飯田トレーナーの「ボクシングあれこれ」

ボクシングに関する話題を思うがままに書きたいと思います

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ジャーシー・ジョー・ウォルコット。1914年生まれ。元NBA世界ヘビー級チャンピオン。
本名はアーノルド・レイモンド・クリーム。バルバドス島の悪魔と言われたウェルター級チャンピオン、ジョー・ウォルコットに憧れてリングネームにしていたという。
1947年12月、ジョー・ルイスの持つ世界ヘビー級タイトルに挑戦するが判定負け。翌年、再びジョー・ルイスに挑戦するが11R KO負け。
1949年、空位のNBA世界ヘビー級タイトルをエザード・チャールズと争うが判定負け。
1951年3月、エザード・チャールズの持つタイトルに再び挑戦するが判定負け。
同年7月、再度エザード・チャールズに挑戦し7R KOでタイトル獲得。この時の年齢は37歳6ヶ月でジョージ・フォアマンに破られるまでヘビー級の最年長奪取記録だった。
このタイトルは1952年9月、ロッキー・マルシアノに13R KOで敗れ失った。
翌年、ロッキー・マルシアノに挑戦したが1R KO負けし引退した。





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ミゲル・カント。1948年生まれ。元WBC世界フライ級チャンピオン。
1969年2月のプロデビュー戦は3R TKO負けのスタートながらキャリアを積みながら実力をつけ1973年
40戦目にして世界初挑戦。空位のベツリオ・ゴンザレスと空位のWBC世界フライ級タイトルを争うも15R判定負け。王座獲得はならなかった。
しかし1975年1月、ベツリオ・ゴンザレスを降してチャンピオンになった小熊正二に挑み15R判定勝ち。47戦目のことだった。このタイトルはベツリオ・ゴンザレス、花形進などを含めて当時の世界フライ級史上最多となる14度の防衛を果たした。
カントのトレーナーはヘスス・リベロ。一言居士で偏屈者とも言われていて袂を別つボクサーも多いがカントは最後までリベロの指導を受けた。

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坂田健史。1980年生まれ。元 WBA世界フライ級チャンピオン。
1999年、全日本フライ級新人王を獲得。
2001年、セレス小林の返上により空位となったタイトルを川端賢樹と争い判定勝ちで日本タイトル獲得。初防衛戦は同級1位の内藤大助と無敗同士の試合となった。内藤有利かと思われた判定は0-1のマジョリティドローで坂田が引き分け防衛となったが一悶着あった。いわゆる大串事件である。
その後2度防衛し4度目の防衛戦にトラッシュ中沼を迎える。試合は打撃戦となったが2-0のマジョリティで中沼に上がり王座陥落と共に初黒星を喫した。
2003年、中沼との再戦を接戦の末、ユナニマスの判定で勝利。王座を奪還した。このタイトルは2度防衛して返上。
2004年6月、有明コロシアムて当時の WBA世界フライ級王者ロレンソ・パーラに挑戦。2Rに右アッパーを食い顎を2箇所骨折しながらも優勢に試合を進めたが0-2のマジョリティで判定はパーラに上がり場内はブーイングに包まれた。坂田は下顎骨骨折のため4時間半に及ぶ手術を受け10ヶ月のブランクを余儀なくされた。
2005年9月、パーラに再挑戦したがまたも0-2のマジョリティ負け。
2006年、パーラの右膝靱帯の故障による治療を受け暫定王座を設ける。これを同級1位サウスポーのロベルト・バスケスと争う。この試合も5Rバランスを崩したところにパンチが掠りダウンとされたり不運があり1-2のスプリットで判定負け。3たびタイトル獲得に失敗した。
しかし諦めない坂田は再びパーラに挑む。3度目のパーラとの戦いはパーラが計量に失敗し変則のタイトルマッチとして開催されたが坂田はボディ攻撃て3R TKO勝ち。念願の世界王者となった。
このタイトルの初防衛戦を因縁の暫定王者ロベルト・バスケスと行い今度は3-0のユナニマスで勝利し初防衛を果たした。
このタイトルはその後デンカオセーン、山口真吾、久高寛之相手に計4度防衛した。
しかし5度目の防衛戦、デンカオセーンとの再戦で2Rテンプルに右フックを食いダウン 自身初の KO負けとなった。
しかし再起し3連勝し当時の WBAフライ級チャンピオン亀田大毅に挑戦するがユナニマスの判定負けで敗れ引退となった。

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西城正三。1947年生まれ。元 WBA世界フェザー級チャンピオン。
日本では顎の骨折などもあり伸び悩んできたが1968年、ロスアンゼルスに海外修行に出て同地のメインストリートジムで腕を磨いた。
同年、強打の世界ランカー、ホセ・ルイス・ピメンテルと対戦し僅差の判定負け。一か月後に再戦が組まれたが今度は大差判定勝ち。
この試合が評価され同年6月6日、ロスアンゼルスオリンピックオーディトリアムで WBA世界フェザー級チャンピオンのラウル・ロハスとのノンタイトル10回戦の相手に選ばれた。この試合で判定勝ちの大金星を上げロハスの次の防衛戦の相手に選ばれた。
そして同年9月、ロスアンゼルスメモリアルコロシアム特設リングでタイトルマッチとしてラウル・ロハスに挑んだ。
この試合でもフットワークを生かし6Rにダウンを奪うなど攻勢に試合を運び15R判定勝ちで日本人初の海外での世界王座奪取となった。
一夜にして無名からチャンピオンになった西城はシンデレラボーイと呼ばれその甘いマスクと相まって人気者となった。
このタイトルは5度防衛したが6度目の防衛戦でアントニオ・ゴメスに5R KO負け。王座陥落し引退した。

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飯泉健二。1967年生まれ。
元IBFアジアライト級チャンピオン。
1986年、タフさとラッシングパワーを武器にマーク堀越を7R KOし注目を集めその年に行われた第1回A級トーナメント、フェザー級で優勝。決勝では後のジュニアライト級チャンピオン高城正宏を7R KOに屠っている。
翌年、1月12日チャンピオンカーニバルで時の日本フェザー級王者杉谷満と対戦。持ち前のハードパンチでせまるが3R右カウンターから連打を浴びスタンディングカウント。再開後も冷静な杉谷の連打からの左フックで顔面からキャンバスにダイブ。痛烈な KO負けを喫した。この試合はホールで見ていた。俺は飯泉さんのファイトスタイルが好きで絶対勝つと思っていた。あの飯泉さんが倒れる訳がないと思っていたので信じられず身体が震えた。
翌年もA級トーナメントに出場し順調に勝ち抜いて決勝は金子ジム、萩原昇氏。この試合、俺はバケツ持ちでセコンドについている。萩原さんの頑張りで試合は白熱したがパワー差は明らかで7R KOで飯泉さん再びトーナメントを集める制し翌年のチャンピオンカーニバルの出場を決めた。
チャンピオンは杉谷満。再戦となった。この試合、いつもはガッと攻める飯泉さんがやけに慎重。なかなか出れずにポイントは杉谷に流れる。この試合もホールで見ていたが客席で他の客が「飯泉〜、行けースッキリさせてくれ〜!」という歓声を聞いた。
そう飯泉さんはいつも小気味よく攻め観客にカタルシスを与えるような試合をしていた。まさにプロボクサー!
しかし試合は後半攻めたものの判定で杉谷の勝利。タイトル獲得はならなかった。
その後、1989年の文成煥との試合、6R KO勝ちしたものの試合後に網膜剥離が発覚。当時のルールで引退を余儀なくされた。
実戦のリングから遠ざかったが練習は続けIBFに参戦。
1998年にスラヤ・ケランに2RTKO勝ちしIBFアジアライト級チャンピオンとなり引退を表明した。

しかしいまだ、ビルドアップされた身体を誇る飯泉さんはまさに全身拳闘家!

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