四天王寺小説道場

プロたちの見えないところでの秘策

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本コラムを愛読いただいている皆様に、謹んでご報告します。

リトル・ガリヴァー社の編集長として、かれこれ30年携わって来ました。その間、刊行した市販図書はざっと800冊。ここから、文学賞、地方文学賞、図書選定等、数々の賞をいただき、のべ50冊以上となりました。むろん、編集人は黒子ですから、著者の栄誉ですが、わたしも共に誇りに思っています。
他方、執筆業は、20代のときから、かつての同人誌時代に、現在の芥川賞選考委員宮本輝さんらと、同じ釜の飯を食い、明日のドリームを夢見たものです。宮本さんはとっくに実現し、さらに高見を目指していることでしょう。他方、「輝さん追っかけ部隊」はほぼ全滅。多くの方が筆を折られた。
文学という世界の厳しさです。
今回、わたしこと、宇田川森和は、30数年の編集人としての実績と、ほそぼそと出していた著作集「夢であいましょう」「はいばらのそら ケルンのそら」「詩集レクエイム」電子版「ビィーナス涙」「炎の十字架」「小説通天閣」等々を評価いただき、二名の現役作家の先生の推薦を受け、めでたく入会の運びとなりました。
現在、文学活動として、プロ集団「翰林の会」を結成し、数名の正規会員とともに、日々の研鑽に励んでいます。かつての同人誌と違うところは、発表作品はすべて商業誌ないし、単行本として刊行することです。
ですので、いい加減な作品と評価されたものは、収録却下となります。
ここにそのメンバーを紹介します。
会長高橋てつじろう、以下会員山蔭ヒラク、山上安見子、宇田川森和、松本のぼる、その他数名候補会員
創作活動はある意味、孤独な作業です。それゆえに、自分の周りに自分を支援し、激励してもらえる人間を求めます。つまり、編集者とか、師匠です。輝さんの師匠は、池上義一さんでした。小川洋子先生は、すばるの名物編集長、等々、作家ともうひとりの「陰の人」の存在によって、大きく羽ばたくのだろうと思います。「翰林の会」はそのような目的の集団として活動してまいりたいと思っています。

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ハット、リターン

 歳をとると、モノ忘れがひどくなる。今朝のごはんはなんだったか、思い出せない。
 若い人にすれば、ほとんど信じられないことだろうが、人間は、生まれたときから退化が始まっている。 脳細胞は、億という単位で毎日死滅している。しかも、25才からそれは始まっているのだ。結果、アルツハイマーとか、ボケの要因になる。これ年寄りだけでなく、最近は30才ぐらいで、アルツハイマーになる可能性もあるらしい。
 だふん、脳みその死滅速度が、人より速いからだ。これは、平均値ではなく、個人差があるということだ。
 脳の退化を抑制する物質も最近見つかった。
 地球のある場所、地域に住む人種の平均寿命がやけに高い。そこで、科学者が調べたら、いわゆる「長寿の遺伝子」なるものを見つけたのだ。
 最近よく聞く、遺伝子治療によって、癌体質を改善したり、あらかじめ、「不良遺伝子」を取り除くとかの、医療ができる。
 ということだと、アルツハイマー病の改善になる。いやいや地球人の寿命が100才を越えて、200才、300才の人間が現れるかもしれないのだ。
 人間の遺伝子は、まだ解明されていない。
 いまは、犯罪の「犯人捜し」で、「DNA検査」なるものが一般化してきたが、これは、個人のDNAは、すべて異なるという違いから、犯人を特定できるという科学捜査が生まれた。
 最近では、親子関係のDNA調査とかに使われるが、本来は、「医療」として遺伝子治療」に生かされるべきだろう。iPS細胞による再生医療と遺伝子治療が合体すると、いまの「病原」の多くが消えるかもしれない。昔の不治の病だった、ペストとか、らい病、結核など、個々に克服してきた病気もあるが、いまの医療の最先端は、「いかに人間を長生きさせるか」に焦点が当てられている。
 たとえば、癌治療は、完治させられないだろうか、余命何年という宣告は、癌を克服できていないから、そういう残酷な宣告になるのだ。

 あれれ、タイトルからは大きく離れてしまった。要するに、わたしは、地下鉄の電車に、帽子を忘れ、その忘れ物が、持ち主に戻ったという話である。話がえらく発展してしまった。

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戦後71年に思うこと

 8月15日、終戦の日、もう71年も過ぎた。
 にもかかわらず、現代人は、戦争の是非をめぐっての責務を問われ続けている。
 天皇は、「謝罪」を繰り返してことばにされた。
 首相が、「謝罪」をいわなかった。靖国には現役大臣が行ったか、行かないか。
 もし、これを中国流の「反論」になると、自国の主権にかかわることに、内政干渉しないでほしい。
 と、反発するはずなのに、日本の政府をそれをいわない。
戦犯という「犯罪者」を靖国神社にまつっている理由で、現代人である現政府の人間は、「戦争礼賛者」にされる。
 最近、アメリカの高官が、「日本国憲法」の草案はアメリカ人によって、書かれたと告白した。
 憲法の草案と、発起は、アメリカ人の意図にそって、「創作」された憲法であることは、百も承知である。
 それなのに、現憲法を「守る」側は、左翼、「改憲」側は、保守系という図式になっている。
 改革・改善の主張を旗印とする左翼は、「守る」思想ではなく、改革思想であるはずなのに、憲法に関しては、この図式は通らず、アメリカ側の作為性を認めて、改革するなと、声高に、合唱する。
 理由は、9条の「戦争放棄」の条項が、変えられては困るということである。
 もうひとつの関連は、「自衛隊」の存在。左翼には、存在そのものを否定する立場で押していたが、それと「9条」が合致するのか、前回の参議院選挙で、「自衛隊」を「戦争で人殺しをする集団」と称して、共産党の委員がバッシングされた。
 
 憲法想起の時期は、敗戦後に進駐したGHQが、「どう日本を統治すべき」の議論のすえである。
 たとえば、「天皇は戦犯か」の議題も、日本の復興に、天皇は欠かせないと判断されたので、「天皇戦犯」は回避されたのだ。
 憲法は、「象徴天皇」とされるが、それもアメリカの意図である。
 それを71年間、いっさい改憲されることなく、守られている。異常というべき長さであるが、同じ敗戦国である、ドイツもイタリアも憲法は再三再四、改憲されている。
 その理由は、「時代に合うべき内容」のために、改憲されてきた。
 日本は、いまだ手足を縛られている。
 自衛隊の前身は、1952年(昭和27年)10月15日に警察予備隊を改編して発足したものだ。
 GHQは、「軍隊の設立」に反対し、「日本に戦争させないため」に、軍隊は「消滅」させられたのだ。
 しかし、日本国内の治安に、警察だけでは無理と判断したために、「自衛隊」が発足することになる。
 正式には、1954年(昭和29年)3月に日米相互防衛援助協定が結ばれ、「自国の防衛力の増強」ために、同年6月に自衛隊法と防衛庁設置法を成立させたのである。
 繰り返すが、これは「軍隊」ではなかったのだ。しかし、「防衛協定」によって、自衛隊の、陸・海・空のほぼ100%の武器は、アメリカからの提供だったのである。
 同一レベルの武器をアメリカから譲り受けるこということは、アメリカ並みの「軍隊」を作り上げるのと同等である。それをこれまで、71年つづけてきた。
 そうなってくると、名称としての「自衛隊」は、実質の「軍隊」と同じではないか。
 それでもなお、「不戦」と「非軍隊」と位置づけているのである。
 どこかにごまかしがあるのではないか。憲法とそぐわないのではないか。
 だから、これまで、「自衛隊」の海外派遣等の「行為」は、9条違反で
はないかと、憲法違反ではないか、と左翼系集団はいいつづけているのである。
 71年のいまから、さらに何年、この「自衛隊」は、アメリカ側の意志と意図によって、都合よく動かされるのであろう。
 先日の憲法草案はアメリカが書いたとカミングアウトしたのにもかかわらず、左翼系は、「一言もコメントしていない」。
 あれと同じである。「尖閣諸島の領海」に「中国の公船や漁船の不法侵入」しているにもかかわらず、沖縄の翁長知事は、クレームをいっさい発言していない。なんでだろうな、と思う。
 この間、竹島に韓国議員が上陸のニュースも、なんでだろうな。歴史的・政治的な「仕切り」を無視してまで、強引に自国の益として取り込む姿勢の民族とはまともに話し合うことは不要なのではないだろうか。

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「戦後史開封」

◎乱読のすすめ27◎

 いよいよ猛暑モードに入った日本。加えて、リオも始まる。すったもんだのリオであるが、開催間近でこの調子であるから、東京オリンピック、いまからああだこうだと騒ぐ、日本人的気質はよしとすべしか。

 さて、わたしのほうは「読み」モードからしばし遠ざかっている。腰を据えて「読む」というスパンに入らないため、ついつい、片手間レベルで終わっている。しかたない。

 そこで、ブックオフから仕込んだ、産経新聞の「戦後史開封」全3巻をひもといた。
 B5判のサイズだから、すごく大きく感じられる。
 発行が平成7年から8年にかけて編集取材が進められて、完成した。
 以前、同じ新聞社が「関西の事件簿」のようなものを刊行したときがあったが、それの全国版みたいなものだ。
 過去の出来事は、事典ふうのものでいろいろ出ているので、いまさらという気もするが、人は、時間とともに、過去の記憶は薄れていき、しまいに曖昧になる。それならば、いい。実際は自己流に記憶し、事実がゆがめられることすらある。それでは、モノ書きの端くれとして無責任であろう。

 まず、巻1を開いた。もくじの部分に目を投じ、ざっくりと確認する。第1章が「事件」2章「文化」3章「社会」4章「政治経済」と分けられている。
 戦後とうたわれているので、記事はすべて昭和20年以降である。
 「事件」はこんな順番で載っている。
 「血のメーデー」昭和27年
 「勤評闘争」昭和33年
 「伊勢湾台風」昭和34年
 「三井三池大争議」昭和35年
 「吉展ちゃん誘拐」昭和38年
 「3億円強奪」昭和43年
 「赤軍派」昭和44年
 「三島事件」昭和45年
 「あさま山荘事件」昭和47年
 こうしてみると、社会的事件を取り上げると、数的には多いとはいえないが紙面の関係で仕方ないのだろう。
 
 わたしは、当然だが、あの「三島事件」を開いた。
 わたしはまだ学生の頃に起きた事件で、遺書としての「豊穣の海」は即座に読破した。
 当時のわたしの理解度は、三島由紀夫はなぜ、死んだ、である。
 死ぬには、死ぬなりの理由がなくてはならないが、凡人のわたしには、「憂国」を理由にされても分からなかった。
 小説の世界では、大きなテーマとして、輪廻転生の世界を描いていた。小説の世界も現実の世界もそうであると、三島は思っていたのだろうか。
 いつかまた、おれは、転生し、再生すると。
 さて、「戦後史開封」巻1を文字通り、開封した。
 「三島事件」の項に目を落とす。なにが書かれているのか。
 当時には知られていない、三島の弟子と称する「宮崎清隆」のことが出ていて、1年前自殺未遂を三島ははかったとある。未遂だったのは、宮崎が、自決を阻止したからだとするが、宮崎自身は、あまり語りたが
らない。
 事件そのものはよく知られていることなので、繰り返さないが、司馬遼太郎は、三島の死を「文学論のカテゴリーに入るものである。三島の場合、思想というものを美に置き換えてみるとわかりやすい」発言した。
 ううむ、「死の思想」を「美の思想」に転換する。わたしにはわからぬ。
 滅多に聞けないが、ここには三島夫人瑤子さんが出てくる。
 そのとき、忘年会の席で、先の弟子村上がこう語りかけた。
 「三島さんは、死にたいから死んだのではないでしょうか」
 瑤子夫人
 「そうよ。死にたいから死んだのよ」
 と応じたという。
 三島由紀夫の死について、政治的な意味はない、自分の美学のために死んだのだ、と宮崎氏は述べている。
 だから、市ヶ谷に突入し、自衛隊・隊員の前での「演説」はカモフラージュ、決起などとは思っていなかった。
 そのあと、三島は自決した。

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「速読」の話

 読書の技術として「速読」という方法がある。
 これまで興味はあったが、どうするのかまでは追求しなかった。

 そこで、「速読」に対して「熟読」もあるだろう。
 読書の速度に個人差もあるだろうし、遅い人にはそれなりの原因もあるだろう。

 いま、一般的読書のスタイルを確認した。
 すると、こう分析されている。
 つまり私たちは読書をしているときの目の動きは「約3.2文字を250ミリ秒で捉え、次の3.2文字に15ミリ秒で視線を移動させる」の繰り返しを行っているとしている。

 数字で示されると、わかりにくいが、要は「目の動き」「目がとられる視野」「目の滞留時間」が関係している。
 これをわかりやすく比較すれば、「速い」人は、文字をとらえる視野が広く、遅い人は、その文字数も、理解するまでの滞留時間も長いので、結果として「遅い読書」になるのだ。

 そこで、先の数字に戻すと、「文字としてとらえる視野」は、3.2文字で、これをとらえる時間が、約250ミリ秒(つまり、四分の一秒)かかっている。
 次の文字列に移動する「視点飛躍」というが、これが約15ミリ秒かかるのだ。
 これが平均値。これが、最初に示した、日本人の平均的読書スピードなのだ。

 だから、1分間で、何文字読めるかによって、その人の「速度」が判定できる。
 そうすると、速読の学習は、読視野が、3.2文字からさらに広がらなければ、速くならない。
 もし、4倍になれば、12.8文字を視野にとらえられる。
 そして、この文字の理解度(視点停留時間)も2倍速くすると、平均の250ミリ秒から、125ミリ秒になる。
 次のフレーズに移る速度が、「視点飛躍」で、平均が15ミリ秒、これをさらに短縮させる。
 これらトータルに短縮させられれば、速読が可能になるという理屈になるのだ。
 これら「速読」のためのハウツーであり、ここに向けての「訓練」となるだろうか。

 一度に「読視野」が広がれば、3.2文字からかぎりなく数字は増えてくる。フレーズの長短の読み込み能力で決まるのだ。
 ま、速読は訓練によって、速くなるというのは分かるのだが、わたしは別の心配をした。

 それが「熟読」である。これは、書かれたものをじっくり吟味する読書スタイルであるが、小説などを速読してしまえば、「吟味するゆとり」はすっかり失うのではないか。
 書かれた場面とかストーリーを理解し、「愉しむ」には、この「熟読」なしにはできないことだと思うがどうであろう。
 
 ただ、私的な読書テク(つまり、個人的な速読の方法)としては、場面や流れを極論すると、「斜め読み」しても問題なしという「流れ」があり、熟読場面はゆっくり読むという、リズムのある読書を使えば、確実に速度は上がってくる。
 なにも同じピッチで読む必要はないのだ。

 それと、小説などの種類でも、「斜め読み」でも十分愉しめる作品はかなりあるものだ。
 ビジネス書、専門書、歴史書、料理本等、その内容に応じて、「斜め読み」(一部をはしょって読む)も可能だろう。
 結果として、一月、一週間、読める本の量に差が出てくるというものだ。

 「速読」自己流を開発すれば、画期的である。

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