飯田トレーナーの「ボクシングあれこれ」

ボクシングに関する話題を思うがままに書きたいと思います

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昨日送信したはずだがブログに反映されていない。
内容がヤバかったのか?
そんな波乱万丈の人生を送ったのはジョニー・タピア。1967年2月13日生まれ。
なので軽く書くだけにとどめよう。
ダニー・ロメロとの統一戦はいい試合だった。
うちのカミさんはタピアの左ボディアッパーの打ち方が好きだった。

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フレディ・ノーウッド。1970年生まれ。元 WBA世界フェザー級チャンピオン。
1998年、元 WBA世界ジュニアフェザー級チャンピオン、アントニオ・セルメニョと空位の WBA世界フェザー級タイトルを争い12R判定勝ち。世界初挑戦でタイトルを獲得した。
同年、松本好ニと代々木体育館で3度目の防衛戦を行うはずだったが計量オーバーでタイトル剥奪となり勝っても空位、松本が勝てばタイトル獲得となる変則タイトルマッチとなった。しかしノーウッドは無理に体重を落とそうとせずそのパワーにものを言わせて10R TKO勝ち。タイトルは空位となった。
その剥奪されたタイトルをセルメニョが獲得しそのセルメニョと再戦。判定勝ちし再びタイトルを獲得した。
2000年、このタイトルをデレク・ゲイナーと4度目の防衛戦を行うはずだったがまたも体重オーバーで剥奪、変則タイトルマッチとなった。この試合がひどい試合で両者反則のオンパレード。ローブローが多発し最後は11R、ゲイナーのローブローでダウンしたノーウッドがカウント18でストップされ TKO負けという不可解な判定。現地のローカルルールが適用されたというが…。

ノーウッドはリトル・ハグラーというあだ名で呼ばれていた。黒人て坊主頭の風貌は似ていたがストイックな精神面は似つかなかったようだ。

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ナジーム・ハメド。1974年生まれ。元WBO、IBF、WBC世界フェザー級チャンピオン。
イングランドのシェフィールド出身だが両親はイエメン人。幼少時、町で喧嘩しているところをブレンダン・イングルに見出されボクシングを始める。
アマチュアを経験した後、1992年プロデビュー。
1995年、スティーブ・ロビンソンに8R TKO勝ちでWBO世界フェザー級タイトルを獲得。
1997年、IBF世界フェザー級チャンピオン、トム・ジョンソンに8R TKO勝ちでIBFタイトル獲得。
1998年 WBA世界フェザー級チャンピオン、ウィルフレド・バスケスに7R TKO勝ちしたがバスケスは WBAタイトルを返上して試合に臨んでいた。
1999年、セサール・ソトに判定勝ちしWBC世界フェザー級タイトルを獲得。
2001年、マルコ・アントニオ・バレラとの試合に判定負けでプロ初黒星。その後、再起戦が予定されていたがアメリカ同時多発テロが起こりアラブ系人物へのイメージが悪化したため中止となった。
2002年、マヌエル・カルボに判定勝ちしたがその試合を最後にリングに上がっていない。
ハメドと言えばその独特のファイトスタイルで注目を集めた。
ノーガードで身体を柔らかく使いスウェーバックをしながらカウンターを打つ。
その身体のバネを生かしたパンチは威力抜群で36戦中31 KOを記録している。
入場も独特で踊りながらあるいは絨毯やブランコに乗ってリングに近づきトップロープの上を一回転して入場するというものだった。
唯一の敗戦を喫したバレラ戦では入場の際液体をかけられたせいで手が滑るのか普通にくぐって入場した。
こんなボクサーはもう現れないだろう。

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アルフォンソ・サモラ。1954年生まれ。元 WBA世界バンタム級チャンピオン。
1972年、17歳で出場したミュンヘンオリンピックでは銀メダルを獲得。アマチュア戦績は54勝45 KO.RSC1敗。
1973年プロデビュー。1975年、20戦全勝全 KOで WBA世界バンタム級チャンピオン洪秀煥に挑戦。4R KOで弱冠20歳にして王座獲得となった。
このタイトルを後の名チャンピオン、エウセビオ・ペドロサや洪秀煥との再戦を含めて5度防衛。
1977年、かつて同門で名前の頭文字をとってZボーイズと呼ばれ人気を博していたカルロス・サラテとノンタイトル戦で対戦。この時の戦績は、サモラ29戦全勝全 KO、サラテは45戦全勝44 KOというものだった。このファンの注目を集めた対決は1、2Rは互角の打ち合い展開したものの徐々にサラテの技術が上回り3R終了間際にはコンビネーションでサモラがダウン。さらに4R開始早々に再びダウンを奪われさらにダウンを追加され TKO負け。初の敗北を喫した。
この敗戦を機にサラテは精彩を欠き始め1977年の6度目の防衛戦ではホルヘ・ルハンに10R KO負けで王座陥落。
その後も肝心な所で負けてタイトル奪還はならず1980年にリゴベルト・エストラーダに3R TKO負けを喫するとこの試合を最後に26歳で引退した。

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フリッパー上原。1952年生まれ。元日本フェザー級チャンピオン。本名は上原晴治。
元 WBA世界ジュニアライト級チャンピオン上原康恒の実弟。
日大1年代時の全日本アマチュアボクシング選手権でフェザー級優勝。
大学を3年で中退しプロになり1973年ロスアンゼルスでプロデビュー。ロスアンゼルスで4戦4勝し5戦目で日本デビュー。
1974年、後のWBC世界ジュニアフェザー級チャンピオン、リゴベルト・リアスコと対戦し10R判定負け。
1975年、12戦目で日本フェザー級チャンピオン牛若丸原田に挑戦し判定勝ちで日本タイトルを獲得した。
1976年、15戦目でWBC世界フェザー級チャンピオン、デビッド・コティに敵地アクラで挑戦。11R TKO負けで王座獲得ならず。
1977年、地元沖縄で WBA世界フェザー級チャンピオン、ラファエル・オルテガに挑戦。15R判定負けでまたもタイトル獲得に失敗しこの試合を最後に引退した。

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