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昨日までの数日間は、日本列島は台風4号の上陸によって大変な被害を受けました。 さて、この台風一過ですが・・・ 私は幼少の頃 (多分5つか6つ頃) 雨・風・その後に晴れるので、色々なお天気の家族だと思っていたのです(照) その事を母に尋ねたことがありました。 ねえねえ、台風一家ってお父さんが台風なの? お母さんはその後のお天気かな? 強風は元気の良い子供で、雨は・・・う〜ん・・ 言い終わらないうちに、母に一家ではなく一過だという事を教えられ 外では絶対にそんなことを言ってはいけないと教えられました(汗) 幼少でしたけど、ひらがな・カタカナ・簡単な漢字は解ったので 今のようにテレビの画面にスーパーの文字'が出れば解ったのに・・・・・。 (と、言い訳をしてみる) 台風が来る度に思い出す、子供の頃の恥ずかしい思い出です。 では、また。
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少年時代
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シェフの少年時代は腕白だった・・?
知られざる幼少時代から高校生までのお話です
知られざる幼少時代から高校生までのお話です
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新社会人の人も新入生の子達も、そろそろ新しい環境に慣れた頃だと思います。 仕事柄、PTAの方達とお話をする機会があるのですが、最近の学生は私が子供の頃とは随分と変った事が多いようです。 (ランチタイムはPTA関係の方がご利用される事が多いのです) そろそろプールの授業も始まったらしくて、プールに入るにはその都度親の承諾書が必要なんだとか・・・ どんどん面倒臭くなっていくのですね(笑) そんな話をしている時、ふとある方が と話しかけてきました。 そうなのです、私の小学校生活は火事から始まったのです。 期待と不安が入り混じって始まった小学校の生活は、ほんのふた月ほどで激変します。 私の実家は小学校から歩いて5分の場所にありました。 当時この近所は連続放火事件が起こっていて、毎晩明け方になると決まって火事が起きていました。 ゴォ〜っと音を立てて燃えている様子を見て、子供心に火事の恐ろしさを実感したものです。 数件起こった火災の後に、私たちの小学校が放火にあいました。 明け方四時頃、まるで昼間のようにあたりは明るくなっていて その中心には火柱を上げゴォ〜とうなりをあげ、バチバチとはぜながら燃えさかる小学校の姿がありました。 当然その日の朝から数日間は、学校がお休みとなりました。 真新しい体育着や給食着、おはじきなどの勉強に使う道具箱など 数ヶ月前にお袋が名前を書いてくれるのを喜んで眺めていた物全てが灰になってしまいました。 新一年生と一緒に学校にやってきた2羽のウサギ、タンちゃんとトンちゃんは各クラスが順番に飼育を重ねて一緒に成長をしていくはずだったのですが、焼死してしまいました。 私達新一年生は、いきなり深い傷を心に負ったのです。 学校が始まると、校庭にところ狭しとプレハブの教室が並んでいました。 校庭に立てたプレハブ教室では教室が足りず(当時この小学校には1500人ほどの学生がいました)私達一年生は体育館をベニヤ板で仕切った教室まがいの部屋で勉強をする事となったのです。(8クラスあったので8等分にしてました) 時期はちょうど今と同じ梅雨時期なので、体育館を仕切って作られた『すし詰め教室』は、まるで蒸し風呂のように暑いばかりか、一番後ろの席の私は担任の先生の声など全く聞こえずに、後ろの教室の先生の声しか聞こえませんでした(苦笑) 勉強をするよりも汗を拭くほうが忙しい、そんな授業風景だったのです。 連続放火魔はじきに捕まり、秋には新しい鉄筋の校舎も仕上がって体育館の教室は撤去されなくなりました。 ピカピカの校舎での生活が始まると、火災の事などすっかりと忘れてしまっていました。 貴重な体験だったのかもしれません。 おはじきなどの道具箱がなくなっても、校庭で石拾いをしておはじき代わりにして学んだりした事は、もしかしたら今の私に大きな財産を残してくれたのかもしれません。 などと言う情けない料理人にならずに、ある機材や食材を使ってあまたをひねって調理する事が自然に身についたのかもしれませんね。 ふと思い出した、小学校の時の火災の体験のお話でした。 では、また。
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まだ夏には早いですが、何となく思い出したので書くことにしました。 3年前に、私はお店に近くに引っ越しました。 それ以前に住んでいた場所の近くには、有名な幽霊屋敷があったのです。 (実は引越しをしていなくなった後に知ったのですが・・・) この家は持ち主が土地を購入して新築で家を建てたのですが・・・・ ポルターガイスト現象とでもいうのでしょうか? 毎晩家の中で物が動いたり音がしたり、窓ガラスや鏡などが割れたりしたようです。 祈祷師などをはじめ、多くの人に拝んでもらったりしたのですが怪奇現象は収まらず ついには家主がノイローゼになって行方不明になってしまったそうです。 昨日、用事があって車でこの家の前を通りかかったのですが 家は未だ取り壊されているわけではなく、依然としてそのままでした。 そう思いながら車で通り過ぎたのですが、昔の怖い経験を思い出していました。 私が高校生の頃 熊谷から南に40分ほど車で行った所に、当時有名だった幽霊屋敷がありました。 その名を一平荘と人々は呼んでいました (名前の由来はわかりません) 当時高校生だった私たちにとっては、この一平荘の話は興味津々でした。 友達3人との話でこの一平荘の話で盛り上がってしまい ノリでこれから行ってみようという話になりました。 (私は怖がりなので、本当は行きたくなかったんですけどね) しかし、その場所に行く為には足がありません。 当時、車の免許を持っていたのは私だけだったので渋々運転をしていく事になりました(涙) (この時ばかりは、誕生日が早い事が嬉しくなかったです) 9月の終わり頃の残暑が厳しい日でした。 ちょっと道に迷ったのですが、仲間の1人が と言って指をさしたので、その森を目指して進んでいったのです。 森へ入っていく一本道を突き進んで行くと 途中から急に道が泥濘に変わり水溜りなどがたくさんで 何故?雨などもう一週間以上降ってないはずなのに と不気味になりました。 泥沼状態の道を更に進んでいくと さっきまで蒸し暑くてエアコンを入れていた車のエアコンが突然止まってしまい 何度スイッチを入れようとしても動きません。 (マジ、もう帰りたいなぁ・・) そう思ったのですが、私からは帰りたいとは言い出し辛く、そのまま森の中を進んでいきました。 気付いてみると、エアコンが付かなくなってしまった車内なのですがどんどん肌寒くなってきました。 (本当に帰りたい。誰か帰ろうって言ってくれ!) そう願うのですが、みんな静かに息を殺しているだけです。 真昼なのに真っ暗な森の中を更に進んでいくと、突然薄明るくなっている場所に家を発見しました。 そう友達の1人がつぶやきました。 さあ、みんなで家の中に行ってみようぜ そう言って3人は車から降りたのですが、私はどうしても車が気になったので なんだか車の調子が悪いみたいだから、車で待ってる事にするよ そう言って、1人車で待っていました。 エアコンが原因不明の故障なので エンジンでも止まってしまったら嫌だなぁと感じたのですが間違いでした。 その時、突然車のエンジンが唸り始めました。 タコメーターを覗き込むと、6千回転付近までエンジンが回り続けています。 私は1人で膠着状態です(泣) そう願い続けました。 数分後、車のエンジンは通常の回転数に戻り、そして友達達が家の中から戻ってきました。 どうだった? 別に、普通の家だけどいやに寒かったなぁ という友達達を車に乗せて岐路につきます。 本当は物凄いスピードでこの場から立ち去りたかったのですけど クールに落ち着いているのを装いゆっくりと立ち去ったのです。 森を抜けると今まで原因不明の故障をしていたエアコンが再び動き始めました。 (もう背筋が凍りついてました 恥) そして、岐路は燦燦と降り注ぐ残暑厳しい日差しが続いていました。 時は移り、東京で料理の修業を始めて2年ほど経ったある休日に 久し振りに熊谷に帰って友達と一杯飲んでいました。 一平荘か、あのすぐ後あの家なくなっちゃったんだよ えっ、どうして 跡地には家の基礎も何も残っていなかったらしいぞ いくら飲んでも全く酔えず、寒気がする・・そんな気分でした。 こういった話は貴方の身近にもありますよね。 機会があったら同じく幽霊が出る事で有名だった新井さん家のお話をしますね。 では、また。
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久し振りに少年時代のお話を書きます。 実はこのブログの記念すべき第一話が少年時代パート1だったのです。 (2005・9・16) 第2話が10日後の26日なので、もう一年以上のご無沙汰でした。 (過去の記事は⇒パート1http://blogs.yahoo.co.jp/toshihosoi99a/11556052.html ⇒パート2http://blogs.yahoo.co.jp/toshihosoi99a/12310913.html) 意外だと思われるかもしれませんが 当時の我が家はテレビのチャンネル権は父にあったので、野球は見せてもらえなかったのです。 (きっと好きではなかったのでしょうね) その為、当然野球も見た事もなかったのです。 (あの長嶋茂雄や王貞治でさえ知りませんでした 恥) 観るテレビといえば、父が好きで見ていた野生の王国(という動物番組があったのです)やプロレス てなもんや三度笠(古い? 爆)などだったので、一緒にそれを見ているか 遊び疲れて寝てしまうかのどちらかでした。 私の家は、姉がひどい喘息で、母が寝ずの看病を何年もしていた事もあって という母の願いで、地域の子供会のソフトボールチームの練習に行かされたのが 私と野球の最初の出逢いだったのです。 私が住んでいる子供会は、その小学校の中でもかなり広範囲でした。 新興住宅地も含まれていたため、かなりの子供達がチームにはいたのです。 私が住んでいる場所には男の子は全くいなかったので ソフトボールの練習に行くとたくさん友達がいて(全員先輩でしたが) その嬉しさだけで休まずに通ったものです。 まず、ルールなんてさっぱりわからないので などといっている位でしたから、簡単に想像は付くと思います(苦笑) (これが小学校3年生の時です) しかし見栄っ張りであった事も、チームの一員になれた事も嬉しかったので この頃は4年生になると各地区のチームにはいる子が多かったので などと言われて浮かれていたのですが、実際には本当に情けないほど下手だったんです。 (たまにやらせてくれるバッティング練習で、バットにボールがほとんど当たりませんでした 恥) かけっこなどは異常に速かったので、みんな上手なんだろうと勝手に勘違いをしてくれていたんですね。 一年後には同級生たちが、チームに大勢入ってくるのです。 先に入っていた者としては、無様な姿をさらすわけにはいきません。 練習の甲斐があって、一年後に同級生が入ってくる頃には まあ何とかぶざまではなく、見れるくらいにはなっていました。 そして早速大会があります。 3度ある大会の1つで 3 3 3 と呼ばれる大会です。 これは6年生、5年生、4年生の各3人ずつでチームを作って優勝を争うという大会なのです。 (こうすると丁度9人になってひとチームになるのです) 私がいる子供会のチームはかなりの人数だったので、A、Bの2チームを出場させる事とになりました。(当時は子供も多かったので、そういった子供会も幾つかありました) と思っていました。 大会のメンバーの発表までは、祈るような気持ちでいました。 大会前になって、メンバーが発表になり私はAチームのメンバーでした。 何かの間違いではないかと思いましたが、とても嬉しくて益々張り切って練習に励みました。 (実は先輩が細井をAチームに入れようと監督に言ってくれたそうなんです。
その先輩はそろばんや習字でも一緒の先輩でした。
⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/toshihosoi99a/40925823.html)Aチームに選ばれた事によって、自分に自信がついたのですね。 自分でも解かるくらいにメキメキと上達していったのです。 大会は我がAチームの優勝で終りました。 (約25前後のチームが参加する大会です) 自信とは恐ろしいもので 一年前まではバットにほとんど当たらなかった私もホームランを打つ活躍でした。 (その後我がチームは、私が小学校を卒業するまで無傷の負け知らずでした) そしてその後は、どんどんと野球にのめりこんでいくようになるのです。 6年生になると市内の小学校対抗の大会があるのですが、学校代表の選手に選ばれました。 中学になるとかなりの有名人になっていたようで 高校進学をした際には自己紹介はいらないほどでした(苦笑) 全くルールも知らないし見た事もなかった野球は 私には向いていないスポーツだとばかり思っていたのですが 自信を持つという事は凄い事だと、今更ながらつくづく感じます。 向き、不向きだなんて、そう簡単に結果を出してはいけないのかもしれませんね。 私の場合は野球を続けたお陰で色々な事を学び取ったと思います。 しかし、そんな野球も高校進学直後には辞めてしまうのです。 辛く苦しい思いをしましたが、もう2度とあんな思いや嫌だ という気持ちが 全く才能の無い私が、未だに料理を続けて来れた原因なのかもしれません。 料理も経営も、これくらい自信を持って励めば良いのでしょけど 益々努力をしていかなくてはいけませんね。 少年時代のお話でした。 では、また。
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ほとんど毎朝、私は市場と銀行に行かなくてはいけないのですが その車中でラジオを聞いているというお話は以前もいたしました。 今日も銀行に行く際に聞いたラジオのリスナーからの投稿記事で 面白いものがあって思わず運転しながら噴出してしまいました(笑) (誰かに見られていたら、ちょっと恥ずかしいですよね) 高校時代、アルバイト禁止の学校だったのですが生徒の半数近くはバイトをしていました。 私も近所のコンビニでバイトをしていたのですが ある時数学の先生がレジの前に立っているではありませんか。 禁止されているアルバイトが見つかってしまってパニックに陥った私は、先生の買い物を 『温めますか?』と、思わず言ってしまったのです。しかし先生の買い物した物はとろろそばでした。 慌てている私にその先生は 『普段学校ではあまり人前で発言とかしないお前が、こうして頑張って働いているのか』 そう言って、お釣りの中からジュース代をくれました。 学校に面した大通りとは反対側の離れたコンビニだったので、まさか先生に会うとは思わなかったのですが、そのジュース代をくれて励ましてくれた先生の言葉が、今でも胸に残っています。 こんな様なお話でした。 なんとも微笑ましい先生と生徒ですよね。 慌ててしまって『温めますか?』と言ってしまった情景が目に浮かぶようです(笑) 実は私、似たような経験を持っているのです。 私の高校時代はアルバイト三昧の日々でした。 このアルバイトで出逢った料理が、まさか自分の仕事になるなんて思っても見ませんでした。 私が通っていた高校もアルバイトは禁止でしたが 野球を辞めてしまってエネルギーの有り余っている私は 遊ぶお金欲しさに様々なアルバイトを経験するのです。 そのアルバイトの中には、ガソリンスタンドでの勤務もありました。 バイク好き、車好きが高じて そんな思惑や、オイル交換やマフラー交換、タイヤやハンドルなどを変えたりするのに ガソリンスタンドは工具やジャッキが豊富で便利だと思ったのです。 ガソリンスタンドでのアルバイトは、先輩や上司、地区担当(という偉いエリアマネージャーがいました)そしてお客様にも可愛がられて、なかなか楽しい日々でした。 車の免許を取得した後は、ガソリンや灯油の配達なども任されて充実感もありました。 冬の寒い日、洗車が何台も続いた事があって手もちぎれそうに真っ赤になり ようやく終って店内に戻り煙草を一服 などといって休んでいたら肩を叩く女性が立っていました。 煙草を吸っている上にアルバイト禁止なのでやばいとは思ったのですが と言って煙草を消そうと思ったら と言ってくれました。 その言葉は嬉しかったのですが、とても複雑な心境でした。 というのも、私は高校で謹慎、停学などを重ねたうえ 退学届けも提出させられていて、今度何かあったら という思いが頭の中を巡っていたのです。 実際その先生は、学校にこの事を話す事無く私は無事に卒業できました。 卒業式の後にその先生に 何で黙っていたの と聞いた事があります。 アルバイト先で頑張って働いていて 職場の人にもお客様にも可愛がられている雰囲気が良く伝わってきたのだそうです。 『煙草を吸ったり、禁止されているアルバイトをするのは良くない事かもしれないけど 生き生き働いている私を見てとっても嬉しかったので私だけの秘密にしちゃった』 そう言ってくれました。 あそこで先生が学校に戻って、私のアルバイトの事や煙草の事を話していたら そんな事を思い出した、車中のラジオでした。 新聞やテレビのニュースなどで、度々問題になる学校教育問題ですが こんな心使いをしてくれる先生も、時には必要なのかもしれませんね。 みなさんのアルバイト先での楽しい思い出や恥ずかしい失敗などありますか? 楽しいお話、是非聞かせて下さいね。 では、また。
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