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・・・いや、こういう話では無くて。
秋季例大祭で赤城神社にお参りしてきたのであった。
出掛ける前に、オサイフの中身を見るとメッチャ寒い。何故か950円しか入ってないのよね。
だがしかし、そんな状態でも出掛ける我輩。出掛けられるところが勇気。
居合と流鏑馬奉納があるということで、2時間かけて群馬県赤城山まで。
まずは、赤城山の麓にある三夜沢赤城神社へ。
赤城神社の神域に生える大木「たわら杉」。
鎮守府将軍俵藤太こと、藤原秀郷が平将門を追討する時に植えたとされることから名づけられたもの。
秀郷は弓の名手で、ここら一帯は秀郷流の弓の使い手が主流であるわけだけれど、
なぜか、今回の流鏑馬は小笠原流。。。つか、秀郷流ってまだ命脈はつながっているんかいな???
そんな赤城神社で発見、アヒルだーーー!1
日本古来の文字とされている神代文字の「阿比留文字」ではありませぬか。
平田篤胤の養子である鐵胤によって「神字日文伝」で体系化され、その子延胤が撰文して、その門弟権田さんが書を書いて、復古神道の碑文として明治3年に建てられたとな。
書いてあるのは「マナ ヒトコロノ ナレル コヱ ヨシ」
神社にある神代文字は、大抵は幕末から明治の初期に、復古神道に権威付けするために書かれたものであるというのが真実であろうかや。
しっかし、なぜゆえにここにアヒル文字の碑があるのであろうか。
さーて、赤城山の頂上付近のカルデラ湖までドライブ。
駒ヶ岳までの登山口が横道に伸びていて、山歩きしたい気分に駆られることしばしば。行ったら降りてこれんがな。
お昼前、結構晴れていた天気も山になかではちとガスってきましたよ。
神社付近は駐車場がいっぱいだったために、少し遠くに車を停めててくてく神社まで歩きのデス。
さすが赤城神社、赤いです。戸山流の居合奉納がありました。
畳というより、ゴザを巻いたものを水に浸して斬っていたのであるが、何というか古いゴザって水にぬらすと独特の匂いがするじゃあないですか。
空母赤城の忠魂碑が境内に…はゴザりませんね。
午後1時過ぎ、流鏑馬開始。
前述のとおり、藤原秀郷ゆかりの流鏑馬であれば、秀郷流か?とおもいきや小笠原流。
決して赤城山と二荒山の決戦で二荒山側について赤城山を打ち負かした猿麻呂にちなんだ流鏑馬ではないんだじょい。
馬は日本産の馬。ドサンコやら木曽馬やら、ちとずんぐりしていて足が太い馬たちである。
こういう需要が日本産の馬を保護しているんですなぁ。
なお、此の流鏑馬では女武者も結構参加しております。
5人1組、または6人1組で3チーム駆けて決勝を競うというもので、的に中った屋の点数で豊作を占うのだとか。
1チーム内の男女比3:2という、半ば女武者が活躍いたしておりますことが、特徴といえば特徴であろうかや。
シャッターチャンスも結構難しく、馬の足しか映ってなかったり、頭が切れていたりするものが大半という、我輩の腕の無さを露呈したものの、いくつかましな物を( ^ω^)・・・
女武者の流鏑馬である。
しっかしですな、これはこれで宜しゅうございまするが、ここで巫女さんが颯爽と馬に跨り、流鏑馬を披露しておりませなんだら、我輩きっと悶絶死していたこと間違い無であろうぞ。
流鏑馬は武者が奉納するもので、巫女さんがするものではないにしろ、このようなイヴェントが実現した暁には、きっとアレな巫女ファンと共に全国の話題となるであろうぞ。
どこかで巫女さん流鏑馬しておらんかなぁ・・・
男性の流鏑馬も良いのですよ、もちろん。的中の際に拍手喝采。
矢をつがえられずに失敗。
ポニーテールの髪を靡かせて流鏑馬。
実際に女性の流鏑馬は初めて見たのであった。全国的に女性の流鏑馬って珍しいのであろうかどうなのか。
・・・というところで、ケータイの電池も切れ、御朱印を頂いたら所持金残高が350円になってしまう午後2時半。
あー、もう一か所榛名さんにも回ってみたいなどうしよう・・・お金がないので致し方なく、横の登山道を登って来たオッサンを相手に山伏を装い仁王立ちして「それがし赤城太郎某と申す!金目の物を置いて行って貰おう!」と追いはぎでも・・・という気持ちを押さえて、家に帰るとする。
帰り道にクロ−ネンベルクがあって、覗いてみたらこれまたドイツビールがこれ見よがしに・・・・金がない時に限ってこういう仕打ちが・・・
おお、神よ!!
↑
・・・って、今参って来たばかりであるが。
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登山と神社仏閣城館
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多度大社到着が午後4時頃。
お伊勢参らばお多度もかけよ お多度かけねば片参り
ここまで来て、多度大社にお参りしないのは以てのタドというべきや。
多度大社、何気なく訪れてみたけれど「奇祭、上げ馬神事」の祭場だとは思っても見なかったのよ。
今年は何かと奇祭に縁があるなぁ、我輩。
宮の奥に磐座が鎮座していることから、縄文の昔より神降ろしをしていた場所だったのだろうと思われる。
5世紀ごろから御祭神が定まり、天照大御神の御子神である天津彦根命と、天津彦根命の御子神天目一箇命が祀られている。
信長によって焼き討ちされ、宝や記録は灰になってしまったというが、勿体ない話である。
えー、この土の段を馬が登るという・・・見るからに無理じゃないのこれと思ったけれど、そうでもないらすい。
参道横になぜゆえに屋敷のようなものが連なってるんだろうかと思ったけれど、これって上げ馬神事を行ったときの観客席なんですな。
此の高さはかなりキてますよ。
後ろに神馬として飼われている白馬の舎がありまして、落ち着きなさげにカパカパ動いていたのであるが、
何というか・・・参拝者が100円払って馬に与えるリンゴを、目の前に置かれておあずけされる馬の気持ちがあの足音に現れてるなぁ・・・と。
100円払ってリンゴを馬にあげたら、我輩の手から直にモグモグ食っておった。
あまり気性が荒いと手をかじられるかと思ったけれど、おとなしいウマであった。
そんな上げ馬神事の様子。
南北朝時代に始まったとされるこの神事h、占いにより騎手を選ぶという。
どんな素人でも、選ばれてしまったら騎乗するのだろうかこれ。
さて、御朱印を頂いて参拝。
御萱門を通り抜けて、奥に向かうのだが。
奥宮の脇に流れる清流がなんとも心地よい雰囲気。
原子の信仰の何たるかを垣間見た様な、凛として清々しい。
本宮、天津彦根命を祀る社。
我輩、神社でお願いするのはたいてい「払い給え清めたまえ申す事の由を天の斑駒の耳くりたてて聞し召せと貸し込み申す〜」とかそんな感じ。
さすれば、さわやかな一陣の風吹き抜けて、穢れを祓い去ってくれたようなさわやかさが残るのである。
別宮、天目一箇命を祀る社。
「鍛冶の神様、今年も良き刀に巡り合えますように・・」などと、神妙な事をお祈りしつつ、多度大社を後にするのであった。
そんなわけで、家路に着いたのが4時30分くらい。
その後、諏訪の回転寿司スシローで夕食。この前のニュースで、スシローが韓国系の企業に買収されたとか奉じていたけれど、これから大丈夫なのだろうかネタの輸入先。すべて韓国産になったら大腸菌とか不安で行き辛いわい。
佐久に到着したのが大体9時頃、家に到着したのが11時30分だったという。
朝4時半に家を出て夜中の11時半に帰る。
車の移動時間が13時間という…なんとも移動だけで時間がかかってしまう桑名日帰りなのであった。
で、買った松茸はホイル焼きにして酒の肴になってしまうという。
日本酒と松茸、それは危険な記号の組み合わせである。
今回、ちと残念だったことは、肥後守村正を見なかったことである。
たしか2,000円くらいで売っていたと思ったけれど、どこにも見当たらなかったなぁ、肥後守村正。
村正なのに肥後守という逸品。
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諏訪のモリヤではなくて、東京の入谷の神社仏閣巡りなのだが。
17日の日曜日に入谷、日暮里界隈で御朱印を頂いてきたのであった。
入谷のパチンコ屋で、奇跡をささやくまどか教が。。。。
それはそれとしてまず向かった先が、恐れ入りやの鬼子母神であーる。
大田南畝の狂歌に歌われているそのフレーズが事に有名な像が祀られている場所にて参拝。
江戸時代からの街道沿いにあったわけであるが、結構ひっそりしておりますな。
鬼子母神といえば真源寺。下谷付近は法華の寺が多いのだろうか。
ちなみに、ここは江戸時代に朝顔市が開かれていた場所だったりもする。
朝顔栽培が盛んで各種の朝顔が売られていたのであるが、大正2年に最後の朝顔栽培農家が店を閉めてしまい途絶えるも、
戦後に地元の名物として復活、七夕前後の3日間に市が建つそうだ。
そういえば、御殿場に棲んどる我輩の親戚の家では毎年電車で朝顔を買いに出かけるとか言ってたなぁ・・・
さてさて、ここまで来たからには下谷七福神でも巡ろうかと思いつつ、お寺さんに聞いたところ、七福神は1月いっぱいまでしかやってない層で、御朱印も書かないそうである。
そんな訳なので、七福神は諦めて神社巡りに切り替えることとするわけですよ。
小野照崎神社である。学問の神様、とはいっても道真公ではなくて小野篁の方であった。うほ、地獄めぐりとかしてしまう篁さんではありませんか。
何というか、栃木の足利学校の創建伝説にも一役買っている御仁なわけでして、(とはいっても下野に着たという事実は確認されていないのであるが)
我輩的にはちと親近感のある学問の神様なのであった。
小野照崎神社の中にある富士山信仰浅間神社。
このこんもりした塚の保存状態が良い物は、東京では珍しいとの事で、しみじみ眺めているとごつごつした岩場がわざと配置されている物であろうか。
税所見た時には誰ぞの古墳を改造して浅間神社としたのかと思ったけれど、この岩場を見るとそうでもないか。
でも、世の中には古墳を改造した富士山信仰がありそうな気もするのだが。
小野照崎神社のお稲荷さん。ご神体に尻を向けるお狐さん一匹。
この伸びをしている感じがとてもよろしい。
三島神社まで足を延ばす。
御朱印を頂く時に、女性宮司さんと色々な話をいたしました。歴史に造詣が深く雑誌に執筆している寄稿文のコピーを頂いたりと、ものすごく歓迎していただきました。
鎌倉の昔、元寇の時に名を馳せた河野通有の子孫であるとのことである。
うーむ、愛媛県の大山祇神社が氏神であるそうだが、そうなると大三島の出ということだから、宮司の祖先は水軍か?海賊か???
落雁に名刺も頂いてしまった。
元三島神社。
先ほどの三島神社の本家筋だとか。江戸時代に三島神社の地に移れとの幕府の言に対して、地元住民が神様が居なくなるのはイカンともしがたいということで、ここに残った神社だそうである。
何というか・・・鶯谷北口にほど近く、神社に向かう横道と言ったら歓楽街がすんごい場所でラブホ乱立。立ちんぼおねーちゃんがどこかに電話しとるみたいなセンセーショナルな立地条件でご会いまする。
だいたい、我輩の鶯谷のイメエジは、以前からずっとこんな感じなのだわよ。
夜くるとヤバイ。話している言葉も中国系とかメッサ聞こえてくる。
という感じで、次は上野の寛永寺。
御朱印を頂く順番を待っているとぽつりぽつりと雨が落ちだす。
徳川家の墓だとか有名人の墓を探してみようと考えた直後に、電話が入り寛永寺を後にするのであった。
こうして鶯谷での用事を終えて、寺社が集まっている区域を散歩。
まさに寺社仏閣三昧なのであった。七福神は季節外れでございましたね。
そんなわけで、本日頂いた御朱印は7枚であったとさ。
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祭りを終えて騎馬が去った後、翌日行われるという野馬懸けの地である小高神社に赴いた。
時々路上ですれ違う騎馬武者を眺めながら、祭りの余韻の中で向かう小高神社は、騎馬行列の出発地の一つであった神社。
明日の祭りの容易に余念が無い感じの中でお邪魔するのも迷惑であろうかと思い、遠くから眺める程度にしようと思ってみたり。
神社の駐車場には殆ど車が無かったので、大忙しな状態ではなさそうであった。
旧相馬氏領には3つの神社、太田神社、中村神社、小高神社が妙見信仰の社として祀られている。ただ、明治の神仏分離が行われたので、現在の主祭神は天之御中主神である。
相馬野馬追はこの3つの神社を起点として騎馬行列が執り行われる神事である。
境内の前には日b理が原まで運んだとおぼしき神輿が鎮座されており、何やら明日の打ち合わせだろうか、忙しそうに動いていた。
中に入れそうになかったので境内をうろうろする。
竹製の柵には九曜紋をあしらって装飾されていたり。
これを野馬懸けする会場に巡らせて、明日は馬を放して素手で取り押さえるという神事が行われる。
それはそれで見ごたえがあるのだろうけれど、2日も野宿はちと厳しい。
明日の神事の為に、お祓いをしているのであろう。
野馬追の起源は平将門まで遡るということであるが、相馬氏がこの地に移ってきたときに行われていた御油字はもっと素朴な物だったと、博物館の人が言っていたのよ。このような派手な行事に定着したのが江戸時代、その様子は屏風絵にも描かれていることから、多くの人がその存在を知っていたのであろう。
この小高神社、宗麻衣が中村城に移り住むまでは相馬氏の居城でもあったという。
縄張りがこじんまりしている城なので、護るのも大変だろうと思ってみたのだが、案の定、南北朝時代に一度落城している。
北朝側に属した相馬氏が北畠の軍勢に押されての事だが、その1年後には奪還している。
やはり守りに適さない地形なのだろう。
なるほど、良く見れば山城の顔をしている。
東側の入り口の起伏に飛んだ地形と言い、独立した高知というより、周囲の丘陵がおそらく郭としての機能を有していたんではないかというような感じの地形と言い、南側に流れる川を防御の濠としつつ、しかも領地に引くことに寄って水の確保もしていたのだろう。
だいたい1万石で兵士250人を養えるとした場合、中村藩はだいたい6万石として、1500人動員兵力が存在したわけですな。
南から続く参道は、城の遺構とは関係ないラスい。
ので、ここは土塁で続いていた場所に参道を通したとみて、かつて土塁が続いていたという想像をめぐらす。
こちらの遺構の方が良く残っている。この道は下まで続いてはいるものの、さすがにそこまで探検している時間は無かったのでそのまま写真を撮って帰るのであった。
由来に寄れば、相馬氏がここに移る前派、行万氏がここを居城としていたとの事である。
源頼朝より、軍功で賜ったこの地に移って後、11代280年中心地としての機能を有していた。
仙台の伊達などの有力大名の近場で、よく領地を保ったものである。
結局境内には入らずに、一礼して帰ったのだった。
その後、野馬追に合わせたように通行止めが解除されたという国道6号線を通って家路に向かう。
小高から南の6号線沿い、いわゆる「帰還困難地域」の中を走る道である。
未だに放射線が高く、通り抜けるだけしか認められておらず、十字路各所にバリケードや警察のパトカーガ止まっていた。
あれだけ長い距離に警察を張り付けておくのも、人的労力がバカにならないだろうな。
我輩のカーナビが、さも当然の様に閉鎖区域である街角を曲がれと指示するのが、なんともむなしい。
人の制御できない原子力を、常時運転した結果のこの光景。
あの日以来、夜は家族が集まるときだけしかメインの電気を点けない生活をしている。部屋は60w球1コと、パソコン位しか電力は使わない。TVもデジタルに替えずに見るのをやめた。電力消費は昭和の60年代より低いだろう。
出来もしないことを出来ると言っては、取り返しもつかない状況に持って行った不誠実なやり方は大嫌いだ。
道の左右は誰もいない、好転した天気の中で夏草が揺れている。
人は間違いを犯す以上、我輩は原子力発電には反対である。
仮に、安全保障上、核兵器への転用という選択肢が故に、原子力を容認するのであれば、
さっさと日本は核武装でもして、常時運転する原子力発電から手を切る方が良い。
人が手を付けず眠っているだけの核兵器は、メルトダウンを起こしはしない。
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えーさて、宵乗り競馬も終わったところで、南相馬市の歴史的意向を散策しようと、地図を見ながら車を走らせる午後4時頃。
近場にあるという羽山の横穴に向かうものの、横道への盃陸地が全く分からず右往左往、、、やっとの事で現地についてみたらゴールデンウィークくらいしか公開していないという案内で、なんという徒労。。。
教育委員会のパンフレットに公開期間を書いておいて欲しい物であった。
そんなこんなで夕刻の迫る中、東北最大級の前方後方墳である桜井1号古墳に向くのであった。
桜井1号古墳。出土した土器から4世紀終わりあたりのものと推測されている。
公園に整備されているので散策には良い場所であるのだが。いかんせん整備され過ぎてどこまでがオリジナルなのだかが疑問の処。
スキージャンプの墓道。
鏡も出土しているんですわなぁ。
その後、本日の野宿地点である道の駅に向かうのであるが、我輩と同じ思考の方々が駐車スペース満杯に車を停めて、キャンプを決め込んでいる午後6時近く。
やっべー、もう注射するところが無いよこれ、さっきの桜井古墳の駐車場で古墳でも眺めながら寂しく眠ろうか・・・とか思った我輩、横の端の小さなスペースに車を停める。
夕食を食いに徒歩で出かけつつ、入ったのが後楽園であったとよ。
ラーメンとチャーハンのセットを食い、酒をのんで車の中で寝てしまう午後8時。
本日の天気はぐずついた曇りだったのだが、明日は晴れればいいなぁ…などと思いながら、相馬野馬追の一日目が終わり。
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