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昨日はminiビン玉ストラップの回収業務後に気仙沼までみちのく一人旅
仙台の専門学校時代の同級生とフェイスブックで再会していたので、リアルでも再会しようかなってね miniビン玉ストラップの販売店舗のリサーチも含めて行って来ました 15年振りに会う同級生 昔から変わらない真面目な彼 今はぬぁんと社長さんです 『カークラフト Kai 』って名のショップ バイクのような車のような乗り物を見た事ありますか? トライクと呼ばれる乗り物です(^-^)v 簡単に言えば、エンジンが付いた三輪車です そのトライクを製造販売してます 趣味の分野での業種は大変そうです 震災の話しやら近況報告してたら 彼もminiビン玉ストラップが気になる様子でした 気仙沼で投下するなら何処がお勧め 『それなら、復幸マルシェが良いと思うよ 流石は地元 電話一本で、あれよあれよの間にアポ取り完了 今から 何も準備してねぇよ POP も持ち合わせてないし Kai の社長さんはこの後お客様と約束があるとの事 大丈夫、一人で行けるもん ありがとね♪んだば行ってくる 紹介された復幸マルシェ二階の服屋さん『GA-wee』の千葉さんの元へ 挨拶を済ませると早速、千葉さんに案内され事務局へ なんたる連携プレイ 一階の鹿折工房さんにて miniビン玉ストラップを見せると、すこぶる反応が良い 手元にあった10個を直ぐにでも陳列したそうでした こんな事ならちゃんと準備して来るんだった 来週ドッサリ持ってまた来ます て事で、あっさりと気仙沼にminiビン玉ストラップの投下ミッションclear 持つべき物は友ですね♪ 田野畑のホテル羅賀荘 山田の味処 三五十(みごと) 釜石のシープラザ内 かまいし特産店 気仙沼 の復幸マルシェ内 鹿折工房 コツコツと販路拡大中です
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24年6月
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キャピタルホテルの正面脇に、津波の猛威に耐えて生き残った1本のケヤキがあります。ブログでも2度紹介してありますが、
新生キャピタルホテルがオープンする暁にはそちらに移植することになっています
さて、市街地が真っ新の状態になった今
この欅が高田小学校から真正面に見えるのだそうです
高田小の子供たちはこの欅に「のぞみ」と名付けて
「奇跡の1本松」と同様頑張っていくシンボルとして位置付けていました。
これを伝え聞いた愛知県造園建設業協会名古屋支部長の菊池さんは
(親御さんが住田町のご出身です)
何とか応援したいと欅の保存に手を差し伸べてくださいました。
そして私の弟がこれまで見守り続けてきました
ところが突然今日、菊池さんに高田市役所から℡があったそうです
「欅を切りますから」と。
何の前触れもなく一方的な言い方だったそうです
市役所の人たちも繁多な仕事に追われて余裕のないのはわかります
でも、でもですよ、今私たちはいろんな形でいろんな支援を受けていることを忘れてはいけません
ましてや、復興の最前線で指揮を執っている人たちは
全方位にアンテナを巡らせて慎重に事を進めていただきたいのです
結果的に皆が望まない方向に決定したとしても
手順だけはきちんと踏んでほしいものです。
こんなことばかりしていると見放されてしまいますよ
市民を代表している立場だということを肝に銘じてほしいものです
明日弟は市役所に行ってくるようです
どのようないきさつがあったのか、
どのような結果になるのか、
また明日報告します
ふう
(拡散を希望します)
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朝、東海新報を手にして最初に目をやるところは ここ↓
気仙2市の被害者数の欄で、毎日数をチェックしています
ここ10日くらいで223人から221人になりました
そして今日の岩手日報によりますと
陸前高田市の身元不明者が3人判明したようです
米崎町の普門寺には
まだ20柱くらいの遺骨が親族との再会を待っていると聞きます。
あきらめつつも、見つかるかもしれないと捜索に望みをつなぐ遺族の
ため息を何度も聞いて知人宅を去りました
秋の深まりとともに畑や庭先で咲く菊の花も鮮やかになりました
先日はトマトさんから菊の花をいただき懐かしいにおいにうっとりしました
今年は高田でも市民文化祭を開催するようです
広い場所もないので小規模での開催となるようですが
例年目を楽しませてくれた菊花展はどうなるのかなぁ
全国太鼓フェスティバルが高田での開催にこぎつけ
市民文化祭も開催、夏にはサイクルロードレースも開催され
市民主導によるイベントが少しずつ復活してきました
今被災地の復興に全世界の注目が集まっています
市民はみな頑張っています
市議の皆さん、もっと市民の声に耳を傾けてください
市長さん、上から目線はいけません
独断専行では市民の同意は得られません
一丸となって頑張りましょう
ふう
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毎日新聞で連載記事を見ました。全国版です。
なかなか、大震災から2年目の被災地の今のある家族のドキュメントです。
このドキュメントは田野畑村から南に30キロばかり行った、宮古市田老地区です。
2005年に宮古市と合併した、人口、4500人ほどの町です。
田老の歴史は、津波との闘いであり、沿革を見ても大きな被害を受けて、復興しながら来た町です。
↓昭和8年の津波被害
三陸沿岸はどこもそうなのですが、この田老は特に津波被害が多かった町です。
「災禍を繰り返さない」と誓い、「津波防災の町」を宣言し、2重の津波防波堤を築き、津波の風化防止のための語り部活動を行うなどソフト面でも津波対策をやって来た町です。
海外からも視察団がやって来るなど田老町の防潮堤や高台への道路整備、そして、津波防災津波防災教育などは、国内のみならず、世界の津波研究者の間でも注目される存在になっていました。
しかし、2011年3月11日の東日本大震災に伴い発生した津波は、午後3時25分に田老地区に到達。自慢だった、2重の高防波堤の高さの、2倍の津波は一瞬にして崩壊し、街を襲い、またしても多くの犠牲者を出したのです。
皮肉な事に、「立派な防潮堤があるという安心感から、かえって多くの人が逃げ遅れた」という話も聞きました。震災から半年後の調査では、住民の8割以上が市街の高地移転に賛同しているとい言われています。
田老町の沿革 (ウェキペディアから)
田老の防潮堤 [編集]
田老は「津波太郎(田老)」の異名を付けられるほど古くから津波被害が多く、江戸時代初期の1611年に起きた慶長三陸地震津波で村がほとんど全滅したとの記録がある。1896年(明治29年)の明治三陸津波では、県の記録によると田老村(当時)の345戸が一軒残らず流され、人口2248人中83%に当たる1867人が死亡したとある。生存者は出漁中の漁民や山仕事をしていた者がほとんどであった。津波後、村では震災義援金で危険地帯にある全集落を移動することにした。しかし工事にかかったところで、義援金を村民に分配しないで工事に充てることの是非や工事の実効性に村民から異論が続出し移転計画は中断を余儀なくされた。そして結局、元の危険地帯に再び集落が作られた。
1933年(昭和8年)の昭和三陸津波による田老村の被害は、559戸中500戸が流失し、死亡・行方不明者数は人口2773人中911人(32%)、一家全滅66戸と、またしても三陸沿岸の村々の中で死者数、死亡率ともに最悪であった。東大教授・今村明恒博士ら学者の助言に基づいて当時の内務省と県当局がとりまとめた復興策の基本は集落の高所移転、すなわち「今次並びに明治二十九年に於ける浸水線以上の高所に住宅を移転」することであり、また移転のための低利の宅地造成資金貸付などの措置もとられた。
田老は当時としては規模の大きな村で、全村移転は敷地確保が難しく、周囲に適当な高台もなかった。海岸から離れては主要産業の漁業が困難になるという問題もあった。そこで当時の村長・関口松太郎以下、村当局が考え出した復興案は高所移転ではなく、防潮堤建造を中心にした計画であった。費用は大蔵省から被災地高所移転の宅地造成貸付資金を借入して防潮堤工事に充てることとした。
第一期工事は1934年(昭和9年)に開始された。高台移転案を基本とし、当初は難色を示した国と県も交渉の結果費用負担に同意し、2年目からは全面的に国と県が工費を負担する公共事業になり、建設は順調に進むかと思われた。しかし日中戦争の拡大に伴い資金や資材が枯渇、1940年(昭和15年)には工事が中断する。戦後、町をあげて関係官庁への陳情を繰り返した結果、1954年(昭和29年)に14年ぶりに工事が再開され、4年後の1958年(昭和33年)には工事が終了し、起工から24年を経て全長1350m、基底部の最大幅25m、地上高7.7m、海面高さ10m という大防潮堤が完成した。その後も増築が行われ、実に起工半世紀後の1966年(昭和41年)に最終的な完成を見た。総工事費は1980年当時の貨幣価値に換算して約50億円に上り、総延長2433mのX字型の巨大な防潮堤が城壁のように市街を取り囲む壮大な防潮堤であった[3]。
1960年(昭和35年)に襲来したチリ地震津波では、三陸海岸の他の地域で犠牲者が出たにもかかわらず堤防が功を奏して田老地区の被害は軽微にとどまった。これを機に防潮堤への関心が高まり、海外からも視察団がやって来るなど田老町の防潮堤は国内のみならず、世界の津波研究者の間でも注目される存在になった。昭和三陸津波70周年に当たる2003年(平成15年)3月、町は「災禍を繰り返さない」と誓い、「津波防災の町」を宣言して記念の石碑を設置した。
同地区出身の田畑ヨシによる「津波てんでんこ」の紙芝居活動をはじめとする児童への防災教育や、年一回の避難訓練にも力を入れ「防災の町」として全国的にも有名であった。その後、2005年に田老町は宮古市に編入され、消滅した。
2011年3月11日の東日本大震災に伴い発生した津波は、午後3時25分に田老地区に到達した。海側の防潮堤は約500メートルにわたって一瞬で倒壊し、市街中心部に進入した津波のため地区では再び大きな被害が発生した。目撃証言によると「津波の高さは、堤防の高さの倍あった」という。市街は全滅状態となり、地区の人口4434人のうち200人近い死者・行方不明者を出した。「立派な防潮堤があるという安心感から、かえって多くの人が逃げ遅れた」という証言もある。震災から半年後の調査では、住民の8割以上が市街の高地移転に賛同しているという 。
↓田老地区の3.11の被害状況画像
自然は、人間の想像をはるかに超える猛威を振るものです。3.11の津波はまさに、そのような大きな津波だったのです。
下記の記事は、
父親を津波で失った、ある中学生の話です。是非、読んで欲しいと想い、掲載しました。
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あしたへ 「岩手県・田老に生きる」/1
「世界に出ろ」亡き父の思い胸に いつか海を越えて
毎日新聞 2012年07月04日 東京朝刊
海からの風がそよぐ高台でバスを降り、仮設住宅の玄関をカラカラと開く。「来たよ、ばあちゃん」。背中を丸めた祖母がうれしそうに出迎えた。
岩手県宮古市田老。久保田海世(かいせい)君(12)は今も父の死を嘆く祖母ヤエさん(76)に語り掛ける。「心配しないで。僕がいる」
生後まもなく家を出た母の記憶はない。父と祖母に育てられ、母の愛を埋めるように、いつも傍らに父がいた。昆布干しを手伝い、休日は一緒に遊んだ。釣りのコツは父から教わり、テレビゲームのヒントは海世君が出した。
明治と昭和の津波で大きな被害を受けても、先祖たちはこの地に残る道を選んだ。二重に囲った防潮堤が、闘う町の象徴だった。その防潮堤に駆けつけ、漁師の父伸明さん(当時43歳)は波にのまれた。「俺も田老のために働きたい」と志願して消防団に入り、水門を閉めようとしていた。
震災の日。先生の誘導で高台に逃げた。「休みの日なら父さんを止められたかも」。悲しみがこみ上げたときは「今もそばにいてくれる」と思えば乗り越えられる気がした。「泣きたい時は泣けばいい」と伯母の吉水久美子さん(47)に言われても、涙は流さなかった。
祖母と一緒に吉水さんの家で暮らし始めた。年の近いいとこもいるのに溶け込めず、遠慮が先に立つ。学校から帰ってすぐ部屋にこもった。ヤエさんも「居候」に気兼ねし、今年に入り仮設住宅への入居を決めた。
「海世はどうしたいのかな」。ある日、吉水さんに聞かれた。ずっと考えていたことだった。思い切って伝えた。「ここにいたい」。学校に近い伯母の家で暮らしながら、祖母の元にも顔を出せればと思った。
吉水さんがほほ笑んだ。「その言葉が聞けて、うれしいよ」
ほっとした。母も父も失った自分を受け入れてくれる人がいる。父の葬儀でも流れなかった涙が頬を伝った。
震災後、1人の女性が訪ねてきた。海世君には見覚えがあった。2、3年前にやって来て、海で父と話し込んでいた人だった。「母親だよ」。祖母が教えてくれた。
その後は吉水さんが手紙でやり取りを続けた。「成長した姿を見たい。欲を言えば話がしたい」とつづられていた。授業参観の案内を同封すると何度か来た。4月に中学に進学してからも姿を見せた。いつも授業が終わる直前にそっといなくなる。涙を浮かべていたこともあった。
海世君も母の訪問を知っている。吉水さんからは「海世が憎くて家を出たんじゃないよ」と聞いた。でも「会おう」という気持ちに、今はなれない。
◇
2度目の夏が来る。祖母の仮設住宅へと向かうバスが坂道を上ると、一面の更地と砕かれた防潮堤が瞳に映る。父を奪った海が静かに波打つ。
震災の少し前、父に名前の由来を聞いたことを海世君は思い出す。「海を越えて世界に出ろ」。スケールが大きすぎるよ、とそのときは思ったけれど、父の思いに少しでも応えたい。「世界に出るなら英語を頑張らなきゃ」
5月の中間テスト。英語で95点を取った。=つづく
× ×
東日本大震災から2年目。被災地はなお「復興」という言葉からはほど遠い。大切な人や故郷を失った子どもたちは何を見つめ、思うのだろう。
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震災のお話を1年間してきましたが・・・・
今日は違う内容で・・・
わたくし、先日6月30日に
入籍いたしました。
5年間の付き合いを経て
その付き合った記念日に入籍しました。
私を探しにも来てくれたみたいですが、
途中で通行止め
3月12日に映ったテレビでの映像・・・
震災の時は死んだと思われていたのですが、
私が避難してきて
真っ先に家族と彼女(あ、もう彼女ではないですね)
に会いに行ったものです。
生きてたよ!!!の報告をしに。
前回の話ともダブりますが、
アパートがなくなりましたが、
いくつかの奇跡がありました。
まずは前回話したテレビの奇跡
そしてワインが残っていたのです。
アパートの骨組しか残っておらず
部屋はからっぽ
重いテレビや冷蔵庫
洗濯機など
何一つ残っていない部屋の跡地に
泥がまるで蝋燭のように
ワインの周りに固まっており、
箱とビニールで守られた状態で
とてもきれいな状態で残っておりました。
今でも不思議です。
これ本当の話なんです。
冷蔵庫や洗濯機が流されたのに
ワインが箱ごと無事・・
震災後の奇跡でした。
まだ式や披露宴は未定ですが
そのときにこのワインを二人で飲もうと思います。
続く・・・
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