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を打たざるを得なかった今回の事件。連日マスコミでは捜査の動向が報じられています。
また、ネット上にはテレビでは報道されていない驚くような情報も流れ出し、ある人の ブログは、すごい反響を呼んでいるようです。
この悲劇には日本国民が大きな衝撃を受け、その捜査にいかに注目しているかなのです。
今回は学校や教育委員会、市の責任問題に厳しい批判が集まり、連日マスコミで叩かれ
続けています。紛れもなく学校で起こったことである以上、もちろん、それは当然のことであり、
責任は重大であると思います。
ただ、公の責任は追及されるけれど、はたして親の責任はいったい誰が問えるのだろうか、
と少し疑問にも思うのです。
子育ての責任はあくまで親。まともに躾もできず、社会的モラルも身につけていない不幸な
子供を学校にどんどん送り込み、何か問題があると学校や教師のせいにする。
こんな愚かな親が増えているのも事実。犯罪というべきイジメを行った子供の親の責任は
いったいどうなのか…。(一部情報では逆にわが子こそ被害者だと言い張っているそうです)
また、多くの日本人が劣っている点に弱い立場の人に手を差し伸べられない事があるそうです。
困っている人を見て見ぬふり、目を逸らし災難を避ける、いじめを救えない。これは未来に 希望がもてず、苦難に目をつぶり、目先の楽しい事で心を満たす、そんな自分の事しか考えら
れない子どもや若者が増えている日本の悲しい現実からだそうです。
では、目の前で起こっているいじめをどうしたら救えるか…。 一番目は当事者(いじめられている人)が声を上げる、助けを求める。ただこれはかなり難しい。
二番目にはそのイジメの現場を見た人が注意する。これも状況によってはできないこともある。
なら、注意できなくても周りの大人(教師であったり親であったり)に事実を通報し、助け求める。
問題なのは三番目の見て見ぬふりの傍観者。親は、不正や嫌がらせ、イジメに目を向け、それに
屈しない力を身に着けさせる義務を負うと思うのです。少なくともただの傍観者ではなく、周りに
知らせる勇気くらいは持つ教育は徹底させなくてはならないと思うのです。
今回の悲しい事件の事実が早く解明され、二度と悲劇が繰り返されないような手立てを国には
本腰を入れて早急に取り組んでほしいと思います。
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★Educational
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モンスターペアレントという言葉が生まれて久しいですが、先日興味深い記事を見つけました。「学校と保護者にトラブルが生じたときに、昔は母親と教師がもめても、父親が出てきた時点で、ほぼ収まっていくことが多かったが、最近は父親が出てくると逆に収集しにくくなるだけ
でなく、最初から夫婦で来られたり、祖父母が加わり始めていることも珍しくない…」
確かに父親の子育て参加は望ましいことではありますが、ここでいうケースは少し違います。
十分に話し合いを重ね、もうこれで終焉かという時に、父親が「おれは納得していない」
「聞いていない」とぶり返す。さらに祖父母までが加勢しトラブルの構造がますます複雑に
なり、解決の糸口が見えなくなるというのです。
なるほど…かつては冷静に、事実経過を押さえて、学校の立場や子供の状況もきちんと
わかったうえで、落ち着く先を見つける、と言う第三者的な当事者としての父親、祖父母
の抑えが利いていたのかもしれません。
なぜ、父親や祖父母までもが一緒になって学校との交渉に来るのか…。
① 祖父母までもが出るほどの事態であるというアピール、そうすることによって有利な結果を引き出す効果の期待をしている。
② 職場(社会)、家庭内の鬱屈感やイライラを公である学校に向けている。
③ 夫婦関係、親子関係が希薄になっている。家族の絆や一体感を確認するための「共通の敵」に学校や教師がなっている。
子どもが、孫が「学校が面白くない」と言えば、「よし、私が出て行ってなんとかしてやろう」と、一定の手柄のような形で愛情表現をしているのかもしれません。
言わば、わが子可愛さ、孫可愛さの表現競争とでも言うのでしょうか…。
ただ、両親の祖父母の言動を見ながら育った子どもが、多感な思春期を迎え、価値観を確立し始めようとするときに、この愛情表現をまっすぐに受け入れるとは限らないと思うのです。
実際に親の言うことをきく素直な子が、発達の段階で受けた間違った価値観に刃を向けるという事例をいくつか聞いたことがあります。結局、子どもの自力解決の場面を親が奪ってしまっていたからなのでしょうね。
改めて、親の役割、祖父母の役割、家族の在り方を問いかけてみる必要があるのではないで
しょうか。考えさせられる記事でした。
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コメント(4)
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一昨日仕事で外出した時に、ちょうど昨年の今頃、花にあふれたあの学校の
近くを通りかかりました。
あの時の素晴らしい花壇は今はどうなってるのだろう・・・。とても気になって同僚と
一緒に車を止めて学校の敷地内にはいってみました。
校庭の中で用務員(?)の方らしい年配の女性が水巻をされていたので、挨拶を
し、花壇のことを尋ねると、どうぞ見ていってくださいと案内をされました。
校舎の表にある花壇は、今年も丹精に育てられた何種類もの花が満開のときを
待ち構えていました。
数日後の運動会に向けて、校庭にはいくつもテントが張られていました。
きっと、美しい花の中で子どもたちは躍動感あふれる、素晴らしい演技を見せて
くれるのでしょうね。
花時計の植え込まれた花(紫の)は、今年は猛暑の ブルーサルビアもまだ3分咲き。あと一週間もすれば
せいで開花が遅いのだとか・・・。 目に鮮やかな花壇に。
昨年は文部科学省のコンクールに入賞した円形花壇。
今年は、審査日に開花が揃わずに惜しくも入賞を逃したのだそうです。
私たちが花を観賞させていただいてると、教頭先生が説明に来てくださいました。
ここの学校の取り組みの素晴らしいところは、花は種から蒔き、苗を育て、一本一本
移植をし、開花の時期を考えながら定植をする。今年のような猛暑は朝晩にたっぷりと
水撒きをし児童もPTAも地域も一緒になって花の世話をしているところです。
国はコミュニティスクールを推進していますが、地域の知恵と力を最大限活用した、
地域にふさわしい、いい学校をみなで作っていく・・・その思いのもと、地域、学校、保護者が
学校運営に積極的に参加する、教育を学校任せにしないこの学校の活動こそが、真の
コミュニティスクールなのでしょう。
訪問者に対して大きな声で、元気よく挨拶をしてくれる子供たちの目は、本当に素直で
キラキラと輝いて見えました。
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リサイクルカート行きとなるのですが・・・。
ふと眼に留まった「しましょう、しなさい」の見出し。
気になって読んでみると、ちょっと面白い内容でした。
テストなどの問題で、小学生へは「問いに答えましょう」。
中学生へは「答えなさい」だが、なぜ「答えよ」「選べ」など簡潔な
命令表現ではいけないのだろうか・・・。
先に行われた学力テストの問題文を見た読者から新聞の投稿欄
にこんな意見が寄せられたそうです。
また、それに対し、
「答えよ」などの命令形で言われるとやる気がなくなる、子ども
の自主性取得の観点からも好ましくない、という母親の投書
も載せられたそうです。
しかし、このテストの解答記入の注意欄には、「〜書きましょう」(小学生)「〜書いてください」(中学生)
とお願い調の丁寧な言い回しがされているといいます。
民主化教育は、命令調を排して「〜しましょう」などの誘いかけをし、学校教育では号令が消え、きっかけ
を示すことが勧められてきました。子どもと同じ視点(地平)に立つと言うことは、大切であることなど言う
までもありませんが、こういうことではないような気がします。
テストなどの約束ごとは、簡潔な命令調で十分伝わるものであり、そこに表現の好みを配慮することは、
不必要であると思うのですが・・・。
こういうことでまで、命令で自主性が損なわれると捉えること自体が、教育の本質を問われることになる
のではと考えてしまいます。
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今時の学校給食はこんな感じです。 |




一人で悩み苦しみ、周りの誰にもわかってもらえず、短すぎる人生に自らピリオド