老人ブログ80

先日、日経新聞電子版を朝早く読むことを覚えました。人様には興味を引くような記事になりませんが、できるだけ続けたいと思います。

懐古

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戦前の乗り鉄・見る鉄

昭和初期は、東京近郊の郊外電車の発達や車両の近代化が著しく進んだ。
戦争によって中断してしまったので、その頃の様子は80老人だけが知っていることだと思い記録した。(個人的な思い出話で、つまらない話だが。
なお、写真は全てウィキペディアから借用したもので、私が実際に見たものではないことをお断りしておきます。)
 
総武本線(汽車)
 
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父の実家が九十九里浜の沿岸だったので、総武線の汽車には小さい時から度々乗ることができた。
当時は両国始発の汽車で、8620(後半には新型のC58型も現れた。)の引く木造客車は、横芝まで二時間以上もかかる大旅行だった。     
終戦前後には食料運びで頻繁に通ったが、田舎のおかげで飢え死にしないですむことができた。
戦後も千葉から先は開発が遅れ、本線の電化は大分後だった。また、デッキの扉は手動開閉で、発車時の加速も停車時の減速もゆっくりだったので、飛び乗り飛び降り自由だった。田舎に泊まった時、夜 遠くから聞こえる汽笛の音がなつかしい。
横須賀線
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(画像は、戦後になってから他線に配属されたものです。)
横須賀線は軍港を結ぶ重要路線として早くから整備されたが、電車化したのは昭和5年だった。
たしか昭和10年前後の頃、九品仏から市電に毛の生えたような木造の単車で大井町に出て、東京に行く省線のホームに立っていると、隣の東海道線の線路をモハ32系の2扉クロスシートの横須賀線が颯爽と走り過ぎて行くのを見て感激したものだ。(覚えていないが、青帯の二等車にはかっこいい海軍士官が乗っていたのではないか。)
その頃、横須賀線には夏の海水浴で何度か乗れたが、ボックスシートは勿論、天井の色が違うことまでかっこいい魅力でわくわくしたことを覚えている。
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なを、その頃の江の電は鎌倉駅表口の八幡宮の参道から出ていて、夏にはテント張りの納涼電車が走っていた。ついでに江ノ島の木造の桟橋が見つかったが、所々板がはがれていて怖い思いをしたのもなつかしい思い出だ。
東海道線
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東海道線をよく見たのは昭和12年の夏から14年の3月まで鵠沼に住んでいて藤沢小学校に通っていた頃だった。
学校の帰りに小田急のホームで電車を待っていると、大船寄りのカーブから現れる東海道線下り列車の威容が忘れられない。
辻堂に帰る同級生が最後部の客車のデッキから手を振っていたのもなつかしい。
最初の頃は独特の鎧状の通風口を持つ、イギリス製のEF50型が主だったようだが、その後国産の主力機関車EF53型、さらに流線型のEF55型、電気溶接でスマートになったEF56型など次々に現れるのを楽しんだ。
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総武線(電車)
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(上の写真はモハ31型を改造したものでモハ30型ではない。)
総武線の電車は、中学時代の5年間(昭和15年から20年まで)通学で乗った最も思い出の深い電車だった。
市川から千葉まで30分、省線電車が始めて鋼体化した車体で、当初はモハ30+サハ35+モハ30の三両編成だった。
なお、当時は厳重な男女別学で、女子は前、男子は後だったので、真ん中のサハ35に乗ったのも楽しい思い出だ。
間もなく20m化したモハ40型が現れたが、端に座ると横揺れが激しかったことも覚えている。
その内に戦況が悪化し、総武線にもいろいろな型の電車がやりくりして投入されたが、珍しくクロハ59(二等席と三等席が半分づつの制御車で、主に関西で走っていた車両だったので、形式が間違っているかも知れないが。)が混ざってきた。総武線には二等車の区分は無いので、あこがれのクロスシートに座り大変満足したものである。
 その他、父から家族パスを借りて、東武線で日光や東上線で武蔵嵐山などへも行ったが、結局私の「乗り鉄」はゆっくりした旅行気分になれるクロスシート(ボックスシート)に座ることが主な目的だったようだ。
 65.5kg  3273歩 44542   43/2

なつかしの二子電車

イメージ 1私の戦前の良き時代は常にこの電車と共にあった。
生後間もなく、母が私を背負って蛇窪の駅に父の帰りを待っていた時、駅前の踏切を通る電車の下の方ばかりを見つめていたそうである。(親しい Kおばさんが「この子は生まれつき機械が好きだから、電車も下の方ばかり見ていた。」と後日話していた。)
小学校時代、父が東京(銀座辺り)へ連れていってくれると言ったとき、支度をして九品仏の駅のホームの端に立ち、やっと尾山台の方から電車が現れたとき、これで東京行きも確実となり、ほっとしたのもこの電車である。
戦後当時を懐かしみ、この電車を探したが、あまりにも旧式のため写真すら見つからなかった。
やっと今回、ネットで同形の写真を見つけたので搭載した次第である。
ちなみに、九品仏の駅は両端に踏切があるためホームの延伸も成らず、大きな改築も出来ずに我が故郷の面影を残している。

65.2kg    3887歩 44242   113/9

65年ぶりの同窓生

私が県立千葉中(旧制)を卒業したのは昭和20年3月だから、実に65年も前の話だ。
ちょうど戦争中のことで、まともに授業を受けたのは最初の二年ぐらいで、あとは勤労動員で軍需工場に通い、早い者は陸士・海兵に進み、級友はばらばらになってしまった。
戦後も住所を転々としたため、学校を訪ねることも、同窓生に会うこともほとんど無かった。

ところが先日、孫娘が遊び半分にパソコンでお爺ちゃんの名前を検索したところ、同窓生住所不明者名簿に私の名前が載っているのを見つけた。
早速名簿登録をお願いしたところ、昨日、同年度の幹事さんからご返事があり、昨年も同期会を開催され、30名の級友が参加されたそうである。

次回行事にはお誘いがある由、楽しみにしている。


63.4kg  7404歩 2500歩 34734 39/3

今日の半藤さんのお話は、「私の戦後 日本の歩み」と題し、戦後60年を振り返り、終りに今の日本を考え、これからの日本人の進むべき道について提言をされた。

まず戦後は文字通り「廃墟からの出発」だった。
当時の人口約七千五百万人の一割以上八百四十万人が焼け出され、戦時中はなんとか配給などで食いつないでいたものの、戦後、昭和22年頃までは本当に食べるものが無く、さつまいもの蔓まで食料にしていた。
一方、GHQからは「東京裁判」・「財閥解体」・「特高警察廃止」・「農地改革」・「婦人参政権」などなど、ポツダム宣言受諾に基づき数々の指令が出された。
同時に教育の場では歴史・地理・修身の教育科目が禁止され、徹底的にアメリカナイズされた。
新憲法もアメリカの押し付けとも言われているが、昭和21年の選挙によって選ばれた吉田内閣によって、徹底的に論議され「平和条項」・「国民主権」・「天皇象徴」の三本柱に基づく、非常に良い憲法が出来た。
1951年(昭和26年)の講和条約は、当時のソ連と中国を含む「全面講和」か、それとも「多数講和」か意見が分かれたが、既に世界は「東西冷戦」状態にあり、一刻も早く独立国家となるため「多数講和」の道を選んだ。
1956年(昭和31年)には「もはや戦後ではない。」というキャッチフレーズの「経済白書」が出たが、まだまだ戦後の低迷は続いていた。
本当の「経済復興」は1960年(昭和35年)の「安保騒動」が終わってからではないか。
騒動の原因の一つは、かって戦犯であった岸首相が復帰し、安保改訂を強行したことに対する学生たちの不信があったようだか、案外、関西方面などでは全く関心が無く、「もう政治はいいや・・・。」という世情となった。
当時、週刊誌の編集員だった半藤さんは、まだデモが続いているうちから編集長に「デモは終わった、さあ就職だ。」という特集を組め、と指示された。
こうして、この世代は働き、未曾有の経済発展を成し遂げたのであるが、この間にしなければならないものを幾つか後回しにしてきた。
例えば、「教育」・「公害」・「差別」・「環境」・「家庭」などなど。
今の若い人を評すれば、良く言って個性的になった。
はっきり言えば、つまらなくなった。
もっと勉強して、物事を論理的に考える能力を養い、皆して「国家目標」を建てるような気概を持たなければならない。
それには「教育の改善」が必要だが、これからの10年のうちに出来るか、大変心配だ。

最後に提言として、今までの極端な個人主義を止め、無私の心(他人のことも思いやり、)、和の精神により、しっかりとした自分の考えを持ち、それを積極的に世界に向かって発信しなければならない。

という言葉で結ばれた。


64.2kg 1965歩 0歩  31961 21

今朝と明日は、あの「昭和史」の著者 半藤一利さんのお話だ。
半藤さんは昭和5年のお生まれで、敗戦時は中学2年生だった。
3月10日の東京大空襲では九死に一生を得、P51の機銃掃射では至近弾を浴びて一生最大の恐ろしい思いをした。
8月15日の天皇陛下の放送は新潟の勤労動員先の工場で聞いたが、あまりピンとこなかった。
ただ、「これで死ななくてすんだ。」という思いはした。

戦後、東大に進み、なんでこんなことになったのか疑問を持ち、「戦史研究会」などを作り、就職先の文芸春秋社でも「太平洋戦争の真相を研究する会」などを始めた。
取材のため、先輩の紹介状を持って大勢の戦争関係者の所をまわったが、個々の話をつなぎ合わせても真実のことす分からず、結局、多数の資料を集めて、その間の空白部分は推理するよりほかに方法が無かった。
こうして「昭和史上下二巻」(40万部)は完成したが、「なぜあの戦争は避けられなかったのか。」という疑問に対して半藤さんは次のとおり答えた。

日本は明治時代の約40年間急速な近代化を進め、日露戦争に勝利し、世界の大国の仲間入りをしたが、次の大正・昭和の約40年間は慢心し、大事な節目、節目で致命的な誤りを犯してしまった。(例えば、国際連盟脱退など。)(決して、軍部の独走だけが原因ではない。)
そして、次の「戦後約40年間」はもちろん「経済社会復興期」であるが、今また「バブル発生」以来の「衰退期」にある。(ネット資料により私が勝手に作文した。)

以下、明日のお話に続く。


64.2kg 5947歩 0歩  31940 170/8  

第21回KPG 27-33-38(前二回は二度打ち、三回目はOB四回)

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