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1月3日の朝・・・・コンビニへ新聞を買いに行く途中・・・・
朝日が・・・昇り始め・・・・塩原の山を赤く染めてゆく・・・
防大1期生
防大1期生・・・G川さん。。
20期生ぐらいまでの陸上の卒業生で・・・G川さんの名前を知らないのはモグリ。。
小6の時、満州で終戦を迎え・・・両親、妹と離れ離れになり・・・
終戦の年の冬を・・・ひとりぼっちで・・・厳冬の満州で・・・孤児として生き抜き・・
中国共産軍・・・・八路軍に拾われて、その伝令となって行動を共にしたりして・・
九死に一生を得て・・・・6年生ながら単身・・満州から郷里の鹿児島へ引き揚げ・・・
昭和28年・・・防衛大学校第1期生として久里浜へ入校・・・
19普連2大隊(小倉)を振り出しに・・・
同期生が次々と学校教官や司令部勤務などの華やかな勤務につくのを横目に・・
・・7〜8年は・・・じっくりと地味な第一線の部隊勤務・・・・芽が出だしたのは・・・
・・・CGSを卒業してからのこと・・・
国家観と自衛隊のあり方への強烈な信念・・・と・・・
豊富な部隊勤務経験からくる現場感覚と統率力。。
『戦争は避けねばならぬ・・・しかし一旦、いくさになったら絶対勝たねばならぬ・・・
・・・負けた軍隊、負けた国家ほど惨めなものは無い』
『自衛隊は新国軍であって・・・旧陸軍の後継ではない・・』・・・が・・持論。。
Toshiジィが・・・仙台近くで普通科連隊長をやってた時の方面総監がG川さんだった。
Toshiジィの連隊は第6師団隷下だったから・・・総監のG川さんから見たら・・
Toshiジィは・・・・ いわば・・・孫にあたる部隊長だった・・・・が・・・・
厚かましくも「こんな論文書いたので・・・ご意見を・・」なんて・・・
つまらぬジィの文章なんかを見て貰ったりしたもんだ。。
そんなこんなの繋がりで・・・何故だか師団長も方面総監もG川さんの・・・
・・・それぞれ5〜6代あとを・・Toshiジィが、その名を汚すことになったのも何かのご縁か?・・
そのG川さんはジィの那須塩原の家から15分くらいの所にお住まいがある。。
この6〜7年・・・毎年、お正月にはカミさんと共に年始のご挨拶に伺うのが例・・・。
今日も午後から・・・カミさんの運転するダイハツミラに乗って・・・
G川家を訪問し・・・・銘酒(銘焼酎)伊佐美・・・をしこたま頂いて・・・・
現下の政治情勢なんか憂えたり・・・15期の田母神のことを評価したり・・・
最後は・・・昔の思い出ばなし・・・なんかで盛り上がって帰ってきた。。
毎年この時期に・・G川さんとこへ行って・・芋焼酎を飲みながら・・・
政治・軍事論議を拝聴し・・愚見を述べないことには・・年が始まらない・・
そんなことで・・・今年も・・・今年が・・・始まった。。明後日は東京へ帰ろう!
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G川閣下が7D長時代に
お顔を拝見したことがあります。
お元気な話を聞いてなによりです。
満州時代、八路軍の話は知りませんでした。
強烈で過酷な少年時代を過ごされたのですね。
2009/1/3(土) 午後 8:58
防大の1期生は終戦時12歳〜13歳。特に外地、それも満州から引き揚げてきた人達はソ連軍の極悪非道かつ残虐な行いを見せつけられたり、敗戦国民の惨めさを嫌という程体験したりした人達でした。
その体験が引き金となって、国家・国民を守るという直接・純粋な動機で防大を志願した人たちが多かったようです。
2009/1/4(日) 午前 8:23
今年もいろいろとご教示くださいませ。G川様。。。亡父とお年が近いようですので、もしかしたら亡父も存じ上げてたのかもしれませんね。やはり那須近辺にT橋さんという方がお住まいなのですが、Toshiさん、もしかしてご存じだったりするのでしょうか?確か駐在武官でアメリカに渡られたり郡山で師団長か連隊長に就かれた方です。一家で大変お世話になりました。
2009/1/4(日) 午後 6:34 [ 61式のり ]
駐在武官の経験は無かったかと思いますが・・郡山で第6特科連隊長だったTK橋さん(大田原市在住)は良く存じ上げています。Toshiジィが陸幕防衛部防衛課員の頃、T橋さんは防衛部運用課の班長さんでした。・・今でも・・年賀状つながりです。。
2009/1/4(日) 午後 7:49
こんばんは。やはりご存知でしたか。私は年賀状だけのご挨拶になってしまってます。父と仕事上でどのような繋がりがあったのかわかりませんが八千代市の官舎でお隣さんだったんです。また、父が他界した折にも私共に暖かく応じてくださりました。ご長女の結婚式には母もお呼び頂いたり。。。とってもお懐かしいです。一度、きちんとご挨拶しなければ。。。僭越ながらToshiさんとの接点も増えて、新年早々、とても嬉しい気持ちになれました。ありがとうございました。
2009/1/8(木) 午後 11:23 [ 61式のり ]