豊中・狭山事件研究会「ストーン・リバー」

東京高検は、全ての証拠を開示せよ!東京高裁は、事実調べを行え!

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13日、NHKの日曜美術館「闇をえぐる眼 画家 山下菊二」の再放送を観た。番組の後半ではごく一部ではあるが「戦争と狭山差別裁判」のコラージュの紹介もあった。番組紹介には、次のように書かれている。

山下菊二(1919〜1986)は戦後の事件や差別などの社会問題を題材に、土俗的でシュールな作品を描いた戦後の日本美術を代表する画家だ。生誕90年の今年、アトリエの調査が行われ、従軍時の様子を描いた200枚以上のデッサンなど、貴重な資料が次々と発見された。
山下は、戦争に反対できぬまま上官の命令に服従し続けた「戦争従犯者」としての責任を、描くことを通して自らに問い続けた。そして1952年、山梨県でおきた地主と農民の争いを描いた代表作「あけぼの村物語」が生まれた。そこには多彩なイメージが混沌(こんとん)と響きあい、加害者や被害者などといった単純な構図を越えた重層的な世界が広がる。
生涯、山下が描き続けたのは戦争や事件そのものではなく、それを通して見えてくる日本人の姿であった。なぜ日本人は強く因習や世論にとらわれる性質なのか。なぜ世界から戦争や差別は無くならないのか。その問いが、山下の絵画のなかには渦巻いている。
生涯自問自答を繰り返しながら、人間存在を問い続けた山下菊二の世界を照射する。

山下菊二と言えば「戦争と狭山差別裁判」があったことを思い出し、1980年12月発行の「人間雑誌」第5号を引っぱり出した。巻頭グラビを含めた特集があり、そこで彼は次のように書いている。

三十年前の戦争と現在の狭山差別裁判は私の戦争体験を軸に強く結びついている。私のなかにくすぶっている非人間性は、他人の死を傍観し、否という声もあげえなかった。沈黙の堆積は人間を盲目にする。むき出しにされた非人間性は、戦争とともに人間から去ったわけではない。理不尽な死は、現在もある。例えば、公害もそのひとつだ。
非人間性、理不尽な死、現代杜会に起きている様々な問題のなかで、私が特に狭山差別裁判にひきつけられるのは、“部落民”という限定が、何にもまして先行しているという点である。
部落民は悪いものである、ある事件がそのなかで、あるいはその近くで起れば、犯人は部落民である。こうした断定が捜査官、検事、裁判官によりなされる。杜会的・歴史的に培われた偏見で、スケープゴートをつくり出すことに、そして死に追いやることに、何の疑問も感じていない。裁判は、最初の断定を納得させるべく進行される。
例えどんなことがあっても、こうしたことは認めてはならない。それは世の中のしくみをカムフラージュすることであり、社会の真実の姿をみる眼を奪うことだ。狭山差別裁判には、他の裁判とは異なった感動的なことがある。死刑だといわれてニヤッとする人間がいようか。やはりダマされているとしかいいようがない。十年で出られるという刑事の言葉を信じて疑わないからだ。そういうところまで人間を追い込んでおいて、全然責任をとろうとしない人間の機構、頂点にある裁判という機構自体信用できないのではないか。国民にとっては不幸なことだ。
私は、あくまで真実は曲げられないとして闘う人と共に在りたいと思う。直接、人間的に闘いのたかに入ってゆくことが最もよいと思う。しかし、様々な関わり方、訴え方があってもよいだろう。私の表現が、その闘いの一環になりうればと願っている。少なくとも私がそうありたいと願う自分自身に近づくひとつの場にしたい。表現を自己変革や、自省の手段とするのではなく、表現と闘う自分が一体となって目常、自然ななかにまで深まっていくことが最善だ。私の行為に共感してくれる人が、一人でも二人でも現われれば、それは私のやっている意味を満たしてくれるのではないかと。(以下略)

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