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『戦艦大和の最期を語る』 北川茂さん H26.3.22(ウェーブ産経講演会)


元戦艦大和の乗組員、北川茂さん(90)の講演会に行って参りました。
かつての戦争経験者のお方からお話を直に聞く機会が減っている現在、とても貴重な時間でした。
90歳であるにも関わらず、元軍人らしく礼も立居振舞もキリっとされておられ、さすが元軍人と感じました。その一方、辛い戦争経験をユーモラスに語られる部分などもありました。
北川さん、主催の産経新聞さん、ありがとうございました。

以下はお話頂いた内容をメモ書きでまとめたもの。
表現などは若干自己流になっている可能性あります、ご容赦ください。

 
昭和17年、「赤紙」ではなく「白紙」が届いた。しかし、国のためなら兵隊に行ったほうがいいだろうと、海軍に志願した。陸軍を選ばず海軍を選んだ理由は、陸であればどこまでも走らなければいけないが、海軍であれば、走ると言っても軍艦の長さ分であり、しれているから(場内笑)。はじめはそういう気持ちで入隊した。

昭和17年12月、戦艦「日向」の乗組員となる。
戦闘訓練なども大変だったが、日向は古くて壁など剥がれている部分があり、掃除ばかりしていた。
日向での生活は厳しかった。教官室にはバットがあり、それらに赤や黄などの襷がぶら下げられており、そこには「軍人精神注入棒」と書かれていた。それでお尻を叩かれた。骨は折れなかったが。
しかし大和の乗組員となってからは、そういったことは無くなった。

昭和19年に駆潜艇36の乗組員となった。
駆潜艇の役割は、当時の日本は油が無かったので、遠く(東南アジアなど)から油を日本に運ぶタンカーの護衛などをするものであった。
マニラに基地があった。しかし、毛じらみ艦隊(役に立たないなどの意味で)と呼ばれたこともあり、秩父丸は護衛を断った。しかしその秩父丸は護衛がなかったためか、沈没した。

昭和20年2月、戦艦大和の乗組員(測距儀の伝令兵)となる。
後から思えば、特攻の補充員だったのだと思う。

日向では新兵はハンモックであったが、大和は全員ベッドであった。
湯船も日向より大きかった。ただ真水は大事であったので、湯船は海水で、身体を洗い流す水は真水であった。真水は5杯までと決まっていた。ちなみに日向は3杯までであった。
また戦闘時には使えないが、エレベーターもあった。


平成20年4月1日、アメリカが沖縄に上陸したことから、近いうちに沖縄に行くことはうすうす感づいてはいた。
そんな折、恩師の煙草を貰った。沖縄に行く前、少し時間があり、上陸して下宿先に行った時、下宿先のおばちゃんに「何かあったら三重の名張(実家)に送ってください」と恩賜の煙草を渡した。
その下宿先には7名の大和乗組員がいたが、帰ったのは自分を含めて2名で、5名は戦死した。

4月5日1500、総員が集められ、「沖縄特別攻撃に命ず」と言われた。
今までは「○○作戦を命ず」などであったが、「特別」という2文字が入った。

駆潜艇36時代、南方で走り回り、毎日一人一人と死んでいった際にも、恩賜の煙草は貰われなかったが、自分たちが貰ったのは、やはり「特攻」隊員であったからだった。

訓示が終わり、解散と言われた後、しばらくは足元が地面にへばりついて動けなかった。
その一時は変な気持になったが、やるぞという気持ちも出てきた。
「やるぞー」と声をあげた者もいた。

出撃の前々日、缶詰と一升瓶で酒宴をした。2100頃にお開きとなった。艦長が、明日もあるからそろそろ、と各々に言いにきたためである。広い艦隊なので艦長の顔を知らない者もいて、中には艦長に絡んだ者もいたが、艦長はよく呑んでいるな、などと優しくなだめていた。

その後各人の持ち場に帰った。ベッドはないので、つっかえ棒のようなものに腰かけして仮眠しようとしたが、なかなか寝れなかった。

2330頃、トイレに行こうとして下に降りた際、大和の脇に2つの駆逐艦がくっつき、乗組員が行き来している。トイレに行くことも忘れ、作業している兵隊に何をしているのか問いただしたところ、駆逐艦乗組員は燃料を貰っているとの事。当時の駆逐艦は燃料がないため、豆を煮るなどで燃料を作っていたため、煙からは豆のにおいがしていた。

明日、大和は出撃するのになぜかと問いただすと、大和は片道燃料でいいと分隊長が言っていたからだといった。
その時からすでに、大和は「特攻」であるというシナリオは決まっていたのだ。



翌朝沖縄に向かう途中、豊後水道あたりで、大分に咲く桜が肉眼で見えた。
おい、桜だ、と乗組員と言い合った。皆、桜を見ていたと思う。
これが見納めかな…と思うと、瞼が熱くなった。


4月7日12時前、敵機が前方に現れた。

しかし気がつくと敵機に360°囲まれていた。150機ほどになると思う。
「敵機発見」の合図はあったが、戦闘開始の合図はなかった。

大和は爆弾では沈まないので、魚雷にしろと言われていたようであり、左側ばかりに魚雷を打ち込まれた。魚雷を受けた数は左舷11、右舷は2。


大和は後方角は撃っていたが、主砲角は撃たなかった。


敵機の攻撃の4波か5波の時、舵がやられ、大和は左へ左へ旋回するようになった。
1420頃、伊藤司令長官が戦闘中止号令、総員退去命令を出した。


大和沈没時には、大きな波をよけることもできず、水中に巻き込まれた。もがいても上に上がることはできずにいた。溺死とはこんなものかな、などと考えていたが、大和が水中で大爆発を起こし、お尻を戸板で殴られたようにして上へ上へあがった。

上がった時、周りの皆の顔は重油で真っ黒になっていた。

大和の甲板は木であったため、木管板がたくさん浮いていて、それに摑まった。

身体を温めないといけないと、誰となしに唄を唄った。

はじめは軍艦マーチ「守るも攻むるも黒金の…」と唄っていたが、大和がやられているのに何でこんなのを唄うのかとなり、夕焼け小焼けなど、童謡を唄った。

途中、自分の身体を掴もうとした上等兵がいた。慌てて離れ、上等兵に丸太を掴ませようとしたが、その上等兵は後頭部がザクロのように開いていた。これは助からないなと思った。その上等兵はうわごとのように女の人の名前を呼んでいたが、そのまま沈んでいった。


そのうち足はしびれて動かなくなったが、味方に助けてもらおうと、手で波を作った。
それに気づいた駆逐艦「雪風」から「ワレハッケン、ワレハッケン、シバラクマテ」と手旗信号が送られてきた。
駆逐艦まで200メートル泳ぎ、浮き輪を投げてもらったが、重油で浮き輪がすべり、思うようにつかめなかった。雪風乗組員は浮き輪を3つ投げてくれ、2つを足に挟むよう指示した。こうしてようやく助けられた。

救助を待つ人間はまだいて、同じく助けられた上官も、もっと助けてほしいと随分食い下がって懇願したが、敵の潜水艦が来るためできないと言われた。
果たしてその決断は正しかった。

夜、敵の潜水艦に追跡された。
総員、動くな喋るな、トイレに行くなとの命令がなされた。
長い長い時間であった。
その後安全区域に入り、駆逐艦は全速力で逃げた。
なお駆逐艦「雪風」は無傷で生き返った唯一の駆逐艦である。

夜明け、松島の松に、太陽の光がさしている。日本でしか見れない美しい光景である。
生き返ってよかった。その時の思いを胸に、今でも朝日に手を合わせている。

    



多くの尊い命が失われた第二次世界大戦。
今後、戦争の惨禍を繰り返さないようにするために、我々はどういう選択をしていくべきか。

そのヒントとして、その当時に生きた人々のお話を聞くことは非常に重要であると感じました。

当時の戦争経験者も数少なくなってきているため、なかなかこういった機会に恵まれる方は少ないと思いますが、戦争体験者の文献などでも学習できます。


いま、アジアの力関係も大きな変革を見せています。
悲劇を繰り返さないためにも、我々は当時の戦争のことをを深く学ぶべきです。

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松田紗織
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