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【ラマダーンは慎みと平和の月】
ニュースでは、「(イスラム教徒の)信仰心が深まるラマダン(断食月)の期間には、テロも頻発するようになる」という報道がしばしば為されます。しかし、それは正しい表現ではありません。 その場合の「信仰心」とは「正しい信仰心」ではなく、イスラームの教えを正しく理解しない歪んだ信仰心つまり「狂信」だからです。 もし本当にイスラームの信仰心が深まったならば、テロなど実行するはずはありません。 イスラームのまっとうな指導者たちは、口を揃えてテロを非難し、「それは正しいイスラームの実践ではない」と言明されていることからもそれは明らかです。 正しいイスラームの教えを理解したまっとうなムスリムならば、ラマダーンのサウム(断食を含む斎戒)期間中は妻との口論なども慎むように努力するのが本筋です。 ましてや、無関係の市民を巻き添えにするテロ行為になどに及ぶべくもないのです。 【仏道とイスラームはお互いを深め合う】 私は、スーフィー(イスラーム密教の徒)のシャイフ(導師)から受けた奥義伝授などを通して、仏法の正しい理解を深めることができました。 また、仏法の正しい理解と実践によって、イスラームの信仰心つまりアッラーへの帰依の心はますます深まっていきます。 仏道の正しい実践は、真のイスラームの実践に他なりません。良きバウッダ(仏道の実践者)であることは、良きムスリム(イスラームの道の実践者)であることなのです。 仏教の古い道歌に次のようなものがあります。 「分け登る麓の道は異なれど 同じ高嶺の月を見るかな」 この歌はもともと、仏門の中の様々な宗派の教えは、一見異なった道であるかのように見えるが、その本質は一つであることを示した歌ですが、すべての心ある宗教について言えるものだと言えるでしょう。 【イスラームは相互尊重と平和の道】 ラマダーン月に預言者ムハンマドのもとに啓示がもたらされた聖典クルアーン(コーラン)には、「信仰は強制されてはならない」といった意味の一節があります。 預言者ムハンマドは、メディナ市民に請われてメディナの統治者として迎えられましたが、異なる宗教の信者が、お互いの信仰を尊重しながら平和のうちに共存し支えあうための「メディナ憲章」を制定したことで知られています。 メディナ憲章には、メディナ市民には信仰の自由が保証されることが明記されています。 イスラム教は、その創設当初から「寛容と平和の宗教」だったとするのが、まっとうな歴史研究者の統一見解です。 聖なるラマダーン月にイスラームの名を穢す非道な暴力行為を行うテロリストは、真のムスリムではありません。 それは、「ムスリム」の名を騙る、反イスラーム的な「踏み迷える者たち」(コーラン開闢章)です。 ラマダーンは、「人類の相互尊重と平和」というイスラームの道の真髄を高らかに掲げるべき月なのです。 |
イスラームとスーフィー
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【神の本質についての預言者モーゼへの啓示】
ある日、預言者ムーサー〔モーゼ〕(彼のもとに平安あれ)は、「私たち(ヘブライの民)が信仰し仕える『神』とはいったい誰なのだろうか」という拭いがたい疑問にとらわれました。
そこでムーサー(彼のもとに平安あれ)は、神に対して「あなたは誰なのですか?」という渾身かつ直截な問いかけを行ったのです。
その問いかけに対して神から帰ってきた答えは、次のようなものでした。
「『存在するもの』こそが私である」
【古代ヘブライ語とアラビア語における唯一神の名】
古代ヘブライ語で、唯一神(アッラー)のことは「ヤーフワ」と呼ばれていました。もっとも、古代ヘブライ語は子音だけが表記される(母音は表記されない)ので、正確にはYHWHという四つの子音で表記されます。
このYHWHという四つの子音文字は、「テトラ・グランマトン(神聖四文字)」と呼ばれています。この神聖四文字が日本語で表記される時は、ヤハウェあるいはエホバと音写されるのが一般的です。
ただ、私は自分自身の直観と言語学的かつ音霊(おとだま)学的な解釈にもとづいて「ヤーフワ(YaHuWaH)」あるいは「ヤーフヴァ(YaHuVaH)」と呼ばれていたのではないか(古代ヘブライ語では子音WとVの区別はなく、音霊学的にもWとVの音霊はほぼ同じです)と考えています。ここでは、その(論理的かつ直観的)仮説にもとづいて話を進めることにします。
古代ヘブライ語で「ヤー(Ya)」とは、「おお、〜よ」といった意味の呼びかけの言葉であり、「フワ(HuWaH)」とは「存在する」という語根(基本動詞)の変化形で、「(まさに)存在するもの」といった意味になります。
ちなみに、ヘブライ語と同起源の兄弟言語であるアラビア語では、アッラーはしばしば「ヤー・フー」と呼ばれます(とくにスーフィーつまりイスラーム密教の徒たちはこの呼び名を好みます)。
アラビア語でも「ヤー」とは「おお、〜よ」といった意味であり、「フー」とは「存在(そのもの)」あるいは「生命(そのもの)」といった意味になります。
このもともと(おそらく)呼吸音すなわち息(生き)の音を起源とする(であろう)「フー(Hu)」は、スーフィー的(密教的)な解釈では、アッラーのエッセンス(本質)そのものを表す音だとされています。
アラビア語で「フワ(huwa)」は、「彼」という三人称単数の代名詞としても使われますが、それは「存在する」という語根(基本動詞)から派生して生まれた言葉です。あえてその原義を日本語に翻訳すると「存在するもの」という意訳が適切ではないかと考えています。
【神の応答(答え)をどう解釈すべきか】
先に「『存在するもの』こそ私である」という日本語訳(正確には日本語解釈)をあてたヘブライ語聖書の原文には、”I am that I am“という英訳(正確には英語解釈)があてられるのが普通です。
この古代ヘブライ語の意味をどう解釈するかは、当然のことながら個人の(霊的真理の)理解度や信仰内容によって異なってきます。ちなみに、キリスト教徒によるヘブライ語聖書(旧約聖書)の日本語訳では、「我は『生ける神』なり」あるいは「私は『在りて在るもの』である」などと訳されているようです。
ヘブライ語の原語は、「エヒイェ・アシェール・エヒイェ」(エヒイェは英語のI amにほぼ相当する)であり、日本人キリスト教徒の定番訳には、(その妥当性の是非はともかく)独自の解釈が色濃く反映されている(直截な訳ではなくかなりの意訳である)と言えるでしょう。
原語には日本語の「神」に相当するような単語は含まれていませんし、「在りて在る(もの)」と「在る」をわざわざ二度繰り返す(つまり「ある」という動詞を一文で3回繰り返している)根拠が不明です。余計な解釈を付け加えずに、単純に「在る(もの)」つまり「存在する(もの)」とすべきではないでしょうか。
とは言え、もしも「在りて在るもの」が仏教用語の「生きとし生けるもの」に相当すると考えるなら、必ずしも悪い訳ではないと思います。ただし、その場合は「在りて在る」という(通常の日本語としては)意味不明瞭な(思わせぶりな)言葉よりも、日本人になじみの深い「生きとし生ける」というより一般的な言葉を使うべきだと思います。
そういうわけで、私自身は、先に掲げた日本語解釈が最も素直で妥当なものであると考えています。
その解釈は、私自身の霊的体験(様々な導師たちからの奥義伝授、あるいは真理の直観的把握)をベースとしています。
それはまた、聖典クルアーンの啓示(の日本語解釈)、ハディース(聖伝承)すなわち預言者ムハンマド(彼に平安あれ)の言行録、他の預言者たち(イエスやブッダ、ヨーガの成就者たち、シーク教の開祖グル・ナーナク・ジーなども含む)の教え、スーフィーたちの教え、ハシディズム(ユダヤ教神秘主義)の教え、ヘブライ語やその兄弟言語であるアラビア語に対する言語学的な知識などから総合的に導き出した合理的な結論でもあります。
つまり、(右脳的)直観智(マアリファあるいはグノーシス)と(左脳的)理性の統合の結果生まれた確信(理解)だと言えます。
【主客未分の絶対状態】
ところで、「存在するもの」の「もの」とは、日本語では「者(もの)」すなわち「意識をもった主体的存在」と「物(もの)」すなわち「(意識によって)認識される客体的存在」の両方を意味します。
漢語では前者を「生物あるいは生命体」、後者を「物体」と呼び分けますが、大和言葉では、どちらも「もの」という同一の音(すなわち同一の言葉)で呼ぶことには深い意味があります。
「意識と物質、あるいは主体と客体はもともと不可分一体のものであり、その両者は本質的に同一である」ことを、古代の日本人は直観的に理解していたからこそ、者も物も、同一の「もの」という音霊で言い表していたのです。
そして、「単一の、単独の」を意味するギリシャ語「モノス」を語源とする英語のmono(単一の、単独の)も「もの」という同じ音で発音されることは、単なる偶然ではなく必然であると言えるでしょう。
ちなみに、音霊的には、このモノ(mono)という言葉は、ナミ(nami)すなわち波動と密接な関わりがあります。また、サンスクリット語では、ナーム(naam)という言葉(音)には、「名前(namae)すなわちname」と「波動」という二つ(以上)の意味があります。
つまり、ナーム(naam)は、波動を示す音のことであり、量子力学でこの宇宙におけるあらゆる物理現象の根源をなすとされる波動情報のことだと言っていいでしょう。
参禅体験をもとに西田哲学を打ち建て、禅学者の鈴木大拙とも親交が深かった哲学者西田幾多郎の「主客未分の絶対状態」とは、この唯一なる「もの」のことを示したものだと言えるのではないでしょうか。
西田幾多郎
ヨーガや禅で言う「サマーディ(三昧)」あるいは「主客合一の境地」とは、「すべてが(本質的に)ひとつである」(ことを自覚する)状態のことであり、「もの(物、者)」が「もの(mono)」としての本質を露わにする境地だと言うことができるでしょう。
その原初の意識(存在)状態は、リグ・ヴェーダでは「かの一者」と呼ばれ、ウパニシャッドでは「それ」として言い表されてきました。
多くのムスリムが暗唱(愛唱)する聖典クルアーンの一章「スーラト・アル・アハド」(唯一の章、あるいは純正章)は、まさしくこの「唯一の実在」の本質を、美しくかつ含蓄の深い古代アラビア語でシンプルに力強く詠い上げたものです。
「スーラト・アル・アハド」朗唱ビデオ
万物一体の真理を表した第一シャハーダ
そしてイスラームの第一シャハーダ(一般には「信仰告白」と訳されるが、「目撃証言」が原義)である「ラーイラーハ、イッラッラーフ」(一般的な日本語訳は「アッラーの他に神はなし」)の真義もまた、この「万物一体」の真理を端的に示したものだと言えるのですが、その詳しい解説はまた別の機会に譲りたいと思います。
【預言者の遺訓とともに】
最後に、預言者モーゼの「あなたは誰ですか?」という問いかけに対する神の応答(こたえ)が意味することをまとめておきます。
私たちが愛し仕えるべき唯一なる神が「存在するもの」であるということは、「すべての存在(生きとし生けるもの)はひとつである」ということです。
そして、その自覚のもと、「すべての生きとし生けるものを慈しみその平安と幸福ために生きる」ことこそが、アッラー(唯一神)を信仰し、アッラー(唯一神)に仕えることに他ならないということです。
つまり、無我(「分離は幻である」=「すべては一つである」)の真理への理解のもと一切衆生の平安と幸福を念じて慈悲の行を修める仏教徒の生き方は、そのままムスリムとしての生き方そのものなのです。
それゆえ私は、その理解のもとにスーフィー(かつ仏教徒)としての道を歩んでいます(少なくともそう歩もうと努力しています)。
私のムスリム(スーフィー)名アブドゥッラー(すなわちアッラーのしもべ)は、そういった私の魂の本性を端的に象徴したものです。
「あなたは創造主を愛していますか?もしそうならば、まず『あなたとともに生きるものたち』を愛しなさい」(預言者ムハンマド)
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【恩寵に満ちたライラト・ウル・カドゥル(力の夜)に】
今年のラマダンの断食(斎戒)も、いよいよ明日最後の日を迎えます。
イスラームの教えに従えば、ラマダーンの最後の10日間は、「ライラト・ウル・カドゥル(力の夜)」と呼ばれ、アッラーの特別の恩寵がある日とされています。
その日は、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)のもとに、天使ジブリール(ガブリエル)を通して、初めてアッラーの啓示がもたらされた日であるからです。
ライラト・ウル・カドゥル(力の夜)は、最後の10日間のうちのいずれかの一日なのですが、それがどの一日なのかは明らかにされていません。
そこで、信仰心の篤(あつ)いムスリムたちは、ラマダーンの最後の10日間は特に熱心に、斎戒(心や体の行為を慎むこと)や念神の行(アッラーを念じ祈りや瞑想に励むこと)に努めることになります。
ところで、ヘブライ語聖書の中で単純明解に記されている預言者モーゼに対する神の啓示にもとづけば、「アッラー」とは「(すべての)存在するもの」のことです(詳細は次回の投稿で詳しく解説します)。
したがって、「念神の行」とは、「すべての生きとし生けるものの平安と幸福を念じてそのために努めること」に他ならないと私は理解しています。
そこで私は、今朝のスフル(断食前の真夜中の食事)が終わった後夜が明けるまでは、聖なるクルアーンの美しい朗唱の音声をBGMに流しながら、現在そして将来の私の患者さんたちのために医療の勉強に励もうと思います。
アッサラーム・アレイクム(平安があなたとともにありますように)
【次回投稿の予告】
と思っていましたが、「アッラー」とは「(すべての)存在するもの」のことです、という先の記述に簡潔な補足解説を加えようとワープロを打ち始めたら、筆(キーボード)が止まらなくなってしまいました。
そこで、その解説を「唯一神(アッラー)の本質とは何か」という題名で独立した投稿としてまとめなおし、「ラマダーン随想」シリーズの次回の投稿としたいと思います。
※なお、この記事は、昨夜(7月4日)のうちに作成したものです。
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【ブラック・ムスリム運動にも属していたことがあるムハンマド・アリ】
ムハンマド・アリは、当初カシアス・クレイという名前でヘビー級の世界チャンピオンとなり一世を風靡しました。
彼は、ネーション・オブ・イスラーム(以下NOIと略す)というブラック・ムスリム(黒人優越主義を唱える新興宗教)の団体に加入してムハンマド・アリに改名しました。
「ムハンマド・アリ」とは、イスラームの預言者ムハンマドと、その娘婿であり預言者ムハンマドの霊的後継者とされる第四代カリフ「アリ」の名にちなんだものです。ムハンマドもアリも、イスラム教徒には最も人気のある男性名の一つです。
彼の生涯の全体像については、以下のNAVERまとめの記事や、Wikipediaの記述などを参考にしてください。
この記事では、彼が生涯を通じて身を投じた人種差別との闘い、黒人公民権運動や平和運動とイスラームの教えとの関係に的を絞って紐解いてみたいと思います。
【イスラームの教えを源泉としながら道を外れたNOI】
NOIは、米国のアフリカ系アメリカ人(いわゆる黒人)によって創始された新興宗教で、エライジャ・ムハンマドという「自称預言者」の米国人黒人男性のもとに大きな発展を遂げました。
「神の前ではすべての人間は平等」であるとして一切の人種差別を認めないことはイスラームの教えを源泉としています。
ただ、NOIは、米国に根強く存在する白人優越主義に対する反発から「黒人優越主義」というもう一つの極端に逸脱してしまったのです。
また、長い間同教団のトップを務め「預言者」を自称していたエライジャ・ムハンマドには、女性関係も含めた数々の素行不良のスキャンダルが伝えられています。
【真のイスラームに目覚めたマルコムX】
しばしばキング牧師と並んで語られる黒人解放運動家マルコムXも、当初はNOIの教えに惹かれてブラック・ムスリム運動に身を投じました。
しかし、当時教団トップを務めていたエライジャ・ムハンマドの言行不一致の不誠実さに幻滅し彼を公然と告発したことで教団から命を狙われるようになります。
自らの進むべき道を見失った彼はイスラームの真髄を求めてメッカ巡礼に旅立ちます。そして、巡礼の地で人種的には白人に属するアラブ人から熱烈な歓迎を受けNOIの説く「黒人優越主義(一種の逆人種差別思想)」が間違いだったことに気づき、真のイスラームの道に目覚め、NOIを脱退することになるのです。
【マルコムXに感化されたアリもイスラームの道に】
ムハンマド・アリは、マルコムXに感化されNOIに加入しましたが、マルコムXと同様に、後にNOIを脱退して正統派イスラーム(スンニ派)に入信しています。
そして、生涯を通じて人種差別と闘い、公民権運動や平和運動に身を投じました。良心的徴兵拒否によってヘビー級のチャンピオン・ベルトを剥奪されましたが、最終的に裁判で無罪を勝ち取り後に実力でヘビー級王座に返り咲いたことでも有名です。
【創生当初より全人類の平等を唱え続けるイスラーム】
全人類の平等、「純粋な正当防衛以外の人殺しは認めない(非暴力平和主義)」はともにイスラームの大切な教えです。
イスラームの礼拝の前に、礼拝の呼びかけ(アザーン)を朗唱する者はムアッジンとよばれますが、ムアッジンはとても大切な役割で、その信仰の深さを認められた篤信の徒が選ばれることを常としています。ムアッジンは、すべてのムスリムにとって尊敬と憧れの対象なのです。
歴史上初めてのムアッジンは、ビラールという黒人(エチオピア出身のアフリカ人)男性です。彼は、メッカで入信した最初期のムスリム(イスラームの徒)のひとりです。
そして、後に預言者ムハンマドから最初のムアッジンに任命されます。
このことからも、イスラームはその創始期から人種を超えた全人類の平等を一貫して唱導し続けてきたことが分かります。
聖なるラマダーンの断食月が始まった6月6日(ちなみに66は、アラビア数霊術にもとづくアッラーの数霊です)の夜に、イスラームの精神を体現したムハンマド・アリの徳を讃えこの哀悼文を捧げます。
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【カッワーリーの名手ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン】
昨日は、インド・パキスタンの国民的歌謡であるカッワーリーの伝説的名手ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンの生誕67周年でした。
ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンについては、前回(昨日)投稿した小生のブログ記事をご参照ください。
【あるスーフィー(イスラーム密教の徒)の聖者廟の巡礼記】
前回投稿本文内で言及したスーフィー聖者ハズラット・ニザームッディン・アウリヤー(「ハズラット」は聖者や学者などの名前に冠する尊称)のダルガー(聖者廟)でも、毎週木曜日の夜に、カッワーリーの演奏が開催されていました。
そもそもカッワーリーを創始したのは、ニザームッディンの愛弟子であるアミール・クスローであると言われています。
ニザームッディン聖者廟でのカッワーリー演奏風景
小生がハズラット・ニザームッディン・アウリヤーのダルガーに妻と一緒に参拝した時の顛末を綴ったブログ「ハズラット・ニザームッディン・アウリヤー聖者廟巡礼記」のリンクをご紹介します。
書きかけたところで忙しくなり、現在連載中断している状態ですが、インドにおけるイスラーム民衆信仰や、スーフィーの教えの一端をうかがい知ることができる内容となっております。興味のある方は、ご一読ください。
また、ニザームッディンの聖者廟については、以下の記事もご参照ください。
Wikipedia「ニザームッディン廟」
【万民に敬愛されたスーフィー大聖者】
ハズラット・ニザームッディン・アウリヤーは、中世インド(13〜14世紀)のスーフィーの大聖者で、老若男女を問わず、貧富や身分の貴賎を問わず、また宗教的な信仰の如何を問わず、当時の南アジア一帯の民衆の絶大な尊敬と思慕を集めたマハートマ(偉大なる魂)です。
大聖ニザームッディン・アウリヤーと愛弟子アミール・クスロー
生前より、イスラム教徒だけでなく、ヒンドゥー教徒やキリスト教徒なども含め宗教の壁を超えて人々の信望を受け、アラビア語では「マヘブーブ・イラーヒ(神に愛されし者)」あるいは「スルターン・ウル・マッシャイフ(真の導師の中の王)」などの愛称で呼ばれて来ました。
なお、ハズラット・ニザームッディン・アウリヤー(その生涯や教えなど)について、日本語で詳しく言及したサイトは見つけることができませんでした。英語なら、Wikipediaの以下のサイトなどが参考になるでしょう。
【今も彼の聖者廟には様々な人々が参拝する】
彼の遺骨や聖遺物を納めたダルガーは、インドのみならず東南アジアや中近東などからも彼の遺徳を偲ぶ多くの巡礼者が訪れる聖地となり、その周りには多くのモスクが立ち並んだ一大ムスリム居住区が広がり、「ニザームッディン」という彼の名前は駅名にもなっています。
彼のダルガーには、イスラム教徒に限らず、ヒンドゥー教徒、キリスト教徒、仏教徒など様々な宗教の信者が参拝に訪れます。近年は、西洋人の参拝者や観光客も増えているようです。
チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ法王も、かつて彼のダルガーを参拝されたことがあります。
イスラム式に頭を被り物で覆い、両手でお椀のような形を作るイスラム式の合掌をしながら頭を垂れて祈るダライ・ラマ法王の姿は、「霊徳の高い者は霊徳の高い者を知る」という古今東西変わらぬ真理を象徴しているようでした。
実るほど 頭を垂れる 稲穂かな
小生が約20年前に初めて訪れた時は、ヒンドゥー教のサンニャーシン(出家行者)の装束(オレンジ色のふんどし)をしたサードゥー(ヨーガ行者)が、「ヘー、バーバー!(おお、尊師よ!)」と叫びながらプラナームと呼ばれるヒンドゥー教における最高礼(チベット仏教における五体投地のような全身を投げ出す礼拝法)の動作を繰り返しながら参拝する光景を目撃することができました。
【イスラームの真髄の奥義伝授】
私は、その初参拝の際に、このダルガーの敷地内で、当時ダルガー付属モスクの筆頭イマーム(集団礼拝の先導者)を務められていたスーフィーのシャイフ(長老あるいは導師)から、イスラームの真髄の一端の奥義伝授を授かることができました。
私は、そのシャイフから、「君はムスリム(イスラームの道の徒)だ」と言明され、自分がムスリムであることを改めて再確認させていただきました。
私はムスリム家庭に生まれた(出生による)ムスリムではありませんし、イスラム教への形式的な入信儀礼も行ってはいません。しかし、神との一心同体の境地に至ったそのシャイフからそう告げられた以上、私がムスリムであることは疑うことができないと言えるでしょう。
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