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前回(昨日)の投稿で予告した通り、今週月曜日(1月7日)の朝に(私が)見た夢のメッセージについて「内なる叡智」からのインスピレーションをもとに紐解いた私の解釈を提示してみたいと思います。
※イタリック(斜字体)部分が夢の記述、正字体部分がその解釈です。斜字体の中の青字部分は、夢のシンボル(象徴)と思われる事項、正字体の中の太字部分は、重要ポイントと思われるものです。
学校のような建物(三階建)の最上階の一番端っこの部屋で、私は、インド人の講師と一緒にサンスクリット語の奥深さについて共同講義を行っている。
➤この世界は学校のような「(魂の)学びの場」である。
➤「インド人の講師」や「サンスクリット語」は、仏教、インド哲学、アーユルヴェーダなど、インドを源流とする「宇宙の真理への理解」に根ざした「精神的伝統」(およびそれを伝える者たち)の象徴である。
そこでは、ホワイト・ボードを使って、次のような説明が行われていた。
・ サンスクリット語で「健康」のことはswa-stha(スワスタ)と言う。
・ swaとは「自身の」という意味で、
・ sthaは語根sth-(立つ、存在する)を語源とし、
・ 併せて「自己を存在せしめるもの」(自己存在基盤)あるいは「(真の)自分自身であること」といった意味となる。
・ それこそ「健康」という言葉の本質的な意味である。
➤これはまさしく「健康、すこやかさ」(health)という言葉(概念)の本質を示している。「(真の)自分自身としてあること」こそが「健康」の何たるかである。
➤すなわち、人々が「(真の)自分自身としてあること」を手助けすることこそが、人々の健康を守る「医師」としての私の務めである。
そこで、誰かが、「危ない!ビルが崩れるぞ」と声を上げると同時に、3階建のビルがいきなり崩壊を始める。
次から次へと床が抜け下へ向けて落下し、最後は、3階の天井もバラバラになって崩れ落ちてくる。
「9・11ビル同時爆破解体事件」で、航空機も突入していないのに突然完全崩壊したWTC第7ビル
➤現代文明(or社会)は、一見強固で立派な構造物のように見えるが、今まさに崩壊直前の状態にある。
➤そのことに気づいている少数の者が、声を上げて警告を発しているが、崩壊を防ぐことはできないだろう。
私は、「天井が崩れるぞ!頭上に注意しろ!」と大声を上げてみなに警告を発する。
➤私もまた、そのような警告者の一人である。
➤でも、私は、真の意味の「先見者」と言うよりも、すでに崩壊を始めている現代文明(or社会)への(直前に迫った)「最後のとどめ」について追加警告を発しているにすぎない。
床が抜けて今や地上に到達した元3階の壁の中に、誰かが密かに仕込んでいたらしい「何らかの仕掛け」が、壁の崩壊とともに露わにされ、虚しく破壊されていった。
➤このように遠からず崩壊の運命にある現代社会の中で、自己の(個人的な)成功を目的とした「種の仕込み」や「仕組みの形成」などは虚しい行為である。
その虚しさやおろかさは、現代文明の崩壊とともに、白日の下にさらされることになるだろう。
「かわいそうに、彼は密かにこんなものを仕込んでいたから、犠牲になってしまったのだ」誰かが、一抹の同情と一種の蔑み、さらには諦観とが入り混じった声の調子で、その仕組みを密かに仕込んでいた者の哀れな運命を告げる。
➤そのような「現代文明(社会)の脆弱な構造」の中での個人的な成功のための仕込みにかまけている者は、逆に「失敗者」となる。
ただ、その「失敗」とは、「経済的(あるいは物質的な)損失」などというよりも、「魂の退化」「徳の喪失」あるいは「深層心理の穢れ」といったより本質的な「自己への敵対行為」を意味する。
➤そのような(成功のための)「仕込み」とは、たとえば、「引寄せの法則」にしたがった(我欲の達成のための)アファーメーション(ただ単に、成功に「憧れる」ことも含まれる)、あるいは、末期的な金融資本主義の中で最後の取り分をかき集めるためのマルチ商法ビジネス、仮想通貨への投資、その他投機的株式投資など、が含まれるだろう。
➤そして、現代文明の中で成功するためのそれらの個人的努力の集積そのものが、現代社会の完全崩壊をもたらす要因となるだろう。
多くの人が、現代文明の歪んだシステムの中で成功しようと努力することこそが、現代文明の崩壊を促す結果をもたらす。
崩壊した建物から、何とかほとんどの人は無事避難を終えたが、逃げ出す際に、何人かの教師の指導のもと、建物の周りに有志が麦の種を植えている。
今のうちに麦の種を植えて地盤を強化しておくことで、将来、同じような災害が起きた時に建物の完全崩壊を防ぐことが可能になるかもしれない、ということらしい。
➤「現代文明の崩壊」そのものを防ぐことはもはや不可能だろう。いや、むしろ現代文明は完全崩壊すべきなのかもしれない。新しい文明を創造するための崩壊である。それは、ヒンドゥー神話の「創造のための破壊者」シヴァ神によって象徴される。
➤「現代文明」そのものは崩壊するが、私たちの魂が破壊されるわけではない。それは、現代文明の崩壊を超えて存在し続ける。
➤今、私たちが考えるべきことは、「現代文明の崩壊を防ぐこと」ではなく、文明が依って立つ基盤、つまり私たち人類の深層意識の中に、良き種を撒くことではないのだろうか。
つまり、「因果応報」の「因」の仕込みであり、「善業楽果」のための「徳の蓄積」である。
それは、すぐ目先の成功や結果のための努力ではなく、(個人的にも社会全体としても)中長期的な将来を見すえた上での(魂の成長のための)努力である。
➤それらの努力は、現代文明の崩壊の後に生まれる新しい文明の存在基盤を、現在のものよりもより強固なものとしてくれるだろう。
➤それらの努力とは、「(特定の結果を得るための)人為的な技巧」と言うよりも、「自然の法則」に根ざし、「自然の力」の発現を促すためのものである。
つまり、お釈迦様が諦(あきら)かにされた因果応報、因縁相応などといった仏法にもとづいた精進(努力)のことである。
➤ただし、ここで言う「仏法」とは、「(既存の)仏教の枠組みの中で説かれている教え」という意味ではなく、「覚醒めた意識」によってあきらかにされる「宇宙の真理」という意味であり、特定の宗教的な枠組みの中に限定されたものではない。
つまり、仏教以外の他の宗教的な枠組みの中で説かれてきた「真理の教え」、さらには宗教的信仰とは無関係な形で説かれてきた「真理の法則」も含まれる。
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宗教と文化を超えた真理
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【暗示的な初夢】 一昨日(1月7日)の朝3時頃、 私はある夢を見て目が覚めました。 その夢は、 多分に暗示的な夢であり、 「私個人」というよりも 「私たち人類」への重要なメッセージを 秘めているように思えました。 そこで、 自分自身の「内なる叡智」に問いかけ その解釈を試みてみました。 現代の一般的な解釈にもとづくと 「初夢」は、 1月1日の夜から2日の朝にかけて見る夢 (もしくは1月2日の夜から3日の朝にかけて見る夢) だとされています。 もしその解釈にしたがうらなら これは「初夢」ではありませんが、 「今年はじめての重要なインパクトをもった夢」ということで、 「初夢解釈」と題させていただきました。 もっとも、 もともと「初夢」とは、 (とくに江戸時代以前には) 「節分から立春の夜に見る夢」 のことを意味していたようです。 【集合的無意識からもたらされた予知と預言の夢?】 ともあれ、その夢は、 「今まさに現代文明に起きつつあること」の本質を示唆する、 (ある意味では)「予知的な」夢であり、 そのプロセスにおいて私たちが心すべきことについて 多くの示唆を与えてくれるという意味では、 「預言的な」夢である と言えるかもしれません。 (ちなみに、「預言」は「予言」とは異なり、 より理性的、つまり「真の意味で合理的」な 示唆を含んだものです) 私の「個人的な夢」というよりも、 阿頼耶(アラヤ)識すなわち 私たち人類の集合的無意識からもたらされた 「(寓話的な)夢」のように思えたのです。 【個人を超えた普遍的なメッセージ】 そこで、 その夢の内容と、 (私の「内なる叡智」からもたらされた)その解釈を、 小生のブログにまとめてみました。 もちろん、その(文章化された)解釈には、 私の個人的な理解や信念に影響された部分が 皆無とは言えないでしょう。 (直観的示唆を言葉に変換する段階で 通常の思考過程のフィルターを通しますので) 「個人に向けたメッセージ」というより 「全人類に向けたメッセージ」という性質を 基本的には有しているようですが、 (解釈文には)一部私個人へのメッセージも含まれます。 でも、これからの文明の行く末や その中で私たちがなすべきことについて 超個的な(私個人の存在を超えた)メッセージを 含んでいると思いますので、 関心のある方には、 一読をおすすめします。 はっきり言って、 「経済アナリスト」を自称する人たちによる (株価の動向も含めた)今年の経済予測、あるいは 「予言者」もしくは「霊能者」を自称する人たちによる 「2019年の大予言」などより (私たちの魂の成長と天命成就にとっては) 遥かに有益な内容だと思います。 (「私」の予測や予言ではありませんので) ただし、その真価をどれだけ深く理解できるかは 読み手の機根(真の「知性」つまり「魂の成熟度」) 次第だと言えるでしょう。 次回の記事に
夢の内容の記述とその解釈を 掲載したいと思います。 |
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【深い闇の中の一条の光】
安倍政権の面々による悪行の数々が続き、暗雲に覆い尽くされたかのように見える政治状況ですが、そんな中でも希望の光を見出すことはできます。
たとえば、数々の嘘をつきまくる稲田朋美。でも、彼女の発言を伝えるニュース映像を注意深く見るなら、その中にもポジティブな要素を見出すことができます。
「嘘をつきまくる」という点では、稲田朋美と安倍晋三は同じ穴のムジナだと言えるでしょう。ただ、同じ様に嘘をつきまくるにしても、稲田朋美の方が明らかに「良心の呵責」を強く感じているようです。
そんな彼女の「良心の呵責」は、彼女の虚偽の言葉の端々にもにじみ出ています。たとえば、彼女は、「日報の存在の報告を受けていたのか?」という質問に対して、『「報告は受けていない」というところでございます』と答えています。
もし本当に報告を受けていないのなら、単純に「私はそのような報告は一切受けていません」と答えればいいはずです。それを、「‥というところでございます」ともったいぶった言い回しを付け加えているのは、真っ赤なウソをただそのまま発することに心理的な抵抗を感じているからでしょう。
それに、彼女は、国会で虚偽の答弁をしたり、インタビューに対して嘘の受け答えをしたりする前に、一瞬ためらいの表情を見せた後に言葉を続けることが圧倒的に多いようです。
彼女の心の底では「こんなに嘘をつきまくっていいのだろうか」という逡巡があるからでしょう。この点が、安倍晋三との決定的な違いです。
つまり、稲田朋美は、「自分が(心の底では)悪いことをしていると知りつつ悪事を為している」のです。この点が、「自分は良いことをしている」と思い(こもうとし)ながら悪事を為している安倍晋三との決定的な違いです。
まあ、もっと正確に言うなら、そんな安倍晋三でさえ心の底では「自分が悪いことをしている」という自覚はあるのです。ただ、その気づきを抑圧する迷いの想念があまりにも強いので、「平気で嘘をつく」ように見えているのです。
【悪事と知りつつ為す悪事の方がはるかにまし】
つまり、稲田朋美は少なくとも安倍晋三よりは迷いのレベルが浅く、より悟り(ありのままの真実への気づき)に近いということができるのです。
仏教では、「悪事と知りながら悪事を為す」ことと「悪いことと知らずに悪事を為す」ことを比べた場合、後者の方が圧倒的に罪が重い(迷いが深い)と説かれています。
なぜなら、前者の方が、真理に気づいて己の過ちを改める可能性が遥かに高いからです。
【智慧によりもたらされる苦しみを祝福する】
彼女は、知人に「とても苦しい」という言葉を漏らしていると伝えられています。
その(表向きの)理由は、「自由に言いたいことも言えない」「好きな服も着れない」というとんでもないものですが、本当は、彼女の苦しみのかなりの部分(たとえ全てではなかったとしても)は、彼女の「良心の呵責」によってもたらされているものだと思います。
「彼女が良心の呵責を感じて苦しんでいる」ことを私たちは喜び、祝福するべきです。なぜなら、それは稲田朋美の良心と智慧の光が彼女の心の底では輝き続けていることを意味するからです。
彼女の(良心の呵責によってもたらされる)苦しみを喜ぶことは、彼女の深層心理における叡智と徳を祝福することであり、原始仏教において説かれる慈悲喜捨の四無量心のうちの喜(ムディター)の実践に他ならないのです。
もちろん、「彼女が悪事を為さずに良心の呵責も感じないで済む」ことが最も望ましいことです。でも、もし彼女が悪事を為しているなら、良心の呵責を感じて大いに苦しむ方が遥かにマシなのです。
【慈しむがゆえに因果応報を望む】
そして、私たちは、彼女が「(心の底から悔い改めない限りは)もっともっと苦しむ」ように手助けしてあげなければいけません。
それは、彼女の不幸を望む、つまり「呪う」ことではありません。むしろ彼女の(真の)幸福を願うことなのです。
なぜなら、「悪事を為しているのにその報いを受けて苦しむことがない」ことこそが最大の不幸だからです。「悪事を為した時には、それに相応しい苦しみを受ける」ことこそが幸福だからです。
【慈しむがゆえの徹底的なこき下ろし】
私は、現政権の悪事の数々を徹頭徹尾批判する投稿を行っていますが、親しい知人から「表現が過激すぎるのではないか」という意見をいただくことがあります。
でも、私は、安倍政権の面々を同じ人間として深く慈しんでいるからこそ、彼らの悪事を口を極めて徹底的に批判しているのです。
もし私が彼らの魂の救済(真の幸福)を望んでいないなら、私は彼らの悪事を指摘することはないでしょう。「見てみぬふり」をすることでしょう。
私たち一般国民が彼らの悪事を許し続けるならば、彼らはいつまでも己の悪事を反省することなく、永遠に魂の救済(真の幸福)に至ることはできないでしょう。
だから私たち良識ある国民は、安倍晋三を始めとする現政権の面々の魂を深い慈悲の心で抱きつつ、その悪事に対して異を唱え、(非暴力の、でも徹底的な)抵抗を続けて行く必要があるのです。
【慈悲に根ざした徹底抗戦を】
もしも我が子が、今まさに命にかかわる過ちを犯そうとしていたとしたら、親はどのように我が子に対するでしょうか?
やさしいことばでやんわりと忠告するでしょうか?オブラートに包んだ周りくどい表現を使うでしょうか?
もしも、ある人が、このままでは確実に地獄に堕ちるような悪事を続けていたとしたなら、どんな強い言葉を使ってでもそれを止めたいと思うのが人情ではないでしょうか。
現政権を支える人々の多くは、もしもこのまま心の底から反省して悔い改めることがなかったとしたら、死後確実に地獄に堕ちることになるでしょう。
私たち良識ある国民は、出来の悪い我が子を最悪の災難から守るために諌める時のような気持ちで、安倍政権の悪事に対して徹底的なノーを突きつけ続けていく必要があるのです。
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【しょせんレプリカはレプリカ】
一昨日の土曜日(4月29日)、
東北博物館(仙台市)で開催されていた特別展
「世界遺産 ラスコー展 クロマニョン人が残した洞窟壁画」
に行ってきました。
「ラスコー洞窟の壁画の原寸大の精密で立体的な再現!」
という触れ込みで
「デジタルスキャンで精密に再現されている。
日本にいながらオリジナルの迫力で見られるまたとない機会」
などと宣伝されていたので
かなり期待して行ったのですが、
(立体再現展示に関しては)
「しょせんレプリカ(複製)はレプリカだな」
というのが正直な感想です。
壁画を描いたクロマニョン人たちの
情念のようなものを少しは
感じられるかと思ったのですが‥
まあ、期待した私が愚かだったと言えるでしょう。
だって、たとえどんなに原画の見かけに忠実に複写したとしても
ピカソやゴッホの絵の複製画を観て
本物の絵を目にした時のような感動を
味わえるはずがありませんよね‥
レプリカの壁画を前にして
オリジナルな壁画を描いたクロマニョン人たちの意識に
アチューンメントしようとしてみましたが
あまり上手く行きませんでした。
【見かけにとらわれると本質が見失われる】
私は、今回、視覚情報の忠実な再現にこだわった
ラスコー洞窟壁画の立体複製展示を見て、
江戸時代末期に、杉田玄白ら蘭学医が
西洋の解剖書「ターヘル・アナトミア」を日本語に翻訳した
「解体新書」のことを思い出しました。
「解体新書」は、伝統的な漢方の「臓腑之図」と比べて
その(物理的な)正確さに杉田玄白らが驚嘆して翻訳を志した
と伝えられています。
でも、「解体新書」の解剖図は
しょせん死んだ肉のかたまり
つまり生命のない物体の視覚的な情報だけを
機械的に筆写したものに過ぎませんから
生きた人体に内在し躍動する命の力つまり「気」を
感じることができないのです。
偏った医学史観を聞かされて育った一般の人たちには、
「『解体新書』の出版によって日本の医学は大きく進歩した」
と信じている人がほとんどでしょう。
確かに、「解剖学的な構造の正確な把握」が
極めて大切な外科手術の分野では
「解体新書」が寄与したところは少なくなかったと思います。
でも、一方で、
「解体新書」の翻訳出版をきっかけとして
「日本の医学は大きく退歩してしまった」
と言うべき側面もあるのです。
それは、「見かけの奥に潜む命の本質の軽視」です。
動きもエネルギーも存在しない
物理的な(静止した)外見を重視する
「(死体)解剖学」が偏重されるとともに、
日本の医学の主流は、その後
「本質よりも見かけ(目に見える表面的な現象)を重んじる」
という風潮に蝕まれていくことになります。
【本質を知る達人たち】
順天堂大学特任教授(医学史)酒井シヅ氏は、
「解体新書」が日本の医学に与えた影響について
とりあげたテレビ番組
「謎解き!江戸のススメ:江戸の医学〜医は仁術」の中で、
「『解体新書』によって、日本の医学が大きく進歩した。
それまでの漢方医学では、陰陽や虚実などの概念で病気を考えていたが、解体新書によって、病気は臓器の異常によって起きることが明らかにされた。」
という解説コメントを残しました。
しかし、近年の西洋医学の最先端に立つ達人たちは、
陰陽虚実といった東洋医学が遥か昔から説き続けてきた
生命の原理の大切さに
ようやく気づきつつあると言えます。
私は、研修医時代に
米国フェローであり感染症診療の権威として世界的に有名な
青木眞先生の講演に何度か参加したことがありますが、
とても心に残っているお話があります。
先生ご自身は、漢方に対して何の知識もないようでしたが、
先生が講演の中で強調されていたことは、
「見かけに惑わされずに生命現象の本質を見極めなさい」ということでした。
その講演の内容は、
「解体新書」が日本で出版される前の日本の医学では
ごく当たり前の常識として説かれていた
漢方の「陰陽虚実」の考え方とまさしく一致するお話でした。
【クロマニヨン人の情念を再現した子どもたちの壁画】
再現立体壁画については、
正直期待はずれなところがありましたが、
当時のクロマニヨン人が使っていた本物の石器の展示など
見応えのある展示も少なくなかったので、
「ラスコー洞窟壁画展」全体としては
十分に見る価値のあるものだと思います。
展示会場を出たホールに、
「ラスコー洞窟壁画展」にちなんだ企画
「洞窟壁画体験」と称して
仙台の小学校の子供たちが模造紙に描いた絵が
トンネル状の空間に
展示されていました。
その「子ども壁画」は、
昆虫や、犬猫などのペットといった
子どもたちにとって身近な生き物の姿を
のびのびと描いたものでした。
これらの生物たちに対して
子どもたちが抱いていた思いが
胸に迫ってきました。
ラスコー洞窟の壁画を描いたクロマニヨン人たちも
きっとこの小学生たちのような気持ちで
彼らにとって身近な動物たちの姿を洞窟上に再現し
動物たちへの彼らの思いを表現したのではないか‥
そんな風に思えました。
子どもたちの絵は、
「ラスコー洞窟壁画を描いたクロマニヨン人たちの
情念に思いを馳せる」という意味では、
デジタル・スキャンという先端技術を駆使した立体再現壁画よりも
感じるところの多い作品でした。
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【あらためて知る陛下の深い真心】
「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(宮内庁ホームページ)
「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」を耳にした率直な感想は「なんて誠実さに満ちたお方なんだ」という一言に尽きます。
小生は、青年海外協力隊員としてネパールに赴任する前に、皇室ご一家(明仁天皇陛下、美智子皇后陛下、浩宮皇太子殿下、紀宮様)に拝謁する栄に与(あずか)ったことがあるので、陛下の誠実さは十分存じ上げていました。しかし、今回の「おことば」を聴いて改めてその思いを強くいたしました。
ビデオ・メッセージにおさめられた陛下のお声は言霊(ことだま)に満ちたものであり、安倍政権幹部や各省庁の大臣、与党の議員、あるいは首都の首長など政権中枢にあぐらをかく政治屋たちの心のこもらない口先だけの虚言とは鮮やかな対照をなしています。
【人間天皇の言葉こそ神の言葉である】
そして、日本国民の統合の象徴としての己の天命を誠実に果たそうと努力されている一人の人間だからこそ、そのお言葉が「神のことば」となりえるのです。
その理由は、この投稿の中で明らかにしたいと思います。
【国民の陛下への敬愛は強いられたものではない】
天皇陛下のお言葉に対する多くの国民の好意的・肯定的な反応に対して「この国には戦前の天皇崇拝の風潮が色濃く残っている」と評される方がいました。
しかし、私は、多くの日本国民が天皇陛下を敬愛するのは、戦前の教育で天皇崇拝のドグマを叩きこまれたからではないと考えています。
日本国民の多くが天皇陛下を敬愛するのは、天皇陛下が常に日本国民の幸福や安寧そして世界平和を真摯に念じながらその務めを誠実に果たし続けてこられたことを知っているからだと思います。
つまり、多くの日本国民の天皇陛下への敬愛は、その人徳に感化された自発的なものであり、決して強いられたものでも刷り込まれたものでもないのです。
実際私は、戦後教育の中で育ち、学校教育で「天皇陛下に対して敬意を抱くべきだ」と教えられた記憶はありません。
しかし、私は陛下の人柄に直接触れ、その日頃の至誠を貫かれる言動を知る中で自ずと深い敬愛を抱くようになったのです。
【人間であられることから生まれる崇敬の念】
それは、天皇陛下が大日本帝国憲法において記されたような「神聖にして侵すべからざる存在」だからではなく、むしろ一人の生身の人間でありながらその至誠を貫かれておられることに対する崇敬の念なのです。
【打算を超えた天皇陛下への敬愛】
一方、打算的な理由で総理大臣を支持したり持ち上げたりする人は少ならからずいると思いますが、それは己の我欲を満たすために総理大臣を利用しようとする私心(わたくしごころ)から出たものであり、多くの日本国民が陛下に対して自然に抱く敬愛とは全く異質のものだと言えるでしょう。
もし大手マスメディアの世論調査が正しいと仮定すると、安倍政権を支持(少なくとも容認)している日本国民は決して少なく無いと言えるかもしれません。それは、多くの日本国民の眼(まなこ)が我欲によって曇らされているからです。
しかし、安倍政権(だけに限らずすべての政権)への支持(もしくは容認)と多くの国民の天皇陛下への敬愛は全く質が異なるものです。
たとえ、安倍政権の甘言や虚言に騙され、安倍政権を支持もしくは容認する国民が少なくなかったとしても、それはあくまで表面的なものであり、一時の「気の迷い」に過ぎません。
それに対し、多くの日本国民の天皇陛下への敬愛は、真の人徳(霊徳)を目の当たりにした人の心に自ずと湧き上がる自然な感情であり、まさしく「日本国民の統合」を重んじる気持ちの現われだと言えます。
それは、心の底では「お互いを思いやり、助け合い支え合う」生き方を選びたいという日本人の魂の叫びに他なりません。
現代の日本人の中に、一時的に心の清けさを失い、安倍政権を肯(うけが)うような言動に走る人が少なくなかったとしても、その魂の奥底には内なる神の光が燦然と輝き続けているのです。
【世襲による「象徴」だからこそ】
これは、いみじくも天皇陛下が政治的権能を持たない「象徴」だからこそ起き得る現象です。
さらには、天皇陛下が多数決原理にもとづく選挙によって選ばれる存在ではなく、世襲によって生まれながらに天皇陛下になるべく運命づけられているからこそ可能になるのです。
首相や大統領など選挙によって選ばれる政治的権能者は、多かれ少なかれ打算的理由によって決められるものであり、「大衆の我欲の集積の具現化」という宿命から逃れることができないからです。
もし天皇陛下が政治的な統治を行う君主であったとしたら、現在の天皇陛下が果たされているような政治的統治を超えた倫理的・霊的な役割を果たすことはできないでしょう。
「人間でありながら国民統合の象徴としての世襲の存在としての天皇」。これは、現日本国憲法がその存在を可能にした奇跡的とも言える制度だと言えるでしょう。
【天皇陛下を地上に引きずり下ろすことを目論む自民党政権】
もちろん、今上天皇陛下の人格の高潔さは、単に天皇陛下が(日本国民の統合の)「象徴」だから、世襲によるものだから、という制度上の理由だけで実現されているわけではないでしょう。
今上天皇陛下が、己の果たすべき役割を深く自覚され、その天命を成就するべく普段の努力を積み重ねて来られたからだと思います。
しかし、もしも安倍自民党政権が目論むような憲法改悪がなされ、天皇陛下が(政治的権能を有する)「国家元首」としての存在に祀り上げられてしまったとしたら、現在のような日本国民の統合の象徴としての霊徳を自在に発露することは難しくなってしまうでしょう。
安倍晋三を始めとする憲法改悪勢力は、一見天皇陛下を重んじているかのようなフリをしていますが、その本心はむしろ逆だと言えます。
国民統合の象徴として私たち日本国民の魂の篝火(篝火)となるべき天皇陛下を、地上の権力者の傀儡として政治利用の道具に貶めることこそ、自民党改憲案が目論んでいることなのです。
【畏れ多くも天皇陛下のお言葉を政治利用しようとする不遜】
現憲法下においても、今回の天皇陛下の「おことば」を巡って、すでに様々な政治利用が始まっています。
念のために付言して起きますが、改正する必要があるのはあくまで皇室典範であり憲法ではありません。にもかかわらず、「生前退位を可能にするためには憲法改正が必要だ」と意図的にねじ曲げその誤解を広めて世論を憲法改悪にミスリードしようとする勢力が存在します。
【陛下のメッセージの真意は「政治」ではなく「誠実」にある】
天皇陛下は「おことば」の中で、繰り返し天皇としての自分が日本国憲法で定められた(日本国民の統合の)「象徴」としての存在であることを言及され、「日本国民の統合の象徴」としての役割を果たすことが自らの務めであるとお考えになっておられることを明言されています。
確かにそれは、安倍政権の現憲法否定と対極に位置するものであり、結果的に安倍晋三による憲法改悪の目論見(もくろみ)を阻む役割を果たすものだと言えるかもしれません。
しかし、天皇陛下は、そういった政治的な意図をもって「おことば」を発表されたのではないと思います(したがって陛下のお言葉は決して憲法違反などではありません)。
天皇陛下は、日本国憲法に定められている「日本国民の統合の象徴」としてのお役目を自らの良心にしたがって誠実に果たそうとされているだけではないでしょうか。
そして、まさしくその私心なき誠実さこそが、自ずと安倍晋三の邪悪と奸計(かんけい)に対する防波堤となり、その陰謀を阻む役割を果たしているわけです。
【陛下と安倍晋三は同じ土俵に立ちえない】
これをもってして「安倍晋三と天皇陛下の憲法改正の是非を巡る闘争が始まった」と評する方がいます。そう解釈したい気持ちは分からなくもありません。しかし、私個人は、天皇陛下の行為そのものにそのような政治的な意図があると解釈することにはあまり賛成はできません。
それでは、畏れ多くも天皇陛下が安倍晋三と同じ土俵に立って戦っているかのような誤解を産んでしまうからです。
天皇陛下の精神性は、安倍晋三のそれとは全く次元が異なるものであり、その両者の間に「闘争」が起き得ることはないのです。
【良心の体現と我欲の具現】
日本国憲法にも明記されているように、天皇陛下は「日本国民の統合の象徴」であり、その御心はお互いを思いやり支えあう日本国民の良心の体現であると言えるでしょう。
それに対して、総理大臣は(間接的なものであるにせよ)多数決原理にもとづく選挙によって選ばれた存在です。
つまり、多くの国民が我欲にしたがって投票先を決めている(と思わざるをえない)日本の現状下においては、安倍晋三は「日本国民の分断の象徴」であり、「自分だけ得すれば良い」と考える日本国民の我欲の集積の具現化であると言えるのです。
同じような理由で、小池百合子東京都知事も、東京都民の我欲の集積の具現化であると言えるでしょう。
【倫理的かつ霊的な対峙】
安倍晋三と天皇陛下の(現象的な)対峙は、政治的な対決ではなく、「我欲vs良心」という倫理的な対照であり、霊的な対置なのです。それは「対決」ではありませんが、私たちの前に二つの選択肢を明らかに提示する役割を果たしていると言えます。
「我欲」の側に与(くみ)する国民が多くなれば、日本の未来は暗いものとならざるをえません。「良心」を尊重し、その意向に従おうとする国民が多くなれば、日本の未来は明るいものとなるでしょう。
【あえて「お言葉」の真意を忖度(そんたく)する】
最後に、畏れ多いこととは承知の上であえて「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」の締めの言葉の中に込められた天皇陛下の真意を私なりに忖度(そんたく)させていただきたいと思います
天皇陛下は、「おことば」の最後を、「国民の理解を得られることを,切に願っています。」という言葉で結ばれました。それは、「私の(個人としての)思いを理解してほしい」という個人的な願望(我欲から出た言葉)ではないと思います。
「あなた方国民が自らの良心の声に耳を傾け、あなた方一人一人の中の『良心』として顕現される神の御心を理解しそれに従うことで、あなた方が幸福になれますように」という陛下の魂の願いだったのではないでしょうか。
当然その「国民」の中には、安倍晋三やそれと与(くみ)する輩も含まれていると言えるでしょう。
つまり、その天皇陛下のお言葉は、「私たち自身の良心が、私たち自身に向けた言葉」だったと言い換えることもできるでしょう。
【良心の目覚めを促す神の声】
天皇陛下が、そのお言葉をビデオ・メッセージとして広く国民に知らしめたという事実を霊的に解釈すると、霊界における神の力が、この現実世界にいよいよ顕現し始めたということを意味します。
私たち国民の中の良心が今まさに目覚めつつある徴(しるし)である、と言ってもいいでしょう。
【神が見つけた安住の地とは】
最後に、ある宗教聖典の一節(神のみ言葉)を引用して本稿の結びとしたいと思います。
どの宗教の聖典であるかはあえて言及しません。どの宗教の聖典の言葉であるかということよりも、その言葉の中に真理の言霊(ことだま)が宿っているかどうかだけを感じてみてほしいからです。
私は、この世界で私が棲むに相応(ふさわ)しい場所を探し求めた。
聳(そび)え立つ山々も、どこまでも広がる大空も、底知れぬ大海も私を受け容れることはできなかった。
最後に私は、人間の真心(まごころ)のなかに私の安住の地を見つけそこにとどまることにしたのである。
神は、ひたすら己の真心(良心)に誠実に生きようとする生身の人間の中にこそ、その姿と性(さが)を明らかに示されるのです。
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