昔の陸上自衛隊はこんな事してた

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早や17年忌となった雲仙普賢岳大火砕流事故に想う

昨日の夕方、何気なくTVニュースを眺めていたら・・・鐘ヶ江元島原市長の涙顔がアップに・・

昨日は6月3日・・平成3年6月3日、午後4時8分普賢岳に大火砕流が発生し、

報道関係者や警戒中の消防団員・警察官の43名が火砕流に巻き込まれて帰らぬ人となった。

あれから16年目の命日・・・つまり17年回忌の法要・慰霊祭の報道だった。

当時、Toshiジィは熊本の西部方面総監部で幕僚長を補佐する幕僚副長であった。

幕僚副長は二人居て、一人は主として人事・装備面を担当する「行政副長」で、

もう一人がToshiジィで、情報・運用面を担当する「防衛副長」と呼ばれていた。

だから・・この「災害派遣」は担当から言えばToshiジィの担当正面だった。

平成2年の秋頃に普賢岳の噴火の兆候があってから、半年後の大火砕流の発生だった。

折悪しく、大火砕流発生の時はToshiジィは東京の「防衛研修所」で短期10日程の研修を

受けており、熊本を離れていた時に起こった。

つまりToshiジィは、結果的に戦線離脱していた不届き者だった。

帰隊して、災害派遣連隊長だった16連隊長Y1佐から、その後の大火砕流事故の犠牲者

の遺体収容の苦労話を聞く機会があった。

遺体収容といっても火砕流の脅威の下での収容作業だった。云わば落ちてくる火砕流の合間を

縫っての危険極まりない作業。

連隊長自らが装甲車を連ねて、命がけで突入し大半の遺体を収容して任務を果たした。

その時、連隊長が話してくれた一節が今でも印象に残っている。

「先輩!我々のような組織では、絶対に殉職者を出さないということが任務達成への一番の

近道ですネ。今回の大火砕流で警察官と消防団員の犠牲が出ましたが・・・とたんに現場の

警察官と消防団員は腰が引けてしまいました。もし・・うちの隊員に犠牲が出ていたら・・

隊員の腰が引けて、この今回の任務達成は難しかったかも知れません」

この時、Toshiジィは若い2等陸尉の時の戦車による夜間演習時の隊員の殉職事故後の自分を

含めて中隊の状況を思い出し、この連隊長の話に共感したのだ。殉職事故のあと・・・

まず、訓練特に戦車での夜間行動がとても怖くなった。出来れば危険な訓練などやめて・・・
                    (そうじゃない訓練なんていうのは無いのだが)

安全な駐屯地内の訓練や整備にしたかった。

そして・・中隊の中の隊員のお互いの信頼感がなくなった。

例えば今までは操縦手を信頼し車に身を預けていたのに・・

             こいつの操縦では崖から落ちるのでは?なんて思い始めるのだ。

「規律」・「士気」・「団結」がガタガタになった。結局、2年ほどかけて指揮官や幹部が

人事異動し、中隊の人が入れ替わってやっと、まともな部隊に蘇ったという経験がある。

つい、この前の愛知での「拳銃立て篭もり事件」で愛知県警は負傷隊員を数時間放置し、

殉職者まで出してしまった。事件現場で県警本部長が陣頭指揮したとも聞いていない。

                      県警の立ち直りは大変だろうと想像している。

幸いにして、陸上自衛隊は数多いPKOやイラク派遣などの危険な状況でも、

 これまで1人の犠牲者をも出さずに任務を達成している。

指揮官を核心とした、厳正な「規律」と旺盛な「士気」、強固な「団結」の部隊づくりが

出来ているからだろう。

何よりも指揮官の「最小限の時間と損害で任務を達成する」という使命感と責任感と陣頭指揮

がその根っこだろう。

雲仙の災害派遣を終わっての撤収式の時、長崎県の高田知事の言葉の中に・・・

「地球よりも重たいもの・・・それは命だと言われています。今回の災害派遣での自衛隊の

 皆さんの中に、 私は命よりもっと重たいものを見つけました・・・

 それは災害派遣部隊の皆さんの中にあった「使命感」というものでした・・」

・・・・というような労いの言葉があった。

閉じる コメント(11)

あたしが教育隊にいたころの教官に雲仙噴火の時の災害派遣に参加したっていう経験を話してくれた方がいました。本当に過酷な状況だったけど、誰一人として犠牲者をださないという気持ちで臨んだんだよとおっしゃっていた話を思い出しました。風過去の災害や事故を風化させずに教訓として活かして活動することは大事なことですね。

2007/6/4(月) 午後 1:18 まい

この火砕流の凄まじさは、私が高校から下校途中、雨交じりに火山灰が降ってきて、灰で制服を汚しながら帰ってみて…TVを見たら…。
災害地で使命を果たさんとする方々の姿勢には頭の下がる思いでいっぱいです。

2007/6/4(月) 午後 1:28 もぐさ

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まいさん>この雲仙普賢岳の災害派遣・・・これに続いた「阪神淡路大震災災害派遣」から自衛隊が行動して評価される組織になりましたネ。。

2007/6/4(月) 午後 4:11 Toshiジィ

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もぐささん>有明海を越えて熊本まで火山灰が飛んできていました。まさに・・江戸時代に噴火した時に言われたように・・「島原大変・肥後迷惑」の状況でした。。

2007/6/4(月) 午後 4:14 Toshiジィ

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駒門の頃、偵察のT2尉が座学の時間に、御巣鷹山派遣時の話しをして下さったのが印象に残ってます。施設に行った同期に、カンボジア・阪神淡路・中越地震に派遣と、武運(?)に恵まれた男がおりますが、さすがに「いいかげんにして欲しい」と言っとりました。
私も消防団に入ってるんで、他人事ではないですね。

2007/6/5(火) 午前 10:20 ヤン

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Toshiジィも部隊では「3」系統・・・「S・3」「G・3」等の訓練・運用系の勤務が多く、「災害派遣」は数多くタッチしましたが。。師団の3部長や連隊長の時の経験を経て、熊本の頃では、やっと・・「勘所」が掴めていたような気がします。

2007/6/6(水) 午前 10:05 Toshiジィ

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戦車での殉職?然○ですか?あれは現職の時によく聞かされていた話です。

こういう災害派遣の話を聞くと、以前災害(人災?)派遣時に出動した際の某左翼団体の方が何故か自衛隊の派遣は必要ないと騒いでいたのを思い出します。

2009/5/26(火) 午後 10:18 [ NETPLAZA ]

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然別での61式戦車による殉職事故は昭和53年3月でした。
Toshiじぃが鹿追のS3から陸幕へ転属したときで、異動後事故のことを知って驚いたものです。
本文中の殉職事故は昭和45年の夏、M−4シャーマン戦車の日出生台における訓練事故です。

2009/5/27(水) 午後 7:35 Toshiジィ

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平成18年退官(B#19)です。今回の大震災関連のブログを書いておりまして当時のマスコミ情報を通じて知っていたY連隊長のことを少し書きました。それで、ネット上を検索しておりましたら先輩の記述にヒットしたという次第です。
九州熊本出身で、NAで定着。現在札幌在住で映像作家として起業5年目です。自衛隊OBでなければ創れないDVD作品やブログを発信したいと思っております。よろしくお願いします。
ブログのアドレスです。→http://hajimevision.blog.so-net.ne.jp

2011/4/2(土) 午前 8:10 [ HAJIMEVISION ]

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HAJIMEさん>
19期といえば私が22連隊長当時の4中隊長が塚田君、師団3部の訓練班長が熊本出身の大城君でした。
ブログ拝見しました・・自衛隊OBらしい良い作品をどんどん世の中に出してやって下さい。

2011/4/2(土) 午前 9:50 Toshiジィ

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塚田章君ですね。確か3年ほど前に阿達ビデオのカメラスタッフとして富士総合火力演習を撮影に行ったとき富士教導団長だったと思います。懐かしいです。
「感動映像」をライフワークテーマとして頑張っています。これを機会に今後ともよろしくおつきあいのほどをお願いいたします。

2011/4/2(土) 午後 7:16 [ HAJIMEVISION ]


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