岩佐徹のOFF-MIKE

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MY BOOK 7

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*初の野球中継は東京12チャンネルで!

入社した頃、フジテレビの人気番組のひとつに「プロ野球ニュース」がありました。
1976年から2001年まで放送されていたものの前身で、学生のときからやりたいと思って
いた番組でした。夜11時15分からの20分、2試合を映像・解説つきで、残りの試合は
共同通信の原稿を短くまとめて結果を紹介するという番組でした。
まだフィルムの時代で現像・編集に時間がかかる上に、ナイターは7時開始、しかもまだ
高速道路はないころでしたから、川崎球場から戻ってスタジオのドアを開けたときに
“Light's Out”という、フジテレビのスポーツ番組共通のテーマミュージックが流れて
いたことが何度かありました。

解説と実況が時計をにらみながら局へ向かっている頃、今もフジテレビのスポーツ番組に
深く関わっている東京フィルムメートの編集マンたちは、熟練の腕の冴えを見せていた
ものです。
この番組では、解説者の話を引き出すために「試合のポイントがどこにあったか?」を
考えなければならず、そのことがスポーツアナにとっての基本である野球を見る上で、
とても勉強になりました。そして、他球場の結果を、限られた時間の中で短くまとめる
作業を通じて、何が必要で、何が不要かを見極める力をつけることが出来たと思います。

一方、中継の時には、試合開始から放送が始まるまでの時間を利用して、解説者と実況の
練習を始めていました。しかし、野球の実況はとても難しく、実際にやれるのはまだまだ
先のことと思っていましたし、解説者も本番ではないと知っているだけに、ともに、力が
入らず、どうしても雑談のような感じになっていました。

1966年の終盤近く、ディレクターが「今度の中継の時にビデオをまわすからね」と声を
かけて来たときには、その意味をもっと考えるべきだったのですが、鈍感もいいところで、
私は、ほとんどいつもの実況練習と同じ感覚でこの収録に臨んでしまいました。
スポーツ部としては「プロ野球ニュースでもがんばってるし、先のことはわからないが、
このへんで一度テストをしておこう」と考えたのでしょうが、肝心の私がこれでは、話に
なりません。情けないことに、「失敗した」と気づいたのは、2日後に、ビデオの試写を
するから来てくれと言われた時でした。

そういうレベルのできでないのは本人がよく分かっています。
重い足どりで向かった試写室には、中継のチーフ・プロデューサーまで来ていましたが、
始まって5分もしないうちに、「何だこれは」という怒りのこもった一言をのこして部屋を
出て行ってしまいました。
スポーツ部、アナウンス部、どちらからも、直接叱られることはありませんでしたが、
かえってそのほうが周囲の失望の大きさを物語っているようで、この時も自分に100%の
責任があるだけに、情けないという思いと将来へ向けて不安が広がっていきました。

そのままだったら、私の野球中継は何年も先のことになったはずですが、“救いの神”は
意外なところから来ました。
開局したばかりの東京12チャンネルとフジテレビのスポーツ部の幹部が、ともに早稲田の
運動部出身(12チャンネルの白石氏はレスリングのオリンピック・メダリスト、フジの
梅井氏はラグビー部主将)だったことが縁で、1967年、ソフト不足の12チャンネルに、
フジが持っていたサンケイアトムズ(ヤクルトスワローズの前身)の巨人戦以外の放映権を
譲ることになりました。

ただし、球団とフジの関係上、「アナウンサーと解説者はフジのメンバーで」という条件を
つけたのです。
ベテランたちには本来の仕事がありますから、必然的に若手にお鉢が回ってきます。
中でも私は最も若く、しかも決まった仕事も大してありませんから、結果として一番多く
担当することになりました。
野球中継のデビューは、フジではなく12チャンネルでさせてもらったことになります。

試合開始から終了まで、しかも、フジでやるのにくらべれば、はるかにプレッシャーは
少ないですから、のびのびとやれました。
野球中継のデビューは、スポーツアナが成長する過程でおそらく一番難しいポイントだと
思えるだけに、数ヶ月前に大失敗した私がこんな形で野球中継を始められたのは、とても
大きなツキがあったのだと思います。

業界では先輩になる12チャンネルのアナウンサーたちが、クッションをおいたり、お茶を
いれてくれたりして「申し訳ない」と思いながらも楽しく仕事をしていたのですが、その
楽しみは長くは続かず、今度は意外な“敵”が私を襲いました。
その年のオールスター・ゲームの取材で名古屋に行った時、はげしい下痢に見舞われて
急遽帰京、かかりつけの医師の処方でいったんはおさまったのですが、その後もたびたび
同じことを繰り返すため、野球中継のローテーションに入れなくなってしまいました。

そんなある日、両足の甲のあたりが妙にしびれているのに気づきました。
そしてそのしびれは、その後、朝、目が覚めるたびに、まるでストッキングを履くように
少しずつ上に広がってくるのが判りました。これはおかしいと、東京女子医大で検査を
受けたところ「スモン病」という診断が下ってすぐ入院となりました。

その頃は原因もよくわかっておらず、薬害として取り上げられてもいませんでしたが、
あとで解明されたように、医師がくれた薬の中に多分“キノホルム”という成分が入って
いたのでしょう。当時、キノホルムは下痢止めの特効薬とされていたようですし、胃腸が
弱い私の主治医だったその先生の薬は確かによく効きました。それまでは、服用期間が
短かったので症状が出なかったのでしょう。しかし、この時は一ヶ月近く断続的に服用し
続けた結果、限度を超えてしまったのだと思います。

入院の頃には腰のあたりまではい上がっていたしびれは、幸いなことにそこで止まって
くれました。心臓をやられたり、失明したりした人もいたそうですから、この時も服用の
中止がぎりぎりで間に合ったのだと、ある種のツキを感じました。
一ヶ月半ほどで退院したあと、シビレを取るために試した指圧、整体、手かざしなどは
どれも一時的な効果しかなく、平手でバシッと叩いたときのようなジーンとするしびれは、
今も両足に残っています。

いずれにしても、不本意ながら中途半端な形で終わってしまった、この12チャンネルでの
野球中継は、それ以後の私にとって大きな財産になったことは間違いないところです。
2シーズン後の5月に、大洋(現横浜)−巨人戦でフジでの野球中継デビューが出来たのも、
その時の仕事で少しは成長したと認められたからだと思います。
残念ながら、13年かかわったフジテレビの野球中継では記憶に残るような、いい試合には
出会えませんでした。

逆に記憶が今も鮮やかに残っているのは、1970年7月16日の中継です。
当時は、他局で巨人戦をやっていてもナイター中継をぶつけ、しかも、雨に備えて予備の
カードを二つも準備していました。この日も、日テレが巨人−阪神を中継している裏で、
フジ系列は広島−中日を本番に予定し、私は2番目の予備カード、東京(現ロッテ)−近鉄の
担当でスタンバイをしていました。ところが、誰の行いが悪かったのか、西日本が雨に
見舞われて、広島戦も第1予備カードも中止になり、東京−近鉄戦が本番に繰り上がって
しまったのです!

“第2予備”でも、最低限の取材はすませて待機するのですが、正直なところ、初めから
本番のときとは気合の入り方が違います。なんとか気持ちを盛り上げようとしましたが、
スタンドはがらがら、試合の内容もお粗末で、どうにもなりませんでした。
別に、その放送内容が悪くて叱られたとかいう話ではありません。問題は、次の火曜日の
朝に発表された視聴率にあったのです。なんと、たったの1.9%!
「いいわけがない」とは思っていましたが、そこまで悪いとは想像もしませんでした。
私の責任がどれほどだったのかはともかく、間違いないのは、この数字が“ナイター中継
としては”テレビ史上最低の視聴率だということです。

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