【タイ・バンコク発】 国際協力・海外援助ブログ

「エンパワーメント」にはまっています。国際協力機構(JICA)・青年海外協力隊(JOCV)関連も

障害者支援

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takaさん

毎度おつきあいいただきありがとうございます。

良い家を建てるにはエネルギーが必要
(そのエネルギーを持つことがエンパワーメント)
(http://blogs.yahoo.co.jp/toshiyukiokui/52083422.html)


に対するtakaさんのコメントです。

バリヤフリーを必要とする人を、
バリヤフリーの建築物の設計に参画してもらうのは、
"より良い建築物をつくるため"の
 「手段」や「大前提となる入り口の条件」
であって、
 「ゴール」
では無いですよね?

もしかしたら、
"バリヤフリーを必要とする人をエンパワーするため"の
ゴールの一部なのかも知れませんが。

そうなのかもしれませんが、実は「途上国での開発」の視点からみた、あるいは「障害者のエンパワーメント」の視点からみた自分の見方は、

バリアフリーの建築物を作ることへの当事者の参加は、「条件や前提」あるいは「ゴールの一部」でもないのです。

確かに、下記のような「バリアフリー建築物建設プロジェクト」は考えられるとは思いますし、否定をしません。


プロジェクト上位目標;バリアフリー「社会」の実現
プロジェクト小目標;バリアフリーの建築物を作ること
手段(条件・前提);当事者の参加型で設計がされること


従来の「通常の考え方」や「常識的な考え方」では何の問題もないでしょう。

ただし、自分が考えていることは、このようなことではないのです。
(それが、takaさんが違和感を感じている部分だと思います)


筆者が理想と思っているのは、「建物」というハードを作ることが目的でなく、あくまで「人」というソフトありきであるべきだということです。

つまり、たとえば、次のようになります。

プロジェクト上位目標;バリアフリー「社会」の実現
プロジェクト小目標;当事者の主体的参加
手段;バリアフリー建物の建築

当事者がエンパワーメントされ、その当事者が社会参加(建物建築への参加)する社会的システムが構築される。

そのために、「バリアフリーの建物建設を通じて」、その構築事例が蓄積されるのです。
開発の視点から見れば、

建物建築は「目的」ではなく「手段」なのです。

(もちろん、デベロッパーの立場からすれば、建物建築は目的でしょうが。
ただし、六本木ヒルズの森ビルの人が何かに書いていましたが、「森ビルは、建物(ハード)を作るのが仕事ではなく、街やコミュニティ(ソフト)を作るのが仕事」とのことです。(多分に宣伝的な意味合いもあるかもしれませんが)そういう意味では、自分と考えは一致しているかもしれません。
ちなみに、余談になりますが、筆者は六本木ヒルズがとっても好きです。確かに庶民とはかけ離れてはいますが、遊働住が一体化し、かつ新しい形のコミュニティを作ろうとする意図を感じます。「仕事をするだけのビル」や「住むだけのニュータウン」より、六本木ヒルズにとっても魅力を感じます。
自分が住むことは(経済的に)絶対にありませんが。)


もとに戻ります。
実は、「手段」としては他にも多くの方法があります。
しかし、バリアフリー建物が手段として良いのは、「結果が素人にも目に見えて、わかりやすい」ということです。

恐怖のバンコク・スワンナプーム空港
(http://blogs.yahoo.co.jp/toshiyukiokui/52067578.html)

これを見れば、この空港は参加型で作っていないことが、一目瞭然です。
筆者は、「それが問題」と言っているのであり、「(厳密にいえば)空港がアクセシブルでないから問題」と言っているのではないのです。


"利用者が真の意味で力を持つ"までプロセスとして、
私が提案したような方法を採用しないとして、
どのような対応をとることを考えてらっしゃるのでしょうか?
私は、今ひとつ、理解できないので、教えてもらえると嬉しいです。


エンパワーメントを説明する言葉に次の言葉があります。実は誤解を招きやすいのですが、エンパワーを説明するのにわかりやすいのであえて書きます。


・お腹が空いている人に魚を与える
→(狭義の)福祉アプローチ

・お腹が空いている人に、魚の釣り方を教える
→教育アプローチ

・お腹が空いている人に、魚の養殖の仕方を教える
→教育アプローチ改良版(サスティナビリティの担保)

・お腹が空いている人に、「自分も頑張れば、魚も釣れるし、養殖もできるんだ」と勇気づける
→エンパワーメントアプローチ

各々のアプローチは必要なもので否定するものではありません。たとえば、極端な例では、災害で食べ物が無い人には、緊急に食料が必要です。
が、筆者が、このブログで一貫して主張しているのは、エンパワーメントアプローチのすばらしさです。
やる気にさえなれば、次のステップとして魚の釣り方を覚えても良いし、養殖の仕方を覚えてもよい。教えてくれる人がいなければ、教えてくれる人を探しせるし、自分で創意工夫をしてもよい。とにかく、やる気になるのが大切なのです。

バリアフリーに関しては、次のようなことになるでしょう。

・(行政などが)バリアフリーの建物を造る
→(狭義の)福祉アプローチ

・バリアフリーの建物の作りかたを建築士に作る
→教育アプローチ

・バリアフリーの建物を作る際の当事者の留意事項を当事者に教える
→教育アプローチ改良版

・当事者に「自分も頑張れば社会をバリアフリー化できるんだ」と勇気づける
→エンパワーメントアプローチ


みんなが「自分たちが、バリアフリー社会を作っていくんだ」とやる気になることによって、それが「社会(コミュニティ、建築士、行政etc)への変革へのパワーとなる」というのが、バリアフリーアプローチなのです。
現在、香港のトランジット中に書いています。

関西空港やバンコク・スワンナプーム空港では無料でインターネット使用可能ですが、ここ香港も無料で使用可能です。

香港は装飾などはあまりないのですが、機能的で自分は好きな空港のひとつです。 なにより、「ラーメンがうまい」のが一番の気に入りですが。コシのある細麺、、、うまかったなあ。 30HK$です。


ところでTakaさん

長文のコメントありがとうございます。期待したとおりのリアクションで(笑)自分のツボにはまりっぱなしです。

(バリアフリーの観点からも、その他の観点からも)使い勝手の良い家を建てようと思えば、『プロの』建築士に頼るのではなく、ユーザー側の姿勢が重要、との話題が続いています。

■エネルギーが必要

自宅を建築するのに、施主の私たち側にも相当なエネルギーが必要でした。
・自分たちの要求を具体化するために、充分な事前調査が必要であったこと
・設計者と対話するため、提案されたこと実際に確かめる必要があったこと
・物理的、経済的制約から、たくさん苦しい選択を迫られたこと

設計士は、住む側の気持ちを分かっているようで、分かっていません。 そういう意味では、さくらぎちょうさんの主張する「利用する側が設計プロセスに参加する」は絶対に必要な条件です。


そうです、自分が言いたいのはまさにこの点です。『設計士は、住む側の気持ちを分かっているようで、分かっていません。』という点です。なぜならば、設計士は家が建ったらおしまいなのです。その後、一生住むユーザーと真剣味が違って当たり前です。
実は作者が関わる「国際協力でも同じ」であることの自分の意見はこのブログでは繰り返してきたとおりです。地域開発において(潜在的にであるにしろ)一番真剣なのは、住民なのです。開発ワーカーでもなければ、役人でもなければ教師でもない。ドナー(援助者)でもないということです。それらの人は、まさにtakaさんのいう『気持ちを分かっているようで、分かっていません。』である可能性が高いのだと思います。

「良い家」とは人によって異なるのがあたりまえで、「良い家」を作るには、住む側、利用する側が主体になる必要が絶対にあります。

で、


しかし、我々、住む側も、実は自分たちの要求を分かっているようで、分かっていませんし、具体化できていません。 そこを具体化するのに相当なエネルギーを必要としますし、要求者側である私たちの「素人の限界」も感じます(ました)。


ということになります。
そのとおりだと思います。
逆にいえば、エネルギーも割かずに、自分にとってベストの家が自動的に用意される、、、、、
そんな期待は、確かに都合が良すぎるのかもしれません。

その「エネルギーを割く」ということが、筆者の考える「エンパワーメント」です。エネルギーを割いて、「良い家を作ろう」というのがです。

その為に具体的には、いろいろ調べたり考えたり、仲間とコミュニケーションをとったりして勉強するのではないでしょうか。
takaさんもしたのですよね。

つまり、

・良い家を作りたいという強い意志を持つ(エネルギーを費やす意欲を持つ)(=エンパワーされる)

→具体的に勉強したり、仲間を作ったり、建築家を活用したり、(ちょっと極端に大きな話になりますが)規制の撤廃や消費者保護を社会に働きかけたり、エネルギーをつかう。

→そして良い家ができあがる

そのようなステップが良い家を建てるための一つの理想的なステップと思いますが、どうでしょうか?
このアプローチを自分はエンパワーメントアプローチと呼びます。

全く逆のアプローチは、下記のようになります。
・良い家を作る専門家が、「良い家」を作る。
・利用者は、ありがたく「良い家」に住む。「使いにくいと思う」のは「わがまま」だと自分にいいきかせあきらめる。


そして、良い家を作る専門家が、可能な限り利用者の声を良く聞いて、可能な限りよい家にする。、、、、、、それがエンパワーメントアプローチとは逆のアプローチです。

そして、より良いものを目指すのであれば、後者でなくエンパワーメントアプローチを自分は支持するのです。

利用者(=バリアフリーが必要とする人)が設計のプロセスに参加する仕組みを作るのと同時に、「利用者をサポートする設計のプロ側の育成や、利用者との信頼関係の構築が欠かせない」と思う訳です。

これに関しては、筆者はちっと違う考えを持っています。もちろん、プロ側に「ユーザー志向」を教育するのはもちろん必要ですが、それはあくまで「サービス(設計)を提供する側が主役の考え方になるのではないでしょうか」
利用者側が真の意味で力を持ち、プロを評価選別することが一番必要だと思っています。そうすれば、自然にプロが利用者のニーズに注意をはからずを得ないでしょう。

プロに「ユーザー側にたって設計するよう教育することは、確かに必要かも知れません。ただし、筆者はそれは限界があると思います。むしろ、「ユーザー側に配慮して設計したのだから、それを受け入れないのはユーザーのわがまま」などとなってしまうのを危惧します。
ましてや、バリアフリーなどはユーザーが弱い立場なのです。
筆者の考えるのは、ユーザーの意向に沿わない設計をするプロは「仕事がとれない」状態にすること、またはそういう仕組みを作ることが必要だと考えます。

意見を言うのは「プロの設計者」ではなく、「ユーザー」です。
ところが、実際は「プロの設計者」の声が大きいのが問題なのではないかと思います。


ちょっと、極端な例になりますが、プロの建築家が、ラーメン屋の店主で、家を建てるのが客とみたらどうでしょうか?
ラーメンがまずければ客は来ません。だから、店主は一生懸命客が来てくれるラーメンを作るのです。
家を建てるのも、利用者のニーズに合致しない建築家には客が来なくなるのであれば、自然に建築家は利用者のニーズに合致しようとするのではないでしょうか?

さきほど、

・良い家を作りたいという強い意志を持つ(エネルギーを費やす意欲を持つ)(=エンパワーされる)
→具体的に勉強したり、仲間を作ったり、建築家を活用したり、(ちょっと極端に大きな話になりますが)規制の撤廃や消費者保護を社会に働きかけたり、エネルギーをつかう。
→そして、良い家ができあがる

と書きましたが、正確にはもうひとつ付け加える必要があると思います。

→その積み重ねにより、利用者のニーズに配慮する建築家が増える

です。


家を建てることで、ムキになって違和感があるかとも思いますが、筆者は、海外開発援助での構図とダブって見えるのです。

家を建てるプロが、開発途上国の政府役人であったり援助側であったりします。そして、家の利用者が、住民です。

政府役人や援助する側の教育は「不要」とはいいません。
が、(潜在的に一番真剣な)住民がエンパワーされて、政府役人や援助する側を教育する、、、、それがエンパワーであり、そのような仕組みを作ることが非常に重要なのではないかと日頃から思っているのです。

私たちが家を設計していた2001年ごろは、日本ではInternetで個人が情報発信することが多くなかったため、施主である個々の人の経験、ノウハウ、失敗談を収集することが簡単ではありませんでした。 本や雑誌を読んだり、niftyの掲示板を参考にしましたが、充分ではありません。

Blog等を使って利用者側が積極的に情報を発信するようになった最近の日本でも、体系立てて設計を依頼する側の視点で情報が整理出来ているかというと、まだまだではないかと思います。 私も人のお役に立てるかと思って、Blogでいくつかの記事を書きましたが、あまり整理できたものではありません。
情報リテラシーという面で比較的恵まれていて、かつ、一般的にはバリアフリーを必要としないケースでさえ、ノウハウ蓄積という面で充分ではない状況です。 


このことからすると、どこかにバリアフリーを必要とする人のための情報、ノウハウを蓄積する仕組みを作ることが重要だと思います。 同時に、社会的弱者ではない人もその情報やノウハウに接して、理解し認識を深め、バリアフリーを必要とする人となるべく同じ立場になって考えられるバックグラウンドを築くことが不可欠だと思います。


そのとおりだと思います。
個人的に最も高い関心がここにあります。情報通信技術(ICT技術)の進歩により、誰もが情報を週発信するハードウェア・インフラ環境は(少なくとも先進国では)かなりできました。しかし、その情報共有技術はまだまだ開発途上です、、、、、が、個人的にはとっても期待しています。ただし、「どこかにバリアフリーを必要とする人のための情報、ノウハウを蓄積する仕組みを作ることが重要だと思います。」この仕組みは決してサービスを提供する側がつくるのではない、サービスを利用する側が構築するのです。

それが、エンパワーメントアプローチにおける情報通信技術の活用の鍵だと思っています。
この「IT技術の開発への活用」(筆者的には「IT技術のエンパワーメントアプローチへの活用」)は筆者個人的には現在の筆者の一番の興味です。が、まだまだ筆者的にも考えがまとまっておらず、また具体的事例も少ないのが現状です。 が、このブログのひとつのテーマとして書いていきたいと思っています。

想像力の豊かな人

前回 タイの女の子は、赤ちゃんをあやすのが、なぜ上手なのか?(http://blogs.yahoo.co.jp/toshiyukiokui/52083376.html) の続きです。


昨日下記のように書きました。

確かにエリートを育てるにはよいのでしょうが。少数のエリートのみが幸せな社会が良い社会でしょうか? エリートだっていつ挫折するかもしれませんし。
少なくとも自分の子供には、私学や進学校には『絶対に』行かせたくありません。わずかばかりの勉強と引き換えに、大切なものを沢山失いそうな気がします。
他のカテゴリの人の気持ちを創造できる人は、相当限られていると思いませんか?一流商社の社員が、同僚の気持ちは理解できても、中卒の気持ちを理解するには、よっぽどの想像力を必要とします。

ところが、いるんですねえ。

エリートで、かつ他人の気持ちがわかる人が、、、、
『よっぽどの想像力を必要とします』と書いたが、その『よっぽどの想像力を持つ人が』少なからずいます。

偉人でいえば、空海もそうだったのだろうし、ガンジーもそうでしょうし、大勢います。
そこまで行かなくても今の日本にも沢山いるんだと思いますし、自分が直接会ったことのある人でも大勢います。
そういう人は、すばらしい、人だし社会の財産です。

この話のきっかけとなったバリアフリーの設計に関しても、「利用者のことを真剣に考えるプロ」はたくさんいるはずです。


問題は、多くの人はそういう人を見たときに、立派な人は社会的に影響をおよぼしがちで(あたりまえ)、その影響には紺と黒とがあって、そのような人を見聞きしたときに、「他の人も(同様ではないかもしれぬが)かなり立派なのだろう」と思ってしまうこともありえるということです。

エリートの存在がいけないのではなく、「エリートに任せておけばよい」と皆が考えることが、皆にとってすみよい社会にならないのではないかというのが、筆者の考えです。

昨日の続きです。

takaさんのコメント、

バリアフリーが必要な障害者、高齢者、小さな子供(とその家族など)等の方々が設計のプロセスに参加する仕組みを作るべきだとは思うのですが、同時に、社会的弱者では無い人が、常識として身につけておくことも大切だと思うのです。


激しく同意します。より詳しく言えば、ポイントは2点あります。
一点は教育の視点です。もっといえば、統合教育の必要性です。

自分は統合教育について専門的に勉強したことも深く考えたこともありません。しかし、障害を持つ子、持たない子を統合して教育することは、自分以外の多様な人の存在を身で持って学ぶことにとっても有意義であることは、身をもって感じています。自分は子供の時に障害を持つ人ともっと一緒に暮らせればもっと多様な人を理解できたのに、と思います。
統合教育の対極にあるのが、能力別教育です。
確かにエリートを育てるにはよいのでしょうが。少数のエリートのみが幸せな社会が良い社会でしょうか? エリートだっていつ挫折するかもしれませんし。

些細な挫折で自暴自棄になったり自殺にはしったり、、、それは、多様な人の中で育っていないため、少しでもはずれたこと(=些細な挫折)を重大なことのようにとってしまうことによるところが多いのではないでしょうか?
生まれながらの障害者は、ある意味生まれた時点で挫折なのですが、そういった人と一緒に生活することにより、挫折からどのように立ち直るのか、いやそもそも挫折とは何なのか(障害は挫折なのか?)など身をもって感じることが多いのではないでしょうか?
少なくとも自分の子供には、私学や進学校には『絶対に』行かせたくありません。わずかばかりの勉強と引き換えに、大切なものを沢山失いそうな気がします。
(が、嫁ハンは結構教育ママで、家庭内に「多様な意見」があります)



第2の点。こちらの方が大きいのです。
それはコミュニティの視点です。

本来コミュニティには、多様な人がいるはずです。障害者もいれば病人もいる。赤ちゃんもいれば老人もいる。それが本来のコミュニティです。
赤ちゃんずれで開発途上国に行ったことのある人は経験したことが多いと思いますが、タイの若い女性も、子供をあやすのがとっても上手な人が多いです。日本の10代の女の子で赤ちゃんをあやして面倒を見ることが上手な子がどのくらいいるでしょう? あまりいないのでは?
でも、タイでほとんどの女の子は赤ちゃんを上手にあやします。(最近のバンコック子は除くが)

これは、大家族や近所、コミュニティの中に赤ちゃんが必ずおり、子供のときから身近な存在だったせいだと思います。同時に、年寄りもいれば障害者もいるのです。そういったコミュニティの中で多様な人とふれあい、多様な考えを受け入れているのです。

逆に日本では、ほとんどのサラリーマンにとって、コミュニティ(社会)とは会社です。会社は同質の人がそろっています。IT企業の社員は周りもIT企業の社員です。銀行マンの周りは銀行マンばかりです。運送会社社員の周りも運送会社社員ばかりです。年齢も20歳くらいから60歳くらい、実際はもっと狭い範囲でしょう。子供も老人もいません。ましてや障害者は非常に少ないです。一流企業の社員は一流大学卒ばかりで中卒はいません。そんななかで他のカテゴリの人の気持ちを創造できる人は、相当限られていると思いませんか?一流商社の社員が、同僚の気持ちは理解できても、中卒の気持ちを理解するには、よっぽどの想像力を必要とします。

住んでいるところも同様です。ニュータウンやマンションには、新築当時に30歳から40代の年齢層が集中します。また、2千万のマンションには、ある一定の層が、5千万円の一戸建てのニュータウンには、またある一定の層が住むことになります。
それよりまして、それらのコミュニティ自体が希薄なつながりになっています。

そんななかで、takaさんのいう「社会的弱者の気持ちがわかるセンスを身につけるのが無理な社会」が今の日本ではないでしょうか?


そういう意味では、開発途上国の方が「弱者が住みよい社会」ともいえるのです。
ただし、開発途上国でも急速にそのような社会がくずれています。

そのための方策が、
・統合教育の推進
・コミュニティの活性化

だと思っています。

長くなってきました。

学校の授業で基本的なことを教えたり、もっと勉強したい生徒への情報源を提供したりするのも良いのではないでしょうかね?


については、次に書きたいと思います。

takaさんのコメントです。

なんだか、示し合わせたかのように、自分の書きたいことに誘い水となるコメントをいただきました。

センスはどうやって磨くの?

恐怖のスロープのような設計をしないための常識というかセンスを、私のような一庶民が身につけて、磨いていくにはどうすれば良いのでしょうね。

自宅を除いては、建築物を設計に参加したことが無く、バリヤフリー and/or ユニバーサルデザインのことをちゃんと勉強してないのでよく分かっていません。 さくらぎちょうさんの指摘を見てなるほどと思う一方で、私自身がその場にいても気づくことができなかったんじゃないかと想像すると、ゾっとします。

まさにこの点です、自分が強調したいのは!

「・建築の設計やバリアフリーはわからない
→プロに任せばきちんとした仕事をしてもらえる」

これが、開発途上国協力における自分の中で最大の『疑問』です。
(途上国でなくてもいえるかもしれません)

自分の考える結論から書けば『プロになんか任せてはいけない』のです。

じゃあ、どうするか、、、、明確です。
『利用者が設計するのです。プロを活用して。」

私は残念ながらtakaさんのように自分で自分の住む家を建てたことはありませんが、利用者側団体の担当者として建物の建設に携わったことが2回あります。その経験でも、移動の動線や使い勝手、電気のスイッチの位置、扉の開閉方法、LANコンセントの位置、、、、そんなものは素人が考えるより、プロが豊富な経験から設計して、素人のユーザーは確認だけすれば良いと思っていました。プロが考えるより『自分で細かく考えた方があきらかに合理的』であることに気がついたのです。

(構造設計などは全く手が出ませんでしたが、マンションの偽造問題などがあきらかになった今日、自分で家を建てるのであれば構造面も確認したい気分です)


考えればあたりまえです。
ユーザーサイドにとっては、まさに自分の利用する建物の使い勝手です。コスト(自分の人件費)度外視でいろいろ細かいところまで本気で考えます。まさに、自分が利害関係者なのです。

学生のときに居眠りばかりしていた筆者でも、自分の利害にかかわるので必死に勉強します。


でも、「プロ」とは「技術を持っている人」であると同時に「お金をとる(利益をあげる)人」でもあるのです。すなわち、あまり人件費をかけずに利益を上げられれば、それがプロにとてベストなのです。人によって多少の取り組みの姿勢があるのだと思いますが、基本的には「ユーザーにとって良いものにする」のと「プロにとってよい(=利益があがる)」というのは相反しがちなのです。

結局、良い建物を建てることができるかどうかは「ユーザーにかかっている」のだと思います。ユーザーがどうプロを活用するのかにです。


自分で家は建てたことはありませんが、中古住宅のリフォームはしたことがあります。といっても、床を張り替えて、壁紙を張り替える、、、それだけのことです。床といっても、無垢材にするのか、無垢材であればティークにするのかメープルにするのか、、、それとも合板にするのか? 合板でもどの会社の合板がいいのか? それともCF(クッションフロア)にするのか? いろいろな選択肢があります。

リフォーム会社は、「無垢材は暴れるから止めといたほうがいいですよ」とか「合板は傷がついたときに修理がしにくいですよ」とか、「CFは水に強く安いが見かけはチープです。」とかそんな程度は教えてくれますが、じゃあ自分にとってどうするのが本当に一番いいのかは、自分ほど真剣には考えてくれません。

自分の家になると、材質毎の特徴だとか、板の張り方による特徴だとか、メンテナンスの方法だとか、、、いろいろな角度から真剣に検討して最終決定しました。そのエネルギーを費用に換算すると結構な金額ではないかと思います。

そのため、満足する結果になりましたが。
(takaさんは、自分で家を建てたと思いますが、どうでしたか?)

このように『自分のことになると真剣になる』これが普通です。
それであれば、「一番真剣になる」人がやるのが一番良い方法だと思っています。

バリアフリーデザインの施設・建物も同様です。

利用者(=バリアフリーが必要とする人)が作ることが必要なのです。
決して、バリアフリーの専門家が作るのではありません。

ちなみに、筆者の直接関わる海外援助でも、なにかプロジェクトを行う際に利用者(=住民)が主役なのです。決して、相手国政府や専門家やましてやドナーが主役ではないのです。

農業開発プロジェクトを行うのであれば『農民』が主役であり、農業専門家や農業普及員が主役ではない。

母子保健プロジェクトであれば、子供とその家族が主役であり、保健婦や病院は主役でない。

医療プロジェクトであれば、患者が主役であり、医者や看護婦は主役でない。

教育プロジェクトであれば、学生が主役であり、先生や教育委員会は主役ではない。

そう信じています。これは、「タテマエ」ではなく、よいプロジェクトにするためには「そうでなければならない」のだと思っています。

一番悪いのは「自分は素人なのでわからない。専門家に任せておけば安心」、、、そのような考え方です。そのような考え方が、恐怖のバンコク・スワンナプーム空港(http://blogs.yahoo.co.jp/toshiyukiokui/52067578.html) を生むのではないでしょうか。


大分熱くなってしまいました。

takaさんの経験から考えてどう考えますか?

バリアフリーが必要な障害者、高齢者、小さな子供(とその家族など)等の方々が設計のプロセスに参加する仕組みを作るべきだとは思うのですが、同時に、社会的弱者では無い人が、常識として身につけておくことも大切だと思うのです。

学校の授業で基本的なことを教えたり、もっと勉強したい生徒への情報源を提供したりするのも良いのではないでしょうかね?

この部分に関しても、いろいろ思うことがありますが、一旦頭を冷やして続きを書きます。

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