老人ブログ80

先日、日経新聞電子版を朝早く読むことを覚えました。人様には興味を引くような記事になりませんが、できるだけ続けたいと思います。

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ひと月前に、枕元でとりあえずラジオを録音しておこうと思って新しいラジカセを買ったが、結局、起床してメモを取らなければだめだった。
そこで今朝は久しぶりに4時に起きて、真面目に(?)ラジオ深夜便を聴いた。
今朝の放送は表題のとおり、8月の再放送で下記のとおり、その概要を再録してあるので、今回は2歳年上の池田さんの戦中5年間と、私の5年間を比較して振り返ってみた。

昭和15年、池田さんは中学5年生のとき海軍兵学校に入学・・・。上級生から理不尽とも思われるような猛烈な体罰をうけながら、訓練される。(一見、理不尽と思われるが、禅寺における禅修業のようなもので、戦場において20歳足らずの青年が多数の部下の命を預かり、常時、的確な判断と指揮をするためには必要な訓練だったと池田さんは思っているそうた゛。)
私は中学1年生(遅生まれで、前年に肋膜炎で1年休学したため池田さんより3年遅れとなる。)当時、中学校には「教練」という科目があり、常任の教官(年配の準士官と中年の下士官の二人)のほかに若い配属将校がいた。(この配属将校が、体罰はなかったものの、当時の我々にとっては理不尽と思われるような猛烈な訓練をした。わずか一二年の間であったが、一番嫌な授業時間だった。)

昭和18年、池田さんは海兵を卒業して、翌年3月海軍少尉に任官し、当時まだ建造中だった巡洋艦「矢矧」の艤装員となり、間もなく6月にはマリアナ沖海戦に初陣として出撃。(世界最大の航空母艦「大鵬」ほか日本海軍の総力を挙げて決戦に臨んだが、敵はその二倍の戦力と、諜報に勝る潜水艦と、新鋭のVT信管により、大敗した。)
当時、我々は勤労動員により、戦闘機の部品や潜水艦の電池ケースを作る工場に通っていた。
戦況が不利なことは薄々伝わっていたが、「始めた以上勝たなければならない。」などと力んでいた。

(以下、明日記載したい。)


以下再録

巡洋艦「矢矧」の青春 1-2 (戦中5年は戦後64年よりはるかに長い)
2009/8/14(金) 午前 7:50

昨日と今日は「巡洋艦"矢矧"の青春」と題して、建築家 池田武邦さんのお話だった。

池田さんは大正13年のお生まれで今年85歳、昭和15年に中学5年の時に海軍兵学校に入り、戦争末期の昭和18年に最新鋭巡洋艦"矢矧"に乗り組み、日本の防衛線を守る「マリアナ沖海戦」、最後の防衛線フィリッピンを守る「レイテ沖海戦」、そして最後の沖縄特攻作戦に戦艦大和と駆逐艦8隻、計10隻で出撃し、九死に一生を得られた。

戦後はすぐ東大工学部建築学科に進み、昭和44年には日本で最初の超高層ビル「霞ヶ関ビル」を手がけ、続いて「京王プラザホテル」・「新宿三井ビル」、さらに「筑波研究学園都市」・「ハウステンボス」と、建築家として大成された。

こうして池田さんは昭和の激動の時代をその時、その時に国家のため最善を尽くし大きな功績を遺された。

池田さんの海兵クラスメート72期生は625名で、その内の335名が戦死されている。
中でも昭和19年10月25日レイテ沖海戦で、矢矧艦橋の傍らで壮絶な戦傷死を遂げられたクラスメート伊藤比良雄中尉の記憶は鮮烈であるが、335名全員の名簿を作り、戦中5年間の記憶を毎日思い起こしている。

戦後、大部分の日本人はその日その日の生活に追われ、自らの経済的繁栄のみに心を奪われ、ややもすればこれらの英霊の尊い死に目をそらしてしてきた。
特に最近は政治家を始め多くが目先のことに終始しているようである。

この際、英霊に心から向き合い、深く弔う気持を持たなければならない。
という言葉で結ばれた。

8月15日を前にして、この一週間は様々な放送を見聞きしたが、今日のお話で総括されたような気がした。


64.0kg  3149歩 0歩  31655 177/9

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以上再録


36.6kg  1380歩 0歩  33092 143/8

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『戦後、大部分の日本人は…」』以下、同じ思いです。当時、私も学徒動員で軍需工場通い。通信機のバリコン作りをしては、38式歩兵銃を持って軍事教練をしていました。腹を減らして…懐かしい思い出ですね。

2009/10/22(木) 午前 10:41 阿多忙 返信する

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昭和19年当時私は、中学4年生でした。いずれ徴兵されるなら大学・専門学校生として、徴兵される方が良いということで、その年の3月に武蔵工業専門学校など5校を受験しましたが、全部不合格でした。(当時は中学4年生からも受験できた。)
結局、昭和20年の2月に徴兵検査を受け、第二乙種合格(以前なら丙種?)ということでしたが、召集は後回しだったらしく、兵役は免れました。
まさか、80年も生きれるとは、夢にも思えませんでしたね。

2009/10/22(木) 午後 2:30 [ tor*a*zu39*5 ] 返信する

私は次男坊だっのでおやじは私を兵隊にしたかったようです。中学1年のとき<陸軍幼年学校>を受験しましたが、見事に不合格でした。いま考える、行っていた方が、もっと<気骨のある人間>になっていたかも…なんて、勝手に考えています。いま、齢80歳です。

2009/10/23(金) 午前 10:21 阿多忙 返信する

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阿多忙さん、とにかくこの時期は陸士・海兵はあこがれの的で、その年齢に達しない少年も予科練などに大勢志願しましたね。
一番残念なことは、人生の意義もよく考えられぬうちに、特攻隊となって志願し、命を落としたことだと思います。

2009/10/23(金) 午前 11:38 [ tor*a*zu39*5 ] 返信する

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