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ヨナとの対決に真央が敗れたというのにこのさわやかな気持ちは何なのだろう。おそらく多くの日本人が同じような感覚を抱いているに違いない。テレビの街頭インタビューでもそうだったし、私の周りの人たちの感想もそうである。
それは、真央やヨナ、そして他のすべての選手が、(結果にこだわらず)「努力すること」の美しさを身をもって示してくれたからなのではないだろうか。日本の文化の中に連綿と受け継がれてきた「努力」の美徳を、彼女たちが私たち日本人の心の中に、そして世界中の人々の心の中に思い出させてくれたのではないだろうか。
今回のオリンピックで、多くの日本人選手の口から出たのが「支えてくれた人たちのために頑張りたい(頑張った)」という言葉である。
オリンピックだけでなく、トヨタ自動車リコール問題の公聴会で証言したトヨタ社長からも「私は多くの人たちに支えられた。これからも支えてくれるみなさん(労働者も消費者も含め)のために頑張りたい」という言葉が語られた。
公聴会では、問題追及の急先鋒と目され息巻いていた議員たちも、豊田社長の率直な謝罪・今後の改善の努力への決意などの誠実さを認め、公聴会後はその態度を一転している。
オリンピックのみならず、トヨタ自動車問題や一連の反捕鯨問題でも、日本文化の美徳が世界に認められた。シーシェパード問題では、敵対者であるはずの侵入者を丁重に扱う調査捕鯨船乗組員たちの態度が報道された。
国際的な一流雑誌インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙にも、日本を全面的に擁護する記事が掲載された(拙ブログの「反捕鯨は鯨を救うか?」の中にその要約が転載されている)。
オリンピックでは、多くの期待されていた選手がメダルを逃し、金メダルを目されていた選手が銀メダルや銅メダルに終わった。日本人は、「メダル取り」という勝負には負けたと言えるのかもしれない。
トヨタ・リコール問題でも、反捕鯨問題でも、一見すると日本人がバッシングを受け敗北したと取ることもできる。だが、日本人は勝負に負けることでその美徳を世界に知らしめた。日本には「負けるが勝ち」という言葉がある。「身を捨つばこそ浮かぶ瀬もあれ」という和歌もある。
合気道の開祖植芝盛平翁の「絶対不敗」の境地とは、すべてに勝利することではなく、「敗北が幻である」と知ることである。
「敗北が幻である」とは、そもそも勝ち負けは実在しないということである。敵味方という区別自体が幻だということである。私たちはみな、ともにこの宇宙いうドラマを演じる共演者なのだ。
ヒンドゥー神話の「マハーバーラタ」(実在した歴史上の戦争を描いた叙事詩であると考えられている)の中で、カウラヴァ兄弟は、神クリシュナがついたパーンダヴァ兄弟と敵対して闘った。
だが、カウラヴァ兄弟も、神のために戦っていた。そして、その戦闘の場で、人類史上最も美しい聖典の一つと呼ばれる「バガヴァッド・ギーター」がクリシュナ神によって語られ、人類にその英知がもたらされた。
それは、カウラヴァ兄弟とパーンダヴァ兄弟が、見掛け上「敵対する」ことによって可能となったのである。つまり、「バガヴァッド・ギーター」とは、カウラヴァ兄弟とパーンダヴァ兄弟の競演によってもたらされた共同作品なのである。
ヨナの完璧な演技も、真央のさらなる未来の進化を感じさせた演技も、彼女たちが、そして他の選手たちが、競い合い、切磋琢磨しあったことによって生まれたものである。
彼女たちの演技は、すべての選手の共同作品だったのである。
「努力」の美徳は、日本人だけのものではない。私がこのブログでしばしば引用するバガヴァッド・ギーターでは、全編にわたって「結果にこだわらない努力」の大切さが詠われている。
それはまた、イスラームの「ジハード」の精神でもある。ジハードは、「聖戦」と訳されることが多いが、アラビア語の基本動詞JAHADA(努力する)の変化形であり、その本来の意味は「(神のために)努力すること」である。
「神のために」とは、特定の宗教の特定の存在のためにという意味ではなく、自分を支えてくれるものたちのために、人類のために、世界全体のために、という意味である
それはまた、道元禅師の「自己放下」の精神であり、親鸞聖人の「自然法爾(じねんほうに)」の精神である。
禅における「身心脱落、脱落身心」とは、何か特別な神秘体験のことを示すのではなく、小さな自己の殻を抜け出し、大いなるもののために自己を委ねることを示している。
オリンピック選手たちは、みなこの「自己放下」の精神を身をもって示してくれた。勝っても負けても彼らが美しかったのはそのためであろう。
キム・ヨナもまた、この「自己放下」を示してくれた。クリスチャンである彼女は、最後の演技を前に、「すべての結果は神様が決めること」と言い切った。ヨナは、行為の結果を神に委ねたヨーギであり、「神への帰依」を意味する「イスラーム」の徒だった。だからこそ彼女は、重圧に打ち勝ち、あれだけのパーフォーマンスを演じることができたのであろう。
バガヴァッド・ギーターの「無執着の努力」、イスラームにおける「(神のための)努力」、禅の「自己放下」、これらはみな同じものを指し示しているのである。
私は、オリンピックそのものがジハードであると思う。それは選手たちのジハードであり、コーチたちのジハードであり、大会役員たちのジハードであり、先住民たちのジハードであり、人類のジハードである。それは何より「平和と人類の統合」を達成するためのジハードなのではないか。
マハーバーラタで勝利したパーンダヴァ兄弟の長兄ユディシティラは、この世での義務を果たし、その高潔さゆえに肉体をもったまま天国に入る。そこで彼は、パーンダヴァ兄弟だけでなく、カウラヴァ兄弟とも再会する。彼らは、もともと従兄同士だったのだ。かつて史上最大の戦闘を闘った彼らは、今や、天国においてともに談笑する仲となっていた…。
フィギュア・スケートのエキシビジョンの情景を観ながら、私はそんな「マハーバーラタ」の結末を思い出していた。
今回のオリンピックは、私に人間の美しさと人生の素晴らしさを再認識させてくれた。
生涯にわたって「人生の苦」と「苦からの解脱」を説き続けたゴータマ・ブッダは、その最晩年において次のような言葉を残している。
「アーナンダよ。この世界は美しい。人生とは甘美なものである。」(マハー・パーリ・ニッバーナ・スッタンタより)
※マハー・パーリ・ニッバーナ・スッタンタ(大乗仏典の大般涅槃経とは別物)は、中村元博士の手によりその日本語訳が岩波文庫から「ブッダ最後の旅」として出版されている。円熟した釈尊の境地を表わした美しい原始仏典である。
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