あるスーフィー巡礼者の日記 A diary of a sufi

思い込みや見かけにだまされず、本質を見極めましょう。

イエス・キリストが説いた普遍的な

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 私はソウル五輪でのキム・ヨナ選手のショート・プログラムの演技がどうしても好きになれませんでした。
 
 伝えられるところによると彼女はクリスチャンらしいですが、ショート・プログラムで演じたボンド・ガールのイメージとクリスチャンとしての倫理観がどう両立するのか私には理解できません。
 
 ボンド・ガールは、性を売り物にし、男の性欲や支配欲に依存することで初めてその存在意義を獲得する男性中心の発想にもとづいた「自立していない」女性の典型です。
 実際、007のテーマソングをバックに踊った彼女の演技はボンド・ガールに成りきり、演技の最後には男に媚びを売るような仕草と視線で男性ファンの不純な男心を狙い撃ちにしました。
 
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 イエス・キリストの教えは、「もしあながた心の中で女性に性欲を抱いたなら、あなたは姦淫の罪を犯したのである」というものだったはずです。
 
あなたがたも聞いている通り「汝姦するな」と命じられている。
しかし、私は言っておく。
みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
(「マタイによる福音書 新共同訳 第5章27−28節」日本聖書協会刊行より)
 
 世の多くの男性が姦淫の罪を犯すことをそそのかすような演技で高得点を上げることが彼女の信仰実践行為なのでしょうか?
 
 女性の尊厳と自立は、
 (聖典クルアーンの教えやイスラームの伝統において、あるいはキリスト教の伝統の中だったら例えばアーミッシュの信仰生活の中で推奨されるような、とまでは行かなくても)
 男性の性欲に媚びることのない慎ましやかな装いと振る舞いの中でこそ実現されるものではないでしょうか?

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  「人格」が出る? 滑りに表れた浅田真央とキム・ヨナの違い
 
ナグ・ハマディ写本

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 ナグ・ハマディ写本あるいはナグ・ハマディ文書The Nag Hammadi library)は1945に上エジプトのナグ・ハマディ村の近くで見つかった初期キリスト教文書。

 農夫ムハンマド・アリ・サマン(MohammedAli Samman)が壷におさめられ、皮で綴じられたコデックス(冊子状のの写本)を土中から掘り出したことで発見された。

《ナグ・ハマディ写本が、如何に古い時代に成立したものであるかがわかる。後世の改変が介入する余地が少ない文書であることは明らかである。見つけた農夫の名前が「ムハンマド・アリ」であることも暗示的である(「アリ」は預言者ムハンマドの娘婿で、預言者ムハンマドからスーフィーの奥義を受け継いだとされている。イスラム教のシーア派でも、アリが預言者ムハンマドの霊的な後継者であると考えられている)。

 写本の多くはグノーシス主義の教えに関するものであるが、グノーシス主義だけでなくヘルメス思想に分類される写本やプラトンの『国家』の抄訳も含まれている。

《グノーシス主義やヘルメス思想というのは後世の分類である。イエスの在生中にグノーシス主義は存在しなかった(グノーシス主義は、イエスの教えをもとに生まれた思想だから、自明の理である)。この写本がグノーシス主義やヘルメス思想の教えに関するものであるというよりも、むしろイエスの説いた教えがもともと後世のグノーシス主義やヘルメス思想の教えに近かったと考えるのが論理的である。この文章は残念ながら歴史学の基本を踏み外している。プラトンの「国家」は重要な哲学書であるので、近日中に取り上げたい》

 ナグ・ハマディ写本研究の第一人者ジェームズ・ロビンソンJames Robinson)による英語版の『ナグ・ハマディ写本』の解説では、本書はもともとエジプトのパコミオス派の修道院に所蔵されていたが、司教であったアレクサンドリアのアタナシオスから367年に聖書正典ではない文書を用いないようにという指示が出た[1]ために隠匿されたのではないかとしている。

《自分たちの信じる思想と異なる内容だから聖書正典ではないとするのは、全く非科学的な態度である。ベーコンの説く洞窟のイドラ(偶像)[個人の習癖や教育などによって生じる誤り]と劇場のイドラ(偶像)[思想家たちの思想や学説によって生じる誤り]に毒された考えである。イスラームが禁ずる偶像崇拝の一つの意味は、こういったイドラに毒された考え方をすることである》

 写本はコプト語で書かれているが、ギリシャ語から翻訳されたものがほとんどであると考えられている。

写本の中でもっとも有名なものは新約聖書外典である『トマスによる福音書』である。(同福音書の完全な写本はナグ・ハマディ写本が唯一。)調査によって、ナグ・ハマディ写本に含まれるイエスの語録が1898年に発見されたオクシリンコス・パピルスの内容とも共通することがわかっている。そして、このイエスの語録は初期キリスト教においてさかんに引用されたものと同じであるとみなされる。

《複数の情報源からその整合性を確認するのは人文科学の基本の一つである。ナグ・ハマディ文書は、人文科学の原理の一つをクリアした資料であると言える》

このことから本写本の成立はギリシャ語で『トマスによる福音書』が書かれた80年以降、すなわち1世紀から2世紀で、土中に秘匿されたのが3世紀から4世紀であるとみなされている。

《イエス・キリストの死後わずか100〜200年後である。他の正統派福音書と比べて圧倒的に成立が早い。どちらが、歴史上のイエスの言葉をより正確に伝えたものであるかは、議論を待たないであろう》

 ナグ・ハマディ文書そのものは現在カイロコプト博物館に所蔵されており、日本語を含む各国語に翻訳されている。(日本語版は1997年から1998年にかけて岩波書店から全四冊で出版されている。)

 これに対し、トマス福音書を含むグノーシス派は、正統派教会の教義に対して、以下の見解を持つ:
  1. 旧約聖書で天地を創造した造物主を至高者の下に置き、またイエスについても、その肉による復活を認めない。

《ヒンドゥー神話では、創造の神「ブラフマ―」は、至高神であるヴィシュヌやシヴァの下位にあるとされる。イエスの死とキリストとしての復活とは、「肉による復活」ではなく、個人(イエス)という幻想が消滅した時、不生不滅・普遍の意識(キリスト)が明らかになると言う意味である。「キリスト」は、盤珪禅師が示す「不生の仏心」と同じものである。なお、イスラム教における「アッラー」は、創造主としての顔と、創造主・被造物の両者を超えた唯一存在としての顔の二つの顔をもつ。中国古代思想における太極(陰陽)と無極(太極の前段階)に相当する。太極と無極は本質的に同一であるとされる。現代科学の最新の宇宙論でも、「宇宙は無のゆらぎから誕生した」[ホーキング博士]と考えられている》
  1. 至高者に由来する本来的自己についての「認識」(グノーシス)による救済を最重要視し、グノーシスを通じて、造物主への信仰や、律法など倫理的行為、および教会の権威から解放されなければならないと説く。
グノーシス各派により程度の差はあれ、「信仰」、「行為」、「教会」(および教会を担う聖職者)に絶対的な権威を認めない。


《イスラム教の正統派信仰では、神の媒介者としての聖職者や組織の権威を認めない。イスラム教のファトワは、しばしば「宗教令」と訳されるが、正しい訳は「宗教的推奨」であって命令ではない。イスラム教では、一人一人の信徒と唯一神の直接のつながりこそが最も重視されるからである》


 加えて、グノーシス派は、使徒や、使徒伝承に基づく教会の権威によらずとも、各人の自己「認識」(グノーシス)により救済されると主張し、誰もが啓示に与ることができると説くので、各人の解釈に基づき、無限に聖文書を生み出すことができた(正統派教会によって外典に入れられたキリスト教グノーシス文書は 40を超える)。この点も、教会の権威により正典を制定していく過程にあった正統派教会にとっては大きな問題となったであろう。


 《イスラム教でも、預言者の言葉を伝える「ハディース(聖伝承)」は、無数の数が伝えられている。ハディースの正当性の根拠とされるのは、誰から誰に伝承されて来たかという典拠であるが、これも捏造が不可能ではない。ハディースの正当性は、そのメッセージが、異なる宗教に共通して観られる普遍的な真理や価値観を示したものであるかという点から判断されるべきである。普遍的な真理を追究する学問である「科学」と整合性があるかどうかというのも、重要な判断基準となると私は考える》


 なお、グノーシス派が倫理的行為を軽視する点から、「グノーシス派は律法を否定する放逸主義であり、肉欲的である」と、しばしば正統派教会は非難してきた。だが、この批判は、一部のグノーシス派を除き、グノーシス主義全般に当てはまるものではない。少なくとも、トマス福音書の思想は禁欲的である。


 《スーフィーたちも、時として正統派イスラム教の学者からこのような非難を受けてきた。だが、多くのスーフィーたちは、一般の信徒よりもイスラームの聖法を順守する人たちで、むしろしばしば禁欲的でさえあった。しかし、それは、あくまで放逸に対してバランスを取るために生じた現象であり、イスラームの道が真に大切にするのは、放逸にも禁欲にも偏らない「中道」である。この点も、ゴータマ・ブッダの教えと共通している。過度の禁欲は、ウィーン少年合唱団で問題にされているような性的逸脱を助長するものであるし、日本の仏教僧侶の一部に観られる不放逸をもたらすからである》


 グノーシス主義から見れば、本福音書は偽作でも外典でもなく、グノーシス主義に則って、イエスの言葉を解釈して成立した正規のグノーシス文書である。また、正統派教会が本福音書をマニ教による偽作であるとした根拠として、事実、本福音書は、マニ教徒により広く受容されていたが、グノーシス主義の一派でもあるマニ教が、その解釈原理から本福音書を採択していたのは、至極当然なことである。


脚注 
  1. ^ 新約聖書に収録の「福音書」も、学問上は一般に、使徒や同時代の弟子によって直接記録された第一資料とは考えられていない。
《イスラームの啓示聖典「コーラン」は、預言者ムハンマドに啓示された言葉をそのまま口述筆記したものである。同時代の弟子によって直接記録されたものであり、人文科学上の「第一資料」であると考えられる》
  1. ^ 聖書の中では複数の「ユダ」が登場する。ユダとは「賛美」の意味であり、かなり一般的な名前であった。
 《預言者ムハンマドの「ムハンマド」とは、「賛美されるべき存在」という意味である。イスラム教徒の間では、ムハンマドという名前はごく一般的である(元世界ヘビー級ボクシング・チャンピオン「ムハンマド・アリー」など)。正統派キリスト教では「裏切り者」とされるユダが実はイエス・キリストの教えの奥義の継承者だったという説は「ユダによる福音書」の中で展開される。イエスの居所をローマ帝国の役人に密告する前に、ユダはイエスから「あなたのなすべきことをしなさい」と命令されていることは、その根拠の一つと考えられている[それは、正統派福音書にも記述されている]》

  1. ^ トマス福音書がマニ教徒によって受容されていたことは事実である。だが、マニ教がペルシアで誕生したのは3世紀半ばであり、一方、トマス福音書の成立は2世紀後半と想定されるので、「マニ教徒による偽作説」は明らかに事実誤認である。


《まとめ》


イエスは預言者ムハンマドに先行する神の預言者であるから、両者の言葉に共通点が見いだせることはごく自然なことである。それらが、東洋思想の教えと合致することも、全ての心ある宗教は普遍的な真理を示したものであると考えれば何の不思議もない。唯一神は、「(すべての人を)導くお方」だからである。

なお、「トーマスによる福音書」は講談社学術文庫に収蔵されている。
 「聖なる目覚め」のジョン・スポング司祭のセミナーで「トマスによる福音書」の話がでたので、Wikipediaの記述の抜粋引用をもとにコメントを加えてみた。《 》が筆者によるコメント。

トマスによる福音書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『トマスによる福音書』(ふくいんしょ)は、1945エジプトで見つかった『ナグ・ハマディ写本』群に含まれていた文書で、114の文からなるイエスの語録集である。本文中に使徒トマスによって書き記されたとあるので、この名がある。一般にグノーシス主義における「福音書」文書と見なされている。

 なお、現行の新約聖書には含まれないという点では、外典である。

 ところで、現行の新約聖書では、使徒トマスは、十二使徒の一人に数えられるだけであまり目立たず、時として低く評価されている[9]。この点については、新約聖書正典を制定した正統派教会が軽視する使徒トマスを本福音書があえて高く取り上げたか、あるいは、本福音書が高く評価するがゆえに正統派教会がトマスを貶めたかの、いずれかの可能性がある。

イエスの語録集[編集]

 正典に認められている4つの福音書が、イエスの言葉を収録するだけでなく、その行動(業)や物語をも記述する複合的な構成を持つのに対し、本福音書はイエスの言葉だけからなる「語録集」である。冒頭の編集句を除いて、言葉が発せられた状況の描写や解説は一切ない。

 《預言者ムハンマドの言行録「ハディース」もこの形式に従っている。イスラームでは、預言者が発した言葉そのものに真理が語られ、余計な解釈を加えるべきではないと考えられているからである。一般のキリスト教信仰では、イエスの(奇跡の)御業が重要視されるが、イスラム教では、神の啓示である「コーラン」と、預言者ムハンマドが残した「言葉」が最も重要視される。イスラム教における最大の奇跡は、「コーラン」の啓示であると考えられている。超自然的な現象よりも、真理のメッセージそのものの普遍性と高潔さが大切にされるからである。イスラム教は、極めて理性を重んじる宗教なのである。》

 冒頭の編集句にも以下のように述べられ、読者自らにイエスの言葉を「解釈」するよう求めており、自身の解釈によって本来の自己を「認識・覚知」(グノーシス)するための道が示されている。

 《本来の自己を「認識・覚知」することは、東洋の宗教やイスラム密教の徒スーフィーの道でもある》


77
 イエスが言った、「1 私は彼らすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。
2
木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」


 《これは極めて汎神論的な見解(けんげ)である。スーフィーの言葉に「どこを向こうとそこには神の顔がある」というものがあるが、同一の真理を示したものだろう。コーランにも「主の顔を求めて朝夕祈る者を追放してはならない」という言葉がある。これは、「汎神論者を追放してはならない」と解釈することもできると私は考える》

114
 シモン・ペテロが彼らに言った、「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである。」イエスが言った、「見よ、私は彼女を(天国へ)導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る生ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るだろうから」


 《これは、おそらくユング心理学におけるアニマとアニムスの統合(錬金術における内なる男性性と内なる女性性の結合)を意味するものであろう。東洋思想における陰陽の結合と同じものを表わしていると思われる》

キリスト教グノーシス派の位置づけ [編集]

 本福音書がマニ教徒による偽作と判断されたように、伝統的に、正統派教会は、「キリスト教グノーシス派は、オリエントギリシアの思想・宗教などの「異教」の影響を受けた混交宗教であり、そこからキリスト教的要素を取り除けば、もはや独自の宗教として成立しない」と見なしてきた。現在でもこのような見解を採る学者がある。

 《本福音書が、異教の影響を受けて成立したというよりも、宗教の壁を超える真理を語ったものだと考えるべきである。そうであるとするならば、「宗教の壁を超えた普遍的な真理からキリスト教的要素を取り除けば、もはや独自の宗教として成立しない」のは、自明の理(証明する必要のない命題)である。正統派教会は、皮肉にも自分たちの信仰の本質を正確に言い当てている。》

 さらには、ナグ・ハマディ写本の研究により、キリスト教グノーシス主義は、原始キリスト教の正統派の思想の形成に大きく影響したということが分かってきた。

なぜ排斥されたのか? [編集]

 正統派教会側の歴史的・教義的立場から論ずると、「全能の父なる神の独り子・イエス・キリストが、(人々の罪を購って)死に、復活し、天に昇り、やがて再臨する」とされ、この父なる神とイエス・キリストに対する「信仰」、及び倫理的「行為」(律法)によって、また救済機関としての「教会」を通じて、人は救われるという救済観を持っている[11]

 《イスラームの教えでは、イエスを唯一神の預言者と認めるが、「神の独り子」とは認めない。コーランの中に「神は唯一・永遠の存在であり、生まれることも生むこともなく、並ぶもののなき存在である」という啓示があるからである[なお、これはヒンドゥー・アドヴァイタ(不二一元論)の思想と一文字たりとも異なる部分がない]。私が知る限り、イエス自身も自分が「神の独り子である」などとは言っていない。「すべての人類(および生命)は、神の慈愛のもとに結ばれた同胞である」という比喩的な意味において、(イエスも私たちも)「神の子」であるという表現は許される。イスラームでは「イエスが人々の罪を購って死んだ」ということも認めない。預言者ブッダが説いたように「誰も己の悪行の果報を免れることはできない」からである。イエス自身も、「自分が播いた種は自分で刈り取らねばならない」と明言されている。「イエスが人々の罪を肩代わりして死んだ」というのは、イエス自身の教えではなく、明らかに後世の人々が作り上げた思想である》

(続く)
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本日、カトリックのジョン・スポング司祭を迎えて行われたセミナーも素晴らしいものだった。真理は、キリスト教、イスラム教、仏教、そして科学の壁を超えて唯一であることへの確信を深めてくれた。
 途中参加だったが、内容の後半(の抜粋)に【見出し】と《コメント》を加えて筆記してみた。
 
【神の預言者たちは改革者だった】
 
 イエス・キリストは、当時の世界では改革者だった。彼は、いつも社会の外れ者の側にいたし、女性の弟子を取ったのも当時としては異例のことだった。
 
《預言者ムハンマドもまた社会の改革者だった。彼はいつでも社会的な弱者や抑圧される者とともにいて、女性を大切にしその能力を高く評価したことでも知られている》
 
 
【因果応報は真理である。それは特定の宗教や国家に味方するものではない】
 
 民衆を犠牲にした十字軍は間違っていた。キリスト教世界が、今、イスラム原理主義者の憎しみを受けているのは、過去の十字軍が犯した罪の因果応報である。
 
 「神よアメリカを祝福したまえ」という祈りはナンセンスである。私たちは、国家のエゴを超えて行くべきである。
 
 
【神の預言者たちは人間的な存在だったがゆえに偉大なのである】
 
 イエス・キリストの十字架上の最後の言葉は、「神よ、なぜあなたは私を見捨てたのですか?」だった。イエス・キリストはとても人間的な存在だった。原始キリスト教典には、そんな人間としてのイエスの姿が生き生きと描かれている。後世の聖書編纂の過程で、そのようなイエスの人間的な側面が削り取られ、イエスが神格化・無謬化されてしまったのだ。
 
 イエスは神性と人間性を結ぶ存在であり、人間としてのイエスにこそとてつもない力が秘められている。私たちも「人間」になることが大切なのだ。
 
《預言者ムハンマドもまた人間的な弱さをもった存在だった。コーランの啓示の中には、召使に冷たくあたったムハンマドをたしなめるものがある。預言者ムハンマドが偉大な預言者であるのは、彼が人間としての限界をもった存在であり、そのことを公に認めながら、それでも神の道に従うべき最善の努力を続けたことにある。コーランでは、そのようなムハンマドが犯した過ちを示した啓示も削除されずにそのまま伝承されている》
 
 
【私たちの務めは「人間」になることである】
 
 キリスト教徒の義務は、全ての人をクリスチャンにすることではなく、人々を人間にすることである。
 
《預言者ムハンマドが説いたのも全く同じことである。ムハンマドが語った「ムスリム(イスラームの徒)」とは、「真理の帰依者」という意味であり、「(狭義の)イスラム教の信徒」という意味ではない。預言者の足跡を辿るスーフィー聖者たちは、他の宗教の信徒をイスラム教に改宗させようとはしなかった。彼らは、ヒンドゥー教徒には「善きヒンドゥー教徒になりなさい」と説き、キリスト教徒には「善きキリスト教徒になりなさい」と説き、仏教徒には「善き仏教徒になりなさい」と説いた。スーフィーたちによって結果的にイスラム教が広まったのは、スーフィーたちの人格に触れた人々が、自発的にイスラームに入信したからである》
 
 
【宇宙の真理が神の真実を明らかにしてくれる】
 
 宇宙の営みに思いを馳せる時、「神はアメリカを勝利させる」という考えが如何に愚かであるかが身にしみる。
 
 世界は、「宇宙意識・普遍意識(Universal Consciousness)」に向かって進化しつつある。
 
《同じような思想を説いた人に、イエズス会の司祭ティヤール・ド・シャルダンがいる。彼は、「宇宙は、オメガ点におけるキリスト意識との合一に向かって進化しつつある」と説いた》
 
 私は、このところ時間があれば科学のDVDを観て科学の勉強をしている。科学は、神の真実を明らかにしてくれる。
 
《私もまた、よく科学教育番組を観る。科学の真理は、宗教の真理と同一であることへの理解がますます深まっている。イスラム教もまた科学を大切にする宗教である。中世のアラビアで自然科学が大いに発展したことはすでに述べた》
 
 
【参加者との質疑応答】
 
Q. 臨死体験と「永遠の生命」の関係は?
A. 私は、それらの(形而上的な)問題に対しては、明確な立場はない。中立を保っている。転生輪廻についても否定も積極的な肯定もしない。
 
《形而上的な問題について明確な言及を避け、否定も肯定もしなかったのは、ブッダが貫いた態度と同一である。仏教ではそれを「十二捨記」と呼んでいる》
 
Q. ナガマディ文書の発見についてはどう思うか?
A. ナガマディ文書は、「トーマスの福音書」と通じるものが多いと思う。最も古い福音書は、おそらく「トーマスの福音書」だろう。これらは、キリスト教の起源について深い洞察を与えてくれる。
 始めは多くのキリスト教(の流派)があった。それらを正統派キリスト教が抑圧してきた。それは、時の支配者やローマ皇帝などの圧力によって歪められて来た。それら初期キリスト教への理解を深めることは、真理に近づく助けになる。
 
《イスラムの啓示聖典「コーラン」には、権力者による編纂という問題が存在しない。コーランは、預言者ムハンマドに啓示された古代アラビア語の口述筆記が、そのまま伝承されて来た。コーランの啓示が、宇宙の最奥の真理から日常生活のこまごまとしたことに至るまで、あらゆる分野に及んでいるのは、コーランが権力者によって取捨選択されることがなかったからである》
 
Q. マイスター・エックハルトについてどう思われますか?
A. 彼は神の真実を理解していた。エックハルトの最後の著作は「宗教、神学、天国と地獄を超えて」だった。
 
最後にホストのスティーブン氏が、「ジョン・スポング司祭の話は、伝統を尊重し、伝統を広げるものだ」というコメントを述べてインタビューが終わった。
 
《預言者ムハンマドも伝統を尊重し、伝統を広げた人だった。彼(コーランの啓示)は「コーランの啓示はユダヤ・キリスト教の啓示聖典を確証するものだ」と述べているし、伝統に新しい命を吹き込んだ人だった。それは、ゴータマ・ブッダも同じである。》
 
 「私は新しい教えを説くために来たのではない。古の正等覚者の教えを蘇らせるために来たのである」(ゴータマ・ブッダ)

【参加者同士の少人数グループでの分かち合い】

参加者の一人が「私もそうだが、ジョン司祭のようなことを発言すると、心の狭い正統派教会の人たちに、裁かれ攻撃される。それが、とても苦しい。どうすればいいだろうか?」という問いかけがあった。私は、その問いかけに対して、次のように応えた。

「裁く人たちを愛したらどうでしょうか?あなたを裁く人たちを裁かないことです。そして、あなたを裁く人たちを裁いてしまう自分自身も裁かないことです。要するにイエスの言葉『汝、裁くことなかれ』が、すべてを物語っているのではないでしょうか?」

この提案に対し、「それ、いいね。」というフィード・バックをいただいた。

正統派新約聖書は、時の権力者たちの編纂(取捨選択)を受けて来たとは言え、その中にも珠玉の言葉が残されている。有名な「山上の垂訓」もその一つである。
「裁いてはならない。あなたが裁かれないためである。」も、山上の垂訓の一節である。

真理の光は、どんな闇によっても覆い隠すことはできないのである。

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