生存者の考察」)にはこう書かれている。 暖かな家で
何ごともなく生きているきみたちよ 家に帰れば 熱い食事と友人の顔が見られるきみたちよ。 これが人間か、考えてほしい 泥にまみれて働き 平和を知らず パンのかけらを争い 他人がうなずくだけで死に追いやられるものが。 これが女か、考えてほしい 髪は刈られ、名はなく すべてを忘れ 目は虚ろ、体の芯は 冬の蛙のように冷えきっているものが。 考えてほしい、こうした事実があったことを。 これは命令だ。 心に刻んでほしい 家にいても、外に出ていても 目覚めていても、寝ていても。 そして子供たちに話してやってほしい。 さもなくば、家は壊れ 病が体を麻痺させ 子供たちは顔をそむけるだろう。 プリーモ・レーヴィはイスラエルによるパレスチナ占領に反対した。アウシュビッツの生き地獄を経験しながら、それでも人間を信じようとしたプリーモ・レーヴィが、ユダヤ人国家によるパレスチナ人への死と恐怖の強制をどう見たか、その絶望を思うと言葉も無い。自死のいきさつは謎だし、一人の人間が自ら死を選ぶのは単純な理由ではないと思う。しかし、イスラエル国家の振る舞いを見る度に、どうしてもプリーモ・レーヴィの絶望に思いを巡らせてしまう。「苦しみ・悲しみを知った人こそ人に優しくなれる」などと歌謡曲でよく歌われるが、わたしにはそんな絵空事は信じられない。 ガザでイスラエル軍地上部隊による作戦が始まった。12月27日の空爆開始以来パレスチナ人の死者は500人を超えたという。
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TBありがとうございました。
もう、あんな酷い物は見たくない。巻き込まれたくない。
そういう気持ちだけでも、自然に暴力の連鎖はとめられると思うんですが
なぜか、二度とやられないために、やる側になればいいという理屈になってしまう。日本も。
自尊心を傷つけられている状態だと、容易になにかの煽動に乗りやすいという事を
示しているように思ってしまいます。
2009/1/6(火) 午後 2:21 [ MoranAoki ]
モランさんに謝らなければなりません。色々迷ったのですが正直に書かせてもらいます。
そちらの記事が転載記事だということに先ほど気づきました。昨日は深夜で目がショボショボしていて、その上酩酊状態でした。これまで見聞きし議論してきた体験の上で、わたしはYahoo!ブログの転載機能は不要かつ有害なものだと考えるようになっています。記事を丸ごと転載しなくても、自記事での引用・リンクによる紹介でことは足りると思うからです。(転載機能に関する記事を集めた書庫も設けています。)
モランさんが元記事に心を動かされ転載した気持ちを察することはできます。しかしそれでも、他の方の書かれた記事を、モランさんが書いたと勘違いしてコメントしたりトラックバックしてしまったのはわたしのミスです。わたしはモランさんの書くものが好きだから継続して読み、時折コメントしてきました。そしてモランさんの書いた言葉に繫がりたくてトラックバックしてきました。それが他の人の言葉だったのは、自分にとっては残念なことだし、モランさんには申し訳無いことです。
2009/1/6(火) 午後 11:35
そうだったんですか。
いや、こちらこそはっきりと断り書きを入れなかったので、トンコさんが間違うのも当たり前だったと思ってます。もっと解りやすくしておけば良かったです。
かえってごめんなさい。
あの記事で使われていた画像はもともと回覧目的で海外在住の方のブログを回って来ていたものです。だから画像を使って新しく記事を書けば良かったと、実は後で他の方が書かれた記事をよんで思ったのです。あの記事を書いたPINKさん(ドバイに在住です)に完全に乗っかっちゃった気がしたので。
問題の性質上、知ってもらう事が優先すると考えたので、そのまま転載するのが良いと思ったのですが、ある意味画像に負けない記事を書く自信が無くて、手間を省いたところもたしかにあります。誠実じゃなかったかもしれない。
2009/1/7(水) 午前 1:13 [ MoranAoki ]
私も転載と著作権について、自分の意見を書いた方がいいかなぁ。
まだまとめてないのですが。
以前にも、活動を休止してしまい更新が無くなったブログの記事がネット上から消えないよう、転載によって保存しようという呼びかけに応じた事もあります。
それには、自分で記事を手軽に読み返せる形にして、勉強したいという思いもありました。
2009/1/7(水) 午前 1:17 [ MoranAoki ]
>2009/1/6(火)内緒さん、宗教対立ではないと思います。パレスチナ問題というのは根が深く複雑な問題で、わたし自身も知識は浅いです。が、思いっきり簡単に言うと、パレスチナ人が住んでいた場所にヨーロッパなどからユダヤ人がやってきて、「2000年前は私達が住んでいたから君らは出て行け」と言って軍事力でそれを既成事実化しているということだと思います。
2009/1/8(木) 午前 0:24
>モランさん、パレスチナの問題から離れてしまいますが、転載問題についての一般論ではなくて、今回は自分自身の気持ちを書いてみます。記事を準備中ですので少々お待ちくださいませ。
2009/1/8(木) 午前 0:29
年末にバルト三国(?)の紛争に巻き込まれた女性の映画をみたよ。
その人は敵国の兵士からも自国の兵士からもひどい扱いを受けて
その傷を抱えて生きているんだけれど 職場でエアロビクスの参加のときにもう少し笑顔でできないか?といわれて結局そこの職場を去るんだけれどね。
その戦争は歴史書には載っていなくて 国立図書館の倉庫に眠っている資料の何冊かのファイルにしか収められていないんだって
「わたしは貝になりたい」を若いころに見たので今、リメイクされている作品をあえて見に行く気にはなれないのだけれど
この映画がヒットして中学生や高校生に見てもらえればいいなと思う
。
2009/1/10(土) 午後 0:48 [ tolicot ]
>トリコちゃん、バルト三国の戦争?第二次大戦のときじゃなくて?ソ連解体のときかな?なんていう映画だろう。なんか観てみたくなったので、タイトル教えてくれるとありがたいです。
2009/1/13(火) 午前 0:21
それが・・・ぜんぜんタイトルがわからなくてね。
いちおう恋愛映画で その後主人公の女の人が石油コンビナートの怪我人の世話をしにいって 看護をしていくうちにお互いの心の傷に触れ合って心を通わせる話なんだけれどね。
フランス映画っぽいんだけれど その紛争もロシアのだったかフランスのだったかいまいち覚えていなくてゴメンネ。
2009/1/13(火) 午前 2:04 [ tolicot ]
残念。。手がかり少なすぎだね。
っていうかロシアかフランスなの?バルト三国の話じゃないの?
2009/1/14(水) 午前 0:56
こんばんは。ちょっと前のエントリーに突然のTBとコメントで失礼します。
私は中東について全くと言っていいほど無知なのですが、前に読ませてもらった、たぶんこの記事の記憶からだと思います、この映画についてトンコさんがどう思われるか、お考えを聞いてみたい気がして、改めてブログ内検索でこの記事に辿り着きました。
2011/4/14(木) 午後 8:52 [ spi*zi*ar* ]
ブログを開く機会が減っていて、お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。映画のことも、エピソードそのものも知りませんでした。spitzibaraさんの記事のリンク先も読んでみました。映画を見ていないので、なんとも言えないのですが、突発的な「事故」から極めて短時間のうちに移植手術が行われたことに、まず直感的に違和感を感じました。手際の良さというか、タイミングの良さというか、それが何か不自然です。
パレスチナとイスラエルの関係というただでさえ難しい問題に、さらに脳死判定・臓器移植という難問が絡み合って、もうなんだか分かりません。ただ情緒的に「美談」に仕立ててしまうのはすごく嫌です。
2011/4/16(土) 午後 11:46
どこかで読んだか聞いたか忘れましたが、「脳死」というのは、臓器移植をクリアーするために出てきた概念なのであって、臓器移植なくして「脳死」をどう考えるかという命題は出てこないのだと。脳死判定の是非を論じることそのものが、「賛否両論あるけど解決しなくてはならない」という状況を作ってしまう。つまり推進派の土俵に乗ってしまうことになる、という見方に同意します。つい最近の日本での子供からの臓器摘出・移植手術に暗澹たる気持ちになっています。
2011/4/16(土) 午後 11:56
お返事ありがとうございます。「賛否両論あるけど解決しなくてはならない」という状況出の議論が繰り返されること自体が、推進派の土壌を作っているというお話は、死の自己決定権をめぐる議論にも通じていきますね。
2011/4/17(日) 午前 7:57 [ spi*zi*ar* ]
「死の自己決定権」については、以前の記事がきっかけとなって大切なブログ友達との交流断絶という苦い体験があって、ちょっと棚上げ状態です。 spitzibaraさんの実生活・実体験に基づく思いがあって、わたしのそのブログ友達にも同じように自らの心と体から湧き出てくる思いがあった。それに比べてわたしは、ただ原則論・一般論しか語れていないっていう気持ちがあります。
ただ、「死の自己決定権」という言葉で意識されていたかどうかは別にして、昔も今も自らの命の終わらせ方については、人々それぞれに様々に考えてきたのではないかと思っています。そういう意味で、脳死や臓器移植とはちょっと違う、現代の医療技術や生命倫理とは相対的に別個の、スタンドアローンの課題として「も」考え続けたいというのがわたしの立場です。
2011/4/18(月) 午前 2:01