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勝弦峠

勝弦峠(かっつるとうげ)Ⅰ
 
諏訪湖を囲む山々には 多くの峠がある。 勝弦峠は 湖の西山を越えて 塩尻市勝弦に下る 標高995mの峠【写真】。 塩尻峠と小野峠を結ぶ稜線上のほぼ中間に位置し 現在は尾根道が通じている。
 
塩尻峠(中山道)や小野峠(初期中仙道)と違って 主街道こそ通じていなかったが、勝弦周辺は 縄文遺跡が多く 平安期の牧(「岡谷牧(おかやのまき)」延喜式)や 江戸期には一時周辺20ヶ村の入会地であった事など々 古くから 地元民の農作業・山仕事や 荷付牛馬の往来は多かったと思われる。
 
この峠が歴史上有名な合戦の場となったイメージ 1事がある。 27歳の若き武田信玄 晴信が 信州攻略の初勝利を飾った「塩尻峠(又は勝弦峠)の合戦」【注】である。
天文17年7月19日(1548年9月1日)早朝 峠に布陣する小笠原長時勢5000人に 武田軍3000人が 急襲を仕掛け 大勝利した戦である。
前日の18日夜半 最前線基地である諏訪上原城に到着した武田軍は そのまま夜陰に乗じて 諏訪湖の南端から西岸に迂回して 峠下に潜み 夜明けを待った。鬨の声を合図に 武田騎馬軍団が一気に峠を駆け上がり 峠尾根の敵兵を蹴散らしたという。小笠原勢は 寝込みを襲われ 尾根から追い落とされ あるいは北へ尾根伝いに塩尻峠ヘ、さらに峠下まで追撃されている。 この時 味方内に武田方への内通者が出て 小笠原勢は総崩れとなり わずか2時間程の戦闘で長時は大敗を喫し 居城である林城(松本市入山辺)へ逃げ帰っている。小笠原勢の死者を葬ったという胴塚が 塩尻峠から西に下った柿沢地区にある。
合戦名は「塩尻峠の合戦」とされるが 記録は少なく 今日その場所は特定されていない。有力説では 戦いの端緒は勝弦峠で 主戦場は塩尻峠付近や 現在のやまびこ公園付近とされる。
 
【注】「塩尻峠の合戦」・・・・この戦いの記述である諏訪上社副祝(そえのはうり/神官)守矢信実の訴状覚書には 「七月十九日卯刻(午前5時頃)峠に押し寄せ侯。峠の御陣には 武具致す人ひとりもこれなく 過半は起きあわざる体に侯」とある。 一説には 小笠原勢の死者1,000人 武田軍20人といわれるように この奇襲作戦は武田の圧倒的勝利に終わった。 この時 武田勢は勢いに乗って進軍し 村井館(松本市芳川村井)を奪取(同年10月村井城を築城) さらに林城を睨むように 中山和泉(現 松本市中山和泉)に1ヶ月程陣を置いている。
同年2月の信州勢 村上義清との 「上田原の合戦(上田市)」での敗北を わずか半年で取り戻し 晴信にとっては 信州攻略の足固めを遂げた戦であった。
この戦は 武田晴信にとって「川中島の合戦」よりも重大な戦いであった。 この一戦によって 武田家の運命が決まったといえる』・・・新田次郎「武田信玄」より
 
[参考文献資料] 郷土出版「信州百峠」
 
      《つづく》
 
 
 
 

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