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久々の 更新になりました。
真面目に書かない方のブログ 【タイ・バンコク近郊こだわり情報】(http://okui.blog77.fc2.com/ )の方はそれなりに更新しているのですが、、、、、
「ピアボランティア世界へ」という本を最近読みました。
障害当事者が、途上国で国際協力をする体験記です。
上からの協力ではなく、同じ目線での協力が、
回り道のように見えて、実は、最短距離ではないか再度考えさせられる本でした。
(エンパワメントの考え方やキャパシティ・デベロップメントの考え方と密接に関係します)
この本の中で、
日本人障害者が海外へボランティに行って、
「何も社会的なサポートがない途上国の障害者を見て『可哀想』と思ってしまった。
『可哀想な人』と思われるのが自分はいやなのに」
というような趣旨の文がありました。
(手元にいま本がないので、正確には覚えていませんが)
日本で、様々なバリアによって社会参加ができないだけ(例;バリアフリーでない為に移動できない)にも関わらず、「可哀想とか助けてあげる」とかいうコンテキストで語られる苛立ちを感じている日本の障害者が、
実は、途上国の障害者に全く同じ事を感じていたことに気づいた事例です。
障害者だけではなく、援助関係全般の仕事をしていると、「援助する側」と「援助される側」の関係において、
「自立を阻害する援助はしてはいけない」
ことが、いつのまにか勘違いしていないか、再度思い直しました。
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エンパワーメントとは?
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食品の内容物偽装、日付操作、表示偽装などなど、、、、 食品への信頼を疑う事件が相次いでいます。もうここまで出てくると、全く信用できません。 タイに住んでいる私など、日本以上に信じられないのではないか?と心配になってきます。 一方で、ある週刊誌に「魔女狩りはやめよう」の主旨の文書が書いていました。 「偽装で食中毒を起こしたなどの被害者は誰もいない」 「表示誤表示などまで含めて細かいところまで鬼の首でもとったように避難するのは魔女狩りのようなもの」 が、主旨だったと思います。 この意見を言う人は、完全に上からの視点にたっています。ようは、「食中毒を起こしていないのだから、些細な問題!」と言いたいのでしょう。 たとえばうちのチビは、重度のアレルギーです。豚肉は何とか食べることができますが、牛肉は食べることができません。大豆もトウモロコシも麦も牛乳も無理です。そんな私は食品を購入するときに内容物を必死でチェックするのです。その表示が「多少の間違いがある」なんてことは"【絶対に】"許されません。 むしろ、"【内容物不明】"と書いてくれていたらいいのですが。(そんな食品は買わないだけです) 人それぞれ、様々な事情があるのです。それを提供する側(食品メーカー側)の都合で、間違いを書き、さらにそれを正当化するなどは、まさに消費者の視点を無くした発想です。 このブログのテーマである"エンパワーメント!"。そのひとつの形は、"そんな消費者の視点を食品メーカーに反映しよう!(メーカーの消費者無視を許さないようにしよう)"ということなのです。 偽装したメーカー担当者・責任者の方! あなたの家族が、偽装した食品のアレルギーでも同じ事をしましたか?
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と、このところ断片的に書いてきましたが、わかりにくくなってしまったので再度まとめてみます。 女性とエンパワーメント (http://blogs.yahoo.co.jp/toshiyukiokui/52091448.html) で書いたように、地域開発、コミュニティ開発を行うには、理論云々ではなく、圧倒的に現実は「『女性グループ』を通じた活動が効率がいい」のは少なくともタイでは常識です。 これは、エンパワーメントアプローチの視点からすれば、次のようになると思います。 ・女性はエンパワーされている人が多い =非常に厳しい社会経済状況の中でも積極的に生きている人が多い →その理由としては、子供を産み育てることに生き甲斐・責任がある(と推測) ・男性はエンパワーされていない人が多い =非常に厳しい社会経済状況の中で(仕事がない、収入がない、生き甲斐がない)なかで、酒・博打(薬)に溺れる エンパワーアプローチ的考え方では、エンパワーされていない男性に対してよりもエンパワーされた女性へのアプローチの方が「成果が目で見えやすい」といえます。 だから、 『圧倒的に現実は「女性グループ」を通じた活動が効率がいいのは少なくともタイでは常識です。』 といえるのです。 つまり、エンパワーメントアプローチでは、女性グループに対しては、「よりエンパワーする」ことが重要となります。エンパワーされた人に対しての技術的アプローチは効率的であり、エンパワーされていない人への技術的アプローチ(副収入向上、保健衛生、環境向上etc)は失敗する可能性が高いのです。 表面的には成功に見える技術的アプローチでも「エンパワーされていない」人へのアプローチでは、「投入(人・モノ・カネ・情報)により、『成功している』ように見える」だけで、投入が終わった時点で衰退に向かいます。 一方で、エンパワーメントアプローチでは、「女性が弱者だから=社会経済状況が厳しいから」アプローチする対象とも考えられます。一番厳しい状況におかれている人をエンパワーすることにより他の人もエンパワーしようとする考え方です。 だから、ジェンダーメインストリームで女性にアプローチする前提は「女性が弱者」であることが前提で「女性が強い社会」では「男性にアプローチ」しなきゃならないことになります。 この考え方に私がいたったのは、障害者メインストリームがきっかけになっています。障害者のおかれている困難な社会経済状況を解決するために、医療、教育、保健、福祉アプローチを行うのではなく、単純に一番弱い人=障害者にアプローチすることが重要であるというアプローチです。 そして、それによりエンパワーされた障害者自身が、医療、教育、保健、福祉サービスの向上に積極的に関与してくるのです。 それが本当の「参加型」ではないでしょうか? (世の中には、形だけの「参加型」アプローチが多いような気がします。) ジェンダメインストリームでも、その社会において「女性が弱者」だからエンパワーし、それにより真の参加型の社会変革活動(女性の社会的、経済的地位向上)につながるのではと思います。 ところで、「弱者」にアプローチする理由は、「弱者」を「自助努力が見えない/足りない」かといって切り捨てる訳には行かないから。 という理由ではありません。 もっと積極的な理由があるのです。 弱者を切り捨てない為のエンパワーメントではなく、社会変革の為には弱者をエンパワーメントすることが効率的であるからなのです。 「役人にエンパワーメントの考え方を教え、住民に普及しよう」なんてプロジェクトは最悪です。 エンパワーメントの考え方では、役人>住民の既存構造を変化して、住民>役人の力関係に変革する。 そのうえで、住民が役人を変える(変わらないような役人はクビにする)ことが必要なのです。 役人がそのような自分たちの不利益になることをするわけはありません。 この勢いで話し始めると、「強者(=政府機関・役人・医師・教師など」をぶっ壊すのがエンパワーメント」というイスラム原理主義、共産原理主義も真っ青なエンパワーメント原理主義的考え方につっぱしりそう、、、、、笑 あくまで考え方の極論です。 「住民に直接働きかけてもサスティナビリティはない。政府職員に働きかけなければ」などと発言する人もいますが、 エンパワーメントアプローチからすれば、『全く逆』です。」 住民(弱者)を直接エンパワーメントしなければサスティナビリティがないのです。(なぜならば、「何事も一番真剣なのは直接の利害者=住民」だからです。そして政府職員は移動でいなくなります。住民は(基本的には)いつまでもいます。 で書いたように、一般的には、 強者は、 ・お金がある ・社会的地位がある ・権威がある ・学歴がある という状況があるのです。 弱者は、その全くの状況にあります。 本当は弱者がサービス(医療サービス、行政サービス、などなど)を受ける弱者が上にならなければならない(「お客様は神様です理論」)のですが、現実にはそうはならず、(教養も力もない)住民や患者、障害者を政府職員や医師、教師がまもって治療して『あげる』となりがちです。その打破が、エンパワーメントなのです。 エンパワーメントをキャパビル(サスティナビリティ)に結びつけるには、 ・対象住民へのダイレクトエンパワーメント ↓ ・エンパワーされた住民から他の住民へのダイレクトエンパワーメント ↓ ・エンパワーメントされた住民の広がり ↓ 「エンパワーされた住民が政府職員への教育」 そのようなパラダイムシフトが必要だと考えています。もちろん、政府機関職員にも意識の高い人はたくさんいます。その人がエンパワーメントを本当に理解して推進してくれることは非常に強力だと思います。ただ、殆どの政府職員は住民との力関係が逆転することを望まないと考えています。 となるのです。 ところで、これと関係するのですが、 コミュニティ開発プロジェクトを実施するうえで、ステークホルダー(関係者)でプロジェクトニーズ調査、計画立案などのワークショップを行うことがあります。 大昔は、「裨益者(住民)」抜きで、政府職員でワークショップが行われていました。 それではダメ! 「裨益者(住民)代表」をワークショップメンバーにいれましょう! などと言われるようになりました。 しかし、 それでは、ダメなのです。 理由は2点あります。 (1)「同じ場で議論」は一見民主的であるが、実はきわめて不公平 =社会的強者であり学歴も高い議論に慣れている政府職員と 社会的弱者であり学歴も低く自分の意見をまとめ表現できない住民を一緒に議論させる のは全く不公平 (2)住民『代表』が住民の声を代表する担保は誰がするのか? (エンパワーメントされていない)一般的には、住民代表は「政府職員」にとって都合のいい人だある可能性が高い →だから第一ステップとしては、政府職員を排他します。そして、住民代表は、可能な限り一番弱い立場の人(=最も虐げられている人)を選んでいます。 (住民がエンパワーされた時点で(政府職員と対等以上の話し合いができるようになった時点で)、はじめて政府職員とワークショップが行うことができるのです) ああ、筆者の論理的思考能力と表現力の問題で、ぜんぜんまとめにならなかった、、、かも!
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女性とエンパワーメント (http://blogs.yahoo.co.jp/toshiyukiokui/52091448.html) から、つながった 父権主義とは? (http://blogs.yahoo.co.jp/toshiyukiokui/52091823.html) に関して、医療関係者からメッセージをいただきました。 「父権主義」、、、聞き慣れない言葉なので早速ウイキペディアで検索。
パターナリズムとも言うそうですね、こちらの言葉は聞いた事があり、なんとなく理解できました。 とりあえず、まさに途上国の福祉はそれに近いというか、ほぼそれのような気がします。 日本も昔は戦後まで(今も?)、そういう要素が強かったのでしょうね。 ただ、こういうケースはここが途上国である以上まま仕方ないのかと思いますが、だからこそ、empowerment的な考えがこれから大切なのでしょうね。 学校で、こういった哲学的なことを学んだ経験はありませんが(というより、それらしき教養科目は毎回最前列で曝睡しており、「聞いた経験が無い」というのが正しい言い方でしょうか)、学校で先生がどんなきれいな事を言っても、やはり右から左となってしまうのが現実かと思います。 我々の職種が学生時代にそういったことを強く感じ取る経験が出来る場があるとすれば、それは「臨床実習」の時であるかと思います。 私は学生時代の臨床実習のときにはじめて「患者さんが先生」という言葉を聞きました。 あのころ、技術的なことでパニック状態であり、かつ夜遅くまでレポートに取り組むことで毎日朦朧とした日々を送っていたのですが、この言葉で一つハタとさせられたことを覚えてます。 「患者さんが先生」について述べて行こうとすると、とてもメールで伝えられるものではありません。 私はこれまで、難病と呼ばれる病気でしかもご高齢の患者さんに接することが多かったためか、いわゆるドキュメントやドラマ、映画でみるようなリハビリをしたことはありません。 私の職業理念は、患者さんに内発的に元気と自信、やすらぎを持ってもらえること。 技術的なことよりもとにかく対話重視でやってきました(技術が下手であることの言い訳でもあるのですが)。 また、そもそも私自身が患者さんたちとお話したかったので、昼間リハビリ室で話しきれない分、夕方、病室巡回をし、お話をして回って来ました。 自分自身、患者さんたちに対して、昼間の顔だけで終わりたくないという気持ちがありましたし、また、昼間の様子だけを見ていたのでは、患者さんの全体像が把握できないことも確かです。 基本的に毎日残業があるのですが、残業は病室巡回後といつも決めてました。 そんなことしているのは、10名のリハビリスタッフの中で私1人でしたが(よって施錠係は私)、そのせいか、私の担当患者さん以外からも、「夕方のご指名」を受けることもありました。 こういうことは正直嬉しかったので、喜んでお付き合いしていましたが、翌日、その患者さんの担当のスタッフにそういうことをしていたということがバレない様にする必要がありましたので、そのたびに患者さんたちにはそのように伝えてました(ちょっと嫌な気分ですが、職場内で人間関係ウマく付き合って行くのには必要なことでした)。 私は患者さんたちから、教えられ、鍛えられて来ました。 まさに生き字引です。 病気や障害、一人一人違いますが、それぞれの患者さんが身を以て私たちに、こういう病態もある、ということを示してくれていたし、人の生き方についても、色々な生き方があることを教えてくれました。 よって、教科書や本を読む必要など私にはありませんでした(勉強や読書が嫌いと言うことの言い訳でもあります)。 色々な人がいましたが、一人一人の患者さんへのご恩は、一生忘れませんし、今も、これからも、対象者から教わると言うのは私の中で常識と言うか、当たり前であり続けると思います。 これは、原因が不明、治らない、治す薬が無い、悪くなるだけ、という患者さんたちとの交流の中から私自身が感じて来たことです。 「患者さんが先生」というのは、別にいつもそう思って仕事しているわけではなく、結果として自分自身を振り返ると、いつもそこには患者さんがいた、患者さんから気付かされた、という積み重ねの上にある結果論と思っています。 「父権主義」と関連させると、、、こういうことはお互いの気持ちの問題ではないかと。 私はいつも対象者とは対等にいたいと思っており、どちらが上でも下でも無く、どちらかが主導権を持つと言う問題でもなく、お互いrespectし合うことが大事だと思ってます。 私は「先生」と呼ばれることが嫌でしたが、相手が誰であれ、そう呼ぶ人がいる以上は、まずはそれなりの責任(治療行為など)を果たすことを考えます。 その代わり私も心の中で相手を先生と呼び、何気ない話の中から、多くを学ばせて頂きました。 医師が(医療関係者が)患者と対等の立場で向かい合おうとする姿勢がよくわかって感服します。 医師が(知識的にも社会的にも人間的も)上の立場で、患者を治療し護っていく。一見すばらしいことのような気がしますが、エンパワーマントの視点からすれば、医師がよかれと思ったことが、一方で患者の力を弱める、それが結局は医師の権威化を招き、「患者が知りたい」と思うことを「知る必要がない。知ってもわからない」につながるのです。 やはり発想の転換、つまり、 『技術的にも人間的にも社会的にもすぐれた医師が、(可哀想な)患者を治療してあげる』 ↓ 『患者が(サービスを受ける)お客様として、医療サービスを受ける。(「お客様は神様です」つまりお客様の力の方が強い)』 への転換が必要なのです。 一点だけ、コメントさせてただくと、 「どちらかが主導権を持つと言う問題でもなく、お互いrespectし合うことが大事だと思ってます。」
それはそのとおりです。最終的な理想型ではそうでしょう。 しかし、ほっておくと、 医師の方が力が強いのです。 おかれた状況においても、社会的にも経済的にも、そしてアカデミックな能力においても、、、 対等な関係を作ろうと思えば、 一生懸命、「患者が上、医師が下」と働きかけなければならないと思っています。 「医師」と「患者」を、 「教師」と「生徒」、 「行政官」と「住民」 「福祉官(あるいは、「医師」「教師」など)」と「障害者」 と置き換えてもそのまま通用します。
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の父権主義について、、、、、念のため。 ここで父権主義とは、「父親の持つ権利を尊重すること」の意味ではありません! (もともとはそういう意味だったのかもしれないが、、) 例によって、ウィキペディアで調べます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0 強い立場にあるものが、弱い立場にあるものに対して、後者の利益になるとして、その後者の意志に反してでも、その行動に介入・干渉することをいう。 とある。そして、典型例の一つとして次があげられている。 専門家と素人 専門知識において圧倒的な格差がある専門家と素人のあいだでは、パターナリスティックな介入・干渉が起こりやすい。たとえば、医師(専門家)から見れば、世話を焼かれる立場の患者(素人)は医療に関して無知蒙昧であり、自分で正しい判断を下すことが出来ない。その結果、医療行為に際しては、患者が医師より優位な立場には立てない[10]。そうした状況で患者の自己決定権をどのように確保していくかについては「インフォームド・コンセント」の項を参照(あわせて「尊厳死」の項も参照)。 「医師」を「専門家」と「患者」を「素人」としているが父権主義であるのに対して、「医師」を「サービス提供者」、「患者」を「消費者」とするのがエンパワーメントアプローチです。 つまり、父権主義では「(技術的にも人格的にも優れた社会的的にも強い立場にある)医師が、(技術的にも人格的にも社会的にも弱い)患者を「指導」するのです。医師が患者の健康に(ある程度の)責任を持つという考え方でもあります。「患者」を「障害者」と置き換えるとさらに状況がクリアになります。 それに対して、エンパワーメントアプローチの考え方では、「患者は医療サービスを受けるお客様」です。患者の健康は患者が持つのです。医師はそのための技術サービスを提供するサービス業という考え方です。 関連記事;プロフェッショナルな患者 ( http://blogs.yahoo.co.jp/toshiyukiokui/52088646.html ) 同じように「教師」が「生徒」を護り指導する、「行政」が「国民」を護り指導する、「村長」が「村民」を護り指導する、それが父権主義、そして、生徒が教師から教育サービスを受ける(教師の選択を生徒が行う)、国民が行政サービスを受ける(国民が行政に対して指導する)、村民が村長からサービスを受ける、そのようなことがエンパワーされた一つの形となります。 ところで、 たとえば、高齢者と介護者との関係はどうなっているのでしょう? 知的障害者と教師の考えはどうなっているのでしょう? つまり、エンパワーされたとしても、サービスを受ける側の判断能力に制限がある状態で、いかに(父権主義の必要性は認めつつ)消費者としてサービスを自己選択、自己責任を確保していくのか?
現在の筆者にとって非常に興味ある分野です。 |



