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ヤフーニュースから。
荒尾市には戦時中、広大な火薬工場があった。旧陸軍が建設した「東京第二陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)荒尾製造所」=通称・荒尾二造(にぞう)=。今も施設跡は残るが、軍事機密だった施設の資料はあまり残っておらず、実体は不明な点が多い。荒尾二造とは何か。現地を訪ねると、軍事施設は今、市民の暮らしを支える地域の基盤施設として再生し、活用されている姿が浮かび上がった。同市荒尾の住宅地にある公園北側の崖に、まるで秘密基地のような建物が目についた。斜面をくりぬいた中に奥行き8メートル、幅32メートル、高さ11メートルのコンクリート製の半洞窟施設がそびえ立つ。荒尾二造の変電所跡だ。
変電所は、工場や専用鉄道に電力を供給した心臓部。半洞窟としたのは、上空から見つからないようにするためだったという。 現地を案内してもらった「荒尾二造変電所跡等をいかす市民の会」事務局長の山野幸司さん(67)=同市蔵満=によると、荒尾二造は東京・板橋の東京陸軍造兵廠を補完する工場の一つ。1939年に陸軍が市中央部(当時は荒尾、有明、八幡の3町村)の計約330ヘクタールを買収し、工場は42年に完成した。 現在の市道増永緑ケ丘線に専用鉄道が走り、北側に本部事務所や検査棟、変電所などの管理・輸送ライン、南側に工場群を核とする製造ラインが広がった。原料の石炭は地元で調達でき、爆弾や砲弾火薬の一大生産拠点になったという。 火薬製造は極秘で行われた。どこで使われたか不明だが、市教育委員会は、元従業員への聞き取り調査などから「戦争末期には、米国本土への爆撃兵器となった風船爆弾の爆薬として使われた」とみている。 次の訪問先は荒尾市増永。丘陵地に広がる住宅街には、変電所跡より一回り小さな半洞窟施設が二つ並ぶ。「大型火薬庫跡です。火薬工場跡を端的に物語る施設といえる」と山野さん。
変電所跡や大型火薬庫跡はともに日本の敗戦後、連合国が施設を接収した際に記した整理番号が白文字で記されている。火薬庫跡の一つは今、個人所有の車庫として使われていた。 工場では軍関係者や技術者、住民など約3千人が従事し、学徒動員もあった。坂井アサ子さん(86)=同市荒尾=と丸山美奈子さん(85)=同市水野=の2人は、高瀬高等女学校(現玉名高)4年だった45年5月から終戦まで働いた。 坂井さんは「丸1日、せっけん状の火薬10個を厚紙に包む作業。気が遠くなった」、丸山さんは「どれも黄色火薬。服も体も黄色くなった」と振り返る。 当時、完成する製品の正体すら知らなかった。坂井さんは自分に言い聞かせるように言った。「国に青春ばささげた。愚かだけど、それが戦争たい」 戦争遺跡となった荒尾二造・・・
市教委によると、荒尾二造は空襲で一部施設を焼かれたが、人的被害を含め、甚大な被害は免れた。そして終戦を機に、荒尾二造は生まれ変わる。
接収された施設は国に返還され、民間への払い下げが進む。加えて、工場にあった診療所跡は市民病院に、水道施設跡は市水道局(現企業局)、専用鉄道跡は市電(64年まで)へと引き継がれた。 山野さんは強調する。「荒尾市は戦後、荒尾二造のインフラに支えられた。二造は、平和の尊さを訴える戦争遺跡となり、地域の戦後復興の礎となった」。思いを受けて2013年、市は変電所跡を取得した。 戦中戦後で異なる姿にさまざまな思いが交錯する荒尾二造。今は住民の暮らしに寄り添う存在になっている。歴史の光と影を見つめ、これからの地域づくりに生かすことの大切さを荒尾二造は教えてくれている。 =2015/08/20付 西日本新聞朝刊= 感想。
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