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今朝の日経「春秋」はよかった。 転記させていただく。 ことばの重み。
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先ごろ亡くなった立松和平さんは「ヤポネシア」にこだわっていた。東アジアの端っこに緩く弧を描いて連なる沖縄や奄美の島々、そして日本の本土。その歴史と文化を眺めわたし、ひと繋(つな)がりの空間としてとらえたのがヤポネシアだ。
▼奄美大島に長く住んだ作家、島尾敏雄がつくった言葉である。それを体感しようと南へ北へ旅を繰り返した立松さんは、ヤポネシアをこう言い表している。大陸からの横糸と黒潮による縦糸が織りなす布――。そんな共同体のはずなのに、米軍基地の負担は沖縄にずしりと重い。これも一枚の布の上の現実なのだ。
▼なぜそうならざるを得ないのか、改めるにはどんな手があるのか。説明を尽くし、周到に戦略を練るのが指導者にほかなるまい。ところが鳩山首相は島々の心を逆なでするばかりだ。普天間問題で、きのうは徳之島の3町長に会ったがやはり成果はなかった。あてどないヤポネシア巡りをいつまで続けるのだろう。
▼情けなくなるような失態の数々である。それでも、ここは南の島に目を向けるよい機会なのかもしれない。沖縄だけでなく、徳之島を含む奄美群島も戦後の一時期には米軍統治を体験した。そんな話さえ忘れられようとしているのだ。一枚の布を織りなしている複雑な事情。現代の縦糸横糸に思いを致してもいい。
【2010.5.08 日本経済新聞 一面 「春秋」】
『奄美大島と米軍占領』
1. 徳之島人の反基地の意思
2. 奄美群島の歴史
「那覇世(なはんゆ)」 (沖縄、琉球王国統治時代)
「大和世(やまとんゆ)」 (鹿児島、薩摩藩統治時代)
「アメリカ世(あめりかゆ)」米軍占領・軍政時代
(1945.9.02〜1953.12.25)
沖縄&徳之島とのダメ交渉を終えた段階で下記のような声が・・・。
今日の『安全保障』とは? からスタートし、国民の負担の合意作りという
基礎から作りなおすべき。
第1次、2次(60年安保)、3次(70年安保)を経験していない、
鳩山世代には無理なのかな? もう「安保」で国論を二分してはいけない。
経済成長のあり方、目標と同様に『安保』問題も、基礎の基礎から議論しなおしては、その間の「沖縄県民への負担の押し付けは納期をきって」のお願いと代償弁済しかないだろう。
追記: アラタニス(10.5.12)より
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新着から来ました
ちょうどこのこと知りたかったので ありがとうございます
そうですよね奄美も占領されてたはず、、
わたしは在米中です
2010/5/8(土) 午前 8:00
早々に米国本土(?)からおいでを頂ありがとうございます。
USA海兵隊の役割りや重みを知らなかったH氏ですから、奄美の島の歴史も多分、ご存知なかったでしょう。
2010/5/8(土) 午前 8:04 [ 徒然草 横浜版 ]
奄美の存在が日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年(斉明天皇3年)に「海見嶋」、682年(天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀』には699年(文武天皇3年)に「菴美」、714年(和銅7年)に「奄美」とあり全て奄美群島のことだと考えられ、当時の日本の中央との交流があったことがわかる。
733年(天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。
735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。
『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込まれ、奄美群島の各島々にこの碑が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無い。また、遣唐使に奄美語の通訳を置くことも記されている。
997年(長徳3年)に大宰府管内へ「奄美島」の者が武装して乱入、放火や掠奪をしたという(『小右記』)。翌年、大宰府からの追捕命令が貴駕島に発せられている(『日本紀略』)。
2017/7/22(土) 午前 11:37 [ 奄美は人も自然も食物も良かった ]
1852年11月24日、58歳のマシュー・カルブレース・ペリー司令長官兼遣日大使を乗せた蒸気フリゲート「ミシシッピ号」は、単艦でノーフォークを出港し、一路アジアへと向かった。
ペリーはタカ派のアメリカ大統領フィルモア(ホイッグ党)から、琉球の占領もやむなしと言われていた。
2018/9/2(日) 午前 8:28 [ 歴史の真実を世紀ごと学ぶ ]