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浅はかな誤解にもとづく公開質問状がネット上で波紋を呼ぶ
先日、フィリピン台風被害への募金を呼びかけるサイトのコメント欄に、日本ユニセフ協会があたかも募金のピンハネをしているかのごとき誤解を与える書き込みがあったので、実際に国際協力のNGOで働いた経験などをもとに誤解を解く投稿を行いました。
その時の書き込みの元ネタは、リンクで紹介した産経ニュースの「ネットろんだん」の中でも採り上げられている「2ちゃんねる」元管理人の方によるアグネス・チャンさんへの公開質問状をコピペしたものだったようです。同記事は、小生がコメントした投稿と同様の内容を簡潔にまとめていますので寄付の使い道や国際支援の仕組みなどに関心のある方は是非全文をご一読ください。
持続的な支援を可能にするために必要な経費
NGOの持続的な運営(すなわち支援活動の持続的な継続)のためには、事務経費などの必要経費が発生します。営利活動を行わない非営利団体(NPO)の場合は、その必要経費は募金などで集められたお金の一部から充当せざるをえないのです。
黒柳さんのように他に十分の収入を稼げる職業を持たれている方なら必要経費は自腹で全額を本部に届けることができますが、支援活動だけに専念する団体の場合はそのようなことは不可能です。そういった必要経費をも含めて寄付しそういった団体の運営を支えることは、持続的で安定した支援活動を現地に届けるためにも大切なことなのです。
支援団体で日々事務仕事などの地道な雑務をこなしている人達がいなければ、親善大使の見かけの派手な活動も不可能となってしまうでしょう。親善大使は、任命期間の間だけ活動すればいいのですが、支援団体はその前もその後も支援活動を継続していく社会的な務めがあるのですから。マスメディアに登場せず光が当たらない(世間の注目を浴びない)ところで黙々と仕事をされている方たちも支えて行くことが大切だと思います。
植物が美しい花を咲かせるためには、光が当たらない暗い地面の下に根を伸ばし、誰も見えないところで水分や地中の栄養分を吸収する地道な作業が不可欠なのです。
自己満足としての寄付vs真に現地のためになる寄付
支援団体に寄付をする方の中には、すぐに具体的に目に見える形で寄付が現地のために使われ成果が現れることにこだわる方がいます(もちろん、そうでない方もいますが)。誠に残念なことですが、自分が寄付したお金が現地での支援プロジェクトの直接的な経費のみに使われることを前提として寄付を行う方も少なくないのです。
それには、寄付を行う人が、自己満足を得やすいという理由があるような気がします。しかし、本部の事務経費が不足したなら、当然現地で支援プロジェクトを実施することも不可能となってしまいます。それは、見栄えのする成果をもたらす最前線の活動を蔭で支える大切な経費なのです。
現地の自立的発展を支える地道な支援にも目を向けよう
災害援助などの緊急支援には多額の寄付が集まっても、現地の人々が独り立ちできるような教育支援(人づくり)や、地場産業育成などのすぐに目に見える成果があらわれない地道な支援活動にはあまり寄付が集まらないのは、寄付する人にすぐに満足感をもたらさないといった理由もあるからでしょう。
もちろん災害や戦争などの非常事態においては緊急支援も大切です。しかし、緊急支援だけでもっと地道な自立の支援を怠るなら、現地の人々の心に援助に対する依存心を生み出し現地コミュニティーの地力を奪う結果をもたらすことさえあります。
自分の善意が目に見える形ですぐに成果を表さなくても、長い目で見て現地の人の幸福につながる地道な支援に対して、私達はもっと関心を向けるべきではないでしょうか?真の支援とは、自分のお金が目に見える結果を出すことに満足感を抱くことが目的ではないはずです。光が当たらない(世間の注目が集まらない)蔭の部分にも配慮した支援を行っていきたいものだと思います。
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ニュース雑感
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【現在の喜びと将来への危惧】
日本人の研究者二人のノーベル賞受賞に日本中が沸き立った。お二人の今までの努力に敬意を表し、受賞を心から祝福したい。
蓮舫議員が事業仕分けで冷たく言い放った「二番じゃ駄目なんですか?」というセリフを思いだした人も少なくなかったことだろう。
だが、今回ノーベル賞を受賞したのは、二人の研究者の過去の研究の業績に対してである。
もし、このまま素人感覚で科学研究を蔑ろにする風潮が続くならば、優秀な頭脳をもった日本人はどんどんと自己の努力を正当に評価される海外に流出し、科学技術創造立国日本が遠からず衰退してしまうことは想像に難くない。
【科学の発展は成果が目に見えない努力の積み重ねによってもたらされる】
科学の新発見や新技術開発には、serendipityが必要だと言われる。Serendipityとは、「セレンディップの3人の王子」というお伽話の主人公に掘り出し物を偶然に見つける能力があったことから生みだされた言葉で「思わぬものを偶然に発見する才能」という意味である。
だが、根岸氏か鈴木氏か忘れたが受賞者の一人もテレビのインタビューで語っておられたように、新発見は、決して単純な偶然によってもたらされるものではない。地道な努力を積み重ねて行き、飽くなき知的探求を続ける中で初めてもたらされるのである。
【素人が高圧的に出る危険性】
科学に限らず、どの分野での研究も、目に見える成果が出るまでは「素人目」には、「無駄」に見えることは数限りなくある。だから、学術研究の意義について素人が口を挟むのはよほど慎重に行わなければ、学問の発展を著しく阻害する危険性があると言えるだろう。
科学研究は、その分野の経験も専門知識もない一政治家が、威圧的な態度で仕分けるべきものではない。その意義について理解できないのならば謙虚に専門家の教えを請うべきであり、居丈高に問い詰めるのは己の未熟さを披歴するようなものである。
そんな態度では、専門家の方も委縮して正しい説明ができなくなる。うっぷん晴らしをしたい大衆の支持を得ることはできるかもしれないが、本当に国民のためになる政治を実現するために役立つかどうかは大いに疑わしい。
【敵対的仕分けがもたらすもの】
事業仕分けで「廃止」と判断された事業の中で、公益法人がその仕分けを「拒否」したもの、あるいは、形だけ廃止したが、同じような趣旨の新たな事業を起こし予算を請求するということが相次いでいると言う。
各公益法人は、それぞれの専門的な視点から、「国民の益になる」と考えて事業を立案する。それを、事業の中身と意義をちゃんと理解しようとせずに頭ごなしに「無駄だ」と決めつけられても、納得する訳がない。それは彼らの社会貢献意欲を削ぐものであり、それでも公益を推進する意思が強い人は、様々な手段を使って自らの意思を貫徹しようとするだろう。
つまり、蓮舫議員が前回の事業仕分けで見せたような敵対的な態度で事業仕分けをしても、無駄の削減には寄与せず、国民同士の間に相互不信とわだかまりが残されるだけである。
先日放映されたあるテレビ番組によると、家計を健全化する上で最も有効な方法とは、夫の立場を慮って十分な小遣いを与えることだと言う。高圧的な態度で小遣いを切り詰めると、夫は身を守るために所得を正直に申告せずに「へそくり」を作るようになり、結果的に家計はさらに苦しくなるという。
一方的な切り詰めは夫の勤労意欲を削ぎ、また、仕事を円滑に進める上で必要な付き合いも控えるようになる。その結果夫の給料はいつまでも上がらないという事態ももたらされかれない。
「政治主導」とは、経験の浅い一政治家が素人感覚で何でもかんでも自由に決めて良いということではない。行政の専門家、立法の専門家、司法の専門家、それぞれの専門家の意見に謙虚に耳を傾けながら、全体のバランスを取る裏方としての役割を果たすべきであり、自分が前面にしゃしゃり出て国民の注目を集めるのは本末転倒だと言えるだろう。
事業仕分けのテレビ中継は、国民の他罰心をエスカレートさせるだけであり、理性的な無駄の削減をむしろ阻害する結果をもたらしかねない。政治の場を「劇場」と化すのはやめた方がいいのではないだろうか? 【医療の世界における素人の驕り】
医療の世界でも対立的世界観にもとづく専門家の迫害は起きている。先日、在宅での看取りに長年力を尽くして来られた一人の医師が殺人の容疑で有罪判決を受けた。末期状態にあった患者の苦痛の緩和のために適量の筋肉弛緩剤を投与したのだが、判決内容を読むと「筋肉弛緩剤=殺人に使われる薬」という素人判断の浅薄なイメージに引きずられているということが良く分かる。
その結果を受けて、素人の誤解によっていつ殺人罪に問われるかもしれない在宅医療から手を引こうと考える医師が増えているようである。
【歪んだ民主主義を具現化した検察審査会】
先日も、「検察審査会」という平均年齢約30歳と言う社会的経験も知識も乏しい未熟な素人の集まりによって、法律のプロによる再三の不起訴の判断を軽んじて小沢氏の強制起訴が決定された。
夫婦の絆と社会の調和を重んじるイスラム社会では、不倫が証明されれば厳しい刑罰が課されるが、もし不倫の告発が無実だと分かった時は、不当な告発を行った者には同等の厳しい罰が下される。「人の罪を訴え罰を求める」という事は、それだけ重みのある行為だからである。だから、人々は軽々しく人を訴えたりなどしない。だが、裁判で小沢氏の無実が証明されても、その結果小沢氏や国民が被った不利益に対しては、一体誰が責任を取るのであろうか?
検察審査会では、その場限りで集まった素人集団が、何の義務も制約もなく、その場限りの判断で審査が進められる。審査の進め方や証拠の吟味にかける時間などについても、何の決まりもないと言う。何の義務も責任も負わされない集団が、本当に責任をもった公正な判断ができるのだろうか?
議決文を読むと、被疑者を法廷に引きずり出す自分たちの権利だけが強調され、告発が無実だった時の責任については一言の言及もない。群集心理にもとづくリンチとどこが違うのだろうか?
検察審査会とは、権利だけが認められ何の義務も責任も問われない組織である。それは、今の日本の歪んだ民主主義の形を如実に体現した組織だと言える。それは、国民感情を焚きつけることで日本社会の裏を牛耳る輩によるマスコミなどを通した情報操作の餌食に容易になりやすい組織であると言えるだろう。
検察の不正を監視するために検察審査会が必要だというのなら、検察審査会の妥当性を監視するための組織も作る必要があるのではないか?
【権力者が驕り高ぶれば国は滅びる】
このところ日本では、「民意の反映」「市民感覚の重視」の名のもとに、素人が政治に口を差し挟むことを手放しで良しとする風潮が蔓延している。しかも、その多くは「怒り」や「うっぷん」といったネガティヴな感情に裏打ちされ、節操無き「権利の主張」に根ざしていることがほとんどである。
一般大衆を操作しようとする輩は、そう言った大衆の短絡的感情と「権利意識」につけ込むことが多いことは、過去の歴史が証明する通りである。
専門家に敬意を払うことを忘れ、自分たちの思い通りに世の中を動かすことで良い世の中がもたらされると勘違いしている国民が増えていることに危惧を抱くのは私だけであろうか?
君主制国家で君主が驕り高ぶるならば国の政治が立ち行かなくなるように、民主主義国家で最高権力を握る私たち国民が驕り高ぶるならばその国に未来はないと言えるだろう。
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小学校5年生担任の教師が、道徳の授業で児童に「脅迫文」を作らせていた。教師は「グループで協力し合う共同作業の大切さを学んでほしかった」と説明しているという。
この事件を、一人の非常識な教諭の過ちとして済ませるのは間違いである。
この事件は今の日本社会の実態を如実に反映していると言えるだろう。
教諭は、新聞の切り抜きによって脅迫状を作るアニメの一場面にヒントを得て、まともな道徳の授業にはあまり関心を示さない生徒たちに興味を抱かせようと思ったらしい。
非道徳的な授業によって道徳的に未熟な生徒の歓心を買おうとする行為は、まともな政策論議には興味を示そうとしない政治的・道徳的に未熟な国民の歓心を買うために次々と誤った政策を約束し実行する今の政治の在り方そのものである。
菅総理も、「412人内閣」によって、グループで協力し合い日本を破滅に導く共同作業の大切さを私たちに学んで欲しいのだろうか?
この事件は、道徳心の低い社会において民主主義による民意の実現が何をもたらすのか、それを私たちに教え示してくれているのである。
ニュース番組のコメンテーターは、一様にこの教諭の道徳心の欠如を批判する。だが、道徳心の欠如を最も反省すべきなのは、他ならぬ私たち自身ではないだろうか?
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【勝ち馬に乗るマスコミ】
大阪地裁で村木厚子元厚生局長の無罪が言い渡された。
まったく勝ち馬に乗ることばかりを考えるマスコミの豹変ぶりにはおそれいるばかりである。
新聞各紙は、いっせいに検察の横暴を書きたて、あたかも自分たちが正義の味方であるかのように胸を張る。
公務員を「抑圧的官僚」の名のもとに十把一絡げで悪者視し、国民の怒りと憎しみを煽って来たのは他ならぬ自分たち自身であったことを全く省みようとしない。私は近日中の新聞で、公務員の苦労や真面目な仕事ぶりを報道する記事にはついぞ出会った事はない。
もっともそれは、そんな記事を書こうものなら、自分たちの不満のはけ口を求める国民の不評を買うことが目に見えていたからであろうが。
権力に媚びないことを謳い文句にするマスコミは、今や最高権力を恣(ほしいまま)にしている国民に媚びを売る報道に終始している。
目先の利害得失を追い求めるマスコミを育んできたのは、他ならぬ私たち自身なのではないだろうか?
【冤罪を誘導したのは誰なのか?】
真に断罪されるべきなのは、マスコミや国民の期待に応えようと勇み足を踏んでしまった検察ではなく、国民の歓心を買うために言うことをころころと変えるマスコミと、そんなマスコミを育てその誘導にまんまと乗っている私たち一般国民ではないのだろうか?
今のマスコミや私たち一般国民に、「世論による誘導」にひっかかってしまった検察の方々を非難する資格があるのであろうか?
検察の誘導よりも、マスコミや世論による誘導の方が遥かにたちが悪いと思うのは私だけであろうか?
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東京都渋谷区神南のNHK放送センター内のトイレで11日、自殺を図り重体になっていたNHKの影山日出夫解説副委員長(56)が12日午後、搬送先の病院で死亡が確認されたという。
景山さんは、政治問題全般を担当し、「日曜討論」など、政治関係の番組の司会や解説員を務めていた。関係者の話では、社内の人間関係などのトラブルは特になかったということである。
政治家と同じように、政治担当のマスコミ人はストレスの多い仕事だろう。とくに公共放送としての公平性が強く求められるNHKの職員はそうであるに違いない。
ちょっとでもまずいことを言うと上層部からは圧力を受けるだろうし、視聴者からも厳しい批判が浴びせられる。右に傾いても叩かれ左に傾いても叩かれる。保守に傾いても革新に傾いても叩かれる。かといって当たり障りのないことを言っていても批判の的になる。
家族の生活を守るために心ならずも妥協しなければならない時もあるに違いない。
そのストレスの強さは私たちの想像を遥かに超えていることだろう。良心的な報道を心がけている人ならなおさらである。
NHK上層部、出演者、視聴者、家族、そういったすべての人たちの板挟みになって人知れず悩むことも多かったのではないだろうか?
私たち一般市民は、そのようなストレスの強い仕事を社会的な使命感から黙々とこなしている方々に対して、もっと感謝の念を抱くべきではないのだろうか?
その偏向報道を批判するだけでなく、彼ら公共放送職員の人知れぬ苦労について少しは思いを馳せる時があってもいいのではないだろうか?
受信料の不払いの増加に示されるように公共心を失ってしまった私たちに、公共放送の不完全さを非難する資格があるのだろうか?公共放送に態度の是正を求める前に、まず私たち自身が襟を正す必要があるのではないだろうか?
「善人ほど早く逝く」「悪い奴ほどのさばる」という言葉がある。民主主義の日本社会で一番のさばっているのは、私たち一般市民ではないのだろうか?悪い奴が長生きし善人が早死にするのは、神様が善人をその近くに置いておきたいと考えるからなのかもしれない。
ただ人の非を論うことばかりにかまける私たち日本人の堕落しきった社会の中で精いっぱい頑張っておられたであろう景山さんの今までの努力に深く感謝し、そのご冥福を心からお祈りしたい。
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