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書庫相模原畑地かんがい用水

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昭和10年代の神奈川県相模川河水統制事業に関する
公文書の展示が、相模原市立公文書館であります。
2004年に僕が徒歩でたどった「相模原畑地かんがい用水」、
これのもとになった事業です。ぜひ見に行こうと思います。

この公文書館はウチからちょうど10kmほど。
「ジョグで行って着替えて見学して、
バスで橋本駅まで帰る」でやれば、
趣味と実益兼ねて楽しめます(^_^)。
下九沢の横浜・川崎水道局の大円筒分水池も、
道すがら見られるし(^_^)。

いつ行こうかな(^_^)。
その3からの続きです(^_^)。
 
* 図と写真(続き) *

図の中の数字は、下の写真の番号と対応しています。 
 
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僕が古本で入手した、神奈川県農政部耕地課発行『神奈川県相模原開発畑地かんがい技術史』1965年、これの図面編にあるB3版の図から4分割してスキャン。Photoshopのパノラマで繋ぎ合わせて掲載)
 
【西幹線】
(10)ちょっと顔を出した西幹線
大阪の「丸島水門製作所」製作の水栓がまだ残ってた。ネットで調べたら「丸島アクアシステムズ」となっていまもある会社のよう。現在も水門、水路機材等の大手のようだ。
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(11)大塚隧道出口
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(12)富士見ボウル西の西幹線跡
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(13)御所見支線跡
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(14)綾瀬市落合に残る西幹線からの分水跡1
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(15)綾瀬市落合に残る西幹線からの分水跡2
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 この綾瀬市落合の辺りの畑かん水路の遺構を、Ton's Tonesのホームページ時代からご覧くださって、いろいろコメントをくださったozawajun様が、たくさんの写真に納めておいでです(←クリックしてください)。この辺りにはこんなにたくさんの遺構が残っています。
 

参考資料
『神奈川県開発畑地かんがい技術史』1965年 神奈川県農政部耕地課(複写版が相模原市立博物館市民研究室にあります。僕は当時刊行の本を古本で入手して所蔵しています)
横浜市水道局 相模川系導水路平面図〈久保沢ずい道、相模ずい道(大型)、横浜ずい道(小型)〉(複写、相模原市役所文化財保護室蔵)
相模原市相武台歴史同好会編著『畑地かんがい用水のいま 相模野農民のあとさき』(2003年12月)
 
その2の続きです(^_^)
* 図と写真(続き) *
図の中の数字は、下の写真の番号と対応しています。 
 
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(僕が古本で入手した、神奈川県農政部耕地課発行『神奈川県相模原開発畑地かんがい技術史』1965年、これの図面編にあるB3版の図から4分割してスキャン。Photoshopのパノラマで繋ぎ合わせて掲載)
 
 
【大野支線】
(5)相模中央緑地の中の用水跡
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(6)国道16号線すぐ隣に残る大野支線
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(7)大野排水跡か? 
 間違いに気付いたので写真を削除
 
 
【大和支線】
(8)国道246号バイパスと交差するあたりの大和支線跡
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【東幹線】
(9)大和市上ノ原の用水路跡(大和歩行者専用道)
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その4へ続く。 
 
参考資料
『神奈川県開発畑地かんがい技術史』1965年 神奈川県農政部耕地課(複写版が相模原市立博物館市民研究室にあります。僕は当時刊行の本を古本で入手して所蔵しています)
横浜市水道局 相模川系導水路平面図〈久保沢ずい道、相模ずい道(大型)、横浜ずい道(小型)〉(複写、相模原市役所文化財保護室蔵)
相模原市相武台歴史同好会編著『畑地かんがい用水のいま 相模野農民のあとさき』(2003年12月)
この一連の記事は2004年の春夏にかけて探訪した記事を少々改め、再掲しているものです。これらをまとめるに当たっては、相武台歴史同好会のI様、横浜水道資料館、相模原市文化財保護室の方々には大変お世話になりました。謹んで感謝申し上げます。ありがとうございました。(もしよかったら、その1へ)

* 共用導水路概史 *
畑地かんがい用水は昭和20年代、まず横浜市水道局が相模湖→下九沢分水池→相模原沈でん池とひっぱっている水道から、沈でん池すぐ北の「虹吹」で分水して、水を得ていた(すぐに専用導水路を掘るという約束のもと)。横浜の水需要の増加は著しく、昭和35〜38年にかけてやっと畑地かんがい用水用の導水路が掘られた。もう用水路使用の末期。着工に前後するぐらいには、もうかんがい地域畑地の工業用地への売却が始まっている。
この導水路跡が実際、今のどの道に当たるかは、相模原市都市計画図を使い相模原市役所文化財保護室蔵「横浜市水道局 相模川系導水路平面図」(複写)で調べさせていただいた。導水路は全線が隧道なため地上からはほとんどわからない。ただ隧道だけに、上にも書いたように総工費の殆どが使われた大事業だった。久保沢から相模川の段丘崖沿いは小仏古生層の岩盤、砂利帯。そして田名にはいると風化火山灰土層(関東ローム層)。各々を掘り進めていくのにどんな苦労があったかは『相模原開発畑地かんがい技術史』(1965年)でわかる(歩いてから読むとホントによくわかります)。落盤や死亡事故、水脈を切って井戸が枯れた、掘って出た土の処分etc、とても克明に記されている。これはもう使われなくなったまま、この土の下にずっと埋まっている。もったいないなぁ。畑地に使わずとも、普通に水道に使う必要ってなかったのかなぁ。実際これは「共用導水路」なんだよね。
 
* 図と写真 *
下に図といくつかの場所の写真を載せ、その3その4まででまとめました。図の番号に、下の番号・説明が対応しています。写真はこれだけではなく、この10倍以上は撮影しています。どうかぜひ足を運ばれて探してみてください。
 
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僕が古本で入手した、神奈川県農政部耕地課発行『神奈川県相模原開発畑地かんがい技術史』1965年、これの図面編にあるB3版の図から4分割してスキャン。Photoshopのパノラマで繋ぎ合わせて掲載)
 

【導水路】
(1)共用導水路 PC水路橋
津久井発電所上の津久井(久保沢)分水池を出てすぐの畑地かんがい導水路用コンクリート水道橋
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(2)相模原市大島から葛輪にかけての畑地を通る導水路上の道路(南から北を望む)。
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(3)上溝サイフォン。相模原市立上溝中学校土手にあるサイフォン管理用入口(右)
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(4)虹吹分水池
虹吹分水池には県営水道へのバルブ(設計図を見ると1.6立方m/s弱送水することになってた)が残ってるし。まだまだ疑問はたくさんあります。
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その3に続く(^^;;;)
 
参考資料
『神奈川県開発畑地かんがい技術史』1965年 神奈川県農政部耕地課(複写版が相模原市立博物館市民研究室にあります。僕は当時刊行の本を古本で入手して所蔵しています)
横浜市水道局 相模川系導水路平面図〈久保沢ずい道、相模ずい道(大型)、横浜ずい道(小型)〉(複写、相模原市役所文化財保護室蔵)
相模原市相武台歴史同好会編著『畑地かんがい用水のいま 相模野農民のあとさき』(2003年12月)
(2004/05/04探訪記です)

僕は3歳の時(昭和46年・1971)、父の転勤で東京都品川区二葉から
神奈川県海老名市柏ヶ谷(現在の相模鉄道かしわ台駅近く)に越してきた。
そして父が当時勤めていた会社(報国チエン)の
隣の敷地に建てられた社宅に住んだ。
母に連れられたり、また幼稚園(父の会社の附属幼稚園)で散歩に行くと、
ボウリング場(富士見ボウル)の近く、
ちょっと坂を上がったところに、真ん中に水路が通って、
その両側を細い道が走る不思議な道路があったのが、
かすかに記憶にある(当時の記憶だけというより、
たぶん後年、自転車で走り回ったことでも強化された記憶とは思う)。

5歳になって現在の相模鉄道さがみ野駅近くに越した。
僕は24歳で自立するまで、ここで過ごすことになるのだが、
この周辺には暗きょ水路沿いに桜並木があった。
小学生時代はずいぶんその桜並木の下を自転車で走り回って遊んだ。
小学校高学年から中学生になると、
自転車に乗って江ノ島などへ遠出するようになった。
大和のダイクマあたりから高座渋谷の先ぐらいまで、
国道467号(藤沢町田線)沿いにも桜並木を見つけた。
厚木基地の滑走路南側を走ると、
道沿いや畑の中に不思議な土管水路があった。
大学生になり大和自動車学校に通い出した時、
その脇にも桜並木を見つけた。

その記憶全てが、つい最近になって一本の線となってつながった。
それらはすべて「畑地かんがい用水」の水路跡だったのだ。

 
イメージ 9
(僕の所蔵する、神奈川県農政部耕地課発行『神奈川県相模原開発畑地かんがい技術史』1965年、これの図面編にあるB3版の図から4分割してスキャン。Photoshopのパノラマで繋ぎ合わせて掲載)
 
相模原畑地かんがい用水は、昭和23年(1948)から昭和38年(1963)の
足かけ16年をかけて、相模原から藤沢・綾瀬までの台地上に、
食糧増産、畑作農業の経営安定化・収量増加を狙って作られた農業用水路。
だが昭和30年代に入り、都市化や工業化の波にのまれ、
竣工とほぼ同時に使われなくなった悲しい歴史を持つ。

この水路の計画は昭和15年(1940)にはじまる
相模川河水統制事業に端を発している。
この事業の柱は「横浜・川崎の飲料水・工業用水の不足への対応」と
「電力開発」「相模原台地上での大規模畑地かんがい」。
この計画によって相模ダム(相模湖)の建設が計画され、
第二次大戦後、同ダム(相模湖)は完成する。
そして「相模原台地上での大規模畑地かんがい」は
昭和23年にスタートする。
久保沢にある津久井の発電所から取水する導水路、
各幹線、支線を当時の費用で約10億円をかけて建設、
昭和35年(1960)には計画の50%が完成したという。
当時の10億円だ。
いまなら下手をすると100億は超えるかもしれない。
幼い頃からの僕の記憶にある水路跡の範囲だけでも相当広い。
ものすごく大規模な建設工事だ。
 
家から30分ほど歩いた北里大学病院近くの相模ゴルフクラブフェンス際に、
西幹線の水路がまず顔を出す。

イメージ 1
相模ゴルフクラブフェンス際、西幹線の水路(上)
コンクリートブロックの積み方(下)
イメージ 2
 
コンクリートブロックを重ねた逆台形の水路。
ゴルフ場の中にはこの西幹線と東幹線の分岐(東西分水工)が
まだ残っている(機会があったらぜひ見たい)。
県道の村富線をまたいですぐ、今度はコの字形の水路で顔を出す。
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コの字形水路(上)、西幹線はこのすぐ左脇に埋められている。 
円筒型水路(右、セグメントパイプ)
両方とも本選水路から分水した支線。
イメージ 4
 
基本形としては逆台形の水路のようだが、
これから先いろいろな形の水路がまだ残っている。
まず円筒形の土管の上を抉った形のもの(上の写真)。
これは相模原市麻溝台と新磯野の境ぐらいの水路跡で見つけた。
逆台形の本線水路に並行するように、写真の円筒形水路が走っている。
この本線の上流で分水したものだ。
抉ってあるのは恐らくここにホースを入れて、
本線から取水する形でなく周辺の畑に灌漑するためののものなのか。
『綾瀬市史 7 通史編 近現代』には、
U字形の水路(U字フリューム)にホースを入れて
灌漑している写真が掲載されている。

同じく新磯野には遊歩道沿いに2つ水門がのこっている。
イメージ 5
 
イメージ 6
上流側の水門、堰にもなっている(上) 下流側の水門(下)
上流側のものは恐らく、麻溝排水の水門ではあるまいか。
下流のものは現在の相模原市新磯野4丁目方面への分水水門ではないかと思う。
排水とは、夜間、畑へのかんがいを必要としない時間の余水や、
豪雨時の溢水を河川などへ落す水路のこと。
畑地かんがい用水大野支線には境川に落す排水路があり、
当時の施設と僕には思われたものが、河岸段丘の崖にある
西幹線はまた村富線を横切り、相模台の住宅地の中をいく。
 
【2012/03/25追記】
相模原市上溝からこの麻溝辺りまでの畑地灌漑用水の
遺構をつぶさにたどり、なんとgoogle map上に位置を
プロッティングまでされた、
すばらしいホームページがあります(←クリックしてください)。
ご紹介します。
 
* * * * * * * * * * * * * * * * *

小田急線を渡るあたりから、西幹線水路跡の遊歩道は桜並木となる。
ここから海老名市東柏ヶ谷に至る水路跡の遊歩道は、大体が桜並木だ。
昭和28年から30年代頭にかけて植樹された桜で、
現在はものすごく立派な姿となっている。
ただもう50年がすぎて、大きくなったことと桜の寿命もあるのか、
間引きが始まっている。
側を通るとチェーンソーで桜を切る音が痛々しく聞こえた。

Carrest座間や日産自動車座間事業所の脇は、
道路拡幅がされて用水路の面影はない
(僕が海老名に住んでいた当時にはあった)。
日産自動車座間事業所立体駐車場脇からまた桜並木が始まる。
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ここらから東の一帯、第二次大戦中は高座海軍工廠があった場所。
雷電といった戦闘機がつくられていたそうだ。
そういえば僕が海老名に住んでいた頃行きつけだった床屋のおばちゃんは、
戦時中この海軍工廠に動員されたって言ってたっけ。
現在も厚木基地が近い。
さっきから海上自衛隊の対潜哨戒機P3-Cが
離着陸訓練でぐるぐる飛び回っている。
 
用水路は相模鉄道をさがみ野駅の少し西側で渡り、
そこからも桜並木は続く。 
相模鉄道をわたってから700メートルほどで
用水路は崖にぶち当たる。
 
イメージ 8

でもここで終わりじゃない。
ここから「大塚隧道」となって蓼川支流・比留川の水源部の谷を横切り、
綾瀬市寺尾北1丁目で再度顔を出し、南下してゆく。
そこは現在「なかよし小道」となっている。
僕の3、4歳の頃の記憶の場所だ。
今回はこの大塚隧道の入口をゴールとした。
これから下流の綾瀬市深谷の辺りは
畑地かんがい用水事業南端部のモデル地区ともなったそうだ。
現在も当時の水路遺構がある
(昨年夏に一度自転車では訪ねて、それは確認してる)。
大塚隧道の後はまた後日、歩いてみたい。
そして別の幹線、数々の支線もこれから探訪してゆきたいと思う。
 
なお畑地かんがい事業に関する様々な資料の閲覧に際して、
相模原市立博物館で大変お世話になりました。謹んで御礼申し上げます。
 
その2へ。

参考文献
『神奈川県相模原開発畑地かんがい事業史』、1965年、
神奈川県農政部耕地課(相模原市立博物館蔵)
『神奈川県相模原開発畑地かんがい技術史』、1965年、
神奈川県農政部耕地課(坂田宏之所蔵)
『綾瀬市史 7 通史編 近現代』2003年 綾瀬市
 

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