真昼野 三太でござります・・

仕事がきつくて・・・・・只今、71kgデス・・・

歴史のはなし

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熊野那智には、死者の霊魂が詣でるといわれる寺があります。
 
それは、那智山系にある標高749mの妙法山。

その山頂近くに建つ妙法山 阿弥陀寺(みょうほうさんあみだじ)がそれです。
 
妙法山阿弥陀寺は弘法大師空海の開基と伝わる真言宗の古刹で、

女人禁制の高野山の代わりに女性が多く参詣したので、女人高野と呼ばれました。

熊野古道最大の難所、本宮へ向かう「大雲取越え・小雲取越え」の出発点でもあります。

 
この寺に死者の霊魂が詣でるのだといいます。
 
「亡者の熊野詣」といい、人が死ぬと、その魂は、枕飯3合炊く間に、

枕元に供えられたシキミを1本持って、この寺を詣で、釣鐘をひとつ衝き、

そして、持ってきたシキミを妙法山山頂に建つ奥ノ院・浄土堂に供え、

それから大雲取越えの山路を歩いていくということです。

阿弥陀寺の鐘は人陰もないのに、時折、かすかな音を立てるといわれ、

また、死者が供えたシキミのために奥ノ院付近はシキミが生い茂るようになったと伝えられています。

阿弥陀寺から本宮へと続く「大雲取越え・小雲取越え」の道は、「死出の山路」と呼ばれ、

道行く人はときに、亡くなった肉親や知人の霊に出会うことがあるといわれます。

阿弥陀寺奥ノ院の御詠歌は、

くまの路をもの憂き旅とおもふなよ 死出の山路でおもひ知らせん

「死出の山路」と呼ばれた「大雲取越え・小雲取越え」のその道中には、

「亡者の出会い」と名付けられた場所さえあります。

熊野那智大社や青岸渡寺が観光客で賑わっているときも、妙法山阿弥陀寺は訪れる人も少なく、

静けさを保っています。

◆ 参考文献

神坂次郎『熊野まんだら街道』新潮文庫

昔(昭和)の記憶

私が子供の時は、おもちゃなんて代物を買ってもらうなんて考えられませんでした。

住まいも長屋で、1.2階に10家族位が住んでいたと思います。

各家族が6〜10名位の単位で、私の家庭もじいちゃん・ばあちゃん・おっちゃん・おばちゃんと

同居していて、2間で生活していたもんです。

勿論、水道はあったんですが、出が悪くて瓶(かめ)にいつも溜めていたのを覚えています。

ガスなんて夢の話しで、かんてき(七輪)で何でも料理していました。

もちろん、薪です・・・ちょっとして、練炭・・・ちょっとして、冬場はストーブで・・

勿論お風呂もお金がある時だけで・・・それ以外は、行水なるものをしていました。

食べ物と言えば、鳥肉は贅沢品で大概はいわしやめざし・・・・・

その内、『きょうもコロッケ、あすもコロッケ、これじゃ年がら年中コロッケコロッケ・・』という

歌がはやったように、コロッケが多かった記憶があります。

今から思うと貧しかったんですが、当時は、ごはんが食べらる事が有り難かったのを覚えています。

右袖を見れば、鼻水でテカテカに光っていても、それが当たり前!!

ティッシュなんて勿論無いし、大概は新聞で用を済ませて・・・

こんな事書いていると、えらい古い話しやな〜〜っと思うでしょうが、

四〇年から五〇年前って、こんな感じだったんですよ!!

それを思うと、今の世の中って凄いですよね〜〜!!

何でもあるし、何でもお金で買える・・・・でも、ちょっと昔に帰ってみたいです・・・

新聞で作った兜がなつかしい・・・・

最近、高橋克彦の書いた『竜の柩』や斎藤栄の書いた『イエス・キリストの謎』という本を読みました。

もちろん、『ダヴィンチ・コード』もですが・・・

そんでもって、イエス・キリストってと思って色々と探ってみると、面白い事が書いてありました。

日本にいた!! って、記事なんですが・・・『竜の柩』もそうなんですが・・・

また、あくまでも、ひとつのお話をとして聞いていただきたいのですが……。

その人がいうには、イエス・キリストは、マリアが名もないローマ兵にレイプされてできた子

なのだそうです。

ちなみに、マリアもヨセフも血液型は0型なんだけど、イエスはB型だとか・・・何で判るんやろ〜〜!!

そして、生まれたのも西暦0年12月25日ではなくて、BC3年3月15日だといいます。

ただ、12月24日(25日)っていうのはけっこう意味のある日で、世界中の神話に「冬至の王」って話が

あって、要は冬至=地球で一番夜の長い日をすぎて、徐々に太陽の力がましていく、

それを讃える伝統と、イエス・キリストが重ねあわされたみたいです。

よく2012年12月22日がどうとかって話を聞くけれど、やっぱりこの時期って、

ちょっと特別な期間みたいですね。

そして、驚くなかれ!! 十字架にかけられたのはイエスではなく、弟のトーマスだと言うんです!!

処刑のあった数日後、一般には「復活」といわれていますが、かぎられた人々の前に姿を見せた後にイン

ド経由で日本に来たのだとか。。。まゆつばもの??

(このへんの話は、聞いたことのある方も少なくないと思いますが)・・津軽伝説・・

日本に来てから、ミウコという女性と結婚し、最初の滞在地=青森で長女を出産します。

これが、キリストの子孫といわれる坂口家につながるそうです。

それから、現在の茨城県に移動し、鹿島神宮に祭られている建御雷之男神(タケミカヅチノカミ)は、

じつはイエス・キリストなのだそうです。

その後、熊野〜伊勢へとまわり、最後は青森に戻って生涯を閉じたのだとか・・・・

何度もいいますが、これはあくまでもひとつのお話です。

敬虔なクリスチャンにいわせればとんでもない話でしょうし、

マリアの純潔やイエスの神性を尊ぶ方にも不愉快な話かもしれません。

また、かりに上記が「歴史的事実」だったとしても、ひとの心における「真実」はそれとは異なる、、、

という考え方もあるでしょう。

有名人は色々と詮索されるし、キリストって不思議な事ばかりで全く判りません・・・

諸説紛々・・・

壬申の乱

◎大友皇子 対 大海人皇子
 672年。
 叔父VS甥の熾烈なバトルがスタートします! 
 壬申の乱(じんしんのらん)、というやつです。
 皇位継承権を持つ皇族が鎧兜つけて殺し合いをするというのは、
 大きな争いではこれが最後になります。

 さて、まずは大海人皇子は当初、奈良県南部の吉野に隠居していました。
 しかし、密かに美濃(岐阜県)へ脱出します。
 いったん、朝廷の直接的な支配下から離れたわけです。
 ここで、これまでの政治に不満があったり、没落した豪族などを味方につけ、
 不破関(岐阜県関ヶ原町)、鈴鹿関(三重県鈴鹿市)などの交通の要所を押さえます。
 また、長男である高市皇子、それから大津皇子などの息子も駆けつけました。

 これに対し、大友皇子(弘文天皇)は右大臣の中臣金(なかとみのかね)、
 左大臣の蘇我赤兄を中心に対策を協議し、有力な豪族達に軍を組織させます・・
 が、こうした努力もむなしく、約1ヶ月の戦いの末に大海人皇子の軍勢が勝利し、
 大友皇子は自殺し、25歳の短い生涯を終えました。
 また、中臣金ら8人は死罪に、蘇我赤兄らを流罪に処されました。
 これ以後、中臣氏、蘇我氏の多くは没落していったようです。

 そして大海人皇子は673年に都を飛鳥浄御原宮とし、天皇に即位しました(天武天皇)。
 ちなみに、先ほど没落した豪族と書きましたが、ここで華麗な復活劇を遂げたのが大伴氏。
 あの、大伴金村失脚後、物部氏や蘇我氏に追いやられ、一部例外を除けば随分と長く中央政界へ
 復帰できませんでした。
 大伴馬来目(望多 まくた)、大伴吹負(ふけい)兄弟が大海人皇子の軍勢に参加し、
 朝廷の軍事を担当していた特性を遺憾なく発揮。再び、貴族名門として勃興しました。
 *ちなみに、大伴馬来目の兄である大伴長徳(ながとこ)は孝徳天皇政権下で右大臣でしたが、
  長徳の没後、馬来目たちは不遇だったようです。

◎天武天皇の政治
 さて、こうした政変劇によってこれまでの有力氏族が没落。
 こうなると天武天皇は中央集権体制をより前進させることが可能になりました。
 そこで、地方行政区画の整備、班田収授のための造籍・測地を進め、さらに再び私有民を禁止。
 さらに、684年に八色の姓(やしきのかばね)を制定します。
 これは、真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・
 臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)の8種の姓。

 導入の狙いと仕組みですが、豪族達をランク付けすることにありました。
 例えば、真人(まひと)は天皇の近親者のみに与えられ、朝臣(あそん)は中臣氏などの一部例外を除  き、それまで天皇の子孫と称していた豪族に与えられます。
 あとは、豪族達に出自によって割り振りましたが、
 このように天皇家一族を上位のランクインさせたのです。

 それから大和政権の時代から、服属した豪族達に、鏡や太刀などの宝物を献上させ、
 石上神社というところへ保管してきましたが、これを返還することで融和策を採り、
 また積極的に、朝廷の役人になろうと呼びかけます。

 さらに飛鳥浄御原令という日本初の統治体系に関する法令を制定します。
(ただし、現存していないため不明な点が多い)さらに6年ごとに戸籍を作成させるようにします。

 また、これまで「大王」だった称号を、実はこの段階で初めて「天皇」と改めました。
 これは、唐の高宗(位650〜683年)が自称していたもので、
 中国の伝説上の帝王の1つのことでもあります。
 おそらく、これを聞いて「格好良いなあ」と思ったんでしょうし、唐と親交を保ちつつも、
 ただの朝貢国ではないぞ、という意思表示もあったんでしょう。
 それから、これまでの土下座のような礼の仕方から、立ったままで礼をする、
 今のような形に改めたのも天武天皇でした。

◎後継者争い

 こうして数々の改革を成し遂げた天武天皇でしたが、それぞれ母が違う多くの息子達が
 対立しないかどうか不安だったようです。
 その不安を残したまま、686(朱鳥元)年に没しますが、その不安は見事に的中してしまいました。

 まず、天武天皇死後にもっとも権力を得たのが、讃良皇后でした。
 彼女は、天智天皇の娘であり・・・つまり叔父と結婚したわけですが、
 ついでに、その姉も天武天皇と結婚していたわけですが・・・。

 その姉と、天武天皇の息子で、有力な皇位継承者候補だった大津皇子を
 謀反の容疑で逮捕し処刑するという行動に出ます。
 そして、讃良皇后は自分の息子である草壁皇子を即位させようとしますが、
 なんともはや、彼は直ぐに病死してしまったのです。

 それでは、他の皇子に皇位が・・・と行くと思いきや、讃良皇后はそうはしない。
 草壁皇子の息子、つまり自分の孫の軽皇子(当時7歳)が大きくなるまで、
 自分が天皇として即位しました(持統天皇)。
 そして、天武天皇の政治改革を引き継ぎ、全国の国司(くにのつかさ/こくし)という、
 中央から派遣された地方のトップに新たな戸籍である庚寅年籍を作成させます。

 さらに、日本初の本格的な都城である藤原京を造営し、694年に遷都しました。
 そして697年、それまでの習慣を破り、まだ自分は存命であるにもかかわらず
 軽皇子に天皇の座を譲ります(文武天皇)。
 そして、その後見をしながら701年には、飛鳥浄御原令の完成形である大宝律令を公布。
 律は刑法、令は行政法・民法にあたります。
 つまり、先ほどの飛鳥浄御原令は刑法の部分がなかったので、それを追加したわけです。

 また、この大宝律令で正式に二官八省体制がスタート。
 太政官・神祇官と、中務省(天皇の政務を保佐)・式部省(役人の人事)・治部省(外交と寺院)
 ・民部省(戸籍と租税)・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省という行政組織であります。
 また、警察機能を有した弾正台や、九州を中心とした西日本における朝廷の根拠地である
 大宰府(だざいふ)等も含みます。

 こうして国家体制を完成させ、自分の孫に皇位を譲ることに成功した持統天皇は、
 702(大宝2)年に58歳で死去しました。

 余談ですが、
 草壁皇子の后、すなわち文武天皇の母というのも、
 天智天皇(中大兄皇子)の娘なんですね(系図参照のこと)。
 あんれ、讃良皇后も天智天皇(中大兄皇子)の娘。
 てなわけでまあ、この時代というのは凄まじい婚姻関係ですね・・・。
 以前、蘇我氏が天皇と姻戚関係を結んだことから、権力を拡大したことへの
 反省だったのかも知れませんが、いやはやなんともかんとも・・・・・

 それから、持統天皇の時代に着実に権力を獲得していったのが、藤原不比等です。
 そう、中臣鎌足の息子です。
 幸いにも、壬申の乱の時には幼少だったため責任を問われれませんでしたが、
 親父の功績を元に出世と、そう単純にことは進まなかったようで、
 自身で持統天皇に接近することで引き立てられていき、刑部親王(天武天皇第9子)と共に、
 大宝律令の編纂に大きく尽力しました。
 ていうか、実質的に仕切っちゃいました。こうして藤原氏大発展の基礎を作ります。

 ところで、不比等のオヤジである中臣鎌足ってのは何をやったのかハッキリしない人物らしい。
 中大兄皇子への接近と出会いの伝説は、新羅(しらぎ)の列伝に類似の記事もあることから、
 中臣鎌足の功績は、後に藤原氏が着色したもの、という説も有力です。

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