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【米国の対テロ戦争は米国民を幸福にしたか】
9・11米国同時多発ビル爆破解体事件から早14年が経過しました。
時の政権を担っていたブッシュ大統領は、「対テロ戦争」を勇ましく宣言し、徹底的な武力による戦いによって米国に刃向かう輩を撃滅できるとうそぶいていました。
しかし、テロは無くなるどころか、ますます激しさを増しています。
米国の対テロ軍事作戦は、新たなる怒りと憎しみを生み、アフガニスタン、イラク、シリアなどにくすぶっていた過激主義の火種を大きく煽り立て世界中に撒き散らせることに成功しました。
そう、米国(支配者層)は、対テロ戦争に「成功」したのです。なぜなら、彼らは、建国以来、戦争によって他人の生き血を吸うことで私腹を肥やして来たからです。
【ISは米国の対テロ戦争が生み出した「転移ガン」である】
昨夜の「NHK国際報道2015」の中で、とても象徴的な良識的レポートが報道されました(NHKも時には良い番組を作ることもあるようです)。
イラク戦争に参加した元米国海兵隊員が、対テロ軍事作戦によって一般市民の犠牲も含めて新たなる悲劇と憎しみを生み出す現実に直面し、武力によるテロとの戦争に対して大きな疑問を抱くようになります。
そして、祖国に帰ってから、米国の対テロ戦争のあり方を根本的に見直す必要性を一般市民に呼びかける活動に従事するようになったのです。
その元海兵隊員は、他の退役軍人の仲間とともに祖国の街頭に立ち、通りかかる一般の米国民に「ISはどうして出てきたか分かりますか?」と問いかけます。
問いかけられた一般の米国民の中には、「米国の対テロ戦争がISが生まれるきっかけを作った」と冷静に分析する人もいます。しかし、「わからない」という人に対しては、彼は、「米国が彼らを作ったのです」と明確に断言するのです。
それが、戦場における現実を体験した者の偽らざる実感なのではないでしょうか?
癌細胞は、手術や放射線治療・抗癌剤などの攻撃的治療により生存の危機に立たされるとその生き残りのために悪性度を増して転移します。
同様に、中東地域における米国の対テロ戦争によって存続の危機(存立危機事態)に瀕した過激主義者が、より悪性度を増してシリア・イラク地域に集結したことによって生み出された「転移性癌病巣」がISである、と言っても過言ではないでしょう。
【戦争によって肥え太る者が平和を望むはずはない】
「米国民の安全と世界の平和のため」という掛け声のもとに、ブッシュ政権からオバマ政権と引き継がれた対テロ戦争は、米国民の安全を保証したでしょうか?テロリストを根絶し世界をより平和にしたでしょうか?
もともと対テロ戦争は、軍産複合体を有力な支持母体とするブッシュ政権が始めたものです。
ブッシュ元大統領は、美辞麗句のレトリックを駆使して「米国民の安全と世界の平和のため」と声高に叫び「対テロ戦争」をおっ始め、継続して行きました。
しかし、ブッシュ政権は、「米国民が安全になって(戦争の必要がなくなって)しまったら困る人たち」「(東西冷戦が事実上終結した現在)テロリストがいなくなって世界が平和になったら(戦争がなくなって)困る人たち」とグルになりその分前にあずかる政権なのです。
そんな政権が、米国民の安全と世界の平和の実現にとって有効な政策を実行するでしょうか?
安倍政権も、日本の軍需企業、武器を輸出することで金儲けを企む経団連と密接に連携している政権です。
また、口先では「米国民の安全と平和のため」と唱えながらも、本音では米国民がテロリストの標的となり続け、対テロ戦争を永続できることを望んでいるグローバル軍産複合体の下僕として働く政権です。
その言う通りにして日本国民の安全とより平和な世界が実現されるはずがないことは、少し理性を働かせることができる人ならすぐに分かることですね。
【戦争経済によって没落する国の道連れとなる愚を犯してはならない】
9・11事件以来、対テロ戦争にうつつを抜かす米国は、戦争によって私腹を肥やす一部の輩とそのお零れに与る者たちを除けば、急速に経済が悪化しつつあります。
生産性のかけらもない戦争のために、膨大なお金とエネルギーをつぎ込み、尊い人命を犠牲にして破壊活動に励むのですから、国家全体(一般国民全体)が豊かになるはずはありませんね。
安倍政権の安保法制を支持(あるいは容認)することは、そんな米国の二の舞いを踏み、貧困とテロの恐怖にあえぐ米国民と一緒に「地獄への旅」の道連れとなることなのです。
一部の輩しか儲からない歪んだ戦争経済によってごく一部の富者と圧倒的多数の貧者の二極分化が進んだ米国の実態は、私たち日本人に、安倍政権の勝手にさせた場合の日本の未来の姿を如実に映しだしてくれているのです。
それでも安倍政権を支持し、安保法制に賛成する人がいたとしたら、その人は、目の前の現実が全く見えていない究極の愚か者だと言えるでしょう。
没落する米国とともに地獄への道連れとなることを選ぶのか、戦争国家米国との悪因縁をきっぱりと断ち切り、平和と真の繁栄(一般国民の豊かさ)への道を踏み出すことを選ぶのか、今、私たちは、まさにその岐路に立たされていると言えるでしょう。
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戦争と平和
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【戦争の悲惨さを伝えるだけでは戦争は防げない】
「死にたくない、殺されたくない」は戦争正当化の口実にされる
上記リンクの記事の中には、次のような記述があります。
(高畑監督の映画「火垂るの墓」について)
いまなお“反戦映画”として引き継がれている名作だが、じつは、高畑監督はこの自作について意外な認識をもっているらしい。
「『火垂るの墓』は反戦映画と評されますが、反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものであるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか。そう言うと大抵は驚かれますが」
それがいったいなぜ役に立たないのか。高畑監督はこう語っている。
「攻め込まれてひどい目に遭った経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか。なぜか。為政者が次なる戦争を始める時は「そういう目に遭わないために戦争をするのだ」と言うに決まっているからです。自衛のための戦争だ、と。惨禍を繰り返したくないという切実な思いを利用し、感情に訴えかけてくる」
そう。高畑監督にいわせれば、「死にたくない」だけではダメだというのだ。むしろ逆に、「死にたくない、殺されたくない」という感情につけ込まれて、再び戦争は始まるものだと指摘する。
高畑監督は、過去多くの戦争が「自衛」の名のもとに行われ、大衆を戦争に導く指導者は、大衆の「死にたくない。殺されたくない」という生存本能を刺激し、大衆に「今、こちらからしかけなければ相手に殺される」と思い込ませることで戦争を始めてきた事実を指摘しています。
現在、イスラム国を仮想敵国として安倍政権が推し進めようとしている「戦争可能な国づくり」も、まさしくその手法にしたがって行われていると言っていいでしょう。
「殺したくない」をこそ大切にすべき
この記事の執筆者は、高畑監督の思いを忖度(そんたく)した上で、戦争抑止のための極めて重要なポイントを明らかにしています。
それは、「死にたくない。殺されたくない」という個体保存本能よりも、「殺したくない」という良心の働き、もしくは生物学的な表現を使うなら「種としての生存本能」を大切にすべきだという点です。
その点について詳しくは、リンクの記事を読んでいいただくとして、ここでは、「正義の戦争」を掲げる戦争が陥りやすい過ち、さらに自衛のための戦争(正当防衛)を逸脱した不義の戦争に腐敗させないために大切なポイントについて、イスラム教や仏教など真理の預言者(メッセンジャー)たちの教えをもとにさらに考察を深めてみたいと思います。
【イスラームにおける自衛のあり方】
イスラームの道(聖典クルアーンや預言者ムハンマドの言行にもとづいた教え)では、侵略者によって自分自身や同胞たちがまさに殺されかけている時など、純粋に自衛のための戦争(つまり個人であれば「正当防衛」に相当する)は「止むをえないもの」として認められています。
しかし、それは、戦争回避のために考えうるあらゆる平和的な努力を行い手を尽くしたがそれが功を奏しなかった場合だけです。
さらに、たとえ純粋に自衛のための戦争であっても、それが純粋な正当防衛から逸脱しないように様々な厳しい制約が課せられているのです。
たとえば、女性や子どもなど非戦闘員を巻き込まないことは言うまでもありませんが、農地を荒廃させてはいけない、樹木を傷つけてはいけない、など、人間だけでなくすべての生きとし生けるものの生命を慮った戦闘にとどめるべきであると釘を指しているのです。
【近年の腐敗した戦争の実例】
そして、これらの条件を満たさない逸脱した戦争は、たとえ「自衛」の旗印を掲げていたとしても「ファサード」すなわち「腐敗(した戦い)」として、厳しく戒められています。
少し世界の歴史を遡れば、ベトナム戦争における枯葉剤などを乱用した森林破壊行為、アフガニスタンやイラクの空爆において農地を荒廃させまくった事実は、米国が過去行ってきた自称「正義のための(防衛)戦争」は、イスラームの道においては神の掟に背いたファサードすなわち「腐敗した戦争」であったことは明確であると言えるでしょう。
【神の厳しい裁きこそ神の慈愛の証】
預言者ムハンマドが指揮した自衛戦争のある戦闘において、戦闘にほとんど勝利を収めかけた時に、ムハンマド軍のメンバーの一部が、戦利品の奪取を試みようとしたことがあります。
すると、それをきっかけに形勢が一挙に逆転し、ムハンマド軍は手痛い敗北を喫し、預言者ムハンマド自身も深い傷を負ってしまったのです。
これはあくまで私の個人的な見解ですが、この史実は、たとえ全体として預言者ムハンマドの指揮下にあった戦争であったとしても、純粋な防衛から逸脱した戦闘行為は神の御心に適わない戦争と見なされ、神の罰を下されるという事を表しているのではないかと私は考えています。
つまり、この時のムハンマド軍の敗北は、ムスリム(アッラーに帰依した者)たちに対する諫めと戒めであり、すなわち神の深い慈愛にもとづくムスリムたちへの恵みに他ならなかったということだと思います。
神の裁きは公正・厳密であり、そのことこそが、神の限りない慈愛の現れに他ならないのです。
【「正義の戦争」が陥りやすい過ち】
宗教が絡んだ戦争、あるいは直接宗教が絡まなくても「正義の戦争」を掲げるあらゆる戦争には、「自分たちは神の(あるいは正義の)側にあるのだから、少々道義的に問題ある行為も許される」という驕りがしばしば入り込みがちです。
事実、「正義の戦争」を標榜しながら米国を中心として徒党を組み「対テロ戦争」を推し進めるグループ、あるいはパレスチナの一般市民の殺戮を「自衛」と称して正当化するイスラエル政府などは、しばしば純粋な防衛から逸脱した行為を繰り返しています。
人類の歴史を振り返ってみても、イスラム帝国の野心的領土拡張の時代に行われた様々な自衛からの逸脱行為、十字軍により行われたとされる様々な残虐行為、アジアの民の共存共栄と欧米植民地主義からの自衛を掲げた大東亜戦争、朝鮮戦争、すでに言及したベトナム戦争など、「正義の戦争」の名のもとに、腐敗した逸脱行為が行われた実例は枚挙に暇がないと言えるでしょう。
【邪なる手段によって善なる目的が達成されることはない】
腐敗した戦争の奥には、「善なる(正しい)目的のためには時として邪な手段を採ることも許される(もしくは必要だ)」という人間の無知が潜んでいます。
しかし、「善なる(正しい)目的のためには、正しい手段を採るべきである」というのが、すべての真理の預言者(メッセンジャー)たちの教えなのです。
最後に、ミャンマーの上座部仏教の在俗聖者サヤジ・ウ・バキン師の叡智の言葉を掲げて、本記事の結びとしたいと思います。
「邪(よこしま)な手段によって善なる目的が達成されるというのは幻想です。それは、実に悪夢なのです。」
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大手マスコミの論調の偏向に対する危機感
私は、「はだしのゲン」をちゃんと読んだことがないので、その漫画に児童の閲覧制限をかけるべきかどうかについての判断は控えたいと思います。
しかし、この問題を巡って、大手マスメディアの論調が、「同漫画の閲覧規制に反対する」さらにそれを進めた「あらゆる表現の自由を認めるべきだ」とする方向でほぼ右へ習えとなっている現状に大きな危機感を感じています。
何やら、戦争肯定一色に塗りつぶされた戦前のマスメディアの姿を思い起こさせて背筋が寒くなるのを感じるのは私だけでしょうか?
もっとも、一部の新聞雑誌などでは、それ以外の主張も掲載されているようですが、大手全国紙を一つしか読まず、後はテレビの報道しか目に入らない情報環境(これは、ネットなどは見ない一般の日本人の多くが置かれている状況とほぼ同じだと思います)では、あたかも日本国民の大部分が大手マスメディアの論調と同じ考えを抱いているかのような錯覚に陥ってしまいます。
私は右翼でも左翼でもなく尾翼になりたい
そういった暗黙の思想統制の網をかいくぐっているのがブログやツイッターなどのネットメディアにおける発言でしょう。ただ、私が目にする限り、同漫画の閲覧規制を支持する、あるいは表現の自由に一定の制限をかけるべきだ、とする意見は、規制を撤廃すべきだとする意見の逆の極端に走った感情的なものが多く、中立的な視点から(あるいは多様な視点から)冷静にこの問題を論じた文章には、今のところ出会ったことがありません。
日本の世論は、大手マスメディアを支配する左翼と、その反動としてネットメディアで勢いづく右翼とに分裂してしまったかのようにも思えます。私は、左翼にも右翼にも組することなく、(必要に応じて両者の力を補佐もしくは抑制することで世論と言う機体の全体のバランスを取る)尾翼としての役割が果たせることを念じつつ、この投稿を書きたいと思います。
そのため、私の意見はおそらく左翼と右翼の双方から反発を受ける可能性があると考えています。ただ、「右翼vs左翼」というステレオタイプに単純化した対立構造で、すべての政治的意見を分類してその対立を煽り、相手の視点を否定しつつ各自の意見の正当性を主張するという現在の言論界の大勢を占める表現方法には、大きな問題があると考えています。右翼、左翼というレッテルを貼り色眼鏡で見てしまうことなく、自由に論じ合い、相手の意見にも耳を傾け合う気運が盛んになることを願いつつ筆を進めて行きたいと思います。
「表現の自由」は絶対善なのか?
預言者ムハンマドに対する言われなき侮辱が擁護された
「表現の自由」を巡っては、数年前、自由放任主義の絶対的正当性を信じる西洋の漫画家による「唯一神の使徒預言者ムハンマドをテロリストと同一視する事実にもとづかない侮辱漫画」が新聞に掲載され、イスラム教徒の激しい反感を引き起こした事件があります。
これも、西洋諸国では、「表現の自由」や「表現者の権利」を錦の御旗(大義名分)としてその漫画家のイスラム教徒の人権を無視する行為を擁護する意見が大勢を占めました。
人権を脅かすデマも「表現の自由」のもとに正統化されるのか?
しかし、イスラム教徒にとって預言者ムハンマドはある意味自分自身よりも尊い存在です。その侮辱漫画の書き手やその漫画家を擁護する人たちは、たとえ「自分自身がテロリストである」と表現するえん罪漫画を描かれたとしても、それを「表現の自由」「表現者の権利」にもとづいて擁護するのでしょうか?
その侮辱漫画は、西洋諸国の人たちの中の預言者ムハンマドの人格やイスラム教に対する歪んだ偏見を助長し、一方ではイスラム教徒たちの間には西洋諸国に対する怒りや憎しみを引き起こし、異文化の相互理解と平和共存のための大きな障害を生み出しました。それは、世界の平和と諸宗教の調和的共存を脅かす行為だったと言えるでしょう。
それは、例えば関東大震災において「朝鮮人が飲料水に毒を混ぜた」というデマを流して多くの朝鮮人の虐殺を引き起こした行為とどこが違うのでしょうか?「表現の自由」を絶対善とする人々は、デマにもとづく朝鮮人の虐殺も肯定するのでしょうか?
女性の尊厳を傷つける若者向けマンガ
さらに、近年、未成年が容易に入手できる漫画雑誌などで見かける、過激な性描写を含む作品の多くは、女性を性欲の対象としてしか見ない男性(の肉欲)中心の世界観にもとづいていて、女性を商品化することで女性の尊厳を踏みにじり男女差別を助長するものだと思います。
両極端に流れる危険性
私は、書き手の良識と読者の自浄能力のみに頼ってあらゆる表現を自由化するあまりにもナイーヴな極端な考え方には賛成できません。かといって、あらゆる言論や芸術を行政が検閲して制限を加えることにももちろん反対です。
大手マスメディアを蝕む暗黙の思想統制
たとえば、現在、日本において、太平洋戦争中の日本軍が行った良い行為について言及したり日本の正当性を擁護する(あるいは太平洋戦争の不可避性を認める)内容の言論は、法律でこそ規制はされていませんが、「日本人の自尊心を徹底的に骨抜きにする」というGHQの政策を引き継いだ大手マスメディアの暗黙の思想統制のもとにおかれ、マスメディアに表立ってとりあげられることはほとんどありません。そのような(暗黙の)思想統制は撤廃するべきだと考えます。
暗黙の思想統制は、先日の麻生元総理の発言に対する大手マスメディアのヒステリックとも言える反発にも現れていると思います。麻生元総理の発言全体をちゃんと理解すれば、彼がナチスの行為を肯定したものではない(むしろそれを否定したものである)ことは一目瞭然です。にも関わらず、大手マスメディアでは、(私が知る限りは)総理の発言内容を擁護する報道には、お目にかかっていません。
ナチスに関しては、(全体の文脈から冷静に判断する手続きを放棄し)たとえ一言でもそれを肯定するような誤解を少しでも与える可能性をもった発言は徹底的に排除するというのは、日本に限らず多くの西洋諸国の大手マスメディアに共通して見られる(ほとんど機械的な反応だとも言える)姿勢だと思います。
私たち日本人は米国支配者層の精神的な家畜にされてしまったのか?
そして、同じような極端な(ヒステリックな)、全体の文脈から切り離した「揚げ足取り」とも言える理性にもとづく冷静な思考過程を介さない反射的(機械的)な批判的報道は、戦前・戦後の日本の政治体制(旧レジーム)の政策(やその肯定的側面に言及しようとする発言)に対しても行われていると言えるでしょう。
私たちは、米国の支配者層が戦後の日本統治において目論んだ「日本人の精神的な家畜化」は見事に実を結んでいるように感じるのは私だけでしょうか?
歴史には光と影がある
誤解を避けるために付け加えておきますが、私は、決して「太平洋戦争は正しい戦争だった」とか「日本軍は、アジア諸国に対して良いことばかりをした」などと主張するつもりはありません。
「太平洋戦争」という言葉で一括りにされる一連の政治的・軍事的行為群の中には、現地の人々に被害をもたらしたものもあれば、逆に利益をもたらしたものも一緒くたになって含まれていると言えるでしょう。
この一文を読んで「え?太平洋戦争で良いことも行われたの?」と考えた人たちは、すでにその暗黙の思想統制の犠牲になっていると言えるでしょう。
多面性を本質とする歴史認識
また、歴史とは常に多面的な解釈が可能なものです。同じ歴史的な出来事でも立場が違えば、まったく別の意味合いを持ってきます。例えば、明治元年に隠岐の人たちによって行われた当時隠岐の島を実行支配していた松前藩に対する一連の政治的な行動は、現在の日本の歴史教育では「隠岐騒動」(中央政府に逆らう人々によって起こされた反逆的行為)と教えられていますが、当時の隠岐の人々にとっては、島民の自治をめざした「独立運動」だったわけです。
また、1857年から1859年の間にインドで起きたイギリスの植民地支配に対する民族的反抗運動は、(日本を含む)西洋諸国では、かつては「シパーヒー(セポイ)の乱」(シパーヒーとは、インドを植民地支配していた東インド会社の傭兵のこと)と呼ばれていました。
反乱参加者の出身が広くインド社会全体に広がっていた事から最近では「インド大反乱」と呼ばれる様になりました。しかし、西洋諸国の歴史教育では未だに反乱、すなわち「為政者に対する武力的反逆行為(テロ行為)」として教えられているわけです。
しかし、「シパーヒーの乱」あるいは「インド大反乱」は、インドの人にとっては、イギリスの不当な植民地支配に対する抵抗運動(レジスタンス)であり、インドの民族独立運動の原点となりました。インドの人からは、「第一次インド独立戦争」という呼ばれ方をされる事もあります。
このように、歴史的事件の捉え方(歴史認識)は、事件に関わったどちらの側にたって解釈するかによって大きくその意味づけが変わってくることを本質としていると言えるでしょう。
戦後の歴史教育の根本的欠陥
戦後の歴史教育(いわゆる「平和教育」や「民主主義教育」)には、歴史的出来事の多面性(光と影)、そして歴史認識の多様性(様々な歴史認識の選択肢)を教える努力が、決定的に欠如していると思います。本来、歴史の多面性と歴史認識の多様性を教えることこそが、歴史教育の最大の使命なのではないでしょうか?
歴史認識の一本化(特定の解釈の絶対化)こそが戦争の種となる
歴史認識の一本化に潜む暗黙の思想統制の影
戦争の一面だけを勝利者の側の一方的な視点(勝利者史観)からだけとらえて「絶対悪化」し、その方針に合わない情報は徹底的に排除するという現在の大手マスメディアの報道の仕方は、戦争の真の姿に対して私たちの心を盲目にし、真実の正しい理解のための大きな妨げになっていると考えます。そのような歪んだ歴史認識(の一本化)は、再び戦争の過ちを繰り返すもととなってしまうでしょう。
自虐史観(自国の歴史、とくに明治維新から太平洋戦争の敗戦に至るまでの日本の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価し、米国支配にもとづく戦後の政治体制を過剰に美化する歴史観)を見直そうとする動き(自由主義史観など)に対する最近のマスメディアが肩を並べて展開している一連のヒステリックとも言える批判的な報道には、何やら日本の政治を影であやつる勢力による思想統制のきな臭い匂いを感じるのは私だけではないでしょう。
戦前・戦時中の思想統制において反戦平和主義もしくは共産主義思想と見なされた書物が焚書の憂き目にあったように、戦後のGHQによる思想統制では、共産主義思想だけでなく皇国史観(日本の歴史が天皇を中心に形成されてきたことに着目し、「日本民族」の統合の中心を「万世一系の皇室」に求める思想)と見なされた書物に対する焚書が行われたことも、現在の日本人にはあまり知られていないようです。
多様性の許容と中庸の道こそを目指すべき
以前の投稿でも何度が述べましたが、「ある特定の考え方だけを絶対化し、それ以外の考え方を排除し抑圧する」行為こそが、日本を不幸な戦争に引きずり込んだ張本人(真の戦争犯罪人)であると思います。
私たちは、歴史認識の多様性を許容し、両極端に偏らない中庸の道を探って行くべきではないでしょうか?
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【本当にビンラディンが犯人なのか?】
9年前の9月11日に起きた事件のことを、私は「9・11テロ」とは呼ばずに、「9・11事件」と呼んできた。なぜなら、米国政府が主張するようにビンラディンが犯人であると信じる障害となる合理的な疑問が他ならぬ米国人たちの手で多数提出されているからである。
2004年にアルジャジーラが公表したビデオ映像にもとづくと、ビンラディンは確かに「米国に対する抵抗」を賞賛している。だが、私が記憶する限り自分が(9・11事件の)犯人であるとは宣言していない。もし、彼が巧妙心に駆られたテロリストならば、「自分こそが米国に大打撃を与えた英雄である」と公言するのではないだろうか?
そのビデオ映像も本当にビンラディン本人の発言を伝えたものであるかも定かでない。ビンラディンはソ連のアフガニスタン侵攻当時にCIAのエージェントとして働いていたことは米国政府も認めているので、世界一の映像技術を持つ米国の専門家が捏造映像を製作することなど何の造作もないであろう。
たとえそれが本物だったとしても、ビンラディンは、9・11テロの手柄を自分によるものだと匂わせることでコーランの教えを正しく理解しないイスラム教徒の心を掴むために利用したと考える方が自然ではないだろうか?
9・11事件の直後は、彼は側近に対して自分の関与を否定していたと伝えられている。
1990年代はじめにウサーマのテープを翻訳した経験のあるMUJCA-Netの主催者ケヴィン・バレット (Kevin Barrett)の見解では、2001年以降に発表された多くの「ビン=ラーディンだ」といわれるテープは偽物であり、CIAが「本物だ」と断定した2002年秋に発表されたテープも、スイスにあるIDIAP研究所が声の分析をした結果は「替え玉による録音だった」という。こうしたテープは、ブッシュ政権が色々な批判を浴びている状況下で報道に出てくることが多く、テープ自体は頻繁に出されている。 (この節はWikipedia「ウサーマ・ビン=ラーディン」よりの引用)
【テロリストの語源】
Wikipeidaの定義に従えば、テロリズムとは、「恐怖心を引き起こすことにより特定の政治的目的を達成しようとする組織的暴力の行使、およびそれを容認する主義」の事である。 ブッシュ政権が推し進めた戦争は、まさしくこのテロリズムの定義に合致することが理解できるだろう。
「テロリズム」という言葉は、もともとフランス革命で革命政府が反対派を大量粛清した恐怖政治のことを指す言葉として生み出された。つまり、「権力者による権力に抵抗する者への弾圧」が本来の意味だったのである。
だが、昨今は、むしろ「抑圧的な国家権力に武力をもって抵抗する者」すなわち「レジスタンス」とほぼ同じ意味で使われることが一般的になっている。
9・11事件の真犯人が誰であろうと、それが、「恐怖によって人々を支配しようとする人」であることは変わりがない。もともとそれが、「テロリスト」という言葉の語源である。
【真のテロリストは誰なのか?】
だから、9・11事件の真犯人はやはり「テロリスト」であり、9・11事件は「テロ」なのである。だが、その「テロリスト」は一体誰のことなのか、人々の恐怖心を煽り殺人を肯定しているのは一体誰なのか、それを考え直すことには大きな意味があるだろう。
9・11テロを起こした諜報人を追い詰めるためと称して始められた二つの戦争を後押ししている日本の国民として、アメリカの大手テレビ局によって製作された次の番組を視聴することは意味のあることだろう。
「911ボーイングを探せ」 【テロリズムに対抗する唯一の手段】 誰が真犯人だろうと、それに対抗するための方法は唯一である。それは、「恐怖と憎しみを煽る人たちの言葉に惑わされない」ことである。
いつの時代でもテロリストたちが常とう手段としていること、それは、「暴力や悪に対抗するための自分たちの暴力は許される」と主張することである。
理性に従い、恐怖や憎しみに駆られず、いかなる暴力に対しても与(くみ)しないこと。それがテロリズムに対抗する唯一の有効な手段である。 |
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終戦に関連する様々な行事や報道、日韓併合100周年、原爆記念日などを巡って、このところ日本中で右翼と左翼の対立が激化しているようです。右翼の方も、左翼の方も、対立姿勢を続ける全ての人に対して、日本国民の安寧と世界の平和を願われる天皇陛下が大東亜戦争を終結されるにあたって私たち国民に示された「終戦の詔勅」を思い起こして欲しいと思います。
【終戦の詔勅より】
原文
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ 念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
口語訳
私は、ここに国としての形を維持し得れば、善良なあなたがた国民の真心を拠所として、常にあなたがた国民と共に過ごすことができる。もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。
上記の文は、以下のサイトから転載させていただきました。同サイトでは、陛下の玉音放送の声も聞くことが出来ます。今一度、心して全文に耳を傾けてほしいと思います。
なお、動画としては、以下のようなサイトがあります。
【天皇陛下の願いと悲しみ】
天皇陛下は、感情の高ぶりによって日本人同士が仲間割れを起こすことを何よりも戒められています。このことは、右翼左翼双方の方々に是非とも心していただきたいと考えています。ただ、左翼の方々の多くは天皇陛下のみ言葉を重んじることはないでしょうから、とくに天皇陛下を尊ばれる心を持った方々にこそこのみ言葉を噛みしめてほしいと希望しています。
天皇陛下はご自身を崇拝することを私たちに望んでおられるのでしょうか?そのみ言葉を守り、その御心と行いに倣って私たちも陛下と同じような生き方ができるように努力することこそ、天皇陛下が私たちに願われていることではないのでしょうか?
私は、この「終戦の詔勅」を巡っていくつかの記事を連続投稿するつもりでした。でも、昨今の日本では、この陛下のみ言葉を踏みにじるようなことばかりが行われています。今の日本の有様を見て、(昭和天皇も平成天皇も歴代の天皇も)陛下は深く心を痛められているのではないでしょうか?
陛下の深い悲しみを思うと、尊王の志士として連続投稿記事が完成するまで待っていることができませんでした。すべての日本人が、この陛下のみ言葉を心に刻んでいただくことを切に願っています。
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